或る子供の冒険 ぎゅっ、と家から持ってきたいろいろが入った鞄を大事に大事に抱えて、小さな子供が森を歩いていた。
そこは昼間でもうっそうと茂った木の枝のせいで日が差しこまず、少し薄暗い。それに加えて【森】という神聖な場所であることもあって、常日頃から足を踏み入れてはいけない不気味さが漂っている。
そんな雰囲気から誰が言ったか「迷いの森」と呼ばれ、子供達は大人から足を踏み入れてはいけない場所だと教えられる。普通の森と思うなかれ。同じような景色が続くせいでいつの間にか迷子になり、そのうち陽が暮れ迷子になり帰れなくなるぞ、とは大人達の口癖だった。
現に大人達も滅多に近づかない。人々の中には確かに迷いの森への畏怖があった。
そんな森に子供が一人で立ち入ったのは単なる冒険心ではない。
迷いの森にはその恐ろしさと共に、細々と語られるもう一つの噂がある。
『迷いの森の奥には、どんな病にも効く薬を売ってくれる店がある』
これが噂の域をでないのは実際にその存在を確かめた人が居ないからだろう。しかしながら誰も否定することなく、淘汰されることなく存在している噂に、誰もが「もしかして」と思う。
子供もその一人だった。
藁にも縋る思いでその噂だけを頼りに迷いの森へと、無謀にも足を踏み入れたのである。
しかし、子供の歩幅などたかが知れている。前日からお弁当などを用意して意気揚々と出発し森へと踏み入れた。しかし既に陽は傾きはじめ、より一層の不気味さが辺り一面を包み込んでいる。
子供は自分がこの森において異物である事をひしひしと肌で感じていた。
風で揺れる木々は子供を嘲笑うようにも、拒絶しているようにも感じられたし、その度に引き返して暖かい家に戻りたいという気持ちが首をもたげた。
しかし、子供の決意は大人顔負けの強さであった。涙目になりながらも、へっぴり腰になりながらも小さな一歩を進める勇敢な子供は、目的のためにただ足を動かした。
どれくらい経っただろう。すっかり陽は落ち、あたりは真っ暗になった。それでも晴れていたおかげで月明かりがかろうじて森を照らし、子供は寒さと心細さに震えながらも足を進めた。
もう帰り道は分からなくなっていた。
そんなとき、子供の耳がパキリという音を拾った。
それは先ほどまでの風で草が揺れる音とは違い、地面に落ちていた小枝をナニカが踏んで折った音だった。
咄嗟にそちらへと顔を向ける。
その時子供の中に蘇ったのは獣の恐ろしさだ。小さな身には野犬一匹でも大きく強大なモンスターに見える。今までは単に運が良くて出会わなかっただけなら? この足音が獣のモノであった場合自分はどうすればいい?
答えなんて出るはずもなく、子供は足を止め今度こそ恐怖に身を震わせた。初めて目の当たりにする死の匂いに手足の先が冷水につけられたように冷えていく。
死にたくない、という気持ちがあるのに、逃げなければ、という危機感があるのに、体は全く動かなかった。疲労、恐怖、そういったもの全てが子供の体を覆って重くしていた。
ぬっ、と影が森の中から子供の前に躍り出た。大きなその身は月明かりを遮るように子供に覆い被さっており、くらくなった影の中でも鋭いくちばしが目に映る。ボサボサのたてがみは獣にふさわしく、威圧感があった。
「ヒッ――」
恐怖に引きつる声しか出せない子供は、腰を抜かして地面に座り込んだ。そのせいでより一層大きく見える怪物はジッと、子供を見ているようだった。まるで今日の晩ご飯にふさわしいか吟味するように。
「ぼ、ぼくを食べてもおいしくないぞ!!」
精一杯の大声は強がりにしかならなかった。声は震えていたし、大声と言ってもたかだか子供の叫び声。獣の遠吠えの方がもっと大きく恐ろしいだろう。
少ししてふ、と笑った声が目の前の影から出た。
「さすがに人を食べたことはないな」
こもった低い声が聞こえたかと思うと影はごそり、と腰につけていた装置を取り出し、ツマミを捻った。たったそれだけの動作で当たりが明るく照らされ、子供はその装置がランタンである事を知る。
それと同時に、目の前の影が獣でも化け物でもなく、ただ少し不気味な雰囲気を纏う人だという事も。
その人は子供が今まで見てきた大人とはどこも違った。
ボサボサのたてがみだと思ったのは無造作に伸ばされた髪で、くちばしだと思っていたものはマスク。覆い被さってきたと思ったのは単にその人が猫背だっただけ。あるいは子供があまりに小さく、覗き込むような体制になっただけだった。
影が獣でなかったこと、そしてあたりを照らす柔らかな光にホッとしながら、子供の中には好奇心が渦巻いていた。
どうしてこんな所に居るのだろう。光をつけていなかったのは何故。この人は一体誰なのか。そのマスクはどうしてつけているのか。
溢れてくる疑問を察知したかのように、影――男性は子供より先に口を開いた。
「こんな森の奥に、なぜ一人で居る?」
至極全うなその言葉に子供はここに来た理由を思い出し、ぎゅっと鞄を抱きしめた。その鞄の中にはすでに空っぽになったお弁当と水筒、そして薬を買うためのお金が入っている。
「薬屋に行きたいんだ! お母さんの病気をなおす薬がほしいから!」
子供の母は病気を患っていた。ごほごほと咳き込む音や、悪い顔色など目をつぶらなくても思い出せる。
いつからそうなのかは子供には分からなかった。気がついたときにはそうだったし、ずっとベッドの上で苦しそうにしていたのを覚えている。
少しでも元気になって欲しくて、庭で摘んだ花を飾ったり、病を治すおまじないを試してみたり、子供が考え得る方法は全てやった。しかし母の病気が治ることはなかった。
どうしようも無いことなのだろうか、子供が諦めかけたとき聞いたのがあの噂。迷いの森の奥にある、薬屋の噂だったのだ。
「お金ならあるよ! お小遣いを貯めたんだ!」
子供がはじめにしたのは情報収集だった。迷いの森は大人でも近づかない。だけど、一人くらいは薬屋の場所を知っているかも知れない。そう思っての行動は哀れみと嘲笑に沈んだ。事情を知らぬ者からはたかが噂と馬鹿にされ、知っている者からは大丈夫となんの意味も無い慰めが返ってきた。
だから子供は自力で探すことにしたのだ。
目の前の大人に必死に言いつのる。お金はある。どうかお母さんが治る薬を売って欲しい。お母さんに元気になって欲しいんだ。そんな事を一生懸命喚いた。
こんな処まで足を踏み入れる大人なら、何か知っているかも知れない。それを教えて欲しいから、必死に縋った。
男性は何を思ったのか、子供にぬっと手を伸ばし、あっという間に子供は彼に抱きかかえられた。
いきなりのことに慌てる暇も無く抱きかかえられた子供は、男性が歩き始めた振動で我に返り、叫ぼうと思った。
普通の大人ならきっと連れ帰られる。ここが森のどのあたりかは分からないが、子供の足より大人の足の方が進む速度は早い。来るときにかかった半分以下の時間で街まで戻られてしまえば、子供の冒険はまた一からやり直しだ。
そのとき、よくよく考えると男性の足が町の方を向かっていないのに気づいた。方向感覚はとっくに無くなっていたが、少なくとも子供がやってきた方を向いていない。
「君の足では夜が明けても辿り着かないだろう」
くぐもったその一言が薬屋へ連れて行ってくれるという意味だと気づいた時、子供は安堵と疲労から男性の胸に頭を預けて、それでも大事な鞄はしっかりと胸に抱えたまま睡魔に落ちた。
▽△▽
「随分可愛らしいお客さんだな。どこで拵えてきた」
カランと鳴るベルの音とそれと同じくらい軽やかな声に子供の意識は浮上した。
「……、馬鹿を言うな」
子供が起きたのに気づいたのか気づいていないのか、男性が子供をソファに下ろす。ふかふかのソファは寝るのにも丁度良く、もう一度意識が落ちそうになるのを必死に目をこすって止める。
子供が連れてこられたのはどこかの店のようだった。木造ならではの木の香りに混じって薬草特有の青臭さがあたりに満ちている。そういえば、男性の服からも似たような匂いがしたな、と寝ぼけた頭で考えながら起き上がった。
すると眼前に飛び込んできたのは空よりも少し濃い青色だった。
「カラスさんのお客さんですか?」
子供よりも少し年上の、それでも少年と形容するべきか迷う程度の子供が居た。パチパチと瞬きをして子供を覗き込む瞳には好奇心が煌めいている。
自分と同じくらいの子供が居ることに驚きと共に安心を感じながら、子供は慌てて居住まいを正した。
「いや、君らに対しての客だ」
カラスさんと呼ばれた男性はそう答えると慣れた手つきで、持っていたメッセンジャーバッグを少し離れた机の上に下ろした。
明るい場所に来たことで彼のシャルトローズイエローの瞳が子供の方を向いていることに気づいた。鋭い目の下には濃い隈が刻まれ、もし夜中でなく日中出会っていたとしても恐ろしいという印象を持っていただろうと子供は確信する。むしろ夜中で姿形をしっかりと視認できなかったからこそ、子供は彼に身を預けられたのかもしれない。
「では小さなお客さん、どんな薬が要りようかな」
目の前のソファに座っているグレージュの髪の男性とも女性とも見える大人が、しっかりと男の声で子供に尋ねる。
いざ、目の前にして見ると緊張してあ、とかう、とか言葉に詰まる音が出た。ここに来たら言おうと思って頭の中で何回も練習した言葉を思い出すのにたっぷりと時間をかけて、もう一度練習した後息を吸い込んで口を開いた。
「お母さんが病気で、それがなおる薬が欲しいです。お金はあります。病名はわからないけど、このあたりのふーど病だって前に言ってたから、たぶんそうだとおもいます。お母さんの病気に効く薬はありますか?」
子供の問いに対して男性はコクンと頷いた。
「あるぞ。シュヴァルツ」
男性がそう言うとカラスさんと呼ばれていた男性――シュヴァルツが短い溜め息を吐きながら部屋の奥に備え付けられた棚へと向かった。
「俺はお前の足じゃないぞ」
「いいだろ、近くにいるんだから」
文句を言いつつも、シュヴァルツは迷うことなく棚の引き出しを開け、中から一つの瓶を取りだした。そしてそれを三人の前にあるローテーブルへと置いた。
茶色の瓶の中には小さな白い錠剤が半分ほど入っており、子供が知っている薬に寸分違わぬ姿をしていた。
その瓶を食い入るように眺めていた子供だったが、はっとしてバッグから半年分のお小遣いを取り出した。
当然、子供のお小遣い半年分などたかがしれている。薬の代金としては不足だった。しかし、男性は何も言うことなく、そのお金を受け取り用法用量が書かれたメモと共に、何か一筆したためて瓶と共に子供へ渡した。
「メモとその紙はお母さんに見せるんだぞ。それに薬の飲み方が書いてあるから」
「うん!!」
薬をバッグへと入れて、抱きしめる。この薬を飲めばお母さんは元気になるのだ。その気持ちと嬉しさで頬が緩んだ。
その様子に少年が「よかったですね!」と言い、男性は微笑みを向けてくる。シュヴァルツの表情はマスクに顔の大半を覆われているため伺うことは出来ないが、出会ったときから一切何も変わっていないように見える。
子供は目的が達成された喜びに浸ろうとして、はっと窓の外を見た。すっかり夜中になってしまっている。時計がまだ読めない子供ですら、きっと両親が心配しているであろうことは簡単に分かる時間帯だ。
ここからあの森をもう一度歩かなければならない事実に、恐怖がじわりと滲んだ。それを感じ取ったのか、男性は子供の後ろに居たシュヴァルツを指さした。
「送って行って貰え」
その言葉にシュヴァルツは再び溜め息を吐きながら、ここに来たときと同じように子供を抱き上げた。
急に離れた地面を見下ろして、経験したことのない高さに腹の奥がキュッと冷える。慌ててシュヴァルツの首筋にすがりつくと男性がくつくつと笑った。
「似合わねぇ」
「煩い」
揶揄うような言葉に不機嫌そうに言葉を返しながら、シュヴァルツは何も言わずに薬屋を出ようとする。
子供は慌ててシュヴァルツの肩口から頭を一生懸命伸ばし、座っている二人へと視線を向けた。
「ありがとうございました!!」
子供の言葉に、今度こそ二人は笑って手を振った。
「お大事に」
▽△▽
夜の森の道はランプに照らされているのと、シュヴァルツに抱きかかえられているために行き程の恐ろしさは感じなかった。むしろ安心感さえ感じたほどだった。
どれくらい歩いたのか、シュヴァルツと子供では足のコンパスが違うため正確な距離は分からない。なんならどこを見たって同じ風景に見える。迷いの森と言われる所以を子供は思い知っていた。
きょろきょろとあたりを見回していると、ふいにシュヴァルツが口を開いた。
「一つだけ、約束しろ」
「なぁに?」
「薬屋で見たことは、誰にも口外……誰にも言わない事」
「なんで?」
子供は純粋な疑問を口にした。
薬屋が実在したと話をすれば馬鹿にしてきた大人達を見返せるチャンスだと思っていたからだ。だからどうして言ってはいけないのか、噂を噂のままにしておかなければならないのか、理解出来なかった。
シュヴァルツは少し間を開けてから子供の問いに対する答えを告げる。
「君が買ったその薬の効果を確実にするためだ。その薬には魔法がかけられている。誰かに言えば、それが解ける」
「お母さん、なおらなくなるの?」
「……そうだ」
静かな肯定に子供の小さな心臓がきゅっとしまった。
それから慌てて首を縦に振る。
「わかった! ひみつにする!」
その言葉に満足したのか、シュヴァルツはそれ以降何も言うことはなかった。
淡々と土を踏みしめ、時たま小枝が折れる音が聞こえる。シュヴァルツは相当の大男であるはずなのに、いつも通っている道だからなのか枝などに引っかかる事も無くスイスイと歩いて行く。
その定期的な揺れに再び睡魔が子供を襲う。子供は重い瞼をそのまま下げようとして、ふと聞いておきたかったことが口から滑り落ちた。
「あの……」
「なんだ」
「お母さんがもし、なおらなかったら……また行ってもいいですか?」
子供とて、薬は治るまで飲み続けるものだと知っている。もし貰った分で足りなければ、もう一度、薬をもらいに行きたい。
「余計な事を考えるな。薬屋の噂を知っているんだろう」
「うん……」
子供は再び鞄を抱きしめて、今度こそ睡魔に抗わずに瞼を下ろした。
次に感じたのは二人の話し声だった。一人はこもったような声、こちらはシュヴァルツでもう一人は子供の父親の声だった。
起きなければ、と思うのに昼間の疲れや緊張のせいかなかなか頭が覚醒しない。ぼんやりとまどろんでいると、父親の声が近くなる。
「ありがとうございます」
うっすらと子供が目を開くと、涙を流しながら礼を言う父親の姿がぼやけて見えた。
「私は礼を言われることをした覚えはない。正当に受け取るべき者は……そこに」
「おとうさん……? どこか痛いの?」
怪我をしてしまったのかと思って子供は父親の顔をよく見ようとする。けれど、見える範囲で血が出ているところはないし、よく分からなくなって子供は首を傾げる。
子供の父親が何かを言おうとしたとき、ガタンと音が鳴って扉が閉まった。
父親は扉を、正確にはその向こうをしばらく見つめた後、ぎゅっと腕の中でぼんやりとしている子供を抱きしめた。きっと親としては叱るべきだった。一人で迷いの森に入ったあげく夜中まで戻ってこないなんて、と起こるべきだった。
しかし、それ以上に母親を思いやっての行動がいじらしく、誇らしく、嬉しかった。
「よかった、心配したんだぞ……!」
「ごめんなさい……。でも! 薬、貰ったんだ! お母さんの病気がよくなる薬!」
子供は鞄から勲章のように瓶を取り出した。そして言われたとおりにメモを父親に渡し、褒めて欲しいとキラキラとした瞳で見上げる。
父親は再び涙をこぼしながら、よくやったと言った後、子供の頭にげんこつを落とした。
「それはそれ、これはこれ、だ」
泣き顔のまま言う父親に、大して痛くない頭を押さえながら子供は嬉しそうに笑った。