目をつけられた研究者の末路 α国で生活する人々の中で「エリートと言えば?」と聞いたときに、真っ先に名前が挙がるのがアステリ・ストラトス――通称アストラの研究所の職員だ。α国で最も優秀な研究員を擁すると言われるだけあって入所難易度は随一。官僚になるよりも入所することの方が難しいとすら言われるレベルである。
そんな研究所に入所することを目標とする人間は多い。
ララ・スカーレットもまた、その一人であった。
父親が軍人だった事もあり、研究所で開発されたスーツに何度も助けられたという武勇伝を幼い頃に聞いてから、自身もその研究所に入り父を助ける開発をするのだと夢を見た。
成長してからは国のためにもという意欲が加わり、ひたすら夢に向かって自身の智を磨いてきた。
その甲斐あってか、ララはアストラの研究所へ入所が認められる栄誉を賜ることが出来た。
毎年の採用人数に制限があるわけではないが、もちろん優秀でない人間が入れる場所ではない。毎回五人入れれば良い方で、最悪一人も合格者がいなかった回もある。
ララは自身の実力が認められたことを何よりも誇らしく、またララ以上に両親や親族が喜んだ。母校である大学もお祭り騒ぎで、ララは多くの人間に期待されていることを改めて自覚した。その期待が重いようにも感じられたが、それ以上にこれからも頑張るのだという使命感がララの胸を燃やした。
緊張と共に研究所へと足を踏み入れたララは少し拍子抜けした。
研究所内はα国最先端と言える設備が揃っており、設備案内で簡単に説明された研究内容も素晴らしいと言える物だった。しかし、研究所を覆う雰囲気はふんわりとしていて、ララが想像していたもっと鬼気迫る雰囲気との乖離がすさまじかったのだ。
だが、それも一週間に満たない間の感想であり、一ヶ月も経つ頃にはその穏やかな雰囲気の下に苛烈な競争があることを知った。
研究所は完全実力主義で、年齢は関係なく研究の成果、実用性が全ての尺度だ。穏やかな雰囲気はあくまでそちらの方が働くのに効率的だからという理由でしかなく、決して競争がないわけではなかった。
研究員にも明確ではないが上下があり、年齢だけでは推し量れない。もちろん下っ端のララはまず、普段から関わる研究員の上下関係の把握に労力を割く必要があった。
ララが研究所で働き出して3ヶ月ほど経った頃、義務づけられている昼休憩中にコーヒーでも淹れようかと給湯室に入った時、後ろから呼び止められた。
「やぁ、はじめまして」
振り向けばララより頭二つ分高い位置から丸いサングラスをかけた男性が見下ろしていた。口元には笑みが浮かべられているはずなのに、どうしてかそれが冷たい物に見えて仕方が無い。例えるならば獲物を前にした捕食者のような獰猛さに似た威圧感。そのせいか、ララの喉は思わず引きつった音が出して足は勝手に後ずさりした。
それを見て怖がらせた事を理解したのか、男性は困ったように眉を下げて笑った。
「あぁ、ごめんごめん。怖がらせるつもりはなかったんだ。新人さんが来てるっていうから、ちょっと様子を見に来ただけなんだけど、時間あるかい?」
「は、はい」
男性はこの場にいる多くの研究員と同じように髪に寝癖をつけ、濃い隈を身につけていた。無精ひげも剃られていないことからしても、身だしなみを二の次にするタイプなのだろうと当たりをつけ、居住まいを正した。
この研究所にいるほとんど人間はララよりも目上の人間である。もちろん、目の前にいる男性もそうだろう。
「あの、なにか粗相を……?」
「あぁ、別にそう緊張する必要は無いよ。ただの世間話だから。っと、そうだ自己紹介がまだだったね。おじさんの名前はルカ。気軽にルカおじさんって呼んでくれればいいよ」
「そ、そんな……! 恐れ多いです!!」
目上の人間をおじさん呼ばわりするなんて、とララが恐縮していると丁度いいタイミングでララと同じ研究チームの女性が愛用のコップを片手に給湯室へと入ってきた。
彼女はララの三年先輩にあたり、ララを殊更可愛がってくれている研究者だった。彼女の出現にララは心の中だけで諸手を挙げて歓迎の声を上げた。
彼女は二人に気づくと眉間にグッと皺を寄せ、ルカに詰め寄る。
「ルカおじさんもしかしてナンパ~?! いくらララちゃんが可愛いからって、犯罪だよ?」
「違う違う。ちょっとお話ししようとしただけだって」
コーヒーを黒のマグカップに入れながらルカが否定する。それに「ホントかな~」と言いながら、彼女もコーヒーを持っていたコップへと入れた。
ララは目の前でのやりとりに目を白黒させた。もしかしてルカは先輩よりもヒエラルキー的に下なのか、と。そうでもなければ気さくな態度の理由が分からなかったからだ。
「ほら、彼女みたいに気軽に接してくれて良いから」
「そうよ~、ルカおじさんは優しいから許してくれるわよ~」
「ま、あんまり言っても困らせちゃうか」
そう言ってルカはマグカップに口をつけて一口飲んだ後、「またね」と言って給湯室を出て行った。
ララはその後ろ姿を見送った後、先輩にこっそりと、本人に聞かれるはずがないけれども慎重にルカについて尋ねた。
「ルカさんって先輩よりも下なんですか?」
「あ~、それねぇ。謎なんだよね~」
ララの言葉に先輩は少し困ったように眉を下げた。
先輩曰く、ルカの所属研究室を知っている人間は一人としていないというのだ。階級的に上なのかもわからないし、年齢も不詳。本人が「おじさん」を自称しているため、多くの人よりも年齢が上だろうということは分かっているが、研究所でも古株の人に聞いても、その人より前からいるという。
もちろんここはアストラの研究所というエリート中のエリートが集まる組織だ。無能が長年研究所に在籍出来るわけがないので、優秀である事は間違いない。
しかし、誰一人としてその優秀さを語れない。
「アストラ研究所七不思議の一つでね。まぁ、生ける不思議ってやつ? 上の人の中には人との関係に飢えてて気さくな人とかもいるから、ルカおじさんもその手の類いじゃないかってのが有力な噂だね」
「なる、ほど」
「ルカおじさん、新人が来る度にいっつも話しにくるからなぁ。あんまり気負わなくていいよ。適当にあしらってもいいし」
私も話したなぁ、とほがからかに笑う先輩の言葉を聞きながら、ララは自分のカップにコーヒーを淹れた。
先輩の話であれば確かに気さくな人という印象を受けるが、はたして自分の感じた緊張感は一体何だったのだろう、とララは首を傾げる。「またね」と言った通り、ルカは別の機会にララと話をしようとしてくるはずだ。
どう対応するかは次会った時に考えよう、と結局問題を先送りにすることにしてララは昼食をとるべく、給湯室を後にした。
そして問題との再開は案外早かった。
ルカとの出会いから二週間ほど経ったある日。ララはその日のうちに終わらせなければならないデータ収集に手間取り、残業をする羽目になっていた。
他にも研究内容の都合で研究所に残る人はいるが、全員が全員そうというわけではない。研究に全ての時間をつぎ込む人もいるが、基本的には他の企業と変わらず就業時間が決められている。ララ達もそれに従って、日々の研究に精を出しているのだ。
そしてララが所属している研究室の他の研究員は既に帰ってしまっていたせいで、ポツポツとライトに照らされた薄暗い廊下を一人で歩くことになった。
今まで残業で遅くなることはあったが、今回は日付が変わるギリギリの時間帯だ。そんな時間まで残っていたことはなかったし、今までは消灯の時間を過ぎてもいなかったので、ここまで不気味な状態で所内を歩いたのは初めてだった。
いくらララが大人でアストラのセキュリティがあるといえども、怖い物は怖いのである。特に研究所では生物に関する研究を行っている研究室もある。そういったところからもし、実験動物が出てきたら、なんて想像をしてララは寒気に身を縮こまらせた。
「こんばんは」
「ぎゃっ」
早く上へ登って帰ろう。その一心でやや首をすくめながら、いつもより早足で歩くララを後ろから呼び止めたのはルカだった。
その声に驚いて女性とは思えない悲鳴を上げてしまったララは、落ち着きなく暴れる心臓を押さえながら、一瞬前の自身の悲鳴を思い出して恥ずかしげに視線をさまよわせた。
「また驚かせてしまったね」
「い、いえ。大丈夫です、すみません」
以前話しかけられた時と同じ格好に同じ表情をしたルカは再びララを見下ろしていた。薄暗い廊下にいるというのに、なぜかサングラスはかけられたままで、どこか異質なモノが紛れ込んだような違和感がある。
「今帰りかい? お疲れ様」
「はい、お疲れ様です。……ルカ、さんもですか?」
「いや、おじさんはまだいろいろ残ってるから。でも丁度良いし、研究所の出口に行くまで、少し話をしようか。この前はできなかったからね」
「は、はい」
ルカの言葉にララは頷いた。きっと「いいえ」と言えば引いてくれるだろうと思っていても、なぜか拒否の言葉を出せない雰囲気があった。
ルカはララの返事を確認した後、促すように歩き始めた。ゆっくりとした歩幅はララに合わせられたもので、少なくともララが急いで追う必要はなさそうだ。
先ほどまで環境に恐れを抱いていたというのに、今や隣を歩くルカが怖くて仕方がない。彼から何かされるんじゃないかという心配ではない。だったら何が怖いのか、と聞かれてもララは答えることが出来なかった。
「タクシーはもう呼んだ?」
「あ、はい。呼びました」
「うん、よろしい」
少々値は張るが、夜道を一人で歩くよりもタクシーで自宅まで帰る方がララとしても安心だ。それにアストラの給料は一般よりは多い。月に1,2回タクシーを利用する程度じゃ懐は痛まないのだから、必要経費だと思って払う事にした。
ララの返答にルカは満足したような相槌を打ったあと、続けて口を開いた。
「君もルマエカさんに憧れてココを志望したクチかい?」
「いえ、いや、それもあるんですけど。父が軍人で、アストラで開発されたスーツのおかげで戦場で活躍できるって武勇伝をよく聞いてて。それで、私も将来そういうのを開発したいって思ったのが一番のきっかけです」
「なるほど。だから研究分野が合金なのか。君が在学中に書いた論文、面白かったよ」
ララはまさか自分の論文が読まれているなど思わなかったので驚いた表情でルカの方を見た。
彼はそんなララの反応を気にしていないのか、真っ直ぐ前を見たまま変わらず足を動かしている。
「エリーザベルトルの一部の鉱山でのみ採掘される貴金属の性質に目を向けた研究者は君だけではないけど、合金という手間のかかる分野に持って行ったのは数えるくらいしかいないからな。君の見つけ出した比率と手順を使えば、現在使われている金属類の中でも指折りの強度を誇るものになるだろう。スーツに使えるかもしれないね」
「ですがとても実用できるレベルではありません。重量もさることながら生産コストもかかりますし、そういった面を分かっているからこそ研究している人が少ないのでは……、と今は思っています。教授陣にもダメ出しをされました」
ララにとっては二年をかけた研究成果ではあるのだが、実用性という面をみると如何ともしがたい問題が横たわる。書き上げた時は最高傑作だと思っていても、教授陣の現実に即した厳しすぎる酷評を聞いた後では、もっと有用な研究があったのではと思わされる。
気落ちするララを横目に見て、ルカは当初出会ったときの穏やかな雰囲気を脱ぎ去りながら、口の端だけを持ち上げて笑った。
「ハッ、アストラに入れもしなかった者達の言うことなど考慮するに値しないな」
「え?」
「お前の合金の画期的な所は薄さと強度の両方を維持できる事だ。違うか?」
「そ、そうです!! 加工に特殊な機械を用いる必要はありますが――」
ララの言葉を止めるようにルカが人差し指を口元へとあてる。その表情は全て分かっているからわざわざ説明する必要は無い、となんとも研究者殺しの文句を浮かべていたが、ルカの気分を害したわけではないようだ。
ルカの纏う雰囲気は最初の穏やかものに代わり、視線がララへと注がれているのが分かる。しかし、それは決して不快ではなく、最初に感じていた恐れも何時しかなくなっていた。
この人は見てくれていたのだと、教授陣にボロボロにされた論文すら拾って呼んでくれていたのだと思うと、ララの胸の中にじんわりと感動が染みていく。研究者にとって、自らの研究が肯定されることがどれほど誇らしく、嬉しいものなのかをララは今、身をもって知った気分だった。
「他にも考えている比率はある?」
「け、検証が不十分ではありますがいくつか……」
「そっか。それはよかった。その分野はなかなか進歩がなくてね。困っていたところだったんだよ。全部一人でやるには時間がかかりすぎるからね」
「は、はぁ」
半分独り言のようにルカが言った後、上階へと続くエレベーターの前にたどり着く。ルカがボタンを押した後、ゆっくりとランプが二人がいる階数をめがけて降りてきた。
「見送りはここまで。話が出来てよかったよ。ララ・スカーレットさん」
「い、いえ! こちらこそ、お話が出来てよかったです!」
チーンという音がしてエレベーターの扉が開く。
ララが中へと乗り込むと、ルカは片手をひらひらと振って口元に笑みを浮かべた。
「では、おやすみ。よい夢を」
「お、おやすみなさい。失礼します」
ララがぺこりと頭を下げたところで扉が閉まり、ルカの姿が見えなくなる。それを確認した後、ララは思いっきり肺の中に貯まっていた酸素を吐き出した。体が否応にも緊張していた事を知るが、気持ちは軽かった。
少なくともルカは自分の研究を知っていてくれているし、評価もしてくれている。
「明日から、がんばろう」
小さく口の中だけで呟いて、ララは帰路を辿った。
一週間後。
ルカとの話の内容もやや朧気になった頃。ララに辞令が下った。
《ララ・スカーレット ███研究室 室長》
それは新しく設立された研究室の室長にララが任命されたというものだった。入所一年未満の新人が室長を任せられることなど異例中の異例であり、先輩や同僚達にも何をしたのかと騒がれた。当然そんなのララの方が知りたいくらいである。
ただ、一つだけ心当たりがあるとすれば、あの夜ルカと話した内容だけ。
新人の自分には身に余ると上司にもそれとなく拒絶を伝えたが、上から言われたからの一点張りで拒否することはできなかった。
そうしてあれよあれよと室長になったララは、部下の扱いや上司からの要求に目を回しながら、実に充実した研究者生活を謳歌したとか、しないとか。