ありがとうを貴方へ どこもかしこもピンクの広告が張られ、甘い匂いがそこら中から漂ってきそうな二月初旬。
巷は近々迎えるバレンタインの日を浮足立った雰囲気で待っているようで、阿僧祇はうんざりしながらデパートの中を歩いた。
日本独自の文化で浮かれるのは構わないが、チョコレートを貰う男性の負担たるや。学生はよく一喜一憂しているが、社会人ともなればお返しに頭を悩ませることも多い。義理チョコならまだいいが、本命だと目も当てられない面倒くささを孕んでいる。
阿僧祇が学生時代に貰ったチョコは把握している限りは義理のみであるが、社会人となった一年という短い間に本命を貰っている。その時のゴタゴタを考えると浮かれた気分になれないのが本音だ。
出来れば職場の事務員である咲からも貰いたくないと思っているうえ、ゾーヤ、零名に至っても同上だ。わざわざ「いらない」と釘を刺そうとは思わないし、渡されるというのであれば、表面上は快く受け取るが。
しかしお返しに頭を悩ませる時間は阿僧祇にとって面倒な時間であるし、第一にバレンタインの定番であるチョコレートは嫌いだ。関わりのある女性陣はこのことを把握しているため、もし贈ってくるとしても別の形をとるだろう。例えばコーヒーであったり、何かしら物であったり。
そうなればお返しもそれに準じたものにすればいいため、チョコレートを贈られるより百倍程楽で面倒くさくない。
とはいえ、零名にバレンタインというイベントを楽しんでほしいのも本音だ。阿僧祇には全く理解できなかったが、バレンタイン当日の学生は男女問わず浮かれていた。女子たちは時間をかけて準備をするという行為を楽しんでいたのだろう、と推察することは阿僧祇でもできる。
であるのなら、一般的に経験するであろうバレンタインを経験しておくのも悪くないのではないか、と思う。
そもそもバレンタインを知っているか、という疑問がわいたがこれだけ世間が浮足立っていれば嫌でも目に付く。そして気になったことはいつだってスマホ一つで調べられる便利な時代だ。零名が調べないはずがない。
変なところで遠慮しなければ、順当にバレンタインの準備をするかもしれない。
今のうちからお返しの事を考えておくか、と頭の隅にメモしつつ、阿僧祇は目的のフロアへとたどり着いた。
阿僧祇がわざわざバレンタインが近いこの日にデパートという場所に来たのは当然バレンタインとは別件だ。
阿僧祇は偶然にも、バレンタインである二月十四日に誕生日を迎える相棒件親友である、虚淵桐志へのプレゼントを探しに来ていた。
当日は桐志の好物を食卓に並べ、上質な酒も用意する予定ではあるが、それとは別にやはり物としてのプレゼントを贈りたい。そう考えいろいろとリサーチも行った結果、何も思いつかずデパートを練り歩くことにしたのだ。
贈りやすい時計はクリスマスのプレゼントとして既に贈った後であり、特別贈りたいと思える時計もないので却下された。
阿僧祇は他にも常日頃使えるものは、といろいろ案を出した。
例えば服はどうだろう、と考えたがサイズはともかくセンスや好みに左右される要素が多い。阿僧祇が露出を好まないように、桐志にも阿僧祇が把握していない好みがある可能性がある。贈り物として選ぶにはリスキーだ。
そう結論付けた後、次に出た案は万年筆や手帳といった文房具だ。しかし桐志は阿僧祇程デスクワークが多いわけではないし、ただでさえデジタル化が進んだ昨今、好んで使っているわけではないのなら文房具は大抵机の肥やしになる。それではプレゼントの前提から逸れてしまう。
であるのなら、といろいろ考えた結果、何も浮かばなくなってしまった。手詰まり、というやつだ。これなら不貞調査の方がまだ楽だと考えながら現物を見て考えようと、デパートへと足を運んだ。
複数の店を見て回りながら阿僧祇が目を付けたのはアクセサリーだった。
阿僧祇自身アクセサリーで着飾るのは好きだ。諸事情で今は代り映えしない指輪をはじめとして、服装に合わせてネックレスやブレスレットをつける。桐志であれば、それに加えてピアスなどの装飾もつけられるだろう。
アクセサリーもセンスや好みが問われる品物ではあるが、服などよりも気軽に身に着けやすく、もらう側の気持ちのハードルとしても服よりは低いだろう。一般的にプレゼントとして選ばれるのもそれが大きいと阿僧祇は考えていた。転売しやすい、処分しやすい、というのもあるだろうが。
そんな目論見の元、男性向けのアクセサリーを販売している店を何件かハシゴし、一時間程時間を費やしたところで、阿僧祇は溜息を吐いた。
なかなか阿僧祇のお眼鏡にかなうものがなく、その上店員からの接客もいなさなければならないため、阿僧祇の心の天秤が面倒に傾きつつあった。それでも帰ろうと思わないのは、結局見て回り終わらなければ明日かその次の日か、また近いうちにデパートに来なければならなくなるからだ。阿僧祇的にはそっちの方がはるかに面倒臭い。
アクセサリーを売っている店は後数件で終わる。好みに合うものが見つかる確率は低いが、今日中に何とかなる、という見通しが甘かったのだと反省しながら阿僧祇は次の店へと足を踏み入れた。
店内は薄暗くライトアップされ、棚にはアクセサリーの他にも時計や財布等、普段から身に着けられるものが置かれていた。天然石などの扱いもあるのか、天然石で作られたブレスレットが、照明を反射してきらきらと光っていた。
店員はレジに一人切り。背の高い棚もないため、店中を見て回る必要がないのだろう。店員は阿僧祇に気づき定型文を述べたのみで、それ以上話しかけてはこなかった。
ざっと棚などをゆっくりと歩きながら見ていく。少しでも気になるものがあれば手に取ってみるが、なかなかパっとするものがない。壁の一面を見終わった後、その隣の壁へと向かう。
そこに置かれていたのはピアスだった。普段からよくつけているように見えるのは赤色の縦に長いものだ。それを踏まえれば、形状は多少大きめでもよさそうだ。
上から順番に下へと目を滑らせていると、ふと目に留まるものがあった。阿僧祇はいつものように、それを手に取り、眼前へと持ってきた。
ピアス部分はリングになっており、その下に装飾として八面体とペンデュラムで使うような多角形の装飾がぶら下がっている。リングの部分にはアメジストが嵌められており、これも照明の光を受けてきらきらと光っていた。
片耳用のそれは台紙によれば誕生石をはめ込んだものらしい。偶然手に取った一つではあるが確かにアメジストは二月の誕生石だ。石言葉は確か誠実だとか高貴だとか。あと何個かあった気はするが生憎と阿僧祇はまだ天然石には手を出していないので詳しくはない。
黒を基調としているのも悪くはないし、一度桐志がこれをつけている様を想像してみる。その結果悪くないと思った阿僧祇は購入を決定し、さすがにコレ一つでは少なすぎると金額を確認した後、再び頭を悩ませることになった。
どうせなら同じ店で揃えてしまいたい。他のアクセサリーを見るか、とも考えたがブレスレットは腕の動きを阻害するし、ネックレスも邪魔になるだろう。となると再びピアスを見繕うかあるいは普段使いできそうな財布でも買うか。
そうして結局阿僧祇は最初に目を付けたピアスと、他の棚に置いてあった二つ折りの黒の財布にした。
それをレジへと持って行き、無口な店員にプレゼント用だと告げる。ラッピングは落ち着いたネイビーの物にして少し待てば、桐志へと渡すプレゼントが手に入った。
数日かかると見込んでいたプレゼント選びはあっさりと終わり、阿僧祇は右手に持った袋の重みにかすかな笑みを浮かべると帰路へとついた。