後悔噬臍 深夜にもなると大体の人は寝てしまうため、あたりには静けさだけが満ちる。小気味の良いジャズでも流せばもっと様になるのだろうが、袴田は静寂を肴に酒を飲むことが好きだった。賑やかな場が嫌いというわけではないが、自分の行動以外の音が聞こえないということが、穏やかな安心感に繋がっていることを知っている。
カラン、と氷を回して遊びながら、袴田は滅多に飲むことのない透明の液体を蛍光灯の光に透かした。光が氷と酒を屈折してきらめく様はサンキャッチャーのようで美しい。
はぁ、と重い溜め息が零れる。手元の酒をかなり煽ったというのに、一向に酔いがやってこない。否、正確には袴田は酔っている。酔っているのだが、それは前後不覚になって記憶を失う程のものではなかった。今は己の酔いにくい性質が恨めしい、と思いながら袴田は手元のグラスを空にする。
正直、酔いたいとは思ったものの、それほど飲んでしまうと明日の業務に支障が出る上、子供達にいらぬ心配をかけてしまう。そんな事を真面目に考えている所為で、酔える程に酒を飲めていない事に袴田は気づいていた。難儀な物だ。酔いたいと思っているのに、酔ってはいけないとも思っている。
なんにせよ、後一二杯分迷っていられる猶予はある。袴田はそう言い訳しながら、グラスを再び満たした。
袴田はこれまで、後悔しない生き方をしてきたつもりだ。むしろ、今まで自分が奪った命に失礼の無いよう、後悔はしないと決めている。後悔をすることは、立ち止まることは、許されないと思っている。
だからこそ引きずってしまう。
袴田の心に残るしこり、それはきっと後悔の形をしていた。
――あぁ、もっと話をすればよかった。どこかへ出かければよかった。いい酒だって手に入ったろうに。
つきることのないもしもと出来たはずの行動を並べる作業は虚しいだけだ。だってそれは永遠に失われて叶わないのだから。それでも、止むことの無い思考は袴田自身の制御を離れてぐるぐると同じ所をひたすらに回る。
カラン、と再び氷が音をたてた。手元のグラスがすっかり空っぽになっていることに気づき、袴田は再び溜め息を吐いた。
縹弓嗣が亡くなったのは一週間前の夜だった。
Extremeの能力者は40歳前後が寿命と言われる。これは統計学的観点からも裏付けされた事実であり、能力が強ければ強いほど体に対する負荷が大きいからでは無いか、などと言われているが実際の所は謎のままだ。
そして、弓嗣もまた40歳を迎えていた。そして寿命でなくなったのだろう、と闇医者に言われた時、袴田は真っ先に驚いた。嗣先輩、Extremeだったんですか?――と。
弓嗣がExtremeだと言うことを知っている人間は情報屋にはいなかった。つまり、弓嗣だけが己の命があとどれほどでなくなるのかを知っていた、と言うことだった。
なんで言ってくれなかったのか、と聞きたくても当人はすでにこの世にいない。答え合わせの出来ない質問ほど愚かな物はないだろう、と袴田は口にするのを止めた。
弓嗣がそうと決めたのであれば、それなりの考えと思いがあっての事だったのだろう。袴田はそれをどうこう言える立場ではない。袴田だっていろいろと弓嗣や子供達に隠している事がある。それと同じ事だ。
だから後に残ったのは喪失感とほんの少しの恨めしさだけだった。
人は誰しも死という終わりを迎える。それが早いか遅いかの違いがあるだけで、終わりは何事にも平等にやってくるものだ。袴田はそのことをよく知っていた。だから泣いたり悲しんだりはしなかった。ただ少しだけの「分かっているなら教えてくれても良かったじゃないか」という恨めしさと、いつもの空間に弓嗣がいないという喪失感が袴田の心臓をなで続けていた。
それも三日も経てば落ち着いた。現実を見た、と言えばいいのかもしれない。いつまでも空白に弓嗣の影を追い求めていられるほど、袴田は感傷的ではなかったし、自分がどう思おうがすでに終わった事である。もしこのことが袴田の心に傷をつけていたとして、それを理由に足を止める男ではなかった。それだけのことである。
しかし困ったことに、恨めしさと喪失感の代わりにやってきたのは後悔だった。往々にして残された人間は「もっとこうしてやればよかった」と思うものだが、袴田も例に漏れずその思いに捕らわれてしまったのだ。これが難儀だった。できると自負している事が多いだけに、あれもこれもと馬鹿みたいに後悔が出てくるのである。何が後悔をしない生き方をしてきた、だ。つまるところ、それは後悔を抱えた時の対処法を知らないのと同じじゃないか。
普段の生活は何も変わらないまま。少しだけ、弓嗣がしていた袴田ではできない作業が子供達に割り振られたが、それだけだ。そのうち空白があったことすら風化していく。そうして次がやってきて、それも風化して。
なんだかそれは寂しい気がした。忘却が傷を癒やす唯一の薬であるなら、袴田はずっとこの傷を抱えて生きてもいいと思った。忘れることを、忘れられることを最も恐れる袴田だからこその考え。
ただ、弓嗣の事を忘れたくなかっただけだった。
「その結果が後悔って、面白いなぁ、俺」
あはは、と笑いながら袴田は酒を煽る。後悔を抱える理由が一般とはズレていることを認識して、なんだか面白くなってきたからだった。
しかし、理由が分かればすっきりするもので、先ほどまでの陰鬱な気分はどこへやら。この後悔を抱えると決めたのでそれ以上悩む必要は無くなった。だから好みに合わない日本酒を飲むのはやめ、いつも通り飲みやすいカクテルへとグラスの中身を変える。
きっとこれから先、ふとした瞬間、僅かな痛みと共に後悔が胸をよぎるだろう。旅行に行った先でこの景色を共有したかったなとか、美味しい物を食べた後に嗣さんにも食べて貰いたかったなとか。その全てが弓嗣を忘れていない証明になる。袴田にとってこれほど安心できる事も無かった。
――聖君も優君もともかちゃんも。もし俺より先に死んでしまったとしてもずっと覚えておくからね。
これで安心だ、と言わんばかりに満足げな表情をして袴田はグラスを傾けた。