還り路「お札?」
シュヴァルツの訝し気な声と視線を受けて、グレゴリーは預かった実物を取り出した。
それは縦15㎝、横8cm程度の長方形で見ただけで古紙だとわかる材質だった。表面には赤色で怪しげな模様が描かれ、呪物だと言われたら納得してしまいそうな奇妙な薄気味悪さがある。
この札は薬屋をよく使っている老人からもたらされたもので、曰く「死者に会えるお札」だという。老人自身、その話を信じているわけではないがふと気になって入った露店で押し付けられるように渡されたのだそうだ。その時は店主の勢いに負けて受け取ってしまったが、家に持ち帰ってからも、やはり薄気味悪さを感じる。自分の手には負えないから魔法が使える人に引き取ってもらった方がいい、という考えで老人は札を薬屋に持ってきたそうだ。
きっとその露店の店主も老人と同じ気持ちで札を手放したに違いない。
なんにせよ、厄介事が舞い込んできたのかとシュヴァルツは眉間に皺を寄せた。
札自体には魔力も何も乗っていない。おまじないですら掛かっていないことは明らかだった。だというのにどうしてか札を前にした人は揃いも揃って薄気味悪さを感じている。
「本物だと思うか?」
「まさか」
グレゴリーの問いにシュヴァルツは首を横に振った。
死者に会える魔法など聞いたこともないし、実際問題どうやって会えるというのだろうか。死者が幽霊のように現れる? あれは魔物であって特定の個人ではない。常識的に考えてあり得ないはずだ。
だったらこの奇妙な感覚は一体なんだというのか。それだけが気になってシュヴァルツは札から目を離せないでいる。うっすらと腹の底を撫でられているような不快感があるのに、どこか懐かしいような哀愁も感じる。端的に表現すれば不気味だった。
「想いは魔法を超える、か……」
「ん?」
「師匠がよく口にしていた言葉だ。気持ちの持ちようによって病気や怪我が回復に向かうことが多々あったから、そのことだろう」
シュヴァルツは口にした後で、自分の発言がいかに馬鹿々々しいのか自覚した。
もしこの札が死者に会いたいという想いで作られたとして、それが現実に影響を及ぼす訳がない。魔法でもおまじないでもないのだから、この札はただの紙だ。
もしかしたら奇妙な話を先に聞いてしまったから、そのバイアスがかかってしまっているのかもしれない。だから不気味に思ってしまう。ありそうな話だ。
「ま、なんにせよ明日、晴れてたら燃やすか。なんとなく暖炉で燃やしたくない」
「同感だ。日付が超えるころには雨も止むだろう」
二人の視線は窓の外へと向かう。朝から降っているバケツをひっくり返したような豪雨はこの地域では珍しい。乾燥させた薬草に湿気は大敵のため、外を出歩くことを断念したシュヴァルツは一日中そちらに苦心することになった。
例の老人はシュヴァルツがその作業をしていた頃にやってきたのだという。大雨の中、わざわざやってくるくらいだ。よほど札を手放したかったらしい。
そもそも気持ち悪いというだけでそれだけ急ぐ必要はあるのだろうか。
シュヴァルツは老人が何か隠しているような気がしてならなかったが、今さら問うことはできない。対処法も決まったのだから、と意識の外へと追い出すことにして、今日の夕飯の準備に取り掛かることにした。
ドドン
腹の底に響くような大きな音にはっとして、シュヴァルツは目を覚ました。
目覚めた時特有のぼんやりとした思考と視界で、先ほどの音の出所を探ろうとすると、再びドドンと音がする。少し聞けば、その音は一定の間隔を保ちながら何度も何度も繰り返されていることが分かった。
それを理解したころに、シュヴァルツは上体を起こし、あたりを見回した。
シュヴァルツは少し夜更かしした後、確かに自室のベッドに入って寝たはずである。だというのに、彼がいるのは彼の私室ではなかった。明かりは窓の外からのものしかないため非常に暗く見づらいが、シュヴァルツの部屋の間取りとは大きく違う。
――一体ここは何処だ。
疑問を口にはせず、ベッドから降りれば、どういうわけか寝巻ではなく普段着ている防護服だった。ご丁寧に靴までしっかりと揃えられている。ひとまず裸足で歩き回らなくてよくなった事に安堵しつつ、窓際へと寄って外の様子を見る。
室内の暗さからして夜であるはずなのに、窓から明かりが漏れているということは、火を焚いているとかそういう明るくなる理由があるはずだ。そして火があるのなら、当然人も存在しているはず。
身を隠しながら窓の外を見ると、シュヴァルツの考え通り、大きな火柱が広場のような場所の中央に陣取っていた。明るいのはそのせいだろう。
そしてその火柱を取り囲むように複数の人影がぐるぐるとゆっくり回っている。そしてドドンという音も、その火柱のそばに置かれた太鼓から発せられているものだと確認ができた。
太鼓の音以外は何も聞こえない。火柱を囲んでいる人たちは無言なのだろう。
シュヴァルツはあの集団に近寄って利があるとは思えなかった。加えてここがどこなのかの情報はまだないままだ。
極力物音を立てないようゆっくりと、シュヴァルツは部屋の中を見て回ることにした。しかし、これと言って情報になりそうなものはない。シュヴァルツが寝ていたベッドと書き物用の机と椅子があるだけで、棚もなければキッチンや風呂などもない。部屋に一つの扉はどう考えても火柱のある広場に面した道に接しており、他の部屋があるという可能性もない。
まるで隔離するためだけの小屋のようで気味が悪くなりつつ、人の目を避けるために広場とは逆方向の壁に取り付けられている窓から出ることに決めた。
幸いはめ殺しではないようで、多少がたつきながらも窓は開いた。
シュヴァルツの大きな体では窓を通るのも一苦労で、服をささくれだった窓枠に引っかけないよう注意しながら外へと出る。
「ふぅ」
知らない間に随分気を張り詰めていたことを自覚し、シュヴァルツは息をゆっくりと吐いた。
いまだに何もわかってはいないが、このままここにいるのはまずいという根拠のない考えが頭を占めている。本能とでもいうべきそれに従って、シュヴァルツは広場から離れる選択をした。
小屋の裏手はそのまま森につながっているようで、獣すら通らないであろう場所を通って行く。
夜の森なんて獣が出ることもあって歩くものじゃないが、そんなことを言っていられないくらいあの広場から離れたかった。時間が経つにつれ、広場に近寄ってはいけないという思いが強くなっていったせいだ。
数分歩いてシュヴァルツは愕然とした。広場から離れるように移動したはずなのに、どうしてか目の前に広場の火柱が見えるのである。
道の途中で引き返してしまったのだろうか。
ならば、と夜空に浮かんだ月を目印に真っすぐ森を歩いた。
そうして一つ確信した。
どうやら広場から離れることはできないらしい。
シュヴァルツは再び眼前に広がった広場を見て、忌々しいと舌打ちした。悪あがきのように数回、木の幹に傷をつけて目印にしたり、何歩どの方角に歩いたかを記憶したりしてみたが、いずれも意味をなさなかった。
収穫といえば、広場から一定距離以上離れられないということだけだ。その距離を超えると広場の方へと引き返してしまう。
「どうしたものか」
近寄りがたい火柱を横目に、森に隠れながら思案する。
どうやら魔法は使えないようで、それに頼ることはできない。そもそも、ここが一体どこなのかもずっと分かっていないし、どうすれば分かるのかも検討がつかない。そもそも薬屋に侵入者がいればわからないわけがないし、だとするとどうして自分はここにいるのか。
ぐるぐると終わりのない思考を続けていると、がさり、とシュヴァルツの後ろで物音がした。
即座に音の方から距離を取り、身構える。現れるのは野生動物か、はたまた未知の存在か。
火柱に照らされて浮かび上がった人物にシュヴァルツは思わず息を飲んだ。
その人物の姿がシュヴァルツが調合師を名乗るために弟子入りした女性のものだったからだ。
「オマエ、山歩きが好きだとは思っていたけれど、こんな夜中に一人で歩くのか?」
「……」
深い緑の瞳がシュヴァルツを射抜く。
かつてもそうだった。彼女の鋭い眼光は人の心を突き刺すような冷たさと、宝石のような手の届かない輝きを孕んでいた。その瞳にじっと見つめられていると何もかも見透かされているようで居心地が悪くなる。
しかしそれも随分と昔の記憶だ。
「うんとかすんとか言わんか、莫迦弟子」
「師匠、失礼ながらあなたは本人ではないでしょう。俺の想像の産物か何かでは?」
「ほう、そう考える理由は」
女性がニヤリと笑う。その笑い方には見覚えがあった。人をからかって遊ぶ時の笑みだ。
シュヴァルツは溜息を吐きたくなるのを堪えながら、火柱の方へと視線を向ける。煌々と輝くあの赤より、彼女の髪の方がよほど鮮烈だと感じるのはどうしてだろう、なんて器用に現実逃避をしながら。
「貴女の性格上、わざわざ化けて出るわけがない。それも彼氏達ならともかく、俺の前に」
「あっはっは! よくわかってるじゃないか」
女性は大きく口を開けて豪快に笑った。おかしくておかしくて仕方がないと体全体で表現している。そんな姿ですら魅力的だと言った男がいたな、とシュヴァルツはまた一つ過去の記憶を思い出した。
「そもそも貴女が死んだ所をこの目で見たわけではありませんから」
「でもオマエは俺が死んだと思ってる」
「えぇ、まぁ」
彼女との別れは唐突だった。そして様々な事情を鑑みるに、彼女の命はそう長く持たなかったのではないか、とシュヴァルツは結論付けていた。
姿を消したのはシュヴァルツに死という無防備な姿を見せたくなかったのか、はたまた死ぬときくらい本当に好いた男の傍に居たかったからなのかは、シュヴァルツにはわからない。
「貴女は何なんです? わざわざ俺の前に出て、何が目的なんです?」
「オマエ、奇妙な札を近くに置いているだろう」
質問の答えに見えて、そうでないような。曖昧な言葉にシュヴァルツはついに溜息を零した。
「確かに札と呼べるものは近くにありますが、それが何だっていうんです。魔法の痕跡も、呪いすら感じられなかった」
「オマエ、忘れたわけじゃあるまいね。俺はいつも言ったはずだ。『想いの力は魔法よりも強い』と」
「だからと言って、こんな……」
こんな意味の分からない状況になるわけがない。
シュヴァルツが反論しようとしたところで、あたりの空気が変わったことに気づいた。ねばりつくような視線が一斉にシュヴァルツへと注がれ、その不快感に鳥肌がたつ。
「見つかったな。まぁ、それも仕方ない。さぁ、逃げろよ弟子。捕まったら本当に死ぬぞ」
「どこへ逃げるっていうんです」
彼女がカラカラと笑う。どうでもいいと考えているのだろう。実際、シュヴァルツが考える彼女はそういうことをする人だった。それが反映されているのかもしれないが、おおむね正しく創られているだろう。
火柱の周りにいたはずの人は、ゆっくりとシュヴァルツの方へ歩いてきている。明かりの近くにいるが故、暗く影になり見えないのだと思っていたそれらは、本当に影だった。ぼんやりとした輪郭では個々の区別はつけられず、二足歩行とその姿でかろうじて人型だということしかわからない。
「捕まればオマエもああなる。あれは死者を願った成れの果てと哀れな被害者たちさ」
「随分物知りなんですね」
「俺はお前の頭から出てきたが、もともとはこの空間に帰属する存在だ。言うなればオマエとこの空間が両親ってわけだ。ちょっとくらいは親孝行してやらなくもないぞ」
「ふざけてる場合じゃないんですけどね」
ゆっくりとではあるが影の数は多い。もたもたしていると包囲されてどこにも動けなくなってしまうだろう。そうならないよう、シュヴァルツはひとまず広場の周りをまわるように、影から遠ざかることにした。
そんなシュヴァルツの後をがさりがさりと彼女もついて来た。弟子の苦労を見逃すことのできない肴だと言って憚らなかった彼女らしい野次馬根性だった。
「ここは無意識集合体さ。死者にもう一度会いたい、生き返ってほしい、そんな願いを抱いて抱いて抱いて、現実に帰れなくなった奴らの墓場だ」
「俺は、死者に会いたいなんて願ってませんが」
「あぁ、変質したんだ。何事も維持するにはエネルギーがいる。人が生きるのに食物を食べるように、この空間も自らを維持するために人を食う。あの札を目印にしてな。……心配しなくとも、他の二人は無事だろうさ。この空間に複数人を一度に招くだけの余裕はない。オマエがまだうまそうに見えたんだろうな。光栄に思えよ」
「嫌な栄光だな」
「そんなもんさ。結局は他人に張られるレッテルだ」
広場の周りを半周したあたりで、影には知能がなく、ただシュヴァルツの方へと向かっているだけということが分かった。挟み撃ちするでも先回りするでもなく、羊飼いの羊のように従順にシュヴァルツの後ろ姿だけを追いかけている。
歩く速度も遅いことが相まって、さほど脅威には思えない。おそらくこの空間に残された力はそれほどない、ということなのだろうとシュヴァルツは解釈し、それでも急に走ってくる可能性を考慮して距離を取り続ける。
逃げる道がわかるまで、しばらくこの鬼ごっこは続くだろう。
その間にも彼女はつらつらと話をする。
「結局、何にもなり切れない。醜く存在にしがみつくだけ。はは、無意識すらしっかり人間をしてるじゃないか。面白いもんだ。俺も巻き込まれてみたかったな」
「なにも面白くありませんよ。……帰り道については教えてくれないんですね」
「そりゃああれさ。自分で気づかなきゃ面白くないだろ?」
彼女ならそう言いそうだ、と嫌に納得して敗北感を味わいながら、シュヴァルツは足を火柱の方へと向けた。影が周りからいなくなった今しかそれを調べるタイミングはない。
シュヴァルツが火柱にたどり着くのに1分も必要なかった。長身ゆえのコンパスで距離を詰め、初めてその火柱がかなり巨大なものであったことに気づいた。遠目で見ても十分立派に見えていたが、それはシュヴァルツの予想以上の大きさで、シュヴァルツをまるっと飲み込んでなお余りある大きさだった。
影が後ろから歩いてくる音を聞きながら、火柱の地面、赤色の中にかすかに模様のようなものが見えた。揺らめきと熱によって近くに寄り見ることは叶わないが、ある程度離れた距離からでも認識できたそれは、札に描かれてあった模様とよく似ていた。
一体どういう理屈なのかわからないが、あの札がシュヴァルツをこの空間に連れてきたというのなら、この模様にも何か役割があるはずだ。例えばこの空間を維持するためのもの、とか。
あるいは……。
「ッチ、近いな」
深く考える前に影がシュヴァルツへと迫ってくる。追い詰められないとはいえゆっくりと調べる時間もないことはひどく手間がかかり苛立たしい。
シュヴァルツは速足で移動しながらもともと自身が寝ていた小屋の方を見た。建物らしきものはそこしか用意されておらず、そこでシュヴァルツが寝ていたことを考えてもあの小屋が『入口』に近しいものだったのだろう。基本的に『入口』は『出口』であることが多いが、イチかバチかで小屋に駆け込むには早すぎるだろう。
最終手段だな、と頭の隅の留め置きながら先ほどの模様、そして彼女の言葉について考える。
彼女は依然、余裕そうな表情を崩すことなくシュヴァルツについてきている。この空間で生まれたということを考慮すれば、シュヴァルツが危うくなっても助けてくれるとは限らない。だから彼女に頼ることはできない。もし、ここにいるのが彼女本人であったとしてもその結論は揺らがなかっただろうが。
「思考に行き詰まったら声に出して整理するんだ。何度も言ったろう?」
「それっぽいことを言わないでください。俺は一人で考え込みたいタイプなんです。何回も言ったでしょう」
幻影とも言える彼女と普通に会話していることに改めて滑稽さを感じながら――言ってしまえば独り言みたいなものだろう――思考を巡らせる。
火柱から離れ、影からも離れ、再び広場の外周をぐるぐると回る。そろそろ一周する、というところでシュヴァルツの耳は太鼓の音に紛れた声を聴いた。
『……!』
微かな音で言葉なのかもわからない。ただそれを漠然と声だと認識してシュヴァルツの足が一瞬止まった。音の出所を探ろうと耳を澄ませれば、確かに太鼓の音に紛れて声が聞こえてくる。何度も、何度も。
少しの時間をかけて、その声が火柱の方から聞こえることにシュヴァルツは気づいた。先ほど近づいたときは何も聞こえなかったのに、と不思議に思いながら影を背に火柱へと近寄る。
『……ヴァ……ル……!!』
男の声だ。それも聞きなじみのある声。ただ、ここまで切羽詰まった声を聴くのは初めてだな、と少し意外に思いながら火柱を見つめる。
声は確かに火柱の中から聞こえてきていた。おそらく繋がっているのだろう。つまり、シュヴァルツが探していた『出口』は火柱だったということだ。
『罠、とは考えないんだな』
「疑い始めたらキリがない。もし、これが罠であったなら、自分の想像力を褒めてやりますよ」
『はっはっは、オマエはいつもそうだったね。こうと決めたら梃子でも動かない。いいさ、思うようにやりな』
彼女がカラカラと笑う。それこそが答えのようなもので、お墨付きをもらって一安心したシュヴァルツは、しかし躊躇した。頭ではその火柱が出口だとわかっていても、確かな熱さを感じるために体が火柱へと飛び込むことを拒否していたからだ。
それこそ度胸試しのような、高いところから川へと飛び込むような勇気を必要とした。
しかし、そのまま突っ立っていても影につかまり死ぬだけだ。であるならば、多少の熱さ、痛みには目を瞑る、否、必要経費と割り切るしかない。
『シュヴァルツ!!』
ひときわ大きく自分を呼ぶ声が聞こえた時、シュヴァルツは炎の中へと歩を進めた。
炎がシュヴァルツの全身を舐める。感じたのは熱さを通り越した冷たさ、そして痛みだ。生きてきた中で経験したことのない痛みに視界が暗くなり、意識が遠のく。
『俺に挨拶もなしとは、オマエらしい』
真っ暗の視界の中、くぐもった声で彼女が笑った。
二度目の覚醒と同時に聞こえたドドンという音に身を強張らせる。失敗したか、と考えたのも一瞬で、すぐにその音が自身の心拍音だったことに気づく。嫌に耳をつくその音はいつもより速足で、シュヴァルツの状態を雄弁に語ってくれていた。
「シュヴァルツ!!」
「カラスさん! よかったぁ」
ゆっくりと目を開けて見えた天井と聞こえた声に脱力し、そこで初めて背中をびっしょりと汗で濡らしていたことに気づく。不快感に眉を顰める暇さえなく、左肩に置かれていた手がシュヴァルツの体を揺さぶった。
「おい、大丈夫なのか?」
「……あぁ。おそらく」
声の主――グレゴリーはシュヴァルツの返答を聞いて、短く安堵の息を吐き、肩から手をどけて椅子へと座った。いくら杖があるとはいえ、片足で立ち続けるのは負担が大きいからだろう。
シュヴァルツは上半身を起こそうとして息を詰まらせた。まるで筋肉痛のように体のあらゆる部位が痛みで悲鳴を上げていた。まるで戻ってくる前、火に炙られた痛みがぶり返したようで、改めてただの夢ではなかったのだと認識する。
「どうなってた?」
起き上がるのを諦めたシュヴァルツはそう問い、それに答えたのは枕元に立って健気にシュヴァルツの額へと手をあてて体温を測ろうとしているアルスだった。
「カラスさんが起きてこないから、僕が起こしに来たんです! でも、いくら呼んでも起きてくれなくて……」
「アルスの話を聞いて俺が来たって訳だ。心拍は低いし、呼吸も浅い。体も冷たいときたら心配にもなるだろ。死ぬ一歩手前ってこんな感じかって嫌に納得した」
どこかげんなりとした表情のグレゴリーを横目にシュヴァルツは天井を見上げた。現状動くと体中が痛くなることを考えて、できることがそれしかなかっただけなのだが――首を動かすのすらしんどい――その様子に気づいたグレゴリーは、当然何が起こったのかを訪ねた。
シュヴァルツはほとんど包み隠さず語って聞かせた。死者の空間、入り口となっている札、火柱。そしてそこから助け出してくれたのが二人の声だったことも。
「二人がいなければ出られなかったかもな、助かった」
「どういたしまして!」
「おう」
素直な感謝を口にすれば、二人の笑みを含んだ声が返ってくる。そのことに今だ少しの擽ったさを感じたまま、ようやく帰ってこれたのだと実感が湧いた。
安心すると不思議なもので腹が減ってくる。もともと朝食をとる時間だったことも相まって、アルスはシュヴァルツの食事を取りに行った。少なくとも今日一日、シュヴァルツはベッドの上から動けないだろう。
「あの札は午前中にでも燃やしておく。それでいいな?」
「あぁ。深入りするのも得策じゃないだろう」
改めてシュヴァルツの脈などを測り、正常に戻っていることを確認したグレゴリーは溜息を吐きながら言った。まさか軽く引き受けたものがこんな事態を及ぼすとは考えもしなかった。というよりも、誰も予想できない。どう考えても今回起こったことは常識の範疇を超えているのだから。
幸い外の天気は晴天だ。多少湿気は残っているものの、札一枚を燃やすのに不便はしないだろう。これ以上深入りしないのであればすぐ燃やしても問題ないと判断したのだろう。グレゴリーは杖を突きながら部屋を出て行った。
静かになった部屋でシュヴァルツは溜め息を吐いた。腕を上げるのも、首を動かすことすら痛みが伴い億劫に感じる。全くもって災難だったが、アルスやグレゴリーが巻き込まれるよりはマシかとも思う。もしあの二人が巻き込まれていたら、と考えるだけで頭が痛い。
出来れば二度とこの手の厄介事に巻き込まれたくないな、と考えながらアルスが朝食を持ってくるのを待った。