ほとり淀んだ水底の水草の中に、異質なものが。
蛟はそれを、ひょいと摘まんだ。それは円形で平らで、真ん中に穴があいていて、金色だった。
先程沼の辺に佇んでいた娘が放ったもので、何かを必死に拝んでいた。一体なんなんだろうと蛟はその様子をずっと見ていた。娘は足と腕が出ている派手な色の服装で、髪は金色だった。
この沼にご利益なんてものはない。あるのは妖怪が出るという噂だけ。
「なに持ってるんだ?」
ふさっとした九本の尾を持つ狐の妖怪九尾が、沼の側に立つカエデの巨木の上から声をかけてきた。本来カエデというのは乾燥した土を好むというから、沼の近くでここまで大きくなる事は珍しいかもしれない。秋になると、赤くなった葉が樹の周りと沼を赤くする。蛟は口にはしないが、季節の移り変わりを表すそれらを楽しみにしていた。もう何度も何度も巡ってきては去っていく季節の移ろいに、飽きる事なく。
「あぁ、それ五円玉」
九尾はいちご牛乳と書かれたパックを片手に、木から飛び降りた。
「銭か」
少し前は違う意匠だった気がするがと呟いた。
「なんのために」
蛟は九尾に疑問を投げる。時々人間に化けては山を下りる九尾だったら、人間のする事を理解出来るのではないかと思って。
「そりゃあ…」
九尾は鼻をほじりながら、上目遣いで考える。これは判ってないのかもなと、蛟が五円玉を再び水の中に戻そうとすると
「ご縁がありますようにって」
「なんだって?」
「ご縁」
蛟は少し考えて
「五円玉と御縁?」
「そう」
「……」
これは沼の底に戻そう。蛟は五円玉を水底に返した。
「まぁ、実際何を願ってたかはわからねェけどな」
ズズズっと、九尾がパックのいちご牛乳の残りをイッキに吸い上げる。九尾は時々人間の世界で仕事をしているようで、こういう物もその金で買っている。器用にパックを潰して、袋に入れた。後でまとめて決められた所に捨てる。人間の決めたルールに慣れていた。
「人間の良い所じゃね?これで本当にご縁があったらそれが最初から決まってた事かもしれないなんて考えないだろ」
「この沼が叶えたと思うわけか、それが良い所?」
蛟は、沼の中央まで泳ぐ。蛟がかき分ける水は生き物のようにうねり、蛟の身体に纏い付く。沼の中央にはいつも座っている小島がある。苔生した大岩だ。九尾は眩しそうに、蛟が沼から上がって大岩の上に座る姿を見ていた。
「祈りと願いはどう違う?」
「お、良い質問だね」
どこが、と蛟はクククっと笑いながら、どこから出したのか煙管を取り出す。火もつけてないのに、ふわりと紫の煙が出た。
「願いよりは祈りの方がもっと呪術的だなァ」
「呪術」
九尾の様子が、変わった事に蛟は気付かないふりをする。
「祈りは、呪術だ」
蛟が口から出す煙の流れを、九尾は目で追った。その様子を見て蛟は目を細めた。
「俺も、そう思う事にするよ」
「…?」
九尾は蛟を見つめた。
ゆらゆらと九本の尻尾は別々の動きをする。一陣の風がカエデの葉を揺らし、チラチラと葉が光るその下で、銀色の九尾狐はじっと蛟を見つめている。そこに縫い止めようとするかのように。
始めからそうなると決まっているか、祈る事でそうなったのか。
「こっちに」
蛟が九尾の方へ手を差し出した。
「来てくれ」
艶然といってもいい笑みを向けた。
九尾は水が苦手だった。蛟のいる場所まではそんなに距離はないが深さがありそうだ。足がつかない所は無理だと、頭では判っている。
それでも。
いつもは静かに揺れるだけの沼に水しぶきが散る。九尾は、沈んだ。もがいても水面はどんどん遠くなる。妖怪でも死を意識した。
水は蛟の領域だ。
妖怪は、領域というものが厳格に決まっているもので、水の妖怪は水辺から離れられないし、陸の妖怪は陸以外では能力が使えない。
九尾の水を吸って重くなった体を蛟は陸へと引き上げる。カエデの大きく広がった枝が覆い被さる岸。カエデの葉の間から陽光が射す。その下に仰向けで転がされた九尾は、逞しい胸を上下させて水を大量に吐いた。
蛟もその横に座った。長い尾は鱗で覆われていて、一枚一枚が光を反射してくっきりと見える。
「お前がずぶ濡れになったの、初めて見たわ~」
蛟は水に入っても濡れない。そういう能力を持っている。それが今は、青みがかった白い肌に濡れた黒髪を貼りつけて、着物は色を濃くして重そうに見える。
「お前に触ったからな。テメェ泳げねぇのに無茶するなァ」
蛟は寝転がっている九尾の濡れて貼りついた額の髪を払う。爪が長いから引っ掻かれそうと、九尾は身を竦ませる。
「あーあ、あんなお願いされたらさ…うぷっ」
また何か出そうになって九尾は口に手をあてた。
「願いじゃねーよ、テメェが俺の願いなんかきくか?」
「…きかないね」
「ほらな。俺もテメェの願いなんかきかねェから。同じだ」
水に濡れた蛟は、光る雫を身体のあちこちから零す。少し九尾の方に身体が傾いでいるので、雫は九尾の顔を打った。
「おなじだ」
蛟の零す雫と言葉を浴びながら、九尾は目を閉じた。
[了]