ヒトリジメ※作中出て来る端唄は明治以降のものです。
酔い醒ましというわけではなかったが、窓を全開にして窓枠に腰掛け三味線を爪弾いた。梅もまだ咲いていない季節だが今寒さはまったく感じない。なのに指がうまく動かない。そんなに飲んだ覚えはないけれど、酔いのせいかもしれない。
大座敷からはまだ盛り上がってる気配がした。賑やかなのは嫌いではないのに、急に一人ッキリになりたくなる。あの中に身を置くよりも、その音や声を遠くで聞きたい。
この見世の女将から借りた三味線を弾きながら、遠くでさんざめく音に耳をすませる。三味線は静寂の中に響かせるよりも、他に音がある方が合っている気がする。
誰かが宴会を抜けてきたようで、この部屋の襖を開閉する音がした。
チャチャンチャチャンチャンチャ…
「梅は咲いたか、桜はまだかいな…ってか?」
三味線の音に合わせて、銀時が囁くように唄った。誰かが…というよりは、どうせ銀時だろうと思った。振り返らなくてもすぐ後ろに立っているのが気配で分かる。プンと酒の匂いがした。
「撥で弾いてるのと、なんか違うな」
窓枠に手をかけて、銀時が外の様子を俺の頭上から窺っている。まるで別世界のように、この見世以外の建物は静かだった。
こんな時だからこそ等と言って坂本は女を集め、戦に参加している者を集め、たまにだけれど宴会を催す。次の戦場へ向かう前の滋養じゃと豪快に笑っていた坂本は気に入った気の強そうな娘に強引に言い寄って殴られていた。自分が見た感じでは娘の方も本気で嫌がっているようには見えなかったが、女はわからない。
女達と色恋の駆け引きめいたやり取りをするより戦の話をしている方がずっと気が楽だなんて、うっかり坂本には言えないなと溜息をついた。銀時のような揶揄いはしないが、そりゃイカンと言い出して何やら余計な気を回しそうだ。
チャンチャン…チャチャチャン…
「今度は何?」
銀時が俺の頭に唇を寄せてきた。また酒の匂いが鼻腔に触れた。一体どれだけ呑んだのだか。自分が座敷にいた時はまだ一滴も呑んでいなかったみたいなのに。
「酒呑めば」
ふふっと 銀時は吹いた。熱い息がかかる。その後は暫く三味線の音に耳を傾けているようだった。
弾き終わると静寂ではなく、遠くの騒めきが残る。座敷で時折上がる喚声や三味線や太鼓の音が、随分と遠い。
「俺もう抜けて湯屋行ってくるわ」
銀時の声がいやに低い。俺の項の髪を指先で掻き分ける。
「テメェもそれ返したら来れば。つーか誰も宿には帰ってこねェだろうし、ヤろうぜ。やりたい」
心臓が跳ね上がった。こんなふうに言われたらどう返すものなのだろうか。
いつもなんとなくそういう雰囲気になったらどちらともなく体を触っていたから具体的な言葉なんかお互いかけた事はない。言葉を発するのが無粋と思っているわけではなく、声を出したら、言葉にしたらもう後戻り出来ないような気がしたからだ。
「わかった」
声が震えているように聞こえなければいいんだが。なんせ鼓動で体が揺れている。戦での駆け引きを考えるのはいいが、こういう駆け引きは…不得手だ。
「…」
銀時は俺の髪をいじっていた手で背中に一瞬触れて、部屋をそのまま出ていった。銀時の掌は布越しでも熱かった。奴がいつもと違うと感じるのは酔い方のせいかもしれない。まるで素面の時と変わらない声音。でも何かが違う。
銀時が部屋を出た後に少し息を整えて、三味線を女将に返す為に部屋を出た。すると厠にでも行こうとしていたのか、坂本が廊下にいた。
「おぉ、高杉じゃなかか! 銀時はどうしたんじゃ、一緒かと思うとった」
「湯屋に行くってよ。俺もそろそろ宿に戻る」
「ほぉか、高杉もしこの後銀時と会うたら娘っこが謝っとったっていっちくれんか。詫びいれたいんじゃと」
「…?」
「あ、話聞いちょらんのか! 酌の時に新人の子が銀時に酒ぶっかけたんじゃ。ドジっこじゃのう、そういうのもわしぁ好きじゃが…。イヤ、あれは手管じゃろうなぁ…」
「……」
「ねぇ、聞いてる?」
「一滴も呑んでねェのか、恥ずかしい奴め」
「え、何? 高杉なんで顔赤…っ」
坂本が膝をついて、次には廊下に蹲る。
「ねぇ、なんでわし腹に拳いれられたの…?」
「今日の事は全部忘れろ」
「いや、鳩尾に一発入れて忘れさせるなんて話聞いた事ないけど…⁉ わしは…わしは忘れん…。女達のあの太腿の柔らかさ、尻の弾力…良い匂い…」
「端っからそれしか覚えてねェのかよ、悪いことしたな」
坂本に軽く謝罪をし、女将に三味線の礼を言い、湯屋に向かう。道々茶屋の庭を眺める。月明りと店から漏れる薄明りで庭の草木が浮かび上がる。梅もまだ咲いていない。桜なんてまだ先だ。今すぐ花影が見たい気分なのに。
銀時は俺が宴会を抜けてから少しは飲んだのかもしれないし、酒の匂いで酔う者もいると聞く。酔っていたんだろう。そういうことにしておこう。
ふと気付くと、前を歩く銀時の後姿が見えた。随分のろのろと歩いているから追い付いてしまった。どう声をかけるかは、まだ考えていない。
まるで待ち望んだ花影を前触れなく見つけてしまったような、心は踊るがどうしたらいいか判らない気持ち。
俺も。俺も酔っている。まだ咲いてもいない花に。
少しだけ、歩く速度を上げた。
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今日はまだ一滴も呑んでいない。と、いうのも先日の二日酔いがあまりにも酷かったので、ちょっとだけ呑むのが怖くなった。まぁ、もう少し時間が経てばすっかり忘れて呑んでしまうだろうなと思う。今日くらいは休肝日って事でいいだろう。
それで取り敢えず飯は食っておこうと箸をとると、小柄で明らかに新人のような妓が、足がもつれたようで俺にお銚子の酒をぶっかけてきた。坂本の奴は「豪快な酌じゃのう」と言って大笑いしていた。怒る程のことではないから、平身低頭の娘を宥めつつ、借りた手拭いで大雑把に拭いた。
呑んでもいないのに、酒臭い。アイツ、この様を見て何も言う事はねェのかと座敷の中を見回すと、高杉の奴は既に席にはいなかった。遠くで三味線の音がしていたが、きっと奴だろう。また別の部屋で一人黄昏てるのか、どうせチュウニみたいな事考えてるんだろ、そう言ってやりたくて奴がいる部屋を探す。
音がする部屋の襖を開ける。誰かが来たことくらい気付いただろうに、高杉は振り返らなかった。静かに襖を閉めて、窓の枠に腰掛けて外を眺めながら三味線を弾く高杉の側まで足音たてずに近付く。後ろに立って子供の頃から見慣れた丸い後頭部を見下ろす。
端唄だったら多少は知っている曲がある。でもどれも似たように聞こえてしまって、唄ってくれるかしないと自分にはわからない。音楽なんてものには疎くて、CMの曲を口ずさむくらいしか…いや、歌詞もろくに覚えて無くて鼻歌になるから、これは鼻ずさむというべきだろう。そんな言葉ないけど。
高杉が聞き覚えのある曲を弾き出す。
「梅は咲いたか、桜はまだかいな…ってか?」
高杉の頭がゆらりと動く。頷いたのかもしれない。
「撥で弾いたのと、なんか違うな」
それともこの雰囲気の中で聞くからだろうか。高杉が背を預けている木枠に手をかけて外を見た。冷たい空気が酒がかかって濡れたところから熱を奪っていく。酒の匂いの濃度が濃くなったような錯覚がする。空を見上げると下弦の月がぼんやりと浮かんでいる。静かな夜、遠い喧噪。
曲が変わった。聞いた事がない曲に。
「今度は何?」
髪の匂いを嗅ぐように顔を高杉の頭に近付ける。酒は呑んでいたようだが高杉からはあまり酒の匂いがしない。自分の方が酒臭いことに気付く。
「酒呑めば」
思わず吹いた。俺の事を酔っ払いかなにかと思って嫌みで弾いてるんだろうか。酔っ払いだと思わせておいた方が良いかもしれない、と思った。
珍しく着崩れしていて高杉の首がよく見えた。高杉の項は黒髪との対照で真っ白に見えた。かかる髪を払う。好きなように弄ぶ。不思議な事に高杉は二人だけになると割と好きなように触らせてくれる。自分も不思議な物で、高杉が触れて来る時は好きなように触らせてしまう。
この曲は知らないけれど、「梅は咲いたか」は少しだけ知ってる。確か花や貝が歌詞に入っていた。吉原の女の事を唄っていると聞く。
先日、よく利用している湯屋の裏の梅の木に蕾がついていたのをみつけた。これがヅラや坂本だったら、皆で見に行こうと言うかもしれない。良い物や美しいものは、皆に知られて大勢に愛された方がいいというのもなんとなく判るのだが。意地は悪いかもしれないが、俺は見つけた花は一人で愛でる。
芽吹きや蕾を見てしまったら、尚更だ。
[了]