黄泉津比良坂 【序】
最後に其の妹伊耶那美命
身自ら追ひ来ましき。
爾に千引石を其の黄泉比良坂に引き塞へて
其の石を中に置きて
おのもおのも対き立たして
事戸を渡す時に
伊耶那美命言りたまはく
「愛しき我がなせの命
かく為たまはば
汝の国の人草
一日に千頭を絞り殺さむ」
とのりたまひき。
爾に伊耶那岐命言りたまはく
「愛しき我がなに妹の命
汝然為たまはば
吾は一日に千五百の産屋を立てむ」
とのりたまいひき。
[古事記 より]
聞き覚えのある声が自分を呼ぶ。
暗い道を、只管歩く。
あれは迎えに来た夫か、それとも夫を追う妻の声か。
妻恋しさに黄泉まで追ってきた夫の執着か。
変わりはてた妻の姿に恐れをなした夫に対する妻の恨み言か。
情念のぶつかり合いが、声となって暗い道を駆け抜ける。
何かに追われているような、追っているような焦り。
そして声が遠ざかり、暗いだけだった景色がぼんやりと明るくなる。
夢現に。
意識は暗と明を繰り返し、
そんな中で、奴の夢を見た。
奴は、笑っているような、泣いているような、
顔を、していた。
お前がもし隣にいれば。
側にいれば。
そうなる事を望んでいれば。
もっと強く、強く、強く。
弱さが全てを奪っていくのなら。
強く。
目が醒めても忘れないように。
魂に刻み込むように。
【現】
松陽が「師」であったから
だから決めた。
これが、全てを護る道だと。これ以外はないと。
うつ伏せに放られていた桂の縄を解いた。桂は小さな声で「スマン」と言ったような気がする。そして今まで見た事がないような、複雑な表情で仰向けで倒れている高杉の方をジッと見つめる。
高杉は放心したように、空を見つめていた。左目からは夥しい出血がある。
編み笠共はまるで俺達の姿等見えないかのように、全てが終わると松陽の身体を回収して去っていった。「殺す価値も無い」と言って。
高杉の側に近付く。高杉はまるで全ての感覚を失ったように、ただ一点を見つめている。桂がいつの間にか高杉の側にしゃがみ込み、縄に手をかけようしている。自分も高杉の側に膝をつく。傷の様子を見ようと屈み込むと、突然、頭突きするつもりかと問いたくなる勢いで高杉が上半身を起こす。自分が少し身を引いた事で、高杉の額が鈍い音を立てて自分の胸元に当たった。桂が驚いて俺の顔を見つめている。そして困ったようにも悲しそうにも見える表情で目をそらす。
高杉は額を強く押し当ててくるだけだ。
どうせだったら、何か言え。
あぁ、でも。
向こうも同じ事を考えている。
何の根拠もなく、そう思った。
行き場の無いこの手を、どうすればいい?
誰にも問えない疑問が、頭の中に霧散していった。
【伊耶那美命】
血の匂いがした。意識が覚醒する毎に潰れた左目の痛みが増す。ドクンドクンと脈打つ。残った右目を薄ら開ける。
…もう、こんな動作すら億劫で。
それなのに。
ヤツの寝顔が、今日初めて右目に映ったもの。そう思っただけで、安堵して身体が軽くなる。
何もかも滅茶苦茶になって、俺達の世界は終わったというのに。安堵を覚える自分に怒りが湧いた。ふとある国の神は全て破壊しつくしてから再生させるという話を思い出す。
では、この国の神は?
イザナミは夫のイザナギに宣言する。貴方の国の人を一日千人殺すと。対するイザナギはそれなら自分は千五百の産屋を建てると言った。夫婦は死と生の神として役割を分かつ。それまではともに国を産み、神を産んだというのに。
「ふっ…」
何故こんな事を考えるのか、自分でも判らない。神代の夫婦の話なんぞ、今は関係ない。俺たちは国を産みたいわけじゃなかった。唯一つ、大事なものを取り戻したいだけだった。
ゆっくり、静かに体を起こす。強く縛られていた痕が体に残っていた。恐らく、桂にもこの痕は残っているだろう。アイツは、何も言わなかった。ずっと何も言わなかった。それが、酷く悔しい。
今隣で眠っているコイツ、銀時も何も言わない。
昨夜自分が何を口走ったかはオボロゲで。
殺して欲しい。
そんな事を言ったかもしれない。昨夜は本気で考えていた。お前の手で終わらせてほしいと。銀時は静かに泣きそうに笑っていた。いつもの憎まれ口はどうした。口から先に産まれてきたお前は何処に行った。
それとも、殺す事も憚るような取るに足らない命なのか、俺は。
ゆっくり、静かに体を起こす。
銀時を起こさないように。
身体を拭かなければと思うが、そのままにする。適当な着物を手繰り寄せる。一枚あれば十分だろう。
のろのろと身支度を済ませると、体に違和感を感じた。銀時の出した体液が、体の中を伝ってくる。一瞬迷ったが、伝うに任せることにした。障子に手をかけると、目の端で奴の手が、わずかに動くのをとらえた。
「・・・」
音にならない声が出た。銀時には聞こえなかっただろうな。
左目は未だ脈動が止まず。
そのまま、振り返らずに現世に身を投じる事にした。
【夜の夢】
高杉の身体は熱かった。
怪我をしているのだから当然と言えば当然なのだが。
高杉は自分の傷に抉るように触れる。そこに憎い敵がいるのだと言うように。
晒には血が滲む。また傷口が開いた。
立ち昇る、情動。
渦が、火焔のような渦が巻き上がったように見える。
なんでこんなにも、薄気味悪く感じる位に高杉の感情が自分の中に流れ込んでくるのか。肉体が繋がっているからという、単純な事じゃない何か。
高杉の中にも、自分の感情が流れ込んでいるのかもしれない。
立ち昇る焔が二人のものだとしたら。
自分は納得してあの道を選んだつもりだった。その筈なのに。
俺は、自覚もせずに怒りを感じているというのか?
大昔の人の思想ではあの世とこの世の境界が曖昧で妻恋し逢いたしで黄泉まで行った男の話が残っている事を思い出した。曖昧な境界にはっきりとした壁が作られる話。
境界は曖昧なのに、隔てられた壁がある。今の俺達が、そうなんじゃないかと。
高杉が目を覚ましたら、話してみようか。腹を割って話すかって。鼻で笑われるかもしれない。高杉はなんで夫婦の話持ち出すんだとか怒りそうだ。そこは重要じゃないから省いていいだろう。
死ぬなって言っても通じないヤツだから、どんな言葉を使えばいいか皆目見当つかねぇけど。
【事戸渡し】
目が覚める。夜明け前だろうか。まだ暗い。まだ自分の隣には熱が残っていた。熱を残した主は、こちらに背を向けて静かに佇んでいた。奴が障子を音もなく開くと、冷えた空気が流れてくる。
静謐な世界に、足を踏み出す。
火焔は熾火となり、黒く世界を燻す。高杉が自らも焦がしながら歩く姿が見えた気がして手を伸ばす。
「…」
音を伴わない、声が出る。
奴は振り返らないまま、静かに薄ぼんやりと光る障子を閉めた。
[了]