唇譜ジリリリリリリ!
それ程広くはない事務所の中に黒電話の音が鳴り響いた。商売を始めてから大分時は経つが、物が増えないせいか部屋の中の音がやたら反響する。
窓際の社長の椅子に深々と腰掛け、煙管の煙をくゆらせながら煩そうに電話を見つめる男。黒髪で左目は意味深に包帯で隠されている。今は他に誰も電話を取る者がいない。もう業務時間ではないからだ。いかにも仕方ないといった緩慢な動きで受話器を取った。
「はい、万事屋」
受話器の向こうから聞こえてきたのは、知っている声だった。声の主は用件だけを短く伝えて切ってしまった。
場末も場末といった感じのホテル街に、黒髪隻眼の男は立っていた。万事屋を営む彼は高杉晋助という。万事屋とは、所謂なんでも屋である。依頼があれば大抵のことは何でもやる。だが…
晋助は先程の電話の相手が指定したホテルを探していた。やがてそれらしい看板を掲げるホテル…というか、連れ込み宿を見つけ、受け付けに座っている人物を一瞥する。一見、男か女か判らなかった。派手な女物の着物を纏って化粧をしていたので女だと思ったのだが、三階まで行く事と部屋番号を口頭でだるそうに伝える声は男の声だった。
客は他にいないらしい。古い建物で、おかしな増築が施されていた。斜めの壁や床のせいで廊下を歩いてるだけで浮遊感が漂う。そして受付の人物の着物の柄そのものと言ってもいいような、派手な壁紙や装飾。
三階まで階段で上がり、部屋番号を確認する。一番奥の部屋でドアは派手な紫だった。一応、ノックをする。
「はいはい」
声がしてから少しして、ドアが中側に開き、白髪頭の男の顔がぬっと出てきた。不健康そうな白い肌と、晋助の着物とそっくりの白い着物。唐草模様の黒い羽織を肩からかけている。口元は笑っているが、目が笑っていない。一目でカタギではないのがわかる。中に入れとばかりにその男はドアを開いたままで奥へと入っていくが、晋助は入り口に突っ立ったままで男の後姿を見つめていた。
「入れば」
白髪頭の男はそう言って訝し気に突っ立ったままの晋助を見つめた。
「…なんのつもりだ?」
晋助は乾いた唇を舐めて、それだけ言った。
「なんのつもりって何」
ゆったりと腕を組んで男が高杉の目の前まで戻ってくる。動作は柔らかいのに威圧感がある。あの頃と、十年前と変わっていない。寧ろ年をとった分増したようだ。しかし晋助はそれには怯むことなく、怒りを滲ませず淡々と伝える。困った客の対応も仕事の内だからだ。
「ウチはな、デリヘルはやってねェんだよ。悪戯電話してくんな」
「えぇ、やってないの?」
先程の電話ではこの男、万事屋の社員である木島また子を指名してきたのだ。そのくせ現れたのが晋助だった事に文句を言うでもないから悪戯以外の何物でもない。
「白々しい…。 テメェのシモの世話以外だったら相談次第でなんでも引き受けるよ、お客様」
そう言って晋助が踵を返すと、突然強い力で手首を掴まれて、部屋の中に引き摺り込まれた。
「いっ…!」
晋助は痛いと言いかけたが、それを飲み込む。カチリという鍵を掛ける金属音がいやに耳に響いて鳥肌がたった。お互い息がかかる程の至近距離で向かい合う。晋助は相手の方が背が高い事もあったのだが、目を見る事が出来ずに唇を見つめた。目を見てはいけない気がしていた。
「銀時」
男の名前を呼ぶ。まるで何かを哀願する響き。晋助が見つめる銀時の唇が、くっと弓の形になる。
「高杉」
先程までの威圧的な雰囲気は薄れ、笑みの形の唇が優しい声音でそう呼んだ。
紅梅の色、そして厚ぼったい唇。晋助が好きだった坂田銀時の一部。
[了]