爪紅 赤い爪紅が、親指と人差し指と、小指に塗られていて。その指が煙管に添えられ、口元にいくのを不思議な感覚で見ていました。
以前出会った時。ほんの一瞬でしたが、出会った時よりももっと髪は伸びて肩についています。前髪も長く、左の顔は殆ど隠れてしまっているというのに、鬱陶しそうにする事も無いのでだらしないという印象はありません。
髪の間から覗く黒い右目と赤い唇は煽情的ですらありました。男の僕から見ても。
肌は以前見た時よりも色が抜けてしまっていて、銀さんよりも白くなってしまったんじゃないかと思いました。
「少し、太陽に当たった方がいいかもしれませんね。陰鬱な気分になっちゃいますよ」
沈黙に耐えられず、つまらない事を言ってしまった。肌を舐めるように見ていた事に気付かれたかもしれないとビクビクしつつ。
「あぁ、気遣い痛み入るよ」
低くてよく通る声。
部屋の隅には本が積み重なっている。一日中、これを読んでいるのだろうか?
そして部屋には女性の匂いもあった。もしかして女の人を呼ぶ事もあるのだろうか。
さっきここまで案内してくれた女の子は十二歳前後といったところで、こんな匂いはしなかったからそうなんだろう。
そしてこの人自身が、大輪の赤い花の着物をひっかけている。それがまた似合っているからつい見つめてしまう。一体何処から調達してくるのだろうか。
「古着」
着物を見つめていた事に気付かれていたようで、一言そう呟かれた。心の中の疑問に答えるように。
話を聞けば、彼も武家の長男であるという。なのに古着を、しかも女物を着る事になんの抵抗もないのだろうか?
自分も裕福ではないけれど侍の子で、誂えた一着を大事に着る事は教えられたが、古着を着た事はあまりない。着る物に頓着しないのは何でも似合ってしまうからなのかもしれない。
本題に入らねば。ここの空気はいけない。煙草を子供の前で遠慮なく吸う大人がいる事じゃなく。
「あの、これ御裾分けです。お登勢さん…大家さんなんですけど、お店やってて。お客さんが箱で沢山くれたそうなので。桃、お嫌いじゃなければ」
そう言って、風呂敷包みを差し出す。
「あぁ、悪ィな、有難う」
そう言って目の前の男は立膝で座りながら、煙草を吸っては吐いてする。何か言いたげにも感じたが、それきり黙ってしまったので、こちらから切り出す。
「それでは、そろそろお暇します」
「こんな遠い所まで遣い、お疲れさん」
立ち上がって開きっぱなし(彼がそのままでいいと言ったので)の障子に手をかける。振り返ると、彼は少し笑んでいた。
煙が雲上にいるかと錯覚させるようにたなびいていた。重い煙草の匂いは僕の存在を拒絶していて、ここにいてはいけないと思わせるのに充分だった。
「あの、銀さん…。数日張り込みの仕事があって、今日も来られないかもしれないって」
語尾が濁ってしまった。桃なんて唯の口実。これを伝えるためだけに、僕はここへきた。二人が何の連絡手段も持ってない事に驚いた。でも仕方ないと思った。ここにそんなものは必要ない。
高杉さんは、返事の代わりとでもいうように、煙を吹き出して、笑った。
ふと、鏡台の上にある爪紅の壜が目に入った。あれは数日前に姉上がスマイルの同僚の女の子からもらってきたものではないだろうか。でも姉上は爪紅自体が趣味じゃないからというので、それを僕は神楽ちゃんへ渡した。神楽ちゃんはいつもだったら選びそうなその色を選ばず、銀さんに月詠さんにあげたらどうだと渡した。
それが、そこにある。
同じものではないのか、照れて月詠さんに渡せなかったのか、或は。
もうとっくに、虫だって眠りについている時間。引き戸を開けて、真っ暗な廊下を歩く。廊下はやたら軋む。欠け始めているが、月はまだ円を描いていて明るい。うすぼんやりと物の形を浮かび上がらせるには充分なあかりだ。
アイツの部屋の前までくる。ノック等というものはした事がない。声もかけない。ゆっくりと障子を開ける。
部屋の中は暗かったが、目が慣れてくると、頭の中に記憶してある部屋の記憶と同じ情景があらわれる。床が敷かれ、掛布もかけずに横になっている者が目に入る。
どっかと布団の横に座った。
横になっていた人物は、ゆっくりと、ぎこちなく起き上った。左腕が欠けてしまったためだ。
「起こした?」
声をかけると、起き上った人物…高杉は右手で部屋の隅の行灯をさした。点けろと言いたいらしい。行灯と言っても、源外の爺さんが作ったものだからスイッチ一つでつくのだが。
「いいじゃん、どうせすぐ寝るし」
そう言うと高杉は溜息をついた。溜息というか、唯の呼吸のようなささやかなもの。そして右手の甲をこちらにむけた。
「落とすやつは」
除光液の事だ。高杉の右手の親指と人差し指と小指には赤い爪紅が塗ってある。高杉はそれを落としたいのだ。
「店しまってたから明日」
暗いのに、高杉がどういう表情をしたか判った。高杉は脱力したような再びごろんと布団の上に転がる。
「だったら何しに来たんだよ…」
ごもっとも。ちょっとだけ悪い事をしたと思いつつ、高杉の足を撫でさする。
「今日お前ンところの小僧が使いに」
「うんうん、桃美味かった?」
「…美味かったよ」
別にはぐらかすつもりはないのだが、そんな感じのやりとりになってしまう。
「おなみちゃんはいつ帰った?」
おなみちゃんは昼間だけ通ってくれて高杉のメンドウを見てもらっている、近所の農家の子だ。十二歳。お客の応対やら食事やら洗濯やら掃除やらを、小さい身体でテキパキとこなしてくれる。因みに、おなみちゃんには高杉という名前は教えて無くて、「シンさん」と呼ばせている。
「いつもの時間にはな。もう明るくても物騒な世の中だ、これからは面倒見なくていいって言っといてくれ」
「あれ、なみちゃん欲しいかな」
鏡台の上にある爪紅の事だ。何故鏡台なんかがあるのかというと、元々芸者が旦那に買ってもらった家だからだ。女の気配があちこちにある。
「こんな色、あの年頃の娘に合うかねェ…?」
高杉は自分の爪に塗られた色をマジマジと見つめた。暗くてもなんとなく赤くて光沢があるのが見える。
「お前ンところのあの嬢ちゃんだって合わなかったんだろ」
神楽は好きな色だったかもしれない。でも神楽は月詠に持って行ってやれと渡してきた。それがここにある。意味なんて特にない。あったのかもしれないが、それはこいつの爪に紅を挿した途端に霧散した。これはこうするために、高杉の爪を彩るために俺の所にきたんだと思った。
身体を散々繋いだ後に、高杉が気絶したように眠っている間にやった悪戯。匂いのせいか、途中で起きてしまったから全部塗れなかったけれど。
激しく怒りはしなかったが、静かに不快感を露わにしていたのが可笑しかった。高杉は俺が楽しそうにすると不機嫌になっていく。
それは当然だろう。
コイツの性格だったら、こんな籠の鳥のような状態をよしとはしない。いくら怪我をしていて一人キリでは生活が困難だと言っても。
何も言わないのは、きっとコイツが自らに罰を科したから。俺と一緒にいるというのは高杉にとっては罰なのかもしれない。
だったらもっと苦しめばいい。この二人だけの空間で。俺だけがコイツを苦しめていいのだし、コイツは俺だけしか見ていない。
「銀時」
高杉がそっと呼ぶ。
「怖ェ目で見るじゃねェか」
ククッと喉の奥で笑う。
俺の願望が、その表情を苦し気なものに見せる。
[了]