光源 剣の腕、腕っぷしだけを競っていた時代があった。あの頃は勉学なんてそっちのけだったのではないだろうか。それも勿論大事ではあったが、単純な力の強さの方が重要だった時代が確かにあった。今自分達が生活している時代はあの頃とは変わった事が沢山ある。生活様式は勿論、価値観がガラリと変化した。あの時代を覚えている分、戸惑うこともある。
それでも全く変わらない気持ちもある。この男には負けられないと競い合う。二人があの頃の二人と全く同じじゃなくても。
「しんだらどうなるの?」
そう患者に聞かれたことがあった。この職業を選びはしたが、死後の事はあまり考えた事がない。死後に魂が辿り着く世界というのは本当にあるのだろうか。輪廻転生といって今の自分のように何者かに生まれ変わるかもしれないし、今生一度きりかもしれない。生まれ変わっても、もっと過酷で悲惨な運命が待っている可能性もある。
いや、これ以上に過酷で悲惨な状況などあるのだろうかと、やせ細って細い血管ばかりが見える白い腕を見つめた。
昼間の喧騒が嘘のように静まり返った深夜の大学病院。冷蔵ケースの食品を冷やす音だけが響く院内の二十四時間営業のコンビニで夜食を買った。コンビニの前にある自販機にふと目をやると、新しい自販機がいくつか増えていて、「アレ」がバラ売りされているのが目に入る。紺の上衣のポケットからさっき突っ込んだ釣銭を取り出してコイン投入口に押し込んだ。
午前二時をまわったところで、当然だが外来は真っ暗で非常口誘導灯だけが廊下の一部を照らしている。脳神経外科の外来の真っ暗な廊下を通り抜けると、コンクリに緑色のペンキが塗られた緩い下り坂になる。ここから急に建物が古くなっている。この棟は老朽化が進み、ほぼ今は使われていない。ここは古い大学病院で建物が戦前のままほぼ残されている。矢鱈天井が高く白い壁に緑色のドアなどのアクセントが入っていて、配色からして古めかしい印象がある。窓ガラスも一昔前どころのものではなく、隙間風が吹く度に高い音でガタガタ鳴っていた。
この病院に勤める坂田銀時は、この建物の雰囲気を気に入っていた。耐震性が気になるという点を除けばの話ではあったが、なんだか秘密の場所のような雰囲気が好きだった。
旧正面玄関が今は病棟の患者や家族の宅配便の受け取り所になっており、警備員の常駐する部屋もあるため、この棟の一階廊下だけはほぼ二十四時間ぼんやりした灯りが点っている。
右手側にあるカンファレンスルームの、ドアについている磨りガラスに違和感を覚えた。中は真っ暗なはずなのだが、真っ暗な中に光が一点。スマホではなく、もっと大きいノートパソコンあたりだろうかと坂田はドアをノックし、間髪入れずに開けた。部屋には窓がなくて、向かいの棟の灯りや中庭の常夜灯すら見えず真っ暗なのだが、部屋の中に光源があるおかげでなんとか中に何があるのか確認出来た。長机が四角を作るように並べられている。坂田は誰が中にいるか予想はしていた。そして予想通りの人物、高杉晋助が並べられた長机の隅の方に、こちらを向いて座っていた。顔色が悪く見えるのはノートパソコンの光が青白いからだけではなさそうだ。
「あ、やっぱりまだいた」
思わずポロっと呟いた。
「…やっぱりってなんだ」
いつもの、張りのある声はいくらか萎んでいるように聞こえた。
「今日ICUで」
「あぁ…」
日付が変わるころICUに入院していた七歳男児の症状が悪化し、亡くなったそうだ。小児科医ではあったが坂田は担当ではなかったため男児とは面識がない。坂田は血液が専門で、内臓の疾患と脳の疾患を持つその男児はそちらの専門の医師が診ていた。
高杉は小児科医ではないが脳神経外科の医師であり、今回の男児はV-Pシャント手術を乳児の頃に施されている。V-Pシャント手術とは頭に水が溜まる症状(水頭症)の患者に施される。定期的に経過観察を行う必要があるので、男児の顔を良く知っていただろうし気にもかけていただろう。以前、診察に来た男児が高杉先生と自分の事を呼んだと言っていた時があった。まさかちゃんと名前を覚えているとは思わなかったそうだ。
男児は内臓にも重度の疾患を抱えていたため、今回はそれが悪化して長期入院していたと聞いている。
「てめェはこんな時間まで何してた、移植でもあったのか」
「いや…、それはないけど」
移植があると、坂田は家に帰ることが難しくなる。昨日は少し発熱している患者がいたが、熱は下がったようなので今日は帰って休むつもりだった。ここ数週間は担当しているどの患者の症状も落ち着いていた。
「……」
高杉は頬杖をついて黙り込んだ。一体さっきから何を熱心に見ているのかと、坂田はぐるりと並んだ長机に沿って歩いた。さっき買った夜食が入ったコンビニの袋がガサガサいう音だけが異様に響く。高杉の横に立ってノートパソコンを覗きこむと、パスワード入力画面だった。坂田が入ってきたから再起動したのか、それともずっとこの画面を眺めていたのかは判らない。だがもし後者だったとしたら。想像すると苦い物が口の中に広がっていくようだった。坂田は斜め上から高杉の様子を観察した。高杉は臙脂のスクラブの上に白い診察衣を羽織っていたが、膨張して見えるどころかとても痩せたように坂田には見えた。もしかして男児が入院した時から気にしていたのかもしれない。
今抱きしめたりしたら。
怒るか何も言わないか、どっちかだなと想像した。抱き締めるのはやめておこうと、上げかけた手を下げた。今やらないでいつやるのかと思わなくもなかったが。暫しの沈黙が、光源がパソコンだけの部屋におりてきた。
高杉がパイプ椅子を軋ませて立ち上がる。坂田の真正面に立ち、じっと坂田を見上げて両腕を坂田の脇から通して背中に回し抱き締めてきた。これは想像していなかったので坂田は一瞬固まったが、ガサゴソとビニール袋の音を鳴らして自分も高杉を抱きしめ返した。背中に弁当が当たって痛いだろうなと思いながら。
「いてェな、背中」
高杉の吐息が坂田の鎖骨に当たる。
「どうしたの、急に」
二人は付き合ってるわけではないが、体の関係だけはあった。 高校の頃までは、勉強やスポーツで競い合うだけの関係だったのに、大学の頃になんとなくそういう雰囲気になり、なんとなく続いているはっきりしない関係になってしまった。医療関係者の中にはアブノーマルなプレイを好む者もいたりするらしいが、坂田も高杉もお互いそういう趣味があってそういう性癖が一致したから関係を続けているわけではなかった。必ずセックスするわけでもなく、家で映画やテレビを見ながらゴロゴロして過ごす日もあったし、たまには二人で出掛けたりもした。ただ意味もなく抱き合って眠る日もあった。坂田は高杉がどういうつもりで関係を続けているのか、聞いた事はない。自分も話した事はない。少なくとも坂田は一緒にいたいと思っていたが、それはわざわざ言う事ではないと思っていた。…言いたくなかった。
坂田は、前世というべきなのか、自分が今の自分になる前を覚えていた。そしてその時代に共に生きていた者達…高杉の事も覚えていた。高杉にも同じように記憶があるかどうか確かめたことはない。もしかしたら自分の唯の妄想なのかもしれなくて、誰にも言わなかったし確かめる術もなかった。
あの頃はお互いにそれぞれ大事なものを抱えていて、それを捨ててまでお互いを選ぶことはしなかった。あの時選ばなかったことを後悔してるから、今は側にいたいという気持ちなのかは判らない。もしこの記憶が無かったら、自分は一体どうしていただろうと考えたこともあった。全く別々の人間関係を築き、顔すら合わせず、高杉が存在することすら知らない人生があるのかもしれない。しかし高杉が自分の人生の中にいないことなどは全く想像できなかった。坂田はもう既に高杉を知っているのだから。昔からずっと知ってるのだから。
「急じゃねぇよ」
「へ?」
「急じゃない」
「あ~…何、俺の心読んだの? エスパーなの? じゃあ、これは?」
坂田は、高杉の背後でゴソゴソと手を動かす。ビニール袋のガサガサという音。
「これ、あの子とお前の」
坂田の手には薄ピンク色の容器が二つ。ヤクルコだった。
「二人共、お疲れさん」
高杉が体を離してヤクルコを受け取った。少し驚いた顔で
「あったかい…」
と呟いた顔は年齢よりずっと若く見えて、坂田は高杉をあらためて可愛いと思った。
「ワリ、温めてもらった弁当と一緒にしたから」
高杉が、下を向いてふっと笑った。そして小さい声で何か囁いたが、それは坂田にはよく聞こえなかった。
高杉が抱き締めてきてくれて良かった。あのまま止めて、後悔するかもしれない事を今思い立った。高杉に関しては、やって後悔することよりやらないで後悔する方が自分にとっては辛い。高杉に前世の記憶などなくても良い。寧ろ自分のこの記憶が自分の妄想であればいい。今は今だ。今目の前のものを、必死になって繋ぎ止めよう。
なんの因果もなく、高杉は自分になんとなくでも身体を預けてくれたのかもしれない。そう思うと坂田は無性に嬉しかった。
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タスタスタス
微かに、誰かが廊下を歩くような音がした。パソコンの電源を入れた。真っ暗闇だった部屋が僅かに明るくなった。暗闇にいたせいで、眩しく感じる。窓が無い暗い部屋で、パソコンの灯りだけが生きているのを示しているように白くなったり青くなったりしている。コンコンというノックの音が部屋に響いて、ガチャリと無遠慮に扉が開く。廊下の淡い灯りが真っ暗な部屋の中に流れ込む。
「あ、やっぱりまだいた」
聞き覚えのある声が、ホッとしたように聞こえる声音でそう言いながら扉を閉めた。古い木のドアの、乾いた音。
「やっぱりってなんだ」
銀時には何も話していない。二人きりの時は仕事の話はあまりしない。だが、銀時はあの事を知っているんだろうなと感じた。乳児の頃から病状を診てきた男児の死。
自分でも不思議だが、この子の事は少しだけ銀時に話した事があった。男児には知的な発達の遅れがあるにも関わらず、半年に一~二回会う程度の自分の顔と名前を覚えていたのが素直に嬉しくてつい銀時に話してしまった。
こういう仕事だから死に触れる事は多いが、慣れはしない。気持ちがどこまでも沈むというのはこういうことだろう。
「今日ICUで」
「あぁ…」
矢張りそうだった。心配するという柄ではないだろうに、俺の気分が沈んでいるとこの男は何故かいつも近くにいるような気がした。これが自分の役割だとでも思っているんだろうか。俺の事より自分の事だろうと言いたくなったが止めておいた。銀時は物事に折り合いをつけるだけでずっと一人で抱え込むのではないかと、銀時が時々見せる暗い目を見て感じていた。良い事があった時に側にいればいいのに、そういう時は大抵近くにいない。どうせ分け合うなら良い事を。一人で哀しみを抱えられない程自分は弱くない。お前まで俺の苦悩を抱えることはないのに。
小学生の頃から銀時とは勉強やスポーツで張り合うことは多かった。そのせいか、いつも節目節目の時に銀時が側にいた記憶ばかりだ。ムカついた事も多かったがそれ以上に楽しい事も多い。幼馴染であり、親友と呼んでいいなら親友だろう。今はそう言ってもいいのか判らない関係になりつつあるけれど。
大学生の頃に遊びでセックスをして以来、今もその関係が続いている。でも恋人ではない。恋人とは、お互いに好きであることを確かめ合った者達のことで、自分達は明らかにそうではない気がした。何か、古い言い回しだけれど糸のようなもので繋がっている感覚はあるが、それがどんな種類のものなのか判然としない。気が付いたらずっと側にいて、身体を重ねる事もあまりにも自然で何の疑問もわかない。もっと葛藤があってもいいのではないかと思う。なんせ男同士なのだから。自分はゲイなのかもしれないと思いもしたが、他の男に心惹かれることがないから、増々判らなくなるだけだった。
ちらりと横目で銀時の姿を確認する。まだスクラブを着ている。下はジーンズのようだ。
「てめェはこんな時間まで何してた、移植でもあったのか」
「いや…、それはないけど」
「……」
こいつはこういう時あまり嘘は付かない。ぐるりと四角に配置された長机を回ってきた銀時が、俺のパソコンを覗き込む。沈黙の後、ふわりと後ろから抱き締められたような錯覚がした。まるで銀時の気持ちが流れ込んできたように。それとも、俺こそあの子にこうしてやりたかったのではないかと、そう思った。思い立っても出来たかどうかは判らない。こんな仏頂面の医者にそんな事をされても怯えさせるだけかもしれない。
パイプ椅子を軽く蹴って立ち上がり、銀時の真正面に立つ。パソコンの光だけでも表情まで細かく見える。銀時の目を見つめながら、背中に腕を回して抱き締めた。医者は体力勝負だということでお互いそれなりに鍛えているけれど、銀時は鍛えすぎだと思う。腕ごと抱き締めようとすると腕が回りきらない。あの小さい身体とは全然違う。それでも、そっと子供にするように脇の下から手を差し込んで抱き締めた。銀時も持っているビニール袋をガサガサいわせながら背中に腕を回してくる。背中に角があるものがガンガン当たった。
「いてェな、背中」
「どうしたの、急に」
急じゃない、ずっとこうしたかった。俺だってお前を受け止められると。
「急じゃねぇよ」
「へ?」
「急じゃない」
「あ~…何、俺の心読んだの? エスパーなの? じゃあ、これは?」
背中で何かゴソゴソとやってると思ったら、ふっと銀時は身体を離し、俺の目の前に見覚えのある形をした桃色の容器を二つ出した。ヤクルコだった。
「二人共、お疲れさん」
そう言って銀時が手渡してきたヤクルコを受け取る。てっきり冷たいのかと思っていたら、予想に反して暖かかった。
「あったかい…」
思わずそう呟いてしまった。そうは言っても人肌程でもないが。
「ワリ、温めてもらった弁当と一緒にしたから」
背中に当たったのは弁当だったようだ。ヤクルコを買いにコンビニ行ったら売り切れてて、何も買わずに出るのは気まずくて弁当だけ買って出てきたんだなと予想した。新しくヤクルコの自販機が入ったと聞いたような気がする。コンビニを出てから気付いてそこで買ったんだろう。二人共ってのは、あの子と俺か。俺は何もしてやれなかったのに。V-Pシャントは髄液を身体の別の所に流すものであり、内臓のトラブルがあればシャントにもトラブルが起きる可能性がある。だから俺も残って様子を見るのは当然のこと…こんな事を言っても銀時は序でだと言い張るだろうから面倒だし言わない事にした。表情が見えないよう、下を向く。行き場を失った呼吸が自然に漏れた。
「……」
聞こえていなければいい。思わず出てしまった礼の言葉なんて。たまにこういう言動をとるからこの男とは離れ難く感じてしまう。好きかどうかは判らない、憎たらしいと思う時の方が多い。なのに唯々手を離すのが惜しい。
自分の事だけ考えていたかった俺が、誰かが誰かの手を不本意に離す事がないようにと願うようになって、結果医者になった。
銀時はいつも周りに人が集まる男で、当人も何だかんだ文句言いながら人付き合いが良い。周りに愛されているし愛してもいる。
こいつがそれを失わないようにしたい。
[了]