何食わぬ顔でいて何食わぬ顔でいて
ボブ+バキ。TB*後。
やけに前方からの視線が痛いなと思った。じろじろ見られることには慣れているつもりだが、それは遠くからこっそりこちらを監視しているものに対して警戒心が強いという意味であって、今のように、真正面からの、しかも割と近い距離からの視線に刺されるのは滅多なことではなかった。
彼の──ボブの、どこか幼さを感じさせ、何を考えているのか分からない、くるんとした目がバッキーの手元をずっと見つめている。手元だ。顔じゃない。ハンバーガーとポテトを食べている両手。もうすぐ食べ終わるが、食べ終わってもこのままだったらどうしたらいいんだろう。ボブはまだ半分も食べていない。バッキーをじっと見ているから全然食べ進められないのだ。口は動いているが、よくよく考えてみると、ボブは特に何も食べていなくても口をモゴモゴとさせる癖があるので、もしかしたらハンバーガーもポテトも全く口に残っていないのかもしれなかった。ボブの口の中ってカエルでも住んでるの、と言ったのはエイヴァだったか。
そうこうしている内にバッキーの方は食べ終わってしまった。はぁ、と大袈裟に一息つきながら、ほとんど氷しか残っていないオレンジジュースにささったストローをくわえる。ずず、と空気が鳴る。わざと騒がしくしても、ボブの目線は変わらない。
「……」
もう限界だった。
「何か言いたいことがあるなら言ってくれ」
「バッキーの左腕ってどうやって動いてるの」
バッキーの「言ってくれ」から、コンマ一秒も経たず疑問はぶつけられた。ずっと聞きたかったんだろう。さっさと言えばいいのに。言いづらい雰囲気をこちらが醸し出していた可能性はあるが、それにしたってここまで見つめられると困る。
その気持ちをぶつけるのは今度にして一旦飲み込み、バッキーは質問について考えてみた。
「……詳しくは知らない。複雑な仕組みだ」
「マシンなんだよね」
「ああ」
「電気で動くの? バッテリーが入ってる?」
「電気……信号だと思う。電流が流れると不具合が出る。けどすぐ直る。バッテリーは入ってないと思う」
「電気信号……どこからがその……メタルでできてる? 肩? 外れたよね、たしか」
「肩の部分で着脱できる。皮膚との境はこの辺だ」
繋ぎ目を服の上から右手でなぞる。めちゃくちゃ聞いてくるな、と思った。こんなに聞かれたことなかった。
「あ、だいぶ……胸までというか、広範囲だね。じゃあ、くっつける時は大手術だったんだ……すごい、大変だったよね」
「……何が言いたいんだ」
ボブに悪気がないのは分かる。分かるが、ちょっと面倒臭いと思ってしまった。あまり根掘り葉掘り聞かれたって困る部分もあるし、純粋に疑問をぶつけ続けられるのも、疲れる。要点が欲しかった。着地点だ。この話はどこに向かうのか。万が一にも対応を疎かにしてボブの機嫌を損ねることは避けたいが、それはそれとして、ボブはもう少し、コミュニケーションを潤滑にする技術を身に着けていくべきだと思う。最近は本ばかり読んでいるようだが、そういった類のものは読んでいないのだろうか。そういえば、この前貸したキルケゴールの本は読破したんだろうか。
「……ごめん、不躾だった」
ボブは、はっと瞬きして、半分残ったハンバーガーを置き、唇を真一文字に引き結んだ。いつも猫背な背筋をすっと伸ばし、咳払いまでして改まる。
「僕が気になってるのは、その……。何て言えばいいんだろう、バッキーの……意思? 脳波? みたいなものは、腕に伝わってるのかな」
「思い通りに動いてるだろ」
「そうだよね。うん。えっと、僕は、ただ、バッキーの手なら握れるかもしれないって思って」
「は?」
お前、また俺の腕を熱暴走させてぶんどりたいのか。──と警戒したが、そうではなかった。ボブの真意は全然違うところにあった。
ボブの能力には未知の部分が多い。とてつもないエネルギーを秘めていて、単純に力が強いとか、空を飛べるとか、離れた場所にあるものを操作する力があることは既知の事実だ。しかし、精神的な面に影響する能力はまだ不確定な要素に満ちていて、ボブが己を律する術を完全に会得するまではこれらの調査を積極的に進めることができないでいる。
特に、バッキー達が入り込んだ、あの「トラウマ部屋」についてはその最たるものだと言えるだろう。エレーナやジョン、そしてボブ本人が話すには、ボブは迷宮に入った他人の部屋を眺めることが可能であり、ただその手に触れただけでもそれは起こるのだという。自分のトラウマを見せつけられて、その光景の中に、赤の他人のボブが突っ立っているのはなかなかの衝撃だった、とジョンは語る。バッキーが迷宮を彷徨った時には、ボブは既にエレーナと自分の部屋にいたおかげもあってか、バッキーのトラウマ部屋にボブが現れることはなかった。もし見られたら気まずかったかもな、と今でも考えてしまう。
そういう訳で、ボブは現在、他人との物理的な接触を避けているらしい。具体的にいうと、ボブの手と誰かの手が触れないようにしている。エレーナに肩をぽんと叩かれたり、それで振り返って彼女の人差し指がボブの頬を突くといったド定番の可愛らしいイタズラでの触れ合いは問題ないし、消火用のホースで背中合わせに縛って固定するのも構わない。一方で、手を繋いだり、手を引いて歩いたり、ハイタッチしたり、洗ったお皿をパスしたりといった動作は行わない。そうして、万が一にもお互いの精神世界が繋がることがないように気を付けているんだそうだ。
そこまで聞いてバッキーは思った。
「……消火用ホースで縛るって何のことだ?」
聞かずにいられなかった。意味が分からなすぎて、スラングか何かだと思ったくらいだ。ボブは背中が痒くてたまらない時みたいに身を捩らせた。
「んんっ、それはそのままの意味で、……保管庫を出た時に、僕が足手まといになっちゃうから、エレーナが離れないようにって」
それ以上の説明はなかった。聞いてもあまり分からなかった。聞くんじゃなかった。
「とにかく、僕、この前エレーナから聞いたんだ。僕がバッキーのパンチを受け止めて左手を壊しかけた時のこと。その件に関しては本当にごめん。でもその時にバッキーの意識の中に僕が入ることはなかったよね。もしかしたら僕の状態が普段と違ったせいもあるかもしれない。確かめてみたいんだ。つまり、バッキーの手に、触れたい」
ボブは興奮気味に捲し立てた。
ヴィブラニウムの腕に触りたい。そんな願望を持つファンはこの世界にある程度いる。握手してください、と求められたら、相手次第だが左手を出すことも増えていた。特にサムの姉であるサラの子どもにとって、バッキーの左腕は公園の遊具や最新のゲーム機と同じくらい楽しい玩具になる。ヘリコプターごっこはそろそろ飽きられるのではないかなと心配になるくらいやった。サラ曰く、あと十年は飽きられないらしいが。
しかしだ。今回のボブのこれは、バッキーが今まで遭遇してきたものとは理由が異なる。他の人の手に触れない。でもバッキーのなら、もしかしたら。彼は一縷の希望をかけていた。
「だめ……かな、バッキー」
ボブがじっと、今度はバッキーの手元ではなく目を見つめてくる。
「……」
だめだと言えなかった。バッキーは今のボブみたいな真っ直ぐな瞳が苦手だった。弱いとも言う。
いくつか条件を出すべきだった。ボブの「だめかな」に対して「だめだ」と断れなくても、「遠慮なくどうぞ」と微笑む訳にはいかなかった。握らずに触れるだけで済ませること。触れた結果が想定通りにならず、もしも精神世界に入り込んでしまったなら、そうと気付いた時点で、それ以上に余計なものを見ないで済むように、ボブの意思で脱出を試みること。精神世界でバッキーに会った会わなかったに拘らず、結果についてはバッキーに正直に話すこと。念には念を入れ、誰か第三者にそばにいてもらって、様子がおかしいと判断した場合は二人を引き剥がしてもらうこと──力仕事になるかもしれないのでジョンかアレクセイあたりに頼めばいいだろう──。
ただ触れるだけ。されど触れるだけ。そういった準備が必要だとは分かっていたし、ボブに説明をするべきだと思った。が、ボブの目を見て気付いた。ボブだってそれくらいの危険性は既に考慮していて、彼なりに何度も悩んだ結果、こうしてバッキーに直接提案しているのだと。ボブは素っ頓狂な一面があるが、馬鹿ではない。もちろん、バッキーに害を与えるつもりもない。彼は純粋に、ただ、誰かの手に触れられるという事実を得たいだけなのだ。
バッキーはいつの間にか肺に溜まっていた空気を、ふう、とゆっくり吐き出した。ボブの唇がむにむにと動く。
「……前もって言っておくが」
「う、うん」
断られると思ったのだろう。ボブが悲しげに眉を歪めた。バッキーは左手を見せた。
「俺の手が人肌並みに温かくないからと言って、加熱するのは無しだ」
「……!」
真ん丸の目が、綺羅星の如く輝いた。
「しないよ! 約束する!」
ありがとう! とほとんど叫び声を上げながら、ボブはよほど嬉しかったのだろう、その場で立ち上がって、差し出されたバッキーの左手を両手で握ってぶんぶん振った。ボブの肩が外れるんじゃないかと思うくらい元気よく、繋いだ手を振りたくって────、?
「……」
え、いきなり? そういう流れで? と思った。そしたら、ボブが動きを止めて「あ」とこぼした。そのつもりではなかったらしい。勢いにも程がある。
「……」
「……」
数秒の沈黙が流れた。バッキーは間に合わなかった心の準備をし始めた。準備と呼ぶのは違うかもしれない。精神世界に入られるかもしれないという覚悟だ。さっきはかっこつけてみせたが、本心を言うと、少し恐ろしかったのを隠したかっただけだった。ボブは固まったままで、やってしまった、みたいな顔をしていた。そんな彼の呼吸が早くなっていくのを見上げながら、己の心拍数が上がるのを感じた。
ボブは焦りからか、胸や肩を上下させながら荒い呼吸を繰り返していたが、その内落ち着いてきて、バッキーの左手を握ったまま、椅子に腰を下ろした。椅子が少し動いて、足と床が擦れた音が静かな空間によく響いた。
ここまできたら、バッキーにもボブにも、どうやら問題なく目的が達成できたらしいことは分かっていた。
バッキーの手を強く握りしめていたボブの手が離れていく。そのままボブは手を引こうとして、けれど、名残惜しそうに目を細め、今度は右手の指で掌を撫でてきた。この程度の微細な振動はバッキーにまでは伝わってこないものの、なんだか、くすぐったい。恥ずかしい触り方するな、と言おうとしたが、ボブがぽそりと呟く方が先だった。
「……手、……──よ」
「え?」
ボブが視線を上げて、ぎこちなく微笑む。
「バッキーの手は、あったかいよ」
「……」
くすぐったさを通り越して大暴れしたくなったが、歯軋り程度で耐えた。意味もなく瞬きを繰り返した。
「もう少しこうしていたいな。いい?」
「いや、もう──」
いやもういいんじゃないか、と返せなかったのは、さっきよりもずっと近くにボブの顔が、あの目があることに気付いてしまったから。
「──あー、うん、まぁ」
何が、まぁ、だ。言ってしまったのだからもう遅い。
「ありがとう」
顔から火が出そうだった。何でこんなに恥ずかしい気持ちになっているのかバッキー自身にも分からなかった。
五分後、シリアルのパッケージの打ち合わせに出ていたアレクセイとジョンが戻ってくるまで二人はそのままだった。ボブが弾けるようにしてその手を離し、何事もなかったかのようにアレクセイ達に「おかえり」と言ったので、バッキーも素知らぬ顔で過ごさねばならなかった。ボブが、先ほどまでの接触を人に見られるのはまずいと考えていたという事実こそが、さらにバッキーを困惑させた。
◆
「オッケー、準備できた。パパ、ジョン、エイヴァ、何かあったらよろしく」
「任せろ」
「ふーぅ。……よし、どうぞ、ボブ」
「じゃあいくよ」
緊張で張り詰めた様子を、バッキーは遠くから見守っていた。エレーナとジョンが向き合って、その周りを他のメンバーが囲んでいる。バッキーは、その場で収まりそうにないレベルの緊急事態が発生した際に外部に連絡を取る係に任命されたので、こうして少し離れたところに立ってモバイルを構えている。エレーナの真剣な表情と、ボブの丸い猫背を眺める。
エレーナが右手を差し出す。バッキーからボブの顔は見えないが、肩が大袈裟に動いたので、深呼吸したのが分かった。そしてゆっくりと、エレーナの手を取る。ジョン達が息をのみ、警戒を強める。
やがて、張り詰めた空気がゆっくりとほぐれていく。エレーナが顔を上げ、「ボブ!」と叫んだ。
「すごい! 大丈夫だよ、ボブ! 何ともない!」
エレーナはボブの手を握り返し、ぶんぶんと振った。ボブの肩が外れそうなくらいに。その光景はバッキーを何だか懐かしい気分にさせた。あれももう一年以上前のことになる。
「見て、バッキー! 大丈夫だった!」
「見えてるよ。良かったな」
やったじゃないか、とアレクセイ達もボブを称える。
「これからはボブの手を引っ張ったりしても平気ってことだ。すごいな、いつの間に訓練をした?」
ジョンが聞くと、ボブはちょっと考えた後、早口でこう答えた。
「たくさん本を読んで、自分をコントロールとまではいかなくても、大丈夫だって信じる練習をしたんだ。信念は理屈をも超越する──キルケゴールの本にそう書いてた。それと、秘密の特訓もしてて」
「何、秘密って? ヴァルに何かされたんじゃないよね」
「違う違う。大丈夫だよ」
エレーナに詰め寄られ、慌てて否定しつつ、バッキーをちらりと振り返るボブ。目が合って、彼があのいつもの、口に何か入っているようで入っていない微笑みを浮かべた。──が、よくは見なかった。バッキーは何となく、即座に視線を逸らしてしまっていた。どういう顔をしてこれまでのことを思い出せばいいか分からなかったからだ。ポケットの中で左手の中指と親指を擦り合わせたのも、深い意味なんてない。そう自分に言い聞かせた。
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