7%と失楽 4　The butterfly which is attracted by a flow「ことの始まりは一ヶ月ほど前のことです。妹はうちの家からほど近い小さな花屋で働いています。季節の花々を鉢植えや花束にして売るのです。それ自体はどうということはないのですが…」
そこでアダムは数瞬躊躇ってから続けた。
「兄である私の口から申し上げることでは無いのでしょうが妹は、その、この通り多少目立つ姿をしているので妹と親しくなるのを目的に店に近づく不埒な男が少なからずいるのです。」
なるほど、というようにホームズは一つ頷いた。
「続けてください。」
「妹は家族以外のものとは殆ど口を利きません。それも合わせて花の世話は黙っていてもできる天職だったのです。妹に言い寄る男たちも大半は珍しいもの見たさというか、本気で口説こうというものはいません。挨拶すらロクに返さないのだから口説く以前の問題です。」
私は男たちが彼女を諦めるのは彼女の性格の問題だけではないのではないか思った。彼女の美しさは着飾った舞台女優にも匹敵する、いやそれ以上の静かな輝きがある。そんな女性が口を利かず、毎日決まったように働いていたらそれは人間というよりは職人が精巧に作り込んだオートマトンのように見えるのではないのだろうか。自分とは決定的に次元の違う何か尊いものを見つけた時、果たして人はそれの隣に並ぶ自分を想像できるだろうか。私なら可及的速やかに手を引くだろう。この世には触れてはいけない聖域というものがある。
「そういうことで私も今までは本気で心配するような事態はなかったのですが。」
アダムは目を伏せ、それから妹の方を一瞥した。
「ここ数ヶ月、妹にしつこく言い寄ってくる輩がいまして。私も心配していました。妹が家族に心配をかけたくないと言うので他の家族には黙っていましたが、妹は非力ですし、襲われれば抵抗する力はありません。幸い妹がしばらく働かなくても食べていける程度の蓄えはあるので家で大人しくさせていました。しかし一ヶ月前、朝、私が郵便受けを見に行くと妹宛の送り主の名のない封筒が入っているではありませんか。私はすぐ例の男からだと勘付きました。」
これがその封筒です。と彼がホームズに差し出したのは、よく見る安物の市販品で宛先だけ“シェリーに送る”と書かれていた。ホームズが「中身は？」と問う。横から覗くとペーパーナイフで開封されいるが中身は入っていないようだった。
「中に入っていたのは手紙ではなく蝶の死骸だったのです。」
アダムは思い出したように顔を曇らせ、シェリーは掌が切れそうなほどきつく十字架を握り込んだ。
「一羽のアオシジミです。死んでから時間が立っているようでしたが少しも傷んでいる様子はありませんでした。本当なら実物を持ってきたかったのですが、一緒に住んでいる従兄弟のアデルが私の留守の内に屑籠に捨ててしまったのです。なんとも、気の利く人なのですが勝手に人の部屋の掃除をしていくのはよして欲しいものです。」
ホームズは同情するように頷いた。
「確かに残念ではありますが貴方が詳細に伝えてくれたので大して困りはしないでしょう。蝶の品種まで知っていたのは良かったとしか言えません。」
確かに彼がただの蝶の死骸としてではなく品種や蝶の状態まで事細かに覚えていたのは聡明だったといえるだろうし、これがどんな事件だとしてもホームズの推理の助けになるだろう。アダムは薄く物悲しげに笑むと話を確信に近づける言葉を放った。
「ああ…しかし、今思えばもっと早くここに伺うべきだった。ホームズさんアデルは死にました。殺されたのです。」
そういうなり彼は低くうめいて顔を両手のひらで覆った。
屋根の上で烏が鳴くのが聞こえた。