幸福痛 大きな椅子のうえで足をぶらぶらさせながら、ユーリは魔王のお仕事(デスクワーク)に励んでいた。
深みのある茶色の王様机。のうえに乗っかる書類の束。
ユーリがにらみつけているのは、そのうちの一枚だ。びっちりと羅列しているのは英語よりもたちの悪い異国の文字で、上から下まで視線でなぞっても、ユーリには全然わからない。
といっても、この部屋に持ち込まれる書類はすべて事前にギュンターが目を通してくれているので、分からなくてもきっと問題はないのだろう。
勝負をあきらめ、右下に渋谷有利と書いて脇にのけた。ここは敬遠フォアボール。
ユーリは机に両手を置き、うつむいたままにやり、と笑うと、顔を勢いよくあげた。
「どうしました、陛下」
窓際に立っていたボディガードが、こちらを見つめて微笑んでいる。
ユーリは内心、ちぇ、と舌打ちした。
「へーかって呼ぶなよ名付け親」
「そうでした。じゃあユーリ、サインは終わった?」
「まだ。全然」
「そ。じゃ、がんばりましょう」
ユーリはしぶしぶと次の書類に向きなおる。コンラッドが、窓の外に視線をうつす気配がした。
カリカリと、羽ペンが紙をひっかく音が部屋にひびく。
ユーリは書類に顔をくっつけて自分の名前を書いていたが、ふと視線をあげた。
―――ほらまた、こちらを向いている優しい顔。
「あんたってさ」
「うん?」
「いっつも俺の方見てるよな」
「そうかな」
羽ペンを放りだし、背もたれに寄りかかって、ユーリは大きく伸びをした。両手を頭の後ろで組み合わせる。
「うん、そう。後ろ振り向いたり顔あげたりすると、絶対コンラッドと視線あうよ俺。いっつも不思議だったんだよ」
余所に意識を向けている彼の頭を、ユーリはあまり見たことがない。
コンラッドはさて、と首をかしげている。
「これって偶然? それとも、分かるもんなの。人が振りかえるタイミングとかって」
やっぱ軍人80年の経験値スか。
そう言うと、コンラッドは肩を揺らして笑った。
「実際ずっと見てるんだよ。ユーリのこと」
「嘘つけ。さっきまで窓の外見てぼうっとしてたくせに」
「おや、どうして分かるんです」
「分かるの。俺の特技なの」
目で見なくとも、コンラッドがどこを向いているのか、どんな顔をしているのかがユーリには分かる。ひそかな自慢だ。
「すごいね」
「だろ」
あまり役には立たないけれど。
「じゃあ俺のこれも特技だな」
コンラッドは窓枠に寄りかかったまま、視線を落とす。
彼の隣では、白いレースカーテンが揺れていた。わずかに開いた窓から入る風が、コンラッドの横をすり抜けて部屋に外の陽気を伝える。
「俺もね、ユーリ。ユーリがこちらを向くのが分かるんだよ。ユーリが顔をあげて、黒い瞳で俺を見つめる。そんな予感が確かにするんだ」
窓の向こうにひろがる青色に目を奪われていたユーリは、コンラッドの顔に視線をうつした。コンラッドはその一瞬前に、穏やかな笑みをユーリに向ける。
「……なんかずるいな」
思わずつぶやく。
「だってそれじゃあ俺、コンラッドのボーッとしてるところ目撃できないだろ。俺、あんたの隙だらけの顔って見たことないよ」
まぶしい光を背に負いながら、コンラッドは口元に手をやり少しだけうつむいた。
「見なくていいですよ。というか見せませんよ、そんなの」
「ちぇ」
ユーリはふて腐れたように目をつむった。まぶたの裏の暗闇に、ぼんやりと像が浮かぶ。―――コンラッド、いま笑ってるだろ?
「俺にはもうひとつ特技があってね」
風のにおいを感じたかと思うと、意外なほど近くから声がした。前髪を、長い指にすくわれる感触。
「貴方の考えていることが分かるんです。 ―――ユーリ、外に行こうか。仕事、飽きたんでしょう」
目をぱちりと開けると、見おろすコンラッドの顔があった。
ほら、やっぱり笑ってる。
+
すぱん、と鋭い音とともに、左手に心地よい衝撃が伝わる。
ユーリはボールを右手に持ちかえると、足を踏みだして思い切り投げた。高く高く、ボールは弧をえがいて飛んでいく。
ユーリはその軌跡を瞳にうつしながら、腹の底から大きな声をだした。
「自分がキャッチボールしたかったんだろ! 正直に言えばいいのに!」
手をのばしてボールを受けとった相手は、満面の笑みを浮かべている。すごく楽しそうだ。
(俺も楽しい)
スニーカーの裏に、柔らかい若草を感じる。
降りそそぐ光。涼しい風。
楽しくて心地よくて、ユーリは目眩がしそうだった。
足下に咲く黄色い小さな花をよけながら、かえってくるボールを無心に追いかける。
そして受けとったボールを、テレビのなかの外野手のフォームを真似て、なるべく高く遠くまで届くように投げかえす。
相手もそうだろう。
銀の星が散らばる瞳をさらに輝かせ、昔見た大リーグ選手にでもなったかのように、格好をつけて右腕をうならせているはずだ。
見なくても分かるんだぜ。
あんたが子供みたいにはしゃいでること。
何気なくボールの投げ方を変えてみたらしい相方の挑戦に、ユーリは精一杯走ってこたえた。
(楽しいよな、コンラッド)
手をあげて落ちてくるボールを待っていたユーリは、ふいに、顔にさしこむ太陽の光をかんじた。白い歯をのぞかせた笑顔のまま、目をつむる。
(でも、なあコンラッド)
ユーリのまわりを、一瞬の暗闇が通りすぎる。
(なんでそんなに痛そうなんだ)
高くかかげたユーリのグローブは、飛んできたボールをはじいた。
「あっ」
受け損ねた拍子にユーリの体はバランスをくずし、草むらに倒れた。少し離れたところで、ボールが力なく地面に落ちる。
「いてて……」
「陛下!」
足をひねるように転んだのを見て驚いたのか、コンラッドがすぐに駆け寄ってきた。
実際はどこも怪我などしていないユーリは普通に起きあがろうとしていたが、名付け親の真剣な呼び声を聞くなり、再び草むらに背中を落として両腕をひろげた。死んだふり。
「大丈夫ですか、陛下」
傍らに膝をつき、顔をのぞきこんでくる気配。
ユーリは目をぱちりと開けると、相手の胸倉をつかんで引き寄せた。
コンラッドは意表をつかれたような顔をして、そのままユーリに覆いかぶさった。すぐ脇の草むらに手をついて体をささえる。
ユーリは念願の「隙だらけのコンラッドの顔」を目の前にして、してやったりと口元をゆるめた。
「へーかって呼ぶな。自分でつけた名前を呼べよ、名付け親」
コンラッドはぱちぱちと瞬きをすると、少々はにかんだように視線をずらした。
「……そうでした、ユーリ」
ユーリはコンラッドの顔を両手ではさんで、真正面に向けた。真剣な顔をして、銀の星が散る薄茶の瞳をのぞきこむ。
「どうしました、ユ―……」
「なあ、コンラッド」
「うん?」
「実はあんた、毎回わざとボケてるだろ」
「うん」
あっさり白状した男の前髪を引っ張ってやる。
「いてて」
「愚か者」
そのまま吹きだして、肩を揺らして笑いあった。愉快でたまらなかった。
ふたりを包んで通りすぎていく、心地よい時間。
「コンラッドってさ。案外、マンネリな笑いが好きだよな」
「……そうかもね」
あたたかい光。穏やかな風。
「ユーリ、俺は」
ささやいて、コンラッドはユーリの肩に顔を埋めた。
「俺は、平凡な笑いの日々の繰り返しが好きだ」
茶色の髪が、顔のしたでふわふわと動いている。
その向こうに果てしなくひろがる空を見上げながら、ユーリは目を細めた。まばゆい太陽に、手のひらをかざす。
ユーリはそのまましばらくの間、口をひらかなかった。
なぜかはわからない。
だが、こんなにも幸福に満ちた胸が、どうしようもなく痛かった。