06 闇歩き 俺は、夜の森を歩いていた。
月は出ているのだろうが、空には見あたらない。雲に隠されているのかもしれない。おかげであたりは海の底のように青い。
足元がおぼつかないが、仕方がない。文句を言わずに歩くしかない。
とにかく前にすすもう。ブーツの足をふみだす、ふみだす。ざく、ざくという湿った土を踏む音が、耳にとどく。
揺れる視界のなか、規則的にふみだされる己のつま先を見つめながら、俺は思った。そういえば、故郷から飛びでたあの日も、こんな風にひとりで歩いていたな、と。
***
いつからか俺はひとりだった。
大きな屋敷に子供ひとり。その他は大人だ。その大人たちは「同志」などと呼ばれる者たちだった。しかし彼らが志を同じくしていたのは俺の父と母で、俺自身ではなかった。
屋敷のそとには、村の子供がいるにはいた。しかし、近づいたことはほとんどない。ましてや一緒に遊んだことなどない。
村から一歩あとずさり、森のなかにめりこんだような位置に、我が家の屋敷はあった。
森の屋敷は、村のなかでは異質な存在だった。村人たちは、森の屋敷を、まるで無色透明なものであるかのように扱った。屋敷の主が近所付き合いをさけ、引きこもり、そのうえ屋敷にはフードを目深にかぶったよそ者が出入りしたりするのだから、当然のことだと俺も思う。
無色透明な屋敷の子供が、おなじく無色透明なもののように扱われるのも、至極当然のことだった。
俺は時間をもてあますと、ひとりでよく、近くの森の湖に遊びにいった。
小さな湖だ。とりわけ景色がきれいな訳でもない。緑によどみ、アメンボなんかが泳いでる。
そのほとりで、俺はしゃがみこみ、ぼうっと時間つぶしをするのだった。なかなか人には言いづらい、暗黒の少年時代だ。
俺は、屋敷のなかでは「いい子」に過ごした。
俺の親は、俺をあまり見ず、話しかけようとしなかった。
父と母は夫婦というよりまさに「同志」。彼らの間で交わされる話は研究のことばかりで、そこにあたたかさはなかった。もちろん、俺の話題なんて登場する余地はなかった。
もっとも、完全に無視されていた訳ではない。それがかえって厄介で、俺は、ごくまれにかけられる言葉の切れ端や、鏡に乱反射した視線から、必死に「親の期待」というやつをよみとり、応えようとしていた。
そのために勉強をした。とにかく本を読んだ。魔力を高める練習をした。剣も学んだ。俺の教育を担当する「先生」は、いつも俺を褒めてくれた―――その「先生」ってやつも、結局は親の「同志」のひとりなんだが。
俺は本当に「いい子」だった。8歳になるころまでは。
そのころ俺のなかでは、自我というものが徐々に形づくられようとしていた。
生まれもった調子の良い性格が頭をもたげはじめ、「出来がいい」、「素質がある」と褒められ得意になり、「先生」が用意する以外の本も読みたいと思うようになっていた。
与えられる以上の知識を身につけ、ひけらかしたかった。いつまで経っても自分を認めてくれない親を、驚かせたかった。
ある夜俺は、ひとつの冒険を決行した。
「おおー……」
俺は、右手にもったランプをかかげ、感嘆の声をあげた。興奮で、頬が赤く染まる。
オレンジ色の輪のなかに、隙間なく並ぶ本の背表紙がうかびあがっている。本は、どれもとてつもなく古そうだ。
俺は笑みを浮かべながら、そろりと部屋の奥にすすむ。
「さすが立ち入り禁止の、父さんの書庫だな」
危険をおかして、深夜忍びこんだ甲斐があった。そう、8歳の俺はつぶやいた。やってはいけないことを敢えてやるスリルに、俺の小さな胸は高鳴った。
黴臭さと埃っぽさでくしゃみしそうになりながら、とりあえず目についた本の背表紙に指をかけ、力をこめて引きぬく。ばさりと落ちそうになる本を、慌てて受けとめる。ランプを置いて、ぺたりと床に座り、ページをめくった。
「字が、ちいさいなあ……」
子供にやさしくない体裁に嘆く。
「でも、がんばれば、よめるかな。どれどれ」
絵本の代わりに無味乾燥の歴史書や論文を読みつづけてきた実績のある8歳児は、苦労しながらも、この難物を読み解いていった。
そして、あー、と声をあげる。
「なんだ、これ、響命召喚術の本か」
響命召喚術のことは、もちろん知っていた。授業で軽く習っていた。
原則として一体の召喚獣しか従えられず、召喚相手は選べず、双方向からの誓約解消が可能という、服従召喚術にくらべ余りにも非力で抑制的で、欠陥のある術。おろかにも響融化以降の世界が選択した術であり、ブラッテルンが滅ぼすべき技術である―――と、教わった。
うちの本にしてはめずらしく、響命召喚術のことが詳しく、しかも好意的に記されていた。ブラッテルンの対岸、「あちら側」の視点で書かれた書物なのだろう。
「なんだかなあ。ぼくらには関係ない本だよな」
ページを、ぱらぱらとめくっていた俺は、目に飛びこんできた文章に興味をひかれ、ふと手をとめた。
『我が楽園と四界とを分かつ壁はとりはらわれた。これからさらに永いときを経て五界は一体となって融合し、補完し補完されひとつの完全な世界へと近づくであろう』
『界より生まれし、個々の魂もしかり。信は力となって響命す。響命によってふたつの魂の壁は透きとおってかさなりあい、異界の友と魂の次元でむすばれる』
『むすばれし魂の結晶たる響命石。その光の集積が、界をさらに強くつないでいくのである―――』
「魂の次元で結びつく、友」
思わず声に出してしまった。何だかよくわからないが、ものすごく大仰だ。
そして同時に、ものすごく甘美なひびきだった。俺の心を、根本からゆさぶるひびきであった。
俺にとってはただの友人というのでも魅力的だというのに、「魂の次元で結びついた友」ときたもんだ。俺の想像力をはるかに超える未知の領域だ。月よりも遠く感じる。
そんな存在が側にいれば、きっと、無視や置いてけぼりや裏切りとは無縁だろう。
「信は力となり……魂の次元で結ばれる」
床に置いたランプのはなつ、オレンジ色の光の円のなかで、俺はそのページを眺めつづけた。
その日から、俺のささやかな「非行」ははじまった。
屋敷が寝静まったあと、こっそり子供部屋をぬけだして、父の書庫にかようのが日課になった。
昼間の授業で居眠りすることが多くなった。「先生」の目が冷たくなってきたことには気づいていたが、どうしてもやめられなかった。
読むのは決まって、ブラッテルンの禁書―――響命召喚術の本である。
「新たなる英知の術と千眼の導きによりて、今ここに召喚の扉を開かん……祝福されし誓約の名の下に……我、汝が力を……」
本を抱きしめ、ほうっと溜息をついた。
友を喚ぶ言葉の、何と美しく輝かしいことか。
授業で習った下僕を喚ぶ呪文とは、大違いだ。
(友―――魂で結ばれた、ぼくの)
本を胸に抱いたまま、うつむく。
(ぼくの響友になってくれる奴も、どこかにいるんだろうか)
四界は広い。異界の住人も、幾千幾万といる。俺と友達になってくれる奴が村のなかにはいなくとも、四界まで範囲をひろげれば、ひとり? いっぴき? くらいはいてもいいだろう。
(魂の友。ぼくの相棒。どんなのだ)
恍惚と空想の時間をおえ、俺はそろそろベッドに戻ることにした。最近、昼間にあくびがでてしかたがない。いくら俺に無関心な大人たちだって、さすがに気づいてもおかしくないのだ。
俺はランプを吹き消した。廊下は月明かりだけで歩まねばならない。
「あれえ……?」
足元に、四角くきりとられた青い光がさしこんでいる。それは扉の方向からのびていた。扉は、たしかに閉めたはずなのに。
俺はゆっくりと、光をたどって、視線をあげていった。光は、人影に切りとられていた。
腕組みをして、戸枠にもたれている長身。長いローブのシルエット。茶色の癖毛、冷たい目。
「父さん」
立ちあがる。あしもとに、本の落ちる音がひびいた。
影は、俺をみおろしていた。その眼は青い光を発していた。
扉から体をはなすと、身をひるがえして去っていった。立ちつくす子供に、影は言葉を発しなかった。
それから季節が3つ変わったころ、弟がうまれた。
「ギフト・ブラッテルンと名付けられたか」
「まさに天意ですね。天からの贈り物だ」
「同志」の声を背後に聞きながら、俺はゆりかごの中をのぞきこんでいた。
相変わらず俺の存在は、透明な風のように気にされていなかった。
父と母は、生まれたばかりの赤子を置いてどこかに消えた。さっそく地下の研究室にこもっているのかもしれない。
俺は、ゆりかごのなかの柔らかい生き物に、おずおずと指をさしだした。赤子の小さな手のひらにあてる。
その手が、俺の指を握った。思いのほか強い力だった。柔らかかった。温かった。
(爪が小さい)
5本の指のそれぞれに、冗談のように小さい爪が、きちんと揃ってついていることに感動した。こんな精巧な人間のミニチュアをつくった奴ってのは、いったいどんな存在なんだろう、と思った。
俺の胸は、無条件の優しさで満たされた。
しかし同時に、かなしい、やるせない思いも沸いていた。
自分で言うのもなんだが、俺は結構かしこい子供だったので、ブラッテルン家において長男出生から約10年後にあたらしい命が誕生したことの意味、そして同志たちが俺の背後で目くばせしている理由を、察していた。
俺はあきらめられたのだ。
俺は、弟が生まれてからというもの、本格的な「不良」になった。
授業をさぼるようになった。近くの街にふらっと出かけたりもした。父の書庫には、なかば公然と入り浸った。
そんな兄を横目に、弟は成長していった。手足がすらりと伸び、二本の足で立ちあがり、意味のある言葉を話しはじめた。目に理知的なひかりがともり、細く柔らかい髪はまっすぐに伸びて、さらさらと輝いていた。
俺は、弟の髪を撫でるのが好きだった。俺が撫でると、弟は気持ちよさそうに目をほそめる。
弟は、ブラッテルンの勉強を真面目にやっていた。8歳までの俺のように―――いや、俺よりもよほど、優等生だった。
不良な兄はそんな弟に、茶々をいれたり、授業をさぼらせたり、絵本やおもちゃ、菓子を買ってやったりした。
そういや、子供用の剣を買ってやったのも俺だった。
剣術訓練用の重い剣は、屋敷にあった。だけど俺は、そういうのではなく、遊びのための軽いおもちゃの剣を、弟にあげたかったのだ。
俺が用意したおもちゃの剣は、2本あった。弟の分ともう1本、弟の友達の分だ。
村のなかで唯一、森の屋敷の子供たちを「普通」に扱ってくれる夫婦がいた。
いつもにこやかな夫婦だった。ひとりでぶらぶらしている俺に、よく会釈をしてくれた。声をかけてくれたこともある。俺は、夫婦に優しく見つめられるたび、突然正体をあばかれた透明人間のようにドギマギとし、顔を赤くした。
そこの夫婦に、長男坊がうまれた。母親譲りの赤い髪。弟と同じ年に生まれた子どもは、フォルスと名付けられた。
その長男坊が、弟の友達になった。
俺は、ふたりが友達になって、我が事のように嬉しかった。
だが同時に、胸のなかにぽっかりと穴があいたような気分も味わっていた。
俺は幼い弟に嫉妬していた。
ブラッテルンの不良長男は、ふたりの子供にとっては良い兄貴だった。
剣術も学問もひととおりこなせる俺を、ふたりは尊敬のまなざしで見つめてきた。俺は、目を輝かせた子供たちに囲まれ、わははと笑い声をたてながら内心で、「そりゃあ、腐ってもブラッテルンだからな」などと思ったもんだ。
いつしか俺は、湖のほとりで、真剣に考えるようになった。
ブラッテルンの名前がなくなったら、自分には何が残るのだろう、と。
弟には友がいる。親の秘めた期待もある。
しかし自分には何もないのだ。
恐怖だった。
俺は、澱む湖にうつる自分の顔をみおろしながら、ぼんやりと、しかし深く、決意するようになった。ブラッテルンが俺を完全に否定する前に、俺がブラッテルンを否定しなければならない、と。
そんなある日のこと。
いつものように外をぶらぶらして帰ってきた俺は、屋敷のなかで父の姿をみた。
無色透明な俺は、ふらっと父のまえを横切ろうとした。父が突然口をひらいた。
「エルスト。私の部屋に来なさい」
俺は、遠ざかる父の背中を見つめた。―――あの人、いま、なんていった?
数分後。俺は、父の部屋の机のまえに、所在なげに立っていた。かたわらには、母がいた。「同志」の姿はなかった。
俺はなんだか、裁判にでもかけられているような気分になって、うつむいた。
「エルスト。お前ももう16歳だな」
「ええ、ああ」
俺は久しぶりに話す父に、敬語を使うべきか、タメ口で話すべきか、そんなことも決めかねていた。
「わかっているな、エルスト。我が一族のさだめを。我々は、血をのこさねばならない。―――お前の交配の時期がきている」
俺は、ゆっくりと父の言葉をのみくだした。
そいつが胃のあたりに達したとき、俺は鉛でも飲んじまったかのように、具合がわるくなった。手足が重くなる。
交配。つまり血のかけ合わせだ。血統をのこすためだけの、情のないまじわり。
「相手は、もう決まっている。ブラッテルンに協力すべき無色の血族は、年々すくなくなってきているが―――何とか、条件に適合する血が見つかった。お前の代で不足している属性の魔力をおぎなうものだ。あくまでも計算上は、な」
かたわらの母が、俺を真摯に見つめているのを感じる。
この人たちは息子の中身になにひとつ期待していないのに、器はきっちり利用するつもりなんだな。俺は頭の片隅で、他人事のようにつぶやく俺自身の声をきいた。
激情に支配されたわけではなかった。どちらかというと、体中に満たされていたのは、かなしみだった。
「ふ、ざけるなよ」
俺は拳をにぎり、努力して、努力して、この重くしずんだ哀しみを怒声にかえた。
「何が交配だ、家畜じゃねえんだぞ。俺は―――俺は」
それからは、何を言っているのか自分でも分からないほど、怒鳴りまくった。それは主張や理屈といった洗練されたものではなかった。剥きだしの感情をあらわすために、言葉をかりたにすぎなかった。父も母も、吹きすさぶ風をまえにして、表情ひとつ変えずに耐えていた。
「あんたたちが、俺の気持ちを考えてくれたことあるのかよ。俺がどんな思いで―――俺は―――俺はずっと―――」
「いい加減にしないか」
おだやかな、しかし強い口調だった。目のまえの男からひびいてきた言葉だった。俺は口をあけたまま、声をうしなう。
父はまっすぐに、俺をみていた。
俺も父の目をみる。父を真正面から真っすぐに見たのは、生まれてはじめてだった。
傲慢で、威圧的で、蒼いかなしみに満ちた男が、そこに座っていた。
「それ以上、私に無様な姿を見せるな、エルスト。お前はブラッテルンの長男であり、私の……後継ぎなのだぞ」
そのときの心境を、俺はいまだにうまく説明できない。
後継ぎと言ったか。
私の、と言ったか?
狂喜と嫌悪が同時にこみ上げた。笑みそうになった。吐きそうになった。いくつもの疑問符、涙があふれそうになるほどに熱い肯定と、唾棄しそうになる冷たい否定がうずまく。
俺の感情と思考は、許容量をはるかにこえた。手が震えそうになる。
俺はショートする寸前に、ひとつの選択をした。
「お、おお。俺は、ブラッテルンなんて」
俺の選択は、逃避、だった。
「関係ないんだよ! 自分の人生をいきてやる」
俺は走っていた。
視界のはしに、弟のすがたをみた。でも、そんなことにかかずらっている余裕はなかった。
俺はあの汚い湖のほとりに辿りついた。咆哮した。腹のそこから、繰りかえし。
いつしかあたりは夜になっていた。
鳥の声が聞こえる。
空をおおう厚い雲の切れ間から時折月がさしこみ、水面に光がゆらめいている。俺は、そのきらめきを無表情でながめ、澱みから吹く風に体を冷やされながら、自分の行く末をきめた。
「何言ってるの、兄さん」
俺は翌日、コートをまとい、丸くふくらんだリュックを肩にかけて、陽光のなかでにこにこと微笑んでいた。小さな弟が、俺を見上げて立っている。
「家を出るって、どういうことさ」
「そのまま、そういう意味だ。俺は家をでて、セイヴァールへ行く」
「セイヴァールって……」
「地理の授業で習ったことあっただろう、ギフト。村から西にずっと進んだところにある街さ。俺はそこで、響命召喚師になるんだ」
「響命召喚師? うそだろう」
弟は小さな手で俺の服をつかんだ。幼い力で、必死に揺さぶってくる。
「何言ってるのさ兄さん。本気なの。冗談だろ。僕に、うそつかないでよ」
「うそじゃあない。本気さ」
俺は、自分の服をつかむ小さな指に手をかさね、落ちつかせた。それから、弟の頭を撫でた。さらさらとした髪に指をさしいれ、やさしく梳く。
胸にせまるものがあった。この小さな頭に、弟なりの世界がつまっているのだろう。色々なことを考えているのだろう。透明人間だった小さな俺が、かつてそうであったように。
「……信は力となる」
俺は弟の頭を撫でながら、無意識のうちに、幼き日に読んだ本の一節を口にしていた。
「え?」
首をかしげた弟のまえに、俺はしゃがんだ。目線をあわせ、やわらかい頬を、両手ではさむ。
自分を真っ直ぐに見つめてくる、その透きとおった瞳を、俺は心にきざんだ。
「ギフト。覚えておいてくれ。人は信じ、信じられることで、とても大きな力を得ることができるんだ。その力さえあれば、人は誰にも負けない。強く生きていけるんだ」
「兄さん」
「俺は、その力を得るために、家をでる。お前も―――フォルス君と仲良くな」
俺は、弟の小さな額に、自分の額を押しつけた。閉じられた幼いまぶたから、涙がこぼれ落ちる。
「元気で」
誰からも信じられない無力な俺が、俺自身と交わした言葉だった。
俺は弟をつれて、親切な一家のもとをたずねた。ごくごく簡単に事情をはなし、赤い髪の長男坊に、「ギフトをたのむな、フォルス君。君を信じているからな」と言った。長男坊は目をかがやかせて、「任せて」と力強くこたえてくれた。俺は無性にうれしくなってうなずき―――俺の手を握る弟の、その手の力の強さを無視した。
村を出、歩きとおした。夜の森をぬけた。
リュックが肩に食いこみ、幾度も転びそうになった。
ひどい気分だった。俺は光を追いかけて歩いているはずなのに、黒いものから追われて逃げているような錯覚に、幾度もおちいった。
(夜の森を、ひとりで歩いちゃいけないんだ)
心のなかの奥底、本能の部分が、俺に告げてくる。
でももう遅い。引きかえすことはできない。俺は恐怖にのまれそうになりながらも、濃厚すぎる緑の匂いのなかを、早足ですすんだ。
はやく森をぬけないと、憑りつかれる―――。
***
悪寒がはしった。
俺はおそるおそる、後ろを振りかえる。何もない。ただひたすらに、暗く沈む木々が広がっているだけだ。
前に向き直り、ふかく溜息をついた。
夜の森をあるきながら回想することじゃなかったな、と今の俺が反省する。追憶と現実とが重なり合って、家を出たばかりの16歳の自分がかかえていた不安に、引きずられそうになった。どうせ回想するなら、もっと明るい記憶を思い出せばよかった。
いまの季節は冬のおわりだ。木々は芽吹いているものの、あのときほど濃密な緑の空気はない。
あたりは冷やりと湿っていて、息をすいこむと、心地のいい清浄に肺が満たされる。俺は膨らんだ胸から、息を深くはいた。
手ぶらで身軽な俺は、汗ひとつかいていなかった。足に疲れもなく、まだまだどこまでも歩けそうである。俺はふたたび、前へ前へと足をすすめはじめた。
それにしても、と思う。結構歩いたはずなのに、夜があける気配がないのはどういうことだろう。
(うおおお。なんだこれ。異界の住人だらけじゃねえか)
家を出、やっとのことで辿りついたセイヴァールは、まさに真っ白に光り輝いていた。
異世界というと普通は四界をさすが、俺にとってはセイヴァールはまさに、「異世界」そのものだった。
本でしか見たことのない、鬼。天使。犬の亜人。あとちょっとよくわからない動くかたまり等々。
俺は往来のまんなかで、汚いリュックを肩にかけ、半笑いを浮かべながら、きょろきょろと通りを見渡していた。
「すごいな……これがセイヴァールか」
金属のこすれあう音が聞こえた気がしてふりかえると、途端、鼻先を重量をもった風が吹き抜けていった。
「おわ」
俺は数歩あとずさった。召喚鉄道だった。俺は心臓をバクバクとさせながら、過ぎさる列車と、目の前にしかれたレールを交互に見つめた。
(これが「あちら側」……響命召喚師たちの都か)
俺はゲートをくぐった、と思った。
自分のすべてはここで変わる。そう、確信した。
それから過ごした毎日は、もう、目もくらむほどに眩い日々だった。
生まれてはじめて、友ができた。そいつが俺の響友だ。
ガウディ。
俺がいつもその名をどれほどの思いをこめて呼んでいるか、あいつは分からないだろう。知られたら恥ずかしいし、流石に引かれる気もするので、俺は決してつたえる気はないけれど。
俺の手のなかでかがやく蒼い石を見つめて幾度となく涙したことも、あいつには絶対にいえない秘密だ。
信じ信じられることで、これほどまでに世界が変わるとは思わなかった。
あの日、幼い俺が読んだ本に書かれていたことは真実だったのだ。
俺は、8歳の俺に伝えてやりたかった。お前がひとりで夢中で読んだその本は、間違っていなかった。お前が暗い書庫のなかで信じた夢は、たしかにあったんだぞ、と。
そして俺は、弟にも、同じことを伝えてやりたかった。
のぼっていく白い太陽のふもとに暮らす、あの小さな弟に。
手紙を書いた。
かえってきた手紙も、夢中で読んだ。
俺を慕う弟が、可愛くて仕方なかった。
セイヴァールの何を見ても、あいつに見せてやりたいと思った。
セイヴァールの何を食べても、あいつに食べさせてやりたいと思った。
俺は、遠く離れてはじめて、弟と純粋な兄弟になったような気がしていた。
故郷の村での俺たちも、たしかに仲良い兄弟ではあったが、ふたりのあいだにはほんのわずかな距離があった。俺のうちの拗ねた部分が、俺を抱きしめようと駆け寄るあいつを、そっと腕をはって拒絶していた。腕一本分の距離。それは弟の心を、どれほど寒々しく冷やしていたのだろうか。
今であれば、きっとそんな距離は簡単に詰められる。皮膚一枚の隙間もなく、弟を抱きしめてやれると思った。
(あいつは医者になったらいい)
俺は時折、弟の将来を夢想した。あいつはとにかく勉強が大好きだ。きっと沢山の患者をすくう、優秀な医者になれるだろうと思った。あいつが医者になったら、俺はとりわけ怪我をするから、足繁く弟のもとに通う患者になるだろう。
(いや、待てよ。勉強が好きというなら、研究者でもいいかもしれないな)
俺は、窓枠に頬杖をついて外を眺めながら、目をほそめた。
あいつはちょっと変わったところがあるから、医者というより研究者の方があっているかもしれない。世界の真理の探究に没頭し、学会にその名を知らぬ者はないほど有名な男になるだろう。
(でも、あいつは研究者の道にすすんだら、きっと研究ひとすじの、偏屈な野郎になるんだろうな。自宅に帰らないで、メシもろくに食わない生活をおくりそうだ。そんときは優しい兄貴がメシをとどけて―――)
あとは、響友との出会いに恵まれれば、俺と同じ召喚師になるとか。
それはとても甘美な空想だった。
「えるすと」
背後からかけられた友の声に、俺は振りかえった。
「おう、ガウディ。行くか」
俺はガウディとともに、扉を明けはなち、街へでる。セイヴァールは今日もまばゆい。
(弟をいつか、この街に呼び寄せよう)
光りかがやく大通りを、ガウディとともにすすみながら、俺は思った。あいつがセイヴァールに来たら、肩車をして、この通りを歩こう。
異世界調停機構にはいり、俺には仲間が沢山できた。ふざけあい、笑いあい、どつきあうことのできる連中だ。
総帥にも目をかけてもらえた。俺は、テーブル越しに茶をすすめる男の微笑みを見つめながら、父というものはこんな風であろうかと密かに思った。俺が普通の家に生まれていれば、きっと。
毎日、にこにことして過ごした。
すべての懸案事項は軽い羽のように思えた。
故郷に暮らす両親との関係は流石にすぐには改善しないだろうが、今の俺はもう、彼らと向き合っても獣のように吠える無様をさらさないですむはずだ。冷静に父の目を見つめ、話すことができるはずだ。
なんといっても、今の俺には、ガウディがいるのだ。今の俺は、信じ信じられる、強い力をもっている。何だって、乗り越えていけるはずだ。
―――完全、完璧な幸福の時間。
しかし、わずかな。
ごくわずかなひずみが、潜んでいた。
たとえば、ある日とどいた弟の手紙だ。俺はいつものように笑顔を浮かべて、弟の幼い文字を目でおっていた。
『ぼくも家でがんばって勉強をしています。兄さんも、どうかそちらで、がんばってください』
インクでかかれた最後の文字が、にじんでいた。
俺は、その滲みに目をとめた。
しばしの、沈黙。
「……」
俺は、微笑みをうかべたまま便箋を丁寧にたたんで、封筒にしまった。
あるいは、ある日の仲間との会話だ。
「私の実家は、シルターン風料理の食堂をやっていてね。私は長女だから跡を継ぐこと期待されてて、まあ私もそのつもりで店の手伝いをしていたんだけど、店の常連さんだったこの子と仲良くなってさ。ある日ひょんなことから響命しちゃって、まあ、大騒ぎ」
ミョージンの頭を撫でながら言う召喚師に、俺は笑いながら、言った。
「へえ、そうだったのか。継がなきゃいけないものがあるって重いよな。俺も長男だからその辺のことは」
「あら、エルストも家の後継ぎなの? ご実家は何をされているの」
俺の顔から、笑顔が遠のいていった。目のまえの召喚師が首をかしげる。
「エルスト?」
「ああ、いや。ごめん、言い間違い。俺には継ぐ家なんてなかった」 俺は、強張った笑みをはりつかせ、言った。「気楽でいいよ」
俺は、せっかく手に入れた完全無欠の幸福を手放すまいとしてしがみつき、様々なひずみを笑顔で無視しようとしていた。
―――結局俺は、故郷にいたときと何ひとつ変わっていなかったのかもしれない。だが、俺は、それを認める訳にはいかなかった。認めれば、俺は泥のように崩れてしまう。存在自体の危機だった。
しかし、ひずみの方はそんな俺を、許してはくれなかった。
「さあ、エルスト君。茶を飲みたまえ」
俺は、カップを手にとった。
紅茶の表面にうつる、俺の、青ざめた顔がゆらめく。そのくちびるが、俺に問いかけてくる。
総帥に呼ばれたのは、今日で何度目だ、と。
(どう考えてもおかしいだろう。たしかに重要任務だった、しかし、任務報告のために総帥に直接面会できる召喚師がセイヴァールに何人いるんだ)
俺は強張った顔でカップに口をつける。
仲間たちは俺と響友の類まれな戦闘力をたたえ、総帥に直接会えるのは組織の期待の証と褒めそやした。隣に呑気に浮かぶガウディも、こいつは機械のくせに案外楽観的なところがあるから分かっちゃいない。
(お前はわかっているんだろう、エルスト)
壊れた水面に浮かぶ顔が、問いかけてくる。
ああ、そうだ。俺は―――俺だけは、わかっていた。
何度目かに、総帥との面会を許されたときから。
……いや、もしかしたら、最初から気づいていたのかもしれない。
目のまえの男に対する個人的な思慕と好意で塗りかくし、気づかない振りをしていただけなのかもしれない。
俺は、カップから唇をはなし、向かいに座る男の目をみた。優しげに細められている黒い隻眼に、いつか故郷で見た、冷たい光が浮かんでいるのを見た。
俺は疑われている。
***
ざく、とつま先が土を掘る音がした。バランスをくずして転びかけ、寸でのところで持ちなおした。
俺は立ち止まり、あたりを見わたした。相変わらず森は青く沈み、空は暗い。
ゆっくりと顔をめぐらし、俺は、背中越しに来た道をみた。
空に枝をのばす木々。青くかげる葉。薄ぼんやりと闇にひそむ白い花。
一つひとつを、凝視する。
俺は、ぎこちなく前に向きなおった。
目をみひらいて、つぶやく。
「巡っている……」
風がわたり、土にまばらに生える草を揺らした。森の木が頭をゆらし、さざなみのような音をたてる。
俺は、髪を風にゆらしながら、その場に呆然と立ちつくした。もはや体は、指先までもが冷えていた。
俺はまさか、円をかいて、ぐるぐると同じ場所を歩いていたのか。自分では真っ直ぐに歩いているつもりだというのに。
木々のなかを突っ切ってすすむか? ああ、でも、こうも暗くては本当のところはわからない。
どうして日は昇らない。俺は何時間歩いた。今は夜なのか、昼なのか、どちらだ。
俺は、顔をあおむかせ、天を見た。
ところでここは、一体どこなんだ?