千年祈 すらりという音とともに、闇のなかから引きだされた。
私は目覚める。
すぐさま思考を焼く白い光にさらされ、私の鋼の身はすくんだ。
『あついな』
頭上から、声が聞こえた。若い男の、やけに内にこもった声であった。
たしかに暑いと、光のなかで私も思った。
緑の香気をふくんだ、熱くおもたい空気が、私をつつみこんでいる。時折ひときわ熱い血風が、抜き身の体を撫でさすっては、刃の切っ先をチリチリと焦がした。
『だが、もう終わる。戦も終盤。勝鬨をあげるときは近い』
ふたたび、声が身のうちに響きわたった。昂揚に満ちた声であった。
『頃合いだ』
私には、目玉がない。耳も舌も、肉を覆う皮膚もない。
私は刀。ただの引き伸ばした鋼のかたまりだった。
しかし、私のこの身は、確かに五感をやどしていた。
どうやら私を手にする男の感ずるものが、柄をとおして、直接流れこんできているようだった。
私はいま、自分を握る男と、ひとつづきの「骨」となっている。
遠くから呼び声がかかった。
男が、応、とこたえる。
『行くぞ』
そう小さくつぶやいた男の、私の柄をつかむ手のひらは、汗ばんでいた。
男が行った先、雑然としていた場が、す、と静まった。
男が、目の前を見やる。
そこには、一個の震える命があった。
敵将であろう。
男は真っ直ぐ前を見据えながら口をひらくと、朗々とした声を外に響かせた。
「御久し振りで御座いますな」
相手は応えず、うつむき、手を合わせて祈りだした。
その様を見て男は、
『……見苦しい』
内心でぽつりと独り言ち、それ以上、相手に声をかけなかった。
数歩足をすすめ、立ち止まると、私を両手で持ち直し、ゆっくりと頭上にかかげて、かまえた。ひとつ息を吸う。男自身持て余しているのであろう熱は、柄をとおして私のうちへ、ふいごのように吹きこまれた。
そして、
「御首、頂戴致す」
男はひとおもいに、敵将の首めがけて、私を振り下ろした。
宙をおよぐ。
熱い空気をかきわけ、光の底にむかって、おりていく。
『よう斬れ。落とせ』
男の内なる声が、鋼の体に反響した。
私は声にあおられ、眼前に近づいたむきだしの首に吸いついた。皮膚をやぶり、肉にもぐる。
固い物にかちあたった。
『すすめ。落とせ』
私は体の隅々までをも研ぎ澄ませ、ひたすらに前進を期した。すすめ、すすめ―――。
こきり、と氷の割れる音がした。
その音はふたつ、みっつと連なり、次々と折り重なって、しまいには雨だれのように、私を包みこんだ。
氷音の瀑布のなかを、すべるように泳ぎすすむ。
すすみながら、私は、不思議な感覚を味わっていた。
―――快感である。
それは悪いものをそぎ落とし、あるべきものをあるべきように選り分ける、心地よさであった。
ふいに氷鳴が止む。
気づけば私は、何もない宙に浮き、静止していた。
すぐ真下には、地に落ちてつぶれた、丸く大きな塊がある。
きっと先まで私が選り分けていた、不要な何かであろう。
長い時のことのように思えたが、すべては一瞬の出来事だった。
わっ、と男の周囲が沸いた。
鎧を打ち鳴らしながら、駆け寄る幾つもの足音がある。
男は、荒い息をつきながら、濡れそぼる私の身を振って滴をおとした。
あしもとの丸く大きな塊は、無言で、赤い河を延々と生みだしつづけている。
『ようやった石切丸』
男は、目の高さに私を持ち上げると、柄を握る手にやさしく力をこめた。
体中をみたす歓喜を味わう間もなく、私は男によって、ゆっくりと鞘に差し入れられていく。
ふいに意識がかげり、あたりが侘しくなった。少しずつ、世界に闇がおりていく。
『ようやった。さすがは、この俺の―――』
暗がりのなかで、目覚めた。
(ここは)
ぼうとした景色が、ひろがっている。
建物のなかのようであった。
がらんと広く、人の姿はない。
薄闇のなかには、鏡や、いくつかの函が、おぼろげに見えるのみ。
視界にうつる風景の何ひとつに、見覚えはなかった。
ふと、視線を下におとす。
そこには、細長い、白木の箱があった。
目をこらすと、木の蓋が透けて、中に布にくるまれた刀の姿が見えた。
真白な柄と鞘をもつ鋼の体―――これには見覚えがあった。私自身であった。
刀である私はいま、木箱におさめられ、誰に握られることなく、台座のうえに横たえられている。
なんと面妖な、と私はいぶかった。
どうして私は、自分をはなれて、自分の体を見おろしているのだろう。
いや、それよりなにより、何故に男がここにいないのだ。
私はあの男とひとつづきの「骨」。
なのにどうして、私はひとりぽっちでここに在り、ものを感じているのだろう。
ぶるりと震え、肩をだく。ここはとても寒かった。
『おぬしに魂が宿ったからさ』
どこかから、声がひびいた。私は自分の肩を抱きしめたまま、顔をあげる。
『おぬしという鋼のかたまりは、時を経て霊魂を得、一個独立の存在として生まれなおしたのだ。今日、この日に』
声の主の姿は見当たらない。
その声は近いようで遠く、とらえどころがなかった。男のようにも、女のようにも聞こえ、若いようにも、老いているようにも聞こえた。
ただ、「あの男」の声でないことは、確かだった。
『己を見てみよ』
ふしぎな声のいうとおり、私は己の両手をみた。
十本の指と、ふたつの手のひらがあった。
それは白く、透きとおっていた。あの男のものではなかった。
『人の姿を得ているだろう。肉をもたぬ霊魂ゆえ、生者の目に触れることはないが、おぬしは確かに此処に在るのだ』
胡乱な視線を宙にさまよわせる。事態がまだ、飲みこめない。
ここは一体、どこなのだろう。
私は男とともに、戦場を駆けていたはずだ。
熱い、陽の光に満ちた戦場を。
『ここは、社さ』
声が、私の内心の疑問に応えた。
―――社。
その言葉を聞いて、私は全部を思いだした。
私は神社に奉納されたのだ。
かつて、とある猛将が愛した「石をも斬る霊刀」は、好奇をいだいた者たちの手を転々とわたり、最終的にはどういう巡り合わせか、布にくるまれ、木箱に入れられ、神社の奥深くに差し入れられることとなったのだ。
……男は、とっくの前に死んでいた。
戦いに負けて、河原で首をおとされたのだ。
私は、それを知っていた。
私に触れる者の目をとおして、一部始終を見ていたのだ。
『よろこべよ。物でありながら命を得た幸運を』
刀の精霊となった私の頬に、一筋の水が流れ落ちた。
「……きえたい」
唇をひらき、喉をふるわせて声をおしだす。
付喪神として発した、はじめての言葉であった。
薄闇から、呆れたような声がかえる。
『おやおや』
「きえたい。消えたい」
『何をいうか。生まれたばかりだというに』
「かえりたい」
『いずこへ帰りたいのだ』
戦場へ。熱き日々へ。あらぶる魂のもとへ。
目からこぼれる水は、後から後からとめどもなく流れ落ち、あごを伝ってはたはたと落ちた。
纏っていた鈍色の衣に、幾つもの染みをつくる。
「……かえりたい」
『難儀な付喪神だな』
ため息交じりの声。
私はまぶたを閉じた。あらたな滴が、こぼれおちる。
「消えたい……」
+++
昏い目をして、時をすごした。
閉めきられた本殿の暗がりで、またたきもせず、「ただの物」のように黙して座る。
私は膝をかかえて座りながら、よく、むかしを思いだしていた。
物である身の悲しさで、「忘れる」ということができなかった。
記憶は薄れず、振りかえれば常にそこにあり、時折風のように私に襲いかかっては、鮮やかな色の花弁を吹き散らかし、のちに凍えるような冷たさをのこしていくのだった。
毎日、消えたくて仕方がなかった。
自分には、魂を得て成し遂げるべき何物もないように思えた。
あの夜の不思議な声は、時々気まぐれに私の元を訪れた。
そして、私の様を見ては、
『石を斬る刀と聞いていたが、おぬし自身が石のようだな』
と、つぶやくのであった。
ある日。
いつものように本殿を訪れた声が、耐えかねたように、言った。
『我が元で陰の気をただよわせるな』
見えない力で背中をぐいと押され、私は体勢をくずして四つ這いになった。
それでもなお無表情で固まる私に、苛立ちの声がぶつけられる。
『外の陽にでも当たりに行け。本体の刀から離れても、神域のなかであれば、出歩くことはできる』
―――陽。
光。熱い光。
私は、いつか男とすごした眩しい戦場を思いだし、無言で、立ちあがった。
『動けるではないか、石』
外は、まばゆかった。
私の心は一瞬沸き立ったが、すぐに悲しみに支配された。外をみわたしても、あの男はいなかった。
拝殿の屋根に腰をかけ、境内をみおろす。
人の頭が、沢山あった。
血肉をもった頭蓋が、鳥居と拝殿までの参道を、行き交っている。
みな、祈りをささげていた。
―――病をなおしてほしい。長生きしたい。
財が欲しい。女と結ばれたい。取り立てられたい―――。
(……見苦しい)
口の端をゆがめて、独り言ちた。
そうして己の吐いた言葉のなかに、懐かしい人の残り香をかいで、また涙を流した。
+++
拝殿の屋根に腰をかけて、地面を見おろすのが日課となった。
神社には、人がよく訪れた。
祭りとなれば黒い頭がひしめきあった。
なにも行事がないときでも、人々は鳥居をくぐってやってきた。
私の足のしたにある拝殿にすいこまれ、ぱん、と柏手をうつ。
そして心のなかで願いをとなえ、身をひるがえして帰っていく。その繰りかえし。
目を転じると、社殿の外の祓所で、宮司が参拝者を前にして何やらやっている。修祓だ。
社殿のなかで祭事を行うまえに、穢れをはらっているのだろう。
宮司は浅く、あるいは深く頭を下げたのち、うやうやしく祓詞の奏上をはじめんとする。
(かけまくも畏き、いざなぎの大神―――)
心のなかで、宮司の祝詞を先取りして唱えている自分に気づき、私は苦い顔をした。散々見ているうちに、暗記してしまった。
(覚えたところで、何の役にも立たないのに)
奏上を終え、大幣を振る宮司を、冷たい目でみおろす。
白い風が前髪を揺らしたかと思うと、顔のすぐ横で、「声」がささやいた。
『毎日、見ているな』
私は、答えなかった。他に見るものがないだけだ。
『何を思う』
「……何も」
『愛しいとは思わぬか』
「愛しい?」
は、と息を吐いた。
「滑稽だ。自らではかなえられぬ夢を他人にあずけて祈るなど、見苦しいことこの上ない」
暗い目で、正面をみすえる。
鎮守の森の若草色に縁どられた、透明な青がそこにはあった。
その中心には、燦々とかがやきつづける、白い太陽。
『祈りは、希望ぞ』
「希望、か」
私は、真白い光を見つめながら、夢想した。
太陽がじりじりと翳り、やがて赤みをおびた金になり、ふと消える瞬間を。
「希望とは、何だ」
『生への軛よ』
「まるで呪だ」
『呪か』
陽に焼かれて、痛んだ目を閉じる。
私も早く、消えることができたらいいのに。
まぶたの裏に揺れる、太陽の残像のような、むなしい我が身。
長い長い沈黙がながれた。「声」は口を閉ざしている。
さては気分を損ねてどこぞへ行ったのだろうか。
そう思ったとき、「声」がやけに穏やかな口調で、言った。
『では、おぬしにひとつ、呪をかけるか』
「……それで。何をするつもりだ」
夜。
拝殿に呼びだされた私は、側にいるはずの「声」に問いかけた。
『まあ、見ておれ』
言って、声は黙りこむ。
いつもながらの強引さに、私は、ふう、と息をついた。
拝殿のなかには、「声」がともした灯が揺らめいていた。
私の前にそびえる祭壇も、歪な模様でひしめきあう木目の床も、ぼんやりとした橙色に映しだされている。
私は床に正座したまま、見るともなしに、ちらちらと揺れる灯のかげを眺めていたが、
「……?」
ふと、「それ」に気づいた。
揺らめく光のなか。
手が届くほどに近い木目の床に、黄色の円形があるのを見た。
(黄色い、皿?)
しかし、皿ではなかった。それは沼から顔をだす妖のように、少しずつ、床のなかから浮かびあがっていく。
時間をかけて、姿をあらわしたのは、歪な球体。
―――人の髑髏だった。
「なんだ、これは」
問うた私の声は、かすれていた。
地からあらわれた、黄色にかがやく、異様に美しい人の頭蓋。
ぽかりと空いた眼窩が、私をじっと見つめている。
『見事なされこうべだろう』
目をそらすことのできぬ私の、視界のそとから、自慢げな声がした。
私は、答えることができなかった。
『一体、誰のされこうべだと思う』
「……誰、の」
『おぬしに聞いておる。これは誰のされこうべだ』
「知らない」
喉が、からからに乾いている。
体が、あつくて仕方がなかった。
『では、誰のものか分からぬ、されこうべ。仮におぬしが千年欠かさず神に祈りを捧げれば、このされこうべに血肉が通い、次の千年、おぬしのそばに在るとしたら』
言葉を切り、「声」は音色をひくくした。
『おぬし、どうする』
莫迦げたことを。
頭はそう思うのに、なぜだか、体が勝手にうごいた。
目の前に置かれた骨に、おずおずと手が伸びる。
両手でそれを持ち上げると、意外なほどつややかな感触が、手のひらに伝わってきた。
(石切ぃ)
思わず、取り落としそうになった。
声、が聞こえた。
いつも私に纏わりついてくる、うるさい声ではなかった。
骨から骨へ直に伝わってくる、なつかしい声音であった。
震える手で舎利を抱えなおし、頭蓋のてっぺんに、耳をよせる。
触れている箇所から、かすかな痛みとともに、ふたたび声がつたわってくる。
(おおい……)
「ああ」
黄色い骨に耳をあてたまま、私の唇からは、声がもれだしていた。
(石切丸よぉ……)
色とりどりの記憶の花びらが、されこうべから舞い散る。
川にうつる緑が。いつかともに見た虹が。腕にだかれて眺めた細月が。
私の頭蓋の内側に、つぎつぎと映しだされていく。
氾濫する色彩。あらゆる色彩。
(ようやったなあ。さすがは、この俺の―――)
嗚咽をあげ、私は身も世もなく、骨を胸にかき抱いた。
何度も男の名を呼び、童のように泣いた。
長いこと、そうしていた。
やがて、私は濡れた顔をあげ、
「千年」
と、つぶやいた。
「千年、と言ったな」
闇から、声がかえる。
『ああ、千年だ。今宵、この新月の夜から』
私はしばらく、胸に抱きしめた丸い頭をあやすように撫でていたが、
「わかった、祈ろう。これより千年毎夜、一日たりとも欠かすことなく」
言って、うっとりとまぶたを閉じた。
千年祈のはじまりだった。
+++
『動くでないぞ』
声がして、両の目元にヒヤリ、と濡れる気配がした。
思わず指で触れようとすると、『さわるでない』ととがめられた。
『魔除けの紅だ』
私は、宙に浮かせた指が所在なく、何となしに唇にあてる。
『指を噛むなよ』
苦笑のにじむ注文が、ふたたび飛んできた。
『我が元にあるならば、品良くな』
結局膝のうえに落ちた両手が、袴をぎゅ、と握った。
『その陰気な鈍色の衣もやめよ。そうだな―――色は萌葱に』
白い風が袖をゆらしたかと思うと、忌色の衣が、朝露に濡れる若葉の色に変じていた。
『袴は浅葱だ。今はまだ』
視線を落とすと、袴は、神社のうえにひろがる空の色となっている。
『それらしくなったな』
満足そうな声音を聞きながら、私はふと気づいて、頭をおさえた。
纓のついた冠が、髪のうえに乗っている。
きっと今の自分は、昼間見た宮司そっくりの出で立ちをしていることだろう。
『さあさ、幣を振れ、拝みたてまつれ。おぬしが嗤った小さき者たちのように。作法と祝詞は覚えていような。もたもたしていると、そら、日が変わるぞ』
それから毎晩、幣を振り、祝詞をとなえた。
必死だった。
今までの灰色な時間が嘘のように、私は目を血走らせ、燃える気持ちで、神事をまなんだ。
拝殿のうえから、宮司の一挙手一投足を、射殺さんとするかのような鋭い目で、じっと観察する。
見ている途中、目の前をカラスが横切ると、忌々しげに手を振った。
数十年は、そうしているうちに、あっという間にすぎた。
+++
願掛けから、百年目。
私は相変わらず、きつい目をして、参拝客を屋根から見おろしていた。
宮司は儀式を終えて、社務所に引っこんでしまってる。
明日の行事の準備でもするのだろう、と私は予想していた。
さすがに百年経てば、私にとって目新しい神事というものはなくなっていた。
人たる宮司から学ぶことは少なくなり、かえって若い神職の粗が目について、苛々としてしまう始末だった。
(……あと、九百年か)
そう独り言ちて、立てた膝に顔をうずめる。
「……」
私は拝殿の屋根に腰かけながら、喉のしまるような気分をかかえていたが、ふと、顔をあげた。
(なんだ……?)
何とも嫌な匂いが、鼻をかすめた。下からだ。
(脂と血……呪のにおい……か?)
眉をしかめ、袖で鼻をおさえた。
すこし迷った末、私は瓦屋根に体を沈めて通りぬけ、拝殿の内へすとんと降り立った。
今は無人の、薄暗い拝殿のなかから、外を見やる。
そこには、柏手をうつ女が立っていた。
女はこちらにむかって深く礼をすると、口のなかでひそやかに、祈りをささげた。
「そこにおわします、大明神様。本日は、私の五つの息子のことで、お願いに参りました」
粗末な着物をきた女は、見るからに疲れ、やつれた表情をしていた。
私は身を乗りだし、目をこらす。
「我が子はおかげさまで今まで大病もせず、すくすく元気に育っていたのですが、三日前、急に喋らなくなったと思ったら、みるみるうちに首に『こぶ』が」
そのとき、母のうしろに隠れていた子供が、ひょいと顔をだした。
私は、目を剥いた。
そこにいたのは、「異形」であった。
首の右横に、赤子の頭ほどの巨大なこぶを抱えた子供が、表情もなく立っていた。
しかし「異形」と言ったは、そのこぶの大きさが理由ではない。
そのこぶには、顔があったのだ。
黒々とした目がまたたき、口にあたる部分がうごめいては、呪詛のようなものを吐いている。
おそらく、ただの人には見えぬ顔。
―――明らかな、霊障であった。
(このようなもの、一体どこでもらってきたのか)
私は額に汗をにじませ、袖で口元をおさえながら、手を合わせる女に向かって叫んだ。
「祈っている場合ではない。その瘤、はやく削ぎ落とさねば、子も、子の周りにいるお前たちも、命をおとすことになるぞ」
しかし、私の声が聞こえず、瘤の本性も見えない女は、ただ悲壮を顔にうかべて、一心に手を合わせている。
私は、舌打ちをした。
女は、つづける。
「大明神様、どうかお願い申し上げます。この子に憑いた悪いものを、祓い、断ち切ってください。どうか……」
無意識のうちに柄に手を当てた自分に気づき、苦い顔で、かぶりをふった。
―――何故、私が。
私は別に、「大明神」でもないし、ここの宮司でもない。童をたすける理由は、何もない。
そもそも、自分にこのような瘤が切れるとも限らないのだ。
(捨て置こう。こんなもの)
柄から手をはなそうとした、そのとき。
『よう斬れ』
なつかしい声がした。
私はハッとし、後ろをふりかえる。
誰も、いなかった。
視線の先にはただ、灰青にしずむ、物言わぬ祭壇があるばかり。
頭のうしろで、びょう、と風がふき、後ろ髪をそよがせていく。
私の意識をやぶるように、女の声がした。
「さ、お詣り終わったよ。うちに帰ろか、坊や」
びくりと前に向きなおる。
みれば女が拝殿に背を向け、子を連れて、今まさに帰ろうとしていた。
私はあわてて、手を伸べる。
「ま、待て……待て!」
私の大声に反応したように、子供がぴたりと足をとめた。
こちらを振りかえって、不思議そうに首をかしげる。
「どうしたんだい、坊や。帰るよ」
困惑する母親のとなりで、子供は私に視線をあてたまま、動かない。
私は身をかがめ、怖がらせないように、なるだけ優しく子供に問いかけた。
「私が、見えるのかい?」
反応はない。
見えているとも、見えていないとも、判別がつかなかった。
だが、すくなくとも何かを感じてはいるに違いなかった。
私は、ふう、と細い息をはき、身を起こした。
「―――いい子だ。そのまま、待つんだ。そこを決して、動くのではないよ」
私は逸る気持ちをおさえ、数歩、慎重に足をすすめた。
腰の刀を抜きはなって両手で持ち、ゆっくりとかかげて、頭上にかまえる。
ひとつ息を吸った。
「いざ」
持て余した熱を、柄をとおして刀身へ、ふいごのように吹きこむ。
「祓いたまえ!」
ふりおろす。
刃は寸分たがわず、瘤の根元にはいった。
人面瘤の口からけたたましい悲鳴があがり、子供の目が、一瞬、大きく見ひらかれた。
私はかまわず、刃をすすめる。
すすめるほどに、こき、こきと、何か固い物が割れる音がした。
まるで氷鳴だ。
いつか感じたのと同じ、悪いものを削ぎ落とす感触に、私の心はふるえた。
(すすめ。すすめすすめすすめ―――)
急に手応えがなくなったかと思うと、刃の切っ先がガツリと石畳に刺さった。
足元をみると、半透明の、赤黒い塊が落ちている。
それは「顔」をゆがめ、虫のように、びくびくと地面にのたうっていた。
「……」
ごくりと、つばを飲みこむ。
「斬れた……」
「何をやっているんだい。あまり母を困らせないでおくれ」
女の弱り切った声に、我に返った。
ふと目を転じると、子供のこぶは、先と変わることなく、首にあった。しかしもう、悪いにおいを発することはない。
じっと見上げてくる幼い瞳に気づいた私は、ついと目をそらし、独り言のようにつぶやいた。
「……腫物にこごる悪い気の溜まりを斬った。いま首にあるその瘤は、もうただの抜け殻だ。直に、跡形もなく消えることだろう」
「……」
「さ、母上と一緒に、早くお帰り。もう日が暮れる。黄昏時にうろついていては、また悪いものをもらってきてしまう」
母に手を引かれて石段をおりていく道中、童は、しきりに拝殿を振りかえっていた。
私はその背を見送ってから、急いで住処の本殿に戻った。
部屋の隅にかくした函から、されこうべを取りだす。
「先ほど声をかけてくださったのは、貴方でございますか」
袖で包むようにして胸に抱き、甘やかな声で問いかける。
返事は、なかった。
私は黄色い骨にしばし頬をあててじっとしていたが、やがて骨を函にもどし、衣擦れの音をたてて立ちあがった。
今日の祈祷をしなければならなかった。
+++
それからというもの、私は祈祷の合間に、参拝客の抱える病魔や霊障といった悪いものを斬るようになった。
付喪神として最初に刃をとおしたものが「こぶ」であったせいか、私がうまく斬れるものは、主に腫れ物や、できものの類だった。
うまく斬るといっても、もちろん、斬れぬときもあった。
しかし斬れたときの誉が人々に伝わり、いつしか腫物落としを求める者が、神社に多く訪れるようになった。
『でんぼの神か』
「……」
刀を手入れしていた私は、面白がるような声に、無言でかえした。
各地に自身を祀る社を多くもつ声の主は、どうやらこの地で得た二つ名を、悪くは思っていないらしかった。
刃が、銀の軌跡を描いて振り下ろされる。
すこし遅れて、黒ずんだ欠片が、はらりと落ちた。
私は、額の汗をぬぐうと、手を合わせたままの参拝客に言った。
「……そら、斬れたよ。もう用は済んだろう。さっさとお行き」
心なしか足どりの軽くなった背中を見やり、ため息をつく。
―――これで、何人目だろうか。
私は疲れた目で、あたりを見わたす。
「次に斬ってほしい者はいるかい」
地におりたち、人の厄を斬るようになってから、二百年がすぎた。
足の裏で土を踏みしめる感触にも、すっかり慣れた。
長年治癒のためにふるわれた私の刃は、今や気のこごりだけではなく、血のかたまり、肉にできた石、はらわたの腫れなど、様々な腫れ物、できものを斬ることができるようになっていた。
(何を必死になっているのだか)
手に持った刃を見やると、つややかな表面に、憔悴した男の顔がうつる。
(こんなことをしていても、私の願いがかなうとは限らないのに)
私は目を閉じ、ふたたび深く、息をつく。
そうして刃をもった手首をひるがえし、地面のうえ、削ぎ落とされてなお虫のようにうごめく穢れを、突き刺した。
人の目線におりたって、人にまぎれて過ごすうち、私はいくつかのことを学んだ。
ひとつは、神社には願いを抱えた者ばかりではなく、願いを終えた者も多くおとずれるということ。
そしてもうひとつは、願いはかなわぬこともあるのだということ。
その願いが真剣なものであったかどうかは、かならずしも分水嶺になりはしない……。
願いがかなったと言って、礼を言う者。
願いがかなわなかったと言って、嘆く者。
元はみな、同じような顔をして祈りをささげていた、参拝客だったのだ。
いまの私は、その事実を、知っていた。
(私の、願い)
私の隣をすり抜けて行き交う人々のなかで、私はひとり、思いをはせる。
(かなうか)
にこにこと笑顔の人々。
(かなわないか)
嘆き、怒る人々。
こぶしを、握りしめる。
鎮守の森の葉擦れの音が、ざわざわと耳についた。
ある日。
私は、ふくろうが鳴くころになっても、祈祷をしなかった。
笏をかたわらに置き、まんじりともせず、神座をまえに座している。
『やめたのか』
ろうそくの火がともるように、声があらわれた。
『今宵は三百年目の夜だというに』
「あと七百年ある」
自分でも驚くような際どい口調で、こたえた。
『どうした。今まで、このようなことはなかったであろう。飽きたのか』
「……」
飽きては、いなかった。
かつてのように人の頭しかみていなかったころと違い、人の顔を正面から見るようになった今、毎日何がしかの発見があった。
飽いたのでは、なかった。
『それとも』 声が、どこか面白がるような音色に、変わった。『憑かれたか。不安に』
ぞわり、と悪寒におそわれた。
笑み、嘆き、怒りを浮かべた人の顔が、つぎつぎと脳裏にうかびあがっては、水泡のように消えていく。
私は体にまとわりつく黒いもやを振り払うように、声をあらげた。
「どうせ、かないもしない望みだ」
『ほう?』
「だって、そうだろう。あのような願い、祈ったところで成就するはずがない」
―――そうだ。
「声」は、「願いをかなえてやる」とは一言もいっていない。
声は、「願いがかなうとしたらどうするか」、と問うただけ。
そもそも、あのされこうべは、真実「誰のものか」さえ分からない。
私が勝手に夢をみて、とびついたのだ。
私は目を光らせ、心にずっとわだかまっていたものを、吐き出した。
「私は、とんだ阿呆だ。あんな戯言を信じて、三百年も……」
『そうか。では、やめるか』
声はあっさりと言った。
『やめるも、やめぬも、おぬしの自由だ』
「……」
むつりと口を閉ざす私を横目に、声が、
『亥の、四刻だな』
と言った。
私は、じっと座っている。
またしばらく経つと、
『子一刻』
時計のように、声が時を告げた。
瞑目したまま、私は正座をくずさない。
ゆらめく灯りが、頬に熱い。
『子二刻』
ふーっ、ふーっと毛を逆立てた猫のような吐息が聞こえた。
それが自分の口からひびく音と気づいた途端、私は目をみひらき、笏を乱暴に右手に取った。
抜刀でもするかのように殺気をこめて光を見据え、ぎりぎりと奥歯をかみしめる。
こわばる左手をふるわせながら、笏にそえた。
座礼し、一歩膝を進め、起座してまた進む。
「かけまくも畏き……産霊之大神たちの、奇しき、神霊によりて……」
祝詞が終わった私は、うずくまった。
床に拳と、額をつける。
『あと七百年だな』
おずおずと顔をあげる。
夜の闇のなか、無限につづく鳥居の幻をみた。
+++
ただくるしいだけの百年がつづいた。
夜ごと獣のような唸りをあげ、爪で床をかきむしり、声に『傷をつけるなよ』と咎められた。
それでも毎日の祈祷だけは、欠かさなかった。
その次の百年は、平らかな心で、日々をすごした。
腫物切りの合間。
刀を手にしながら、雲ひとつないぽかりとした青い空を、感情の抜け落ちた顔でみあげる。
このころになると、私は永き時をすごすために、知恵をめぐらすようになっていた。
先のことを考えると、不安にとらわれ、身を引き裂かれる苦しみにおそわれる。
だから、先を考えぬことにした。
いまこのとき目の前にある、やるべき仕事だけを見て、淡々と取り組む。
長年苦しみに身を焼かれた末の、逃げ、なのかもしれなかった。
だが、目に見えない不安や恐怖にむかって戦いつづける気力は、とうに失われていた。
私は、疲れていた。
私の心が凪いでいく一方、神社はますます、多くの参拝客で賑わうようになっていた。
私は刀をにぎり、人に乞われるまま、病魔を斬った。
いつしか「石をも斬る霊刀」は、「霊験あらかたな神刀」と呼ばれるようになっていた。
(神とやらに用いられたことなど、ないけれど)
口に出して文句を言うだけの、元気もなかった。
何も感じぬように、うつむいてひたすら歩みつづける、単調な日々。
しかし燃え尽きたはずの心にも、時折炭火のように、じくじくと痛みが宿ることはあった。
痛みがどうしても辛い夜は、木箱からされこうべをだし、胸にかかえて眠った。
されこうべは黄色く干からび、物を言う気配を見せなかった。
しかし、その黒い眼窩に見つめられているうち、不思議と気持ちは落ち着いた。
ある夜、哀しい気持ちをもてあまし、いつものように頭蓋をかかえて眠った私は、初めて、「夢」というものを見た。
草原を男とともに馬で駆ける夢だった。
私は、人のかたちをしていた。
夢のなかで、私は不器用に手綱をさばきながら、必死に男の背を追っている。
逆光で顔の見えない男が、私をわずかに振り向いて笑った。
(遅い遅い)
(待って下さりませ)
(お前が早う来い石切。置いていくぞ)
起きると、いつもの伽藍堂だった。
目じりから流れた涙が、かたわらのされこうべを濡らしている。
袖で舎利を拭きながら、今のはもしや、人が見るという「夢」というやつだろうか、とすぐに気づいた。
物の身分で、夢なぞ見るのかと、可笑しくなる。
……もしかしたら、付喪神となってこの方聞いた男の声も、己の夢から漏れ出た、幻声であったのかもしれない。
ふとそんなことを考えもしたが、最早どうでもよくなっていた。
男と会えるのは幸せだった。
たとえ夢でも。
寝て起きて、祈祷して。
淡々と行事をくりかえす、感動も悲嘆もない日々。
だが、そんな単調な生活のなかでも、たしかに時間は流れていたようだった。
鳥居のまえに立っていた。
現世と神域をつなぐ、境界門。
二本の柱が堂々とそびえる、神社が誇る白鳥居だ。
私の目には、その門の左右に、果てしなくつづく「壁」が見えていた。
鳥居と同じ高さにはりめぐらされたその壁は、濃い霧のように白く、向こう側は、見とおせない。
奉納刀の化身である私が動き、ものを見聞きできるのは、祭神の神威がおよぶ境内のなかだけなのだ。
人が容易く行き来できる境界の外に、私は出て行くことはできない。様子を、垣間見ることすらできない。
鳥居の内側、この神社の境内のなかだけが、私の世界のすべてだった。
……かつてはこの大鳥居を眺めながら、いつか現世に還った男が自分の手を取り、外に連れ出してくれる日を夢想していたが。
「……」
無表情で、視線をおとす。
遠くから、くぐもった笑い声が聞こえた。次の瞬間、門をおおう白い霧がゆれ、雲をたなびかせながら人の姿があらわれる。
若い夫婦だった。明るい笑みをたたえた2人は、ゆったりとした足取りで、拝殿へと向かっていった。
妻の腕のなかには、生まれたばかりの赤子が、おとなしく抱かれている。
(……子が生まれたのか)
夫婦のことを、私は知っていた。
童のときから親につれられ、よく神社に遊びに来ていたふたりだった。
甲高い声をあげながら、ぱたぱたと石畳を走る足音を、昨日のことのように思いだす。その後ろからついてくる彼らの父母の、穏やかな顔も。
その父母もまた、幼いころは、大人の手にひかれてキョロキョロしながら鳥居をくぐってやってきたのだ。
すれ違いざま、私は赤子の額に手をかざし、加護をあたえた。
「健やかに育つように」
お前の父と母、そしてそのまた父と母たちのように。
赤子は祈りの言葉を聞いてか聞かでか、私の青紫の目に小さな手をのばし、きゃっきゃと声をあげて笑った。
その柔らかそうな五本の指をみて、凪いだ心に、さわりと風がふきこむのを感じた。
(いつのまにか―――そんなに時が経っていたんだな)
何も考えず、無心で祈り、病魔を斬って斬って斬りつづけてきた。
斬って生まれるものはなしと考えていたが、斬れば斬るほど人との縁は結ばれて、かくも末永く、つながりつづけていたようだ。
自分の、気づかぬうちに。
私は拝殿へむかう親子の背をしばし眺めていたが、やがてその場をはなれた。
木々の間を歩く。
木漏れ日がちらちらときらめくなか、涼やかな緑の香気が、私をつつんでいる。
(……おや)
一本の木のまえで、足を止めた。
こぶしの木だ。
見上げれば、空にのびる入り組んだ細い枝に、白い花が一輪ゆれている。
私は思わず、声にだしてつぶやいた。
「こんなこともあるのだな」
この木は老い衰えて、二十年もの間、花をつけていなかったのだ。
永きにわたって黙して語らず、春日のなかでも巌のように、影のように佇んでいたから、とうに枯れたものだと思っていた。
だが、この老木も確かに生き、体のなかに時の血潮をめぐらせていたようだ。
「なんだい」
私は、ひびわれた幹に手をあて、老木に、語りかけた。
「うつくしく、咲けたじゃないか……」
閉ざされた界のなかでも、ひたむきに生き、時を経て。
花弁をすかして、白い光が、切れ切れにこぼれ落ちてくる。
私は、ごつごつとした幹を手のひらに感じながら、まぶたを閉じた。
随分長い間、そうしていた。
風がさわさわと吹き、うつむく私の髪をそよがせる。
こぶしの花が、光のなか、しずかに揺れていた。
『あと五百年か』
その夜、祈祷をおえた私に、声が言った。
「……わざわざ、告げられずとも」
頭蓋を箱に戻しながら、私はつぶやく。
ここ数百年、何かの節目の日には、黄色いされこうべを飾って祈祷するのが習いになっていた。
「自分で数えておりますので」
『ふむ』
蓋をとじるまえ、ふと手を止め、されこうべを眺めた。
―――五百年か。
(半分まで、来たんだな)
ゆらり、と胸のなかで、揺れるものがあった。
まるで昼間見た、あの白い光のような。
「そういえば」
ぱたり、と蓋を閉じて、私は言った。
『うん?』
「先頃、こぶしの花が咲きましたよ」
『さようか』
沈黙が落ちる。
ふと、「声」とこのような日常を話したことはなかったなと思いかえした。
遠い目をして物思いにふけっていると、ふいに、声がひびいた。
『つぎの神無月には、おぬしを佩刀しようと思う』
私はしばし口をとざして考えてから、首をかしげて、聞きかえした。
「……佩刀?」
『出雲まで共をせよ、と言うておる。せいぜい身を清めておけよ。それと、その成り』
視線をおとすと、袴の色が、浅葱色から紫色に変わっていた。
より高位の神職にあたえられる袴であった。
『今まで励んできた褒美だ。―――ようやった、石切丸』
袴の色など、何でもいいけれど。
そう言おうとして、私はやめた。
かわりに、顔の表情をかすかに動かした。
『わろうたな。初めて』
言われて私は、指を唇にあてた。それは笑みの形に縁どられていた。
訳もなく、可笑しかった。
……もしかしたら、嬉しかったのかもしれない。
ほんの、少しだけ。
拝殿に、朝日がさしこんでいる。
祭壇のうえでは神鏡が銀にかがやき、供えられた榊も、濡れたようにみずみずしい。
「天清浄、地清浄、内外清浄、六根清浄と祓いたもう」
早朝の静寂のなか、声がひびきわたる。
私は紅をさした目を伏せ、頬を陽に照らされながら、祓詞を読み上げていた。
「天清浄とは天の七曜九曜、二十八宿を清め、地清浄とは地の神三十六神を清め―――」
祝詞紙をもつ親指の爪に、白の光がおちている。
唇から流れだす祓詞の言葉は、澄んだ空気になじんで溶けた。
「八百万の神たち諸共に、小男鹿の八の御耳を振りたて、聞こし召せと申す……」
+++
「おはよう。今日も良い天気だ」
境内をあるきながら、私はあたりに声をかけた。
鳥が数羽枝に舞い降り、ちち、と鳴いた。草木がゆれ、葉擦れの音をたてる。
私は右手を軽くあげて挨拶し、白袴をゆらして通りすぎた。
私はいつからか、神社の「ぬし」のようになっていた。
もちろんこの神域の本当の主は祭神なのであるが、尊き方は常に地上にある訳ではない。
代わりといっては畏れ多いが、この神社のなかで起きた出来事すべてを把握する立場に、私はなっていた。
それが可能となる程度には、私の霊格は上がっていた。
祭神の神気に触れつづけたせいか、長年の加持祈祷の成果かは分からない。
ぱん、ぱん、と青空に柏手がひびいた。
参拝客たちが、拝殿にむかって深く礼をする。
笏をもって拝殿の奥に座す私は、軽く頭をさげ、彼らの礼にこたえた。
―――ありがとうございます、石切さん。おかげで父の病が治りました。
「それは良かった。だが、油断は禁物。予後は大事にするように」
―――良縁にめぐまれ、妻を娶ることができました。このうえは、元気な子が授かりますように。
「おめでとう、末永く幸せに。早速、子宝祈願をしておこうか」
つぎつぎと訪れる参拝客一人ひとりの顔をみて、その声に、こたえていく。
これも私の日々の務めであった。
私が彼らに呼びかけたとて、刀の語りは人には聞こえないだろう。
だが、このように言霊を交しあうことで、生まれる何か、強まる何かがきっとあると、今の私は信じるようになっていた。
いつの間にか日は暮れて、拝殿の入り口いっぱいに、夕日がさしこんでいる。
参拝客の多くは現世に戻り、境内の人影もまばらだ。
いつもと変わらぬ一日が、平安のうちに過ぎようとしている。
私は安堵の溜息をつきながら、四方に光をはなち、見るものの意識を焼かんとする金色の日輪を見やった。
(うつくしいな……)
ぼうと見惚れる。
やがてあの陽は、地平の彼方に隠れるだろう。
だが、決して消えることはない。
一晩息をひそめたのちに東の空からたちのぼり、ふたたび燦々と天上に光輝をはなつのだ。
そうして時の円盤は、まわっていく。我らのような小さき者たちの祈りをのせて、音もなく。
ぱん、と乾いた音が、耳を打った。
我に返った私は、居住まいをただし、礼をする。
顔をあげ、拝殿幕の向こうを見やると、私はああ、と声をもらした。
「貴方は……」
そこには、ひとりの老爺が立っていた。
人生苦がきざまれた顔をうつむかせ、一心に手を合わせている。
その老爺のことを、私はよく知っていた。
彼はつい最近まで、家人の快癒をねがって、百日間神社を詣でる「百日詣」をしていたのだ。
まだ寒い、初春の夜更け。
彼は肩をさすりながら鳥居をくぐってやってきては、手水場から水をくみ、祈りの言葉とともにその身にかぶっていた。
老いた体が、寒風にがたがたと震えるのを見かねて、声をかけたこともあった。
(ご老体、そのように自らの体を痛めつけるものではないよ。そんなことをせずとも、貴方の祈りは、ちゃんと聞こえているよ……)
しかし老爺は水をしたたらせてとぼとぼと去り、次の日も、その次の日も、神社に参っては水をかぶって祈るのであった。
……私は、彼の妻の病魔を、斬ることができなかった。
私にできることといえば、老爺に寄り添い、ともに祈りを捧げることくらいしかなかった。
「祓え給い、清め給え、神ながら守り給い、幸え給え。石切大神様、いつも見守ってくださって、ありがとうございます」
老爺は手をあわせ、口のなかで短い祝詞と感謝の言葉をとなえると、ひとつ溜息をついて、話しはじめた。
「長年夫婦ともども、こちらにお世話になっておりました。が、このたび妻が亡くなりまして。死穢を避けて、五十日が過ぎてからご報告にあがりました」
言うなり老爺は絶句し、耐えるような表情を浮かべて、黙りこんだ。
「……」
知っていた。
ちょうど五十日前、老爺の妻の魂が、神社に立ち寄り、私のもとに挨拶に来てくれたのだ。
私は拝殿を歩みでて老爺に近づき、その皺だらけの額のまえに、手をかざした。
「ご老体。細君の御魂は神に還られた。今はきっと祖神とともに、どこかで貴方を見守っていることだろう。細君が常世で安んじて過ごされるよう、私も祈りを捧げよう。だから、どうか貴方も」
「さびしいのです」
私は口を閉ざし、かかげていた手をおろした。
「もう五十日が経った。あれのためにも、いつまでもくよくよせずに立ち直らなければ、前に進まなければと思うのに、できないのです。体の一部が、なくなってしまったようなのです」
言って老爺は、両手で顔を覆った。
赤い夕陽が、私と老爺を無言で照らしている。
「……こちらには、お百度参りをしていました」
手の覆いの向こう側から、老爺は、語りはじめた。
―――あれには苦労ばかりをかけて、何の報いもしてやれませんでした。側にいることが当たり前すぎて、感謝の言葉すら、言ったことがなかった。
このときが永遠に続くと、どこかで信じ切っていたのです。あれが、病に倒れるまでは。
気づいたときには遅かった。医者にも匙を投げられました。
気が狂いそうでした。怒りと嘆きと不安で、押しつぶされそうでした。
自分に何かできることはないかと必死に考え―――百日詣をすることにしたのです。雨の日も風の日も、神社に詣で、水をかぶりました。一日たりとも、休むことなく。
満願の日。
妻の頬に赤みがさして、久しぶりに言葉を交わしました。その翌日、妻は死にました……。
「結局私は、あれに何も、してやれなかった……」
でも、と老爺は顔から覆いをはずし、祈りのかたちに、両手を合わせた。
「お百度の最中は、心が折れずに済みました。こんな私でも、毎日祈りを積みあげていると思えば、少しだけ心が軽くなりました。あれが一番つらいときに、せめて何とか、笑っていられた」
言って老爺は、手を合わせたまま、深く深く、頭をたれた。
「ありがとう、ございました……今日は、その御礼を」
地平のむこう、陽の残り火が、金の色にぬかるんでいる。
私は、老爺のしわがれた手を、両の掌でつつみこんだ。
目を閉じ、祈る。
『石切丸』
遠ざかる背中を見送っていると、後ろから、声がひびいた。
「はい」
『泣いておるのか』
顔をあげた。
空はすっかり暮れ、透きとおった紺色に染まっている。
「……いいえ」
私は、振りかえらずに、言った。
「笑っております」
人々の声が、心が、祈りが。
この鋼の我が身に、伝わってくる。
まるで、彼らと私とが、ひとつづきの「骨」であるかのように。
ともに祈る永い刻のなかで、人と鋼が混じり合い、喜びも苦しみも、どこまでが鋼のもので、どこからが人のものであるか、最早わからない。
だが、そんな人と我が身が、今は―――愛しいと思う。
(ようやった、石切丸)
(ようやった。さすがは、この俺の……)
私は袖で目じりをぬぐい、微笑んだ。
「さて、今日の祈祷をしないとな……」
私の満願の日まで、あと百年が残っている。
+++
『現世に変わった動きがあるそうだ。おぬしにも無関係ではあるまいよ』
桜舞う、のどけき春の日。
いつものように、ふらりと本殿にあらわれた「声」は、そう言って語りはじめた。
話の内容は、にわかには信じがたいものであった。
なんでも、古き時代の出来事を変え、よってこの国の歴史を修正しようと企む者たちが、邪気を使役し、時をさかのぼって、過去を攻撃しているらしい。
これに対して今の政府は、敵の攻撃を阻止するために、刀剣の魂―――時をさかのぼる能力を有する付喪神たちを呼び寄せて受肉させ、助力を請う計画を立てているそうなのだ。
『人は時折、我々の思いもよらぬことを思いつくな』
正座をして話を聞いていた私は、さようでございますね、と同意した。
本殿の外では、春の祭礼の準備がすすめられていた。神社の者たちの掛け声や、物をひく音など、賑やかな気配がつたわってくる。
『もし喚ばれたときは、おぬしの好きにせい』
「承知いたしました」
礼をして答える。
主の許可があり、かつ、それが人の助けとなることだというならば、私に否やはなかった。
たとえ何処に行くことになろうとも、私のやることに変わりはない。
淡々と日々の行事をこなし、平穏な心をもって、目の前のやるべきことに取り組むだけだ。
―――まあ、正直このような形で鳥居の外に出ることになろうとは、思いもよらなかったが。
遠い目をして、しばし思いを馳せていると、声をかけられた。
『石切丸』
「はい」
視線をうつす。
しばしの沈黙のあと、声は、言った。
『……あとすこしで、満願だな』
まぶたを伏せ、口元に笑みを浮かべる。
床に指をつき、私は深々と頭をさげた。
わっ、と笑い声が沸いた。
宴会場のあちこちで談笑の花がはじけ、煌々と明るい照明が、酒気にけぶる。
私はその花を、部屋の隅から、機嫌よく眺めていた。
片手にもった猪口をかたむけ、ちびりと酒をなめる。気心の知れた仲間とともに飲む酒は、かくも美味い。
本丸の大広間。
夜の遅い時間にはじまった宴会は、勝ち戦のあととあって、盛り上がる一方だった。
刀剣たちは己が武勲をほこり、次戦の意気込みを雄々しくかたっては、機嫌よく酒を酌み交わし、笑い、大騒ぎをしている。
―――私が歴史修正主義者との戦いに喚ばれてから、もう随分と時が経っていた。
最初は戸惑っていた神社以外での暮らしにも、すっかり慣れた。
自分と同じ付喪神である仲間たちと触れあい、ともに戦う日々は、思いのほか楽しく、充実していた。
ふと、壁にかかる時計をみた。
「……亥の刻か」
私は猪口を膳のうえに置くと、立ちあがった。
「さて、と。私はそろそろ、失礼するかな」
隣に座っていた今剣が、きょとんと私を見上げた。
「あれ、石切丸。もう、もどってしまうのですか? きょうはほとんど、のんでいないでしょう」
「ああ。これから、今日の加持祈祷をしなければならないんだ。今日は早朝から出陣していて、祈祷をする時間がなかったからね」
えー、いまから、と愛らしい驚き声があがった。
「えらいですね、石切丸。まいにち、きちんとおいのりをして」
「日々の行事は、ちゃんと執り行わないとね」
いつか神社で誓ったように、暮らす場所が変わっても、私の行うことに変わりはなかった。
禊ぎ、祓い、祈りをささげる。
節度を守って時をすごし、心を平静にして仕事にはげむ。
「おいおい、お主はそればかりだな」
と、今剣の頭のうしろから、僧兵姿の薙刀が顔をだした。
「一日くらい休んでも、神も文句は言わんだろうよ」
私はその言葉に、にこにこと笑顔でかえした。
「もう、岩融ったら。石切丸、こまっていますよ」
「おい叩くな今剣、冗談だ。―――石切丸よ。また次の機会に飲み交わそうぞ」
「ああ、ありがとう。ぜひ、また今度」
明々とかがやく障子を後にして、ひとり、廊下をすすむ。
祭壇のあつらえられた部屋は、普段より、私のほかに出入りする者はいなかった。
襖をしめ、燐寸をすると、橙色の光がぼんやり浮かびあがる。
あたたかくなる頬にふと笑みこぼし、灯明皿に火を落とした。
部屋の隅にかくした箱の蓋をあけ、されこうべを取りだす。
両手をそえて、目のたかさに持ち上げた。
そっと、口づける。
「この日を、お待ちしておりました。長い、長い間」
誓いをたてた新月の夜より、毎夜一日たりとも欠かさず、祈りつづけてきた。
今宵でちょうど千年目。
満願の日だ。
「どうぞ、ご覧になっていてください。いつもと同じように」
されこうべを、儀式がよく見える場所に置いた。
神社の拝殿で、よくそうしていたとおりに。
この満願の日、いつもと何を変えるつもりはなかった。
衣をととのえ、背を伸ばして座る。
笏を体のまえにもち、細く長く、息をはいた。
礼をし、一歩膝進す。
起座して左にまがり、再び体をかたむけ、小さく礼。
千年繰りかえした所作は、自然になめらかに、流れていく。
私はこの永きときの間、様々なことを学んだ。
儀式の所作と祈りの意味。かなう願いとかなわぬ願い。倦みと不安のやり過ごし方。
流れる時に、身をゆだねるべきこと。
死んだ者は、生き返らないことも。
尊き方の気まぐれは、残酷だ。
しかしその気まぐれがなければ、私は今日まで生きてはこられなかっただろうと思う。
膝で進み、敷かれた軾の中央に座る。
神座に向かって深く拝み、笏を置いた。
祝詞紙をひらいて目の高さにかかげ、紅の刷かれた目蓋を伏し、唇をひらく。
体と、魂の奥底をふるわせ。
「高天原にかむづまります、皇賀親、神魯岐、神魯美のこともちて」
ひそやかに、しかし地中から天上へと噴きあがらせるごとく、声をひびかせる。
「八百万神たちを、神集えに集え給い……」
灯の黄色い輝きが、私とされこうべを照らしている。
襖には動かぬ影がうつり、外は昏き藍にしずむ。
庭の木々、物言わぬ石のかげでは、この身とひとつづきとなった御魂たちが、きっと息をひそめて、私の声を聞いてくれていることだろう。
この祝詞が終わったとき、私はどうするのだろう。
どう、在るのだろう。
「かく失いてば、罪という罪は在らじと。祓いたまえ、清めたまえと申すことの由を、天つ神、地つ神、八百万神たち、平らけく、安らけく聞こし召せ―――」
私は……。