18 石の見る夢(完結) 青年は走っていた。
木々の合間をぬい、花を軽やかによけ、斜面を一気に駆け上がる。ブーツが草むらを蹴り、切れ切れの細い葉を舞いあげる。
丘の頂点にたどりつき、彼は立ち止まった。
強い風が吹きつけ、白いコートがはためく。
青年のまえには、透きとおった紺色の空が、一面にひろがっていた。
暁の薄い星のひかりが、浅瀬にしずむ貝のように、キラキラと輝いている。
青年はゆっくりと、両手をひろげた。
潮の香りのせた薄青の風が髪を撫でさすり、はるか後方へと吹き去っていく。
「えるすと。ソンナ風ニ突然走ッテハイケマセン」
青年のうしろから、一体の機械が、宙をふわふわと飛びながらついてくる。
「一応、病ミ上ガリナノデスカラ」
青年―――エルストは振りむき、口をとがらせる。
「何言ってんだ、相棒。もうすぐ約束の時間だ。走らなきゃ、遅刻するところだったじゃないか。待ち合わせの相手が俺たちより先に来てたら、いきなりカッコ悪いぞ」
「ハア。散々寝坊シテ、相棒ノコトヲ待タセテイタ人ノ言ウコトトモ思エマセンネ……」
「何か言ったか?」
「イイエ、ナニモ」
機械の相棒がぶつぶつ言うのを聞き流し、エルストは、ふたたび前に向き直った。
「それにな。旅立ちのまえに、少し動いておきたかったんだよ。取りもどした体で、思いきり走ってみたかった」
眼前に広がるのは、夜明けをひかえた空と、草の絨毯。
遠くには、穏やかにたゆたう海がみえた。地平からまさに昇らんとする太陽の気配をやどして、その水面は、銀色に透きとおっている。
(セイヴァールの海だ)
エルストの胸に、感慨の波が押し寄せる。
10年ぶりに見る、とエルストは思った。
風景として視界には入っていた。海だけではなく、草も空も花も人も、それぞれを知覚し、認識はしていた。
しかし、この10年、エルストには、何ひとつ見えてはいなかった。
今、そのことに気づいた。大切な人たちが、気づくチャンスを与えてくれたのだ。
***
10日前。
青年の目覚めは、ゆるやかに訪れた。
ひらいたままの眼、何もうつさないその視界に、景色がにじむように、浮かびあがってくる。
ぼやけていた焦点が少しずつ合い、思考がクリアになっていく。光と色と音が、透明な意識に、オーロラのように降りてくる。
ふと気づくと、青年は、うつくしい景色にかこまれていた。
地平から沸きたつ金の光と、朝焼けの赤に染まる雲のなかに、誰かに背を支えられながら浮かんでいる―――そんな感覚に包まれていた。
ゆさぶられるような感動と、得も言われぬ郷愁が、全身に押し寄せる。風の音が耳をくすぐり、陽が頬をあたためる。
唇を薄くあけると、澄んだ空気の味が入りこんできた。心がズキリと痛み、力強く、鼓動をはじめるのを感じた。
「えるすと」
どこからか、声が聞こえた。
俺の名だ。
気づけば頬に、笑みを浮かべていた。
自分を呼んだ声を追って、ぎこちなく、顔をめぐらせた。すぐ側に、蒼い機械の顔があった。それが誰の顔であるか、わざわざ考えるまでもなく分かりきっていた。
(相変わらず、間の抜けた面だなあ)
そんなことを考えつつにやにやしていると、間抜け面に肩をつかまれた。食いこむほどに力強い鉄の指に、乱暴に体を揺さぶられる。
「えるすと! シッカリシテクダサイ。私ノコトガ分カリマスカ」
ガクガクと視界がまわる。腕と頭が痛い。ついでに何故か背中まで痛い気がする。さっきまでの心地よさが台無しだ。
エルストは舌をかみそうになりながら、何とか声を押しだした。
「や、やめろ……ガウディ……」
蒼いアームの動きがぴたりと止まった。羽のついた頭が、うつむく。電源が切れたように、機械は動かず大人しくなった。
「ガウディ……どうした……」
やけに重い手をあげ、機械の顔にぺたりとあてた。鋼鉄の肌は、冷やりとしていて気持ちよかった。
呼びかけてふと、エルストの頭に、
(俺はいままで―――どうしていたのだっけ)
と、疑問が浮かんだ。紗のかかった記憶を探る。
しかし、回想が実を結ぶより先に、目の前の機械が、顔を勢いよくあげた。
「ドウシタ、デハアリマセン。ノンキナ人デスネ。自分ガドレホド寝坊シタカ、分カッテイルノデスカ」
寝坊だって?
エルストの問いに応えず、機械はつづけた。
「トリアエズ、異世界調停機構本部ニ連行シマス」
「あ、おい」
言って機械は、エルストの体を荷物のようにかつぐ。抗議をする間もなく、鉄の相棒は急発進し、すべるように丘の斜面を降りていった。
(なんだってんだ)
さかさまになったエルストの視界には、先よりもさらに明るい空が映っていた。
「ああ、起きたのか」
早朝の薄い光を背負ったひとりの男が、鷹揚に後ろ手を組み、窓際に立っている。
エルストは、見覚えのある部屋の真ん中で言葉をうしない、立ち尽くしていた。
「総帥……」
何だか途方もなく久方ぶりに会った、ような気がした。
ガウディが前に進み出て、うやうやしく機体をかたむけた。
「早朝ニゴ対応イタダキマシテ、申シ訳アリマセン、総帥」
「かまわんよ。このときをずっと待っていたのだからな。私も君も」
記憶とくらべて老けた顔が、縦にうごいた。
そのさまは、まさに寝坊出勤を許す寛容な上司、といった風に、淡々としている。
「まあ、とりあえずソファに座れ。いま、茶を淹れる」
かちゃり、とカップが目の前に置かれた。
ソファに身をしずめたエルストは、カップから立ちのぼる湯気を、ただ呆然とみつめていた。
「さて。君の身に起きたことを説明せねばなるまいな。何から話せばいいか」
それから男は、これまでに起こった出来事をひとつずつ語りはじめた。
エルストは、ぼんやりとした意識を紅茶の香りに持っていかれそうになりながら、必死に話を聞いていた。
が、まったく頭のなかに入っていかなかった。興味関心はもちろんあったが、眠くて仕方がなかった。しかも、男の話は、寝起きの呆けた頭が受け入れるにしては複雑で、常軌を逸していた。
男の低い声は、さわさわと耳に心地よさだけを残して、意識にのこらず溶けていく。
「―――以上が現在の状況とそこに至る経緯だ。が、私の話はどうやら君には届いていないようだな」
ソファのうえでいつの間にかエルストは、目をつむり、ぐったりとしていた。
「後日改めて話そう。とりあえず休め」
響友ガウディ、と総帥に呼びかけられた相棒は、心得ている、といった風に再びエルストを肩にかつぎ、総帥室を退出した。
そこから先は、エルストはよく覚えていないが、どうやら異世界調停機構本部の一室に運ばれたらしい。
その後しばらくの間、エルストは甘やかされた。
清潔な寝台に寝かされ、あたたかな毛布をかけられた。腹は何故か減らなかったが、付き添いにすすめられ、時々フルーツをかじった。
相棒は付きっきりで細々とした世話を焼いてくれ、フラーゼンたちも出入りして様子を見にきてくれた。人の姿はなかった。
管理官とも再会した。彼女は一瞬だけ、泣きそうな顔をしたあと、ほほえみを浮かべた。
その笑みは、美しかった。
底抜けに優しく、安穏とした日々。
しかしそんな生活は、あるとき突然終わりを告げた。
「護衛任務?」
朝、部屋におとずれたフラーゼンの手によって叩き起こされ、ガウディとともに呼び出されたエルストは、総帥の口から発せられた言葉を、ぽかんと口をあけて聞いていた。―――任務だって?
「ああ。君たちに護衛任務を与える。研究施設ライル機関に赴く調停召喚師に同行し、その身辺を護衛するのだ」
言って総帥は、その隻眼をエルストに向けた。
「復唱はどうした? 召喚師エルスト」
「召喚師……」
唇が自然と、その言葉をかたどった。なつかしい響きだった。
「何を呆けている。君は、我が異世界調停機構に籍を置く調停召喚師だ。今も昔も、変わらずに。よって機構の命に従い、任務を遂行してもらわねばならない。―――分かったのであれば、復唱だ」
エルストはガウディに小突かれ、背筋をのばした。声を張り上げる。
「調停召喚師エルスト、研究施設ライル機関に赴く調停召喚師に同行し、護衛する任を遂行します」
エルストの言葉が終わると、となりで、相棒の澄ました声があがる。
「同ジク響友がうでぃ、護衛任務ヲ遂行シマス」
「うむ、よかろう」
承認の言葉に、安堵の溜息をついた。
その途端、口の中に何とも言えない味がひろがる。
エルストは、顔を上げた。
「総帥、俺―――」
「出発は明日だ」
「明日!?」
自分の言葉をさえぎるようにかけられた台詞に、エルストは飛び上がった。
「合流場所は暁星の丘。時間は日の出ころだ、遅れぬようにな。なお、響命石も忘れずに持参するように。あれは君たちの本体のようなものだ」
***
「あった、『本体』」
丘の頂上で衣服をまさぐっていたエルストは、ポケットから石をとりだした。
夜明けの薄暗さのなか、手のひらから、青い硬質な光がこぼれ落ちている。
「よしよし。前みたいに、どこかに落としたりしてないぞ」
狂った時代の、ひとつの失態を思い出して微笑む。
柔らかなベッドに埋もれて過ごす日々のなかで、エルストは、昔の記憶をほとんど取り戻していた。
ガウディが、呆れたように声を発する。
「貴方ハ昔カラ、ソソッカシカッタカラ」
「何言ってやがる、あれはお前が」
言いかけて、むずむずとした気分になった。
あのころ、自分と相棒は「ひとつ」だった。どちらのせい、という話ではないのだろう。―――たぶん。
エルストは、頬をかきながら相棒を仰ぎ見た。
「……なあ、ガウディ?」
「ハイ」
「正直、未だによく分かってないんだが。俺たちは、転生を果たした、ということでいいんだよな」
キュー、と鉄のアームをもちあげて、ガウディはこたえた。
「一旦肉体カラ放タレタ魂ガ、新タナ肉体ヲ得ルコトヲ転生ト定義スルナラバ、ソウナルノデショウ。記憶ト人格ガ保タレテイル点復活ニ近ク、大変いれぎゅらーナ転生トイエルデショウガ」
「ふうん」
やはりいまいち分からない。
「なんにせよ確かなのは、俺たちはその『大変イレギュラーな転生』を果たしたばかりだってのに、早速こき使われてる、ってことだな」
「文句ヲ言ワナイ」
「わかってるよ。こうして生かしてもらっているだけでも御の字だ。ただ、総帥の人使いの荒さが10年変わっていないみたいで、安心したってだけさ」
石を懐にもどし、背伸びをする。
「俺たちの待ち人も、大変だ。こんな朝早くから出張だもんなあ」
エルストたちは、待ち人の情報を与えられていない。名前も経歴も不明だ。
誰が待ち人かは待ち合わせ場所に行けば分かるし、合流後自分たちで自己紹介しろという。なんとも覚束ない話だが、間違いなく彼らも総帥にこき使われているクチだろう。
「らいる機関ニ行クタメニハ、都市間鉄道ヲ乗リ継イデイカナケレバナリマセンカラネ」
「何しに行くんだろうな。召喚術の研究か」
「サア」
それも待ち人から聞けということか。
まあ、知らなくても護衛はできるが、とエルストは顎に手をあてる。
「ライル機関か……」
記憶を刺激される名前だった。
かつて己が立ち会った争乱の舞台。
懐かしさよりも、苦々しさを伴う思い出の場所である。
「……先方は、俺たちに悪い感情をもっているだろうな」
「ソウデショウネ。アノ騒動ノ主犯ハ我々デアルト、未ダ誤解シテイル者ハ多イデショウカラ」
「『誤解』じゃない。あれは俺の犯した罪だ」 エルストは、はっきりとした口調で、言った。「糾弾は、受けねばならないと思っている」
「アレハ、貴方ノ弟君ガ」
「弟の罪は、俺の罪だ」
「……」
言い切るエルストに、ガウディは言葉を失う。
エルストは、草をふみ、歩みをすすめた。
「俺たちは、兄弟の問題に、多くの人を巻きこみすぎた。関わった人をすべて不幸にし、時には未だ息のあるものを……理に逆らって滅ぼした」
他に手段がなかったとはいえ、穢れにおかされた命を、この手で絶った。そのときの感触は、エルストの手に、胸に、未だにこびりついている。
「えるすと……」
「俺は咎人だ。贖罪のため、長い長い時間をかけて、歩きつづけなきゃいけない」
不幸に見舞われた魂たちにも、自分たちと同じように、世界からの救済の手が与えられていることを、エルストは信じている。
しかしそれでも、エルストの罪は消えない。
ましてや前世の記憶と心を持っている以上、責任から逃れられる理由は、ひとつもないだろうとエルストは思う。
「もちろん、償いをせねばならないのは、弟も同じだ」
「……貴方ノ弟君モ、りぃんばうむニ?」
「わからない。可能性は、低いと思う。だが、」
もしかしたら。
つづく言葉を飲み込み、エルストは、目を伏せた。
滅びる間際、自分にすがりつく、その幼い手のつよさを思いだす。
(ここから先は、口にはだせない。夢だ。俺の、勝手な)
石になったエルストの、祈り。業の深い願い。
夜に見るそれよりも儚くあてどない、見果てぬ夢。
エルストは、顔をあげ、黙りこむ相棒を見つめた。
「……お前はやっぱり、許せないか。弟のこと」
ふたりがひとつだったころ、ふたりの思いは、互いにつつぬけだった。
ガウディは、エルストのすべてを許していた。
許し、いつくしみ、愛していた。
そしてエルストを不幸にするすべてを、憎んでいた。
憾みを知らぬはずの、清らかな機械が発する、弟への暗い怨嗟。
その声を背中合わせに聞くたびに、エルストは、後悔と哀しみで心が引き裂かれそうだった。
「知っていたよ。お前がギフトを憎んでいたこと。お前とひとつだったとき、お前の心はそのまま俺に入ってきていた」
いま、エルストはガウディの心が分からない。
耳をすませても、かすかな電子音しか聞こえない。目をこらしても、鉄の無表情があるだけだ。
機械は、感情のうかがえない声をひびかせた。
「エエ。私ハ怒ッテイマス、今モ。ソノ名ヲ口ニ出シタクナイホドニ、『彼』ニ憤ッテイル。ソシテ貴方ガ、弟ノ罪ヲ自分ノ罪トシテ語リ、苦シンデイルコトニモ」
「……そうか」
視線をおとす。
しかしそんなエルストの前で、ガウディは、「デモ、」とつづけた。
「コレカラズット、ソウデアルトハ限リマセン」
「……え?」
エルストは、顔をあげた。
宙に浮かびながら、ふよふよと前にすすんでいた機械の背から、声がひびく。
「貴方トヒトツダッタトキ。私ノ中ニモ、貴方ノ心ガ、入ッテキテイマシタ。貴方ハ、私ガ貴方ノ弟君ヲ憎ンデイルコトヲ、トテモ哀シンデイタ。今モ、貴方ハ哀シイ思イヲシテイルノデショウ―――キット。ダカラ、」
蒼い機械兵器は、夜明け直前の透きとおった空を背に負いながら、振り向いた。
「努力シマス。コノ身ノウチノ憎シミガ、イツカ雪ガレルヨウニ」
エルストは、表情をゆがめた。
泣き笑いであった。
「ガウディ……」
言ったきり俯き、言葉を途絶えさせたエルストに、相棒は歩み寄り、ぎこちない動きで頭をなでた。
エルストは、うつむいたまま、へへっ、と笑う。
「ドウシマシタ、えるすと。ドウシテ、マダ、ソンナニ……哀シソウナノデス」
「いや……俺たちは本当に、ふたつに分かれちまったんだなあ、と思ってさ」
エルストは、鉄の手をたぐりよせ、自らの頬にあてる。
その冷たさをあじわうように顔を寄せ、己の手を重ね合わせた。
気持ちを伝えあうのに、言葉を使わないといけない。体温すら、いまはこんなにも違う。
分かり合えないかもしれない不安を胸にかかえ、気持ちが通じたことを知り、安堵する。
そんな当たり前のプロセスが、今はこんなにももどかしく、寂しい。
「お前が俺のなかからいなくなって、ずっとむなしいんだ。お前と一緒だったときは全て満ちていたはずなのに、今は、心に丸く隙間があいてる。お前がおさまっていた、形のままに」
エルストは、ガウディを、おのれの因果に巻き込んでしまったことを、ずっと悔いていた。
今も、悔いている。できることなら解放してやりたい。しかし。
「俺は勝手だ。お前を自由にしてやりたいと思うのに、こうやってすがりついちまう。胸のなかの空白を、埋めてほしいと願ってる。もう一度お前とひとつになれたら……お前が俺になってくれたらって」
頬のうえ、重ねた手を、つよく握る。
「俺はダメな野郎だ。もしお前が、俺のまえからいなくなっちまったら……俺は……」
「下ラナイ。ソンナコトヲ心配シテ」
機械が、ぴしゃりと言い放った。
「そんなことって」
「ソンナコトデス。貴方ノ、杞憂ニスギナイノデスカラ。私ハズット、貴方ノ側ニイルト、昔カラ言ッテイルデショウ。えるすと」
鉄の親指が器用に動き、エルストの頬を撫でる。
くすぐったさに、エルストは身をすくめた。
「寂シカッタラ、思ウ存分、私ニクッツケバイイノデス。苦シクナッタラ、寄リカカレバイイ。私ハソンナ貴方ヲ、支エマショウ。必ズ」
「ガウディ……」
ガウディはエルストから手をはなし、人差し指をぴんと立て、生徒に言い聞かせるように言った。
「―――コノ世ノ全テノ事象ニハ、意味ガアルトイイマス。私タチガ1ツニナッタコトニモ、再ビ2ツニ分カレタコトニモ、キット意味ガアル筈デス。合ワセタコトデ減リ、分カレタコトデ増エルモノモ、キットアル。苦悩ヲ2デ分ケタラ、喜ビハ4倍ニナルノデス」
エルストは吹き出す。
「どういう計算だ。お前ホントに機械か」
「貴方ノ響友デスヨ、えるすと」
エルストは肩を揺らして笑うと、蒼い機体に手のひらをのせた。
額をつけ、万感の思いをこめて、友の名を呼ぶ。
「ガウディ。……ありがとな」
日月となって常に自分を照らしてくれる友に、心からの感謝をささげる。
「アッ! デモ、私ノ機体ニ背中カラ寄リカカッタラ、痛イ思イヲスルカモシレマセンノデ、ゴ注意クダサイネ」
「何の話だよ」
エルストは、地を蹴って、数歩あゆみ出た。
両手をひろげ、潮風をむかえる。
「俺は故郷を出て、はじめて海を見た!」
その目にうつるのは、遠く光りはじめる水平線。
「家出して、セイヴァールに向かう列車の窓から、生まれて初めて海を見たんだ。海岸線のすぐ際を、列車は走っていった。まるで水のうえを滑っているみたいだったよ。俺は額を窓にくっつけて、子供みたいに、晴れた青い海をずっと見てた。見ながらなぜか、悲しくなっちまった。故郷の小さな湖とはまるで違うと思ったら、何だか鼻の奥がつんとしちまってさ」
薄茶の髪を風にゆらされながら、エルストは、振り向かぬまま語りつづける。
「なあガウディ。もし、いつか―――石が風化して丸くなるぐらいに、長い長い時がたって、俺の罪がそそがれる、そんな日がきたら」
海のむこうから投げかけられる白光が、あたりを真珠色に透かす。
風のながれに沿って、幾粒もの鉱物質のきらめきが、舞い散りながら後方に過ぎ去っていった。
「そうしたら一緒に旅をしよう。この星の隅々まで、知らない景色を見てまわるんだ。高い山に、ひーひー言いながらのぼろう。雪原に足跡をつけて歩いたり、背の丈の草をかきわけて進もう。海は……俺もお前も泳げないから、船に乗ってわたろう。夜は一枚の毛布を分かち合って、お前と眠るんだ」
あたりに満ちていく曙光のなか、ひとりと一体の輪郭が、やわらかく浮かび上がっていく。
「色んな街に行こう。祭りの人ごみで迷ったり、路地裏のあやしい店で掘り出し物をさがしたり、陽気な酒場で、うまい酒とうまいオイルの入ったコップで乾杯をしよう。良いやつにも悪いやつにも出会うだろう。事件にまきこまれて、ろくでもない目にあうかもしれない。でもお前と一緒だったら、何だって平気だ」
エルストは、今まさに明けた青い空を、みあげた。
「ぜんぶ飽きちまったら、界を渡ろう」
風がわたる。
エルストもガウディも、無言で、乳白色にとけた景色をながめる。
コートがはためくのにまかせていたエルストの胸に、ふと、いつの日か父が語ってくれた言葉が去来した。
―――ブラッテルンの円環は、リィンカーネーションの輪をあらわす。
エルストは、風の起源、天の向こうに鎮座し、音もなく動きつづける巨大な光輪を夢想した。
真理の光をひたむきに追いつづけたあの一族に、今はじめて、哀れみと、ほんのわずかな愛しさを感じた。
キュルル、と音を立てて、ガウディの頭部が180度まわった。
おくれて、胴体が後ろに向きなおる。
「距離300。個体2。接近シテキマス」
「来たな。―――おい、ガウディ」
「何デスカ」
「召喚武装しよう。第一印象が大事だ。有能で強そうなアピールをするんだ」
「ハイハイ」
ガウディの機体がほどけ、鎧となって、エルストの体を覆った。
頭からつま先までつつまれる感覚に、エルストは安堵する。鉄の指を開閉し、息をふかく吸うと、丘のふもとを見下ろす位置に立った。
「気のせいか……」
うしろから吹く風に、薄茶の髪をゆらされながら、エルストはつぶやく。
「前にもこうやって、ここで誰かを待っていたことがあるような気がする」
(欲を言えば)
エルストは、内心でひとりごちた。
(もうひとつ夢があったんだ)
赤い髪の少年に、もう一度会いたい。
いつも自分を追いかけてきてくれた、人懐こい笑顔に。
自分たち兄弟に、最後まで伸べつづけてくれたその手に。
(もう一度だけ。昔のように……)
人影がふたつ、丘をのぼってくる。
丘をみおろしていたエルストの目が、徐々に、大きく見ひらかれていった。
「おい、ガウディ。石も夢を見るのかな」
頬がそまり、声がうわずる。
「願いがふたつ、いっぺんに叶っちまった」
視線の先で、赤い髪の青年と白い髪の少年が、立ちどまった。
赤い髪の青年は、顔をくしゃりと歪め、何事か唸るようにつぶやくと、こちらに向かって駆け出した。
「―――エルストさん!」
エルストは、両腕をひろげた。
腰にさしたおもちゃの剣を羽のようにはためかせ、丘を駆けのぼってくる青年を、出迎えるために。
(完)