10 憎悪する機械 無数の黒色点が、世界に充満していた。
刻一刻と様相を変え、海となってざわめくそれは、単なるランダムノイズではなく真にカオスであった。
全体として暗闇と評しうる、暗黒粒子の飽和空間。AGCTの縦糸と1、0の横糸が織りなす無限の敷布。
世界には轟轟と風の音が間断なくひびいており、時折耳をつんざく鋭いハウリングが、船舶サーチライトがごとく右に左に闇を貫く。
ひときわ際どい、歯ぎしりのような引きつれた音の尾が去るや、轟音の奥底から純度の高い電子音声が鳴りわたった。
黒く塗りつぶされた世界の中心に、それは元から、「在った」。
電子音声が一陣の風となって横なぐれ、黒色点を散らして振りはらう。闇から厳かに浮かびあがる本性の登場を、幾百の怒号が折りかさなって出迎える。
それは赤く燃えさかる、ひとつの巨大な球体であった。
(―――ワタシハ)
暗黒宇宙に思念がとどろく。
(ワタシハ灼熱ノ玉トナッテ、世界ヲ守護スル機械デアル―――)
天体はひとところから見て単に猛火の壁としか認識できぬほどに大きく、あるかなきかの動きで自転していた。赤く焼けた表面はマグマとなって融解し、渦をまいて炎気を吐く。
機械は、「10年」という名の精神世界における「永遠」において、決して絶えずに燃えつづけてきた。
この暗闇に満ちた世界の芯を、冷やさぬように。
ラー……
澄みわたった電子音声が、ふたたび、ひびいた。
蝋にゆらめく火のように、ひそかにひとつの気がともる。
その存在も、そこに「在った」。
しかし姿は見えない。とぐろを巻き、ほどけ、無秩序にあらぶる漆黒の海にかくれたままだ。
その存在は、機械のすぐ近くに気配だけを漂わせ、発音した。
「見つけたよ」
それは明確な声をもっていた。
「長かったな」
声は、独り言のようにつぶやいた。機械は応えない。
「まだ、会話はしていない。見つけたとき、あいつは眠っていたんだ。いま、適当なところに、運んでいる最中だ。外野に邪魔されることのない、静かな場所にな」
機械は知っていた。一部始終を、「見て」いた。
機械の上方、いずこからか投影された楕円の光が、波間にうつる月光のように不安定にゆらめいている。そこには外部の情景が映しだされていた。
機械はスクリーンを通して、青い鋼鉄の体が建物を破壊し、人を傷つけ、乱暴に開けた扉の内側からひとりの男を連れだす様を、まざまざと観察していた。
「―――異世界調停機構」
むかし馴染んでいたはずの、いまは遠いひびきの単語を、声は発した。
「懐かしい顔があったよ。管理官の姿も見かけた。向こうはこっちのことなんて覚えちゃいないだろうが」
言って、声は途切れた。
機械は、ひとときの沈黙に耳を澄ませ、その間隙をふかく愛した。
「懐かしかったな……」
スクリーンは、銃に追いたてられ、逃げる体を映していた。
背後から、緑の閃光が照った。召喚術だ。鋼鉄の体が、つづく衝撃から、腕のなかのものを庇うように身を折る様が映る。
スクリーンを観察していた機械が、囂、とうなった。体表温度をさらに上昇させる。
声は語りつづける。
「召喚師たちの引きつった顔を見たときにさ。思い出したんだ。2年ほど前だったか……故郷の屋敷にもどって、調べ物をしたときのことを。
久しぶりに入った屋敷は、目も当てられないくらい荒れ果てていた。草は伸び放題。扉は壊れてるし、部屋のあちこちに蜘蛛の巣がはっていた。まさに幽霊屋敷だよな。人が消えて久しいと、屋敷ってのはあんな風になっちまうんだな……。そんながらんどうの廃墟のなか、当主の部屋にこもって、震える指で必死に親父の本をめくっていた。
なにかの気配を感じて、窓から外をみたんだ。遠くに、人が立ってた。村の男だったよ。同じくらいの年の男でさ……会話する機会はほとんどなかったんだけど、もしかしたら、友達になってくれた……かもしれない奴だった。何の用があったのか全く分からないけれど、そいつはただぼうっと突っ立って、屋敷をみあげてた。
その姿を見て―――気づけば、窓のしたに屈んで、隠れていた」
スクリーンのなかで、体からボロボロと何かがこぼれおちるのを見た。
蒼と黄色の、鉄の欠片だった。不気味なあざやかさをもって、それらは腕のなかの白い布のうえに散らばる。
体は震えながら、背後をふりかえった。その視界、スクリーンにうつるのは、遠くからこちらを見やるたくさんの顔だった。
憎しみと恐怖にゆがむ、顔、顔、顔。
茫漠とした声のひびきが、機械にとどいた。
「俺たちは、正義の味方だったはずだ……」
機械は無言で、燃えつづけていた。
黒色点を巻きこみ、煤をはき、自分の周囲を赤く照らし輝かせながら。
しかしその光は、声までは届かない。
声は、闇のなかから、ふたたび機械に語りかけはじめた。
「眠るあいつを布で包んで、かかえあげたよ。思ったよりも軽かった。記憶のなかの子供のあいつと比べると、ずっと重たかったけれどな。
あいつを連れだして外に出て―――なあ聞いてくれよ。走ってる最中さ、あいつ、布越しに身を寄せてきたんだ。目を覚ましたのか……顔は見えなかったけれど……おずおずと、甘えるように、胸に頬を押しつけてきた。
昔を思い出したよ。子供のころのことを……」
歌うように語りつづける声を前にして、機械の炎はますます赤い。
病的な光を発する溶鉱炉となった表面から、マグマのように溶鉄が噴きあがる。
「俺たちの言葉は、あいつに届くだろうか」
機械は、超自我に置き換わり世界を律する存在として、声の主の無分別に深い失望と憤激をおぼえた。白い光を皮膚にわたらせ、太陽風を吐きだす。その風は宇宙を揺らし、声の主の顔をほんの一瞬だけあらわにした。
「……そうだな。もう、そんな生易しい場所には立っていないな。俺達も。あいつも」
そうつぶやく声からは先の甘さがとりはらわれ、ひびきは周囲の闇になじんで暗かった。
淡々とつぶやく。
「ああ」
スクリーンのなかで、鋼鉄の体が立ちどまった。腕にかかえた布の包みが、地面に優しくおろされる。
「殺すしかないな……」
その言葉を最後に声の気配は遠のき、機械だけが残った。
火の玉は囂々と燃えつづける―――。