09 影追い 聞こえていた会話が、途切れた。話が終わったみたいだ。
耳をそばだてていたフォルスは、あわてて数歩あとずさった。
扉がひらき、暗い廊下に光がさしこむ。
あらわれた青年が、おや、という顔をした。扉を後ろ手にぱたりと閉めると、身をかがめて囁く。
「フォルス君。寝てなかったのかい?」
「目が覚めちゃった」
フォルスは、小さな鬼の子を胸にだきしめながら、ばつの悪そうな顔をした。
「ふたりとも、すごく疲れてるはずだから、ちゃんと寝ないと駄目だぞ」
「うん」
つい数時間前、森から戻ってきたばかりの少年とその相棒は、素直にうなずいた。
青年に手をひかれ、3日にわたる遭難から奇跡の生還をはたしたフォルスは、村人の歓声をあび、揉みくちゃにされ、母には泣かれてしまった。
やわらかい胸の中でつられて一緒に大泣きしながら、いつの間にか眠ってしまったらしい。気づくと、新しい小さな友と一緒に、見慣れたベッドに寝かされていた。
窓の外を見、夜の深さを知ったフォルスは、すでに目を覚ましていた友を抱いてベッドをそろりと抜けだした。
忍び足で階段をおり、人の気配のする居間のまえまで辿りついたものの、扉のむこうから聞こえてきた大人たちの真剣な声に押され、入るに入れず立ち尽くすこととなったのである。
フォルスは暗い廊下を歩きながら、青年をみあげた。
「お母さんは、ぼくがセイヴァールに行くのは反対なんだね」
「俺とお父さんたちとの会話、聞いていたのかい」
「うん」
フォルスは小さい胸に、新しく出会った友だちと生きていく決意をかためていた。眠って、起きても、気持ちはかわらない。
青年は、言葉のつたないフォルスのかわりに、この熱い決意を両親につたえて説得してくれていたのだ。こんな夜遅くまで。
暗がりをまっすぐ見つめる青年の顔は穏やかだ。
「お母さんは君を心配しているんだよ」
「わかってる。でも、ぼくとカゲロウが一緒にいるためには、セイヴァールに行かなければいけないんだよね?」
青年は言葉に詰まった。
「うーん。本当はお母さんたちの言うとおり、セイヴァールまで行かなくても、近くの街で召喚師の登録をしたり基礎研修を受けたりすることはできるんだ。でも、その子は」
青年は、フォルスの腕のなかにいるカゲロウを一瞥し、すぐに前に向きなおった。
「―――君たちは特別だからな。響命召喚術の理をしっかり勉強しながら、本部に見守ってもらうのが一番いい」
「?」
フォルスが首をかしげると、青年は困ったような笑顔をうかべた。
「ちょっと難しい話だったな。大丈夫、フォルス君は何も心配しなくてもいい。お父さんもお母さんも、もう少し考えたいとは仰っていたけれど、みとめてくれそうな感じだった」
「ふうん。よくわかんないけど、わかった」
フォルスは何気なく、隣をあるく青年の右手を握ろうと手をのばした。
青年が、はじかれたように右手を引く。その動きのはやさに驚いて、フォルスは青年を見あげた。
毒毛虫をみる目で、青年はフォルスを見下ろしていた。
「ごめん、エルストさん。手、怪我してたの?」
「い、いや……すまない。大丈夫だよ。ちょっとびっくりしただけだ。さあ、部屋についたよ」
青年は子供部屋の扉をあけて、フォルスを中へとうながした。
フォルスはちらちらと青年の様子を気にしつつもベッドに横たわった。上目で問いかける。
「ねえエルストさん。セイヴァールには、一緒に行ってくれないの?」
シーツが肩までかけられ、カゲロウが隣にすべりこむ。
「ごめんな。森のなかでも話したけれど、親父もおふくろも―――ギフトも。遠い遠い街に引っ越しちまったからさ。俺も、そっちに行こうって思ってるんだ」
俺、長男だから。
そう語る彼の声はそら遠く、あたたかく暗い部屋のなかで、表情はしずかだ。
「いつ、行っちゃうの」
「明日にも出発するよ。ガウディと一緒に」
「そんなに早く?」 フォルスはがっかりした。「でも、そのあとは、セイヴァールに戻るんでしょう」
青年はにこにことしている。フォルスは紫の目で、必死に問いかける。
「エルストさん、すぐに会えるよね」
「ああ……きっともう一度会える。それまで、頑張るんだぞ。カゲロウと一緒に」
「うん! ぼく、頑張る」
「おいらも、頑張る」
ベッドのなかで小さな手を突き上げるカゲロウに、フォルスは笑みをこぼした。
そんなふたりを目を細めて見おろしていた青年は、左の手でフォルスの赤い髪をくしゃりと撫でた。
「いつかきっと。また、会おうな」
それから6年の時が過ぎ―――。
「本っ当ーーーに」
学校のない、バイトもない、ヒマな土曜日。
ベッドのうえにうつ伏せで寝ていたフォルスは、唐突に大きな声をだした。
傍らの椅子で、背もたれに腕をのせ、横向きに座っていたカゲロウが何事かと見やってくる。
フォルスはうっそりと、枕から顔をあげた。
「会えないな。エルストさんに」
それだけ言うと、ばふっと再び顔を落とした。力尽きた。
エルストに会えない。この事実を口にするだけで、結構な労力を使うのだ。
この世で唯一、この辺りの気持ちを分かってくれているカゲロウは、うんうんと頷いて同意してくれた。
「ほんとだな」
カゲロウとともにセイヴァールにやってきて、早6年。
エルストは、フォルスたちに一度も会いに来ることはなかった。
この間、フォルスは良い子にして待っていたつもりだ。嫌いだった勉強だって、猛烈に頑張った。初等、中等と首席卒業を果たし、召喚科高等コースでも良い成績をとり続けることができている。
しかしエルストは会いに来てくれない。いつか彼と再会したときに見せる予定の、「美術以外オールA」の輝かしい成績表は、もう何枚も溜まってしまった。
手紙もこない。進学するときくらいは、何かお祝いメッセージが寄せられるのではないかと密かに期待していたが、結局何もなかった。
(エルストさんは、僕が学園を卒業して立派な召喚師になるまで、僕たちに会わないと決めているとか? 会ったら僕が甘えてしまうから)
その可能性もなくはない。
でも、自分とエルストは、そういう獅子の親子みたいな関係だったろうかと疑問にも思う。子供時代、エルストはいつでもどんなときも、自分にとにかく優しかった。
(それとも僕―――もしかして、もしかしたら、忘れられてる)
フォルスはうつ伏しながら、うわああと頭を抱えた。口にするのも恐ろしい可能性である。自分が誰よりも心を許している弟に対してすら、絶対に愚痴ることができない禁断の一言だ。
(ようやく再会したエルストさんに「僕です、フォルスです」と感極まって叫んだら、「えーと」とか言われて曖昧な微笑みを浮かべられちゃったりして……そんなことになったら僕は一体どうしたらいいんだ……)
悶々と苦悩するフォルスを見つめていたカゲロウは、椅子の背もたれに頬杖をつきながら、口をひらいた。
「兄貴。さすがに、何かおかしくねえか」
「なにが?」
枕にうずもれ、もごもごと聞き返す。
「エルストさんだよ。どんな特殊な任務か分からないけど、調停召喚師だったら、セイヴァール本部に顔出す機会は絶対あるだろ。召喚師総会とか、あとは定期報告とかさ。6年間1回もセイヴァールに戻らないなんて、そんなことあるのかよ」
「……」
フォルスはしばらく沈黙したあと、突っ伏していた顔をカゲロウに向けた。
「総会は皆が皆出席してる訳じゃないらしいし。報告も、こっそり来て、すぐに出立してるのかもしれないし」
「兄貴に何も連絡しねえで?」
ぐっ、と言葉につまる。
「エルストさんって、結構薄情……」
フォルスはベッドから飛び起きた。
「ではない! 全然、断じて、薄情ではないよ!」
「だろ。じゃあ、やっぱりおかしいぜ」
「う……」
フォルスはベッドに四つ這いのままうなだれた。
はあ、と溜息をつく。
「……忙しいんだよエルストさん。それしかないよ、常識的に考えて。だって、任務で地方に出てるんじゃなかったら、それってどういうこと? 他にどんな可能性ある?」
「……」
「……」
「……だよなあ」
「だろう」
フォルスは満足そうに大きくうなずいた。
体を起こし、枕を胸に抱いてベッドに腰かけ直す。
なんとなく無言で、カゲロウと見つめ合った。カゲロウが物言いたげな顔をしている。
その表情を見ながらフォルスは、思わず、ぽつりと呟いてしまった。
「でも、なんで連絡もくれないんだろうな」
「……だよなあ」
今度はカゲロウが深くうなずく番だった。
胸に抱いた枕にぐりぐりと額をすりつけ、フォルスは心の中で叫んだ。―――やっぱり、忘れられてるのかなあ!
6年前、セイヴァールに到着したとき、ふたりは異世界調停機構総帥と面談した。
当時はあまり深く考えていなかったが、今から考えるととんでもないことである。なんといっても総帥といったら召喚師たちの長、世界を動かす重要人物のひとりなのである。その人物と、田舎からでてきたばかりの子供が面談するなんて、おそらく前代未聞だろう。
『君たちのことを、召喚師エルストから託された』
隻眼の総帥は、緊張するフォルスたちに優しく声をかけてくれた。
『召喚師エルストは、彼にしかできない特別な任務のためにセイヴァールを離れたが、君たちが立派な召喚師になれば、きっとまた彼に会えるだろう』
小さなフォルスは、「偉い人」からのお墨付きに感激しきって、はいっ、と元気よく返事した。このとき以来フォルスにとって、「立派な召喚師になること」は単なる夢をこえ、至上命題となった。
―――小さなフォルスは、「立派な召喚師になれば、エルストに会える」ことを純粋に喜んだ。
だが、成長した今となれば、「何故、立派な召喚師にならなければエルストに会えないのか」が気にかかる。
6年会えない理由はなんだ。どうして連絡すらくれないんだろう。居場所を絶対に知られてはいけない極秘任務についているとか―――たとえばスパイのような? 調停召喚師って、そんな仕事までしているのか?
視線を床に落としたまま無言で考えこんでいるフォルスに、カゲロウは意を決したように言った。
「さがしてみようぜ。エルストさんの行方」
「え?」
フォルスはまばたきをした。
エルストを探す。
今まで考えたこともなかったその提案に、フォルスの思考は固まってしまう。
カゲロウが椅子から立ちあがり、石になったフォルスの肩をつかんで揺さぶった。
「意識飛ばしてんじゃねえよ兄貴。兄貴は人のこととなると一生懸命になるけど、自分のことについては妙に受け身でいけねえ。エルストさんの行方、ずっとずっと気になってたんだろ? じゃあ、探してみようぜ。行動あるのみだ」
1時間後。
「失礼しました……」
異世界調停機構本部から、肩を落として出てくる2人の姿があった。
「ケチくさいな、異世界調停機構って」
背後にそびえる高層建築物を忌々しげに振りかえっていたカゲロウは、前に向きなおり、地面の石を蹴った。
フォルスはというと、先程までのやりとりを思い浮かべ、気まずげな笑みを浮かべている。
「やっぱり、教えてくれなかったね」
―――すいません、少々お尋ねしたいのですが。僕、召喚師エルストの身内のものですが、彼の赴任先を教えてください。
異世界調停機構入口受付。
フォルスはガチガチに緊張しながら、元気よく発声した。
カウンター内の受付嬢は、顔を赤くして突っ立つ学生を一瞥し、即座に回答した。できません。
そうですか、ありがとうございましたとフォルスは身をひるがえし、帰ってきた、という訳だ。
「つうか兄貴、あきらめ良すぎ。突撃、即、Uターンしちまうから、びっくりしたぞおいら」
弟の呆れ声に、フォルスは拳を振って反論した。
「だって、だってさカゲロウ。考えてもみなよ。僕、部外者だよ。ただの学生だよ。それが異世界調停機構本部に押しかけて、所属召喚師の赴任先質問してさ、教えてくれるはずないじゃないか。そもそもエルストさんの身内って話も嘘だもの。僕はエルストさんにとって、同郷の、近所の子供ってだけの関係だからさ、客観的にみると……」
「わかった、わかったって兄貴」
顔を赤くして必死に言い募る兄を、弟が苦笑いをして止めた。
何だかいつもと立場が逆だよな、と呟く弟を、フォルスがジト目でにらむ。
「でもな兄貴、おいらの故郷をさがすときは、もっと押せ押せでやってくれてたじゃねえか。何でエルストさんのことだと、こんなに弱気になるんだよ」
「それは……」
「それは?」
「……」
「……」
何となくふたりとも黙りこむ。カゲロウはこんなとき、とても辛抱強い。
しばらく無言で歩いたあと、フォルスは、ぽつりとつぶやいた。
「……わからない」
「なんだよ、それ」
とんできた抗議の声に、眉毛をハの字にしてうつむく。
「しっかりしろよ、兄貴。兄貴がそんなんじゃ、おいらも調子がくるっちまうぜ」
「うん……」
大通りの石畳のうえ、とぼとぼとした歩みにしたがって揺れる、自らの影法師を見おろす。
ふたりはそのまま、当て所なくぶらぶらと歩いた。
目的地不明。
弟の歩みにまかせて進んでいるつもりだが、カゲロウもカゲロウでフォルスに付いて歩いているのかもしれない。
いつの間にやら学園の近くまで来てしまった。
遠くに見える校舎をぼんやりと見やっていたフォルスは、
「あっ」
と突然声をあげた。足を止める。
「どうした、兄貴」
フォルスは、人差し指をピンと上に向けて、指揮棒のように振った。
「学園の図書館に、あれ、あったよね。『調停召喚師大観』……ってやつ」
「え? ああ、あの分厚いの」
あごに手を当てカゲロウが言うなり、ふたりは顔を見合わせた。
どちらともなく呟く。
「載ってるかな。エルストさん」
***
立ちならぶ本棚のあいだに、西日がいっぱいに差しこんでいた。
夕暮れにしずむ休日の図書館。学生のシルエットがまばらに行きかうなか、ある棚の前に人影がふたつ立っていた。
「ない」
夕陽に顔半分を照らされたフォルスは、しかめっ面で分厚い本を手にしていた。赤地の表紙には、金の文字で「調停召喚師大鑑」と記されている。
「エルストさん、載ってないよ。カゲロウ」
「んなバカな」
隣から、角のはえた頭が覗きこんでくる。
「本当だ。載ってねえ……兄貴、これ、何年度発行のやつなんだ」
表紙を引っくりかえして、発行年度を確認する。
「今年。最新のだ」
「昔のも確認してみようぜ」
「ああ」
言って、ふたりで各年度発行の資料を確認する。1年前。2年前。3年前―――。
「あった」
カゲロウが大声をあげ、すぐさま周りの目を気にして自分の口を押えている。
フォルスはかまわず本をのぞきこんだ。
「どこ」
「これだ。召喚師エルスト。響友ガウディ。属性、機界」
―――召喚師エルスト。
こんな素っ気のない一文に、心臓がなみうつ。胸のうちに、何ともいえない昂揚がひろがっていくのを抑えられない。
本を正面からのぞく弟を、急かしたてた。
「ほかには……ほかには、カゲロウ」
「ええと待ってくれ、顔写真と登録期、登録番号……あと生年月日が載ってる。他は何も。赴任先とかは書かれてない。この大観は―――6年前のだな」
フォルスは、自分が持っている本を慌てて裏返した。5年前のもの。この調停召喚師大鑑には、エルストの名はない。
「6年前のものには、任命されて1年目の調停召喚師として掲載されてる。でも次の年の発行分からはもう、エルストさんは削除されてる……ってことか」
「それってつまり、どういうことだよ、兄貴」
「……わからない」
自分にわかる訳がない。
「もしかして、さ」
そう言ってから逡巡する弟に、言葉の続きをうながす。
「もしかして、なに」
「いや、その……エルストさん、調停召喚師、やめちまったとか」
「やめるって、どうして」
「知らないよ、おいら。でも、そうじゃなかったら」
「……」
フォルスは手に持っていた本を棚にもどし、カゲロウから無言で、6年前の大鑑を受けとった。ずしりと重いそれに、目をおとす。
楕円形に切りとられた写真のなかで、懐かしい青年が穏やかな笑みを浮かべていた。遊ぶフォルスたちを離れて見守っていた彼が、よく浮かべていた表情だ。
フォルスは、夕陽に照らされた彼の顔に、そっと指で触れた。輪郭をなぞる。
「エルストさん……」
―――また、会おうな。
色あせた穏やかな笑顔が、フォルスにやさしく語りかけてくる。
あの忘れられない、故郷での夜。
同じセリフを口にして髪をなでてくれた青年は、ベッドのフォルスに背をむけた。幼いフォルスは眠りの波にさからって、去りゆく影の端を、必死につかんだ。
自分はいまでも、その手を離してはいない。背中が地平線のむこうに見えなくなっても、身長がのびて目線が高くなった今でも、影をつかみつづけている。
6年経って、影法師は長く長くのびてしまった。
***
「召喚師エルスト。懐かしい名前だわね」
数日後。
フォルスとカゲロウのエルスト探索チームは、ひとりの女性を訪ねていた。
フォルスたちが何度か行ったことのあるシルターン風料理屋。そこの長女が、異世界調停機構の調停召喚師であることは以前より聞いていた。
しかしまさか、彼女がエルストと同期だったとは衝撃の新事実である。
図書館で大観をめくりながら、彼女とエルストの登録期が一緒であることを知ったとき、ふたりはそろって歓声を上げた。そうしてお約束どおり、近くにいた学生にしーっ静かに、と注意されたのである。
古いが掃除の行き届いた料理屋。その戸には、「準備中」の札が下げられている。
使いこまれた食卓をはさんで座る彼女は、かたわらのミョージンの頭を撫でながら、目を細めて遠くを見やった。
「たしかに私、彼と同期の調停召喚師だったわよ。チームを組んでいたことだってある。短いつきあいだったけどね」
同じチーム。フォルスはカゲロウと顔を見合わせた。情報を得るのに、これ以上ない人材である。
「彼は期待のルーキーだった。私たち召喚師には戦闘任務も多いけれど、響友が戦闘向きとは限らないじゃない? 実際、異世界調停機構には、召喚師といっても戦闘力がほとんどない者が少なくないわ。その点、彼は強力な機械兵器と誓約していたからね。しかも彼自身の魔力も武力も高かった。彼は幾つもの戦闘任務に投入されて、そのたびに成功を重ねていたわ。上からの覚えもめでたかったはずよ」
召喚師は、食卓に載せていた袋のなかから鬼妖餅をとりだし、ミョージンの前に置いた。狂喜して餅を頬張る同郷の民の姿をみて、鬼の少年がごくりと喉をならす。
その隣でフォルスは、膝のうえに乗せた拳を握りしめていた。歯をかみしめる。
―――嬉しい。
思わず笑みがこぼれそうになるほどに嬉しい。やっぱりエルストは、自分の憧れの人は、「立派な召喚師」だったのだ。
目のまえの女性召喚師は、でもね、と続けた。
「ある日突然、チームからエルストが抜けることになったの。地方の任務に就くことになったからって。さよならを言うことはできなかった。彼は最後に会ったとき、休暇で故郷に帰るって言ってたはずなんだけど、そのまま帰らずそれっきり」
これからが本題だろう。カゲロウが身を乗り出して尋ねた。
「エルストさんって、どこに赴任したんだ?」
「分からない。『上』からは、彼の任務内容は極秘だから、どこに行ったかも教えられないと言われたの」
「仲間にも秘密の任務……ですか」
胸のうちに、安堵と不安が同時に滲む。
エルストがフォルスの前に姿をあらわさない理由は、その任務内容にあることは間違いがなさそうである。
でも、そうであればいよいよエルストに会うのはむつかしい。フォルスの胸のうちに、黒いもやが漂ってくる。まさか、もう二度と、エルストに会えないなんてことは―――。
いつしか眉間に皺が寄っていたフォルスの耳に、幾分声をひそめた女性召喚師の言葉がとどく。
「でも私、違う噂も聞いてるんだ」
「違う噂?」
いぶかしさを隠さず、フォルスは彼女を見やった。卵の殻にきなこをつけたミョージンも、自らの召喚師にまなこを向ける。
「召喚師エルストは、休暇中、突然行方不明になったって」
「ゆくえふめい」と、フォルスは思わず復唱した。
隣の少年を見やると、目を丸くしていた。カゲロウの視界にうつる自分の顔もきっと、同じ顔をしていることだろう。
フォルスは咳払いをして、女性召喚師に向きなおった。
「普通、召喚師が行方不明になったら、異世界調停機構本部から公示されますよね」
「ええ」
「行方不明が長期間にわたったら、異世界調停機構から追跡もされる」
「そうね」
「でもそんな追跡は、実際には―――」
言葉を飲みこんだ。追跡がなされているかどうか、ただの学生である自分が知る由もない。
だがしかし、そんな馬鹿なことがあるのか。あのいつも正しく優しかった青年が、追われる身になっているだなんて。
「……」
頭のてっぺんから血の気がひき、顔が青ざめていくのがわかる。卓のうえの手から力が抜け、握っていたこぶしが緩んだ。
「……兄貴?」
気遣わしげな声にフォルスはハッとして弟をふりむき、首を振った。何でもない、大丈夫。
女性召喚師は、フォルスの変化に気づいた風もなく、言葉をつづけた。
「実際にエルストに追手がかかった、という公式発表はないわ。今私が話したのは、あくまでもただの噂。仲間内で流れた、根拠のない流言よ。いい加減なことを言ってごめんなさいね。でも」
彼女は、唇に親指をあてて宙をにらんでいる。丸いボールのような鬼の卵が、小さく跳ねて召喚師に寄り添った。
「エルストがいなくなってしばらく経ってから、仲間のメイトルパ召喚師がもうひとり、チームから外されたの。『上』からの特殊任務だった。任務内容はやっぱり極秘。彼はエルストと仲が良かったわ。チームで一番年下だったエルストの、兄貴分を気取っていたりもしていた」
「それって、どういう……」
カゲロウが口をはさんだ。フォルスもまた眉をひそめ、うろんな視線を女召喚師に向ける。彼女が何を話しているのか理解できなかった。
「私にも分からない。彼は出立のとき何も語らなかったし、結局それきり戻らなかったからね。同じチームから召喚師がふたり、立て続けにいなくなっちゃった。だから何だと言われればそれまでだけど」
薄暗い店内に、沈黙が落ちた。
窓から差しこむ昼の光にのって、表の通りの賑やかな喧噪が入りこんでいる。
「……私もあの頃のこと、いまだに整理できていないんだ。ごめんなさいね。あまり貴方のお役に立てなかったわね」
「いえ……とんでもありません」
フォルスはカゲロウに目くばせし、それから女性召喚師に深く頭を下げた。
「お忙しいところ色々とお聞かせいただいて、本当にありがとうございました。僕たち、この辺で失礼します」
「ええ。また何か聞きたいことがあったら、いつでもいらっしゃいな」
入口の引き戸に手をかけたフォルスは、ふと振りかえった。
「あの―――最後にひとつだけ聞いていいですか」
「どうぞ」
「エルストさんって……どんな人でしたか」
「どんな人って」
苦笑の滲む声がかえってくる。
「よく笑う明るい子だったと思うけど。それ以上はよく知らないわ、本当に。私、彼とは深い話とか、結局一度もしてなかったから」
街路樹の木漏れ日がおちる道で、ふたりとも無言で歩いた。
カゲロウが殊更明るい声をかけてくる。
「なんかケッコー、いい加減な感じだったな。わからない、わからないばっかりで。変な噂の話とかも、何だかなあって感じだ。エルストさんが行方不明とか、ありえないよな」
「うん」
「まあ、噂ってのは大体いい加減なもんだけど。あのひと、あまりエルストさんと仲良くなかったみたいだ」
「うん」
「落ちこむなよ兄貴。まだ、調べはじめたばっかりなんだからさ」
木々の影を踏んであるくフォルスのつま先に、光の斑点が揺らめく。
「うん……」
***
その夜フォルスは、頭のうしろで手を組み合わせ、ベッドに寝転がっていた。隣のベッドからは、カゲロウの安らかな寝息がきこえてくる。
「エルストさん……」
夜気にまぎらすように呟き、唇のさびしさに耐えていると、フォルスの脳裏にぼんやりと憧れの背が浮かんだ。
蜃気楼のようなその背につづく、長い長い影のロープを、フォルスは握りしめている。
空想のなかのフォルスは、彼の背をみつけて顔をかがやかせ、その背に向かって走りだした。たぐるロープ。揺れる視界。どんどん彼に、ちかづいていく。
ロープを放りだし、手を差しのばして青年の腕をとった。強くひく。
ふりかえった顔には、影がかかっていた。知らぬ顔だった。
知らぬ顔をした、しかし彼によく似た青年は、毒毛虫をみる目でフォルスをつめたく見下ろしている。
(エルストさん)
フォルスは、悲しい幻から自分を守るように、顔を両手で覆った。目蓋をきつくつむる。
(僕は、貴方のことがわからない)
彼を信じた。6年待った。
6年待って、わからなくなった。いまでは彼のことに関して、フォルスが断言できることは何もない。
あの女召喚師が、「エルストが行方不明になった」と言うのを聞いて、フォルスは心のうちで「有り得ない」と笑い飛ばすことができなかった。そんな自分に、フォルスは絶望していた。
「……」
喉の渇きを覚えて身を起こした。いつの間にか、ひどく汗をかいている。
パジャマのボタンをひとつ外し、ベッドを軋ませ立ちあがった。弟を起こさぬように、足音をひそめて、窓際にたつ。
カーテンの合わせに手をさしいれ、ひんやりとした窓をのぞいた。見慣れた顔があらわれる。ガラスの向こうに広がるのは一面の、あまりにも巨大な影だった。
(エルストさん……)
フォルスは、悩ましい、あつい息をはいた。暗く冷たい窓に、額をつける。
(参りました。僕の負けです。だからもう、答えをください)
黒いガラスの鏡にうつる紫の瞳が、うるんでいる。
(会いにきてよ。貴方から会いにきて、僕を安心させてよ。むかしと変わらない笑顔を僕にみせて)
彼はフォルスに、色々なことを教えてくれた。
剣の扱い方。遠くの水面まで石を跳ねさせる方法。肩車されてかじる果実の、甘さと酸っぱさ。
きらめく湖面のうつくしさと、髪をなでられる気持ちよさ。
―――そして、夜ねむれぬほどの寂しさを。
(お願いだから……)
目を伏せて祈る。
***
エルスト捜索チームは、これといった手掛かりもなく、何となしに活動を停止していた。
フォルスとカゲロウは日常に戻り、順風満帆な学園生活を謳歌する。
予習、復習、計画的なテスト対策。運動体育だって完璧だ。
「立派な召喚師」への道はなだらかに舗装されて、フォルスの前にまっすぐ前にのびていた。
あいかわらず「彼」からの連絡はない。
***
カフェの戸を開けると、ドアベルの涼やかな音と悪魔の甘い声に迎えられた。
「あらぁ、お帰りなさい。今日も一日お勉強がんばってきたかしら、学生さん?」
カウンター越しで、豊満な女性が手をひらひらと振っている。相変わらず目のやり場にこまる格好の彼女に苦笑する。
「ただいま戻りました。大家さん、何か僕宛の郵便物はきてますか」
「手紙はないけれど、さっき、貴方に連絡があったわよお。何でも、異世界調停機構の―――」
「どうぞ。お入りください」
扉をあけた先、大きな窓を背に立つひとりの少女の姿があった。
訪問者の姿をみとめると、少女は左足を斜め後ろに引き、右足を軽く曲げて上品に挨拶した。ゆるやかなウェーブのかかったミルクティ色の髪が、細い肩からサラサラとすべりおちる。
「ようこそいらっしゃいました。私は、異世界調停機構の管理官を務めている機械人形です」
フォルスとカゲロウは呆然として立っていたが、あわてて自己紹介をした。
「初めまして。セイヴァール響界学園の学生で、フォルスといいます」
「同じく、学園生のカゲロウだ……です」
緊張して頬をそめる2人に、少女は口元に手をそえ、くすりと笑った。
「あら。私たちが会うのは2回目ですよ。フォルスさん、カゲロウさん」
「え」
あわてて、記憶を探る。
これまで自分たちがこの建物に足を踏み入れたのは、2回だけだ。受付で門前払いをされた1回と、そして6年前の―――。
フォルスとカゲロウは、同時にアッと声をあげた。
「ああっ! 総帥とお会いしたときに一緒にいた秘書さん!」
「ふふ、そうです。正確には秘書ではないのですけれど」
フォルスは、半笑いを浮かべたまま、言葉をうしなった。
6年前、総帥の背後に影のように控えていた少女。彼女も、目の前の少女と同じ顔で、同じ笑みをうかべていた。
少女の頬には温かみのある色がさしており、いかにも柔らかそうな曲線を描いている。しかし彼女は自ら名乗ったとおり人ではなく、時間の支配をうけない存在なのだと、フォルスははっきり理解した。
舌のうえで紅茶をあじわう。わるくない味だ。
飲み物には一家言あるフォルスは、満足してカップを置いた。
向かいあわせに座る少女が、本題に入った。
「おふたりが先日、異世界調停機構本部に訪ねてきたという報告を受けました。受付のフラーゼンが、随分と素っ気ない対応してしまったみたいで、申し訳ありません」
頭をさげる少女に、フォルスは慌てた。
「い、いえ! 悪いのは僕たちです。突然押しかけて、召喚師の赴任先を教えてほしい、だなんて頼んだりして」
「おふたりは、召喚師エルストのことをお調べなのですね」
「……すみません」
「どうして謝るんです?」
少女は不思議そうに首をかしげる。
「貴方は、彼の身内も同然でしょう」
フォルスは顔が赤くなるのを感じた。思わずうつむいてしまう。口ごもる。
「ぼ、僕は……その……」
「?」
目のまえの少女人形が微笑んでいる。
「兄貴」
励ましのささやきを聞き、背をのばす。―――わかってるよ、カゲロウ。しっかりするよ。
「フォルスさん、カゲロウさん。私は、あなた方を咎めるために呼んだのではないのですよ。保護者代わりの彼と長い間会えないでいる、あなた方の不安な気持ちを、私なりに理解しているつもりです。彼の同僚……として、すこしでも力になりたい、そう、思っているのです」
少女は言葉を切り、ミルクティ色の瞳をフォルスに向けた。
「フォルスさん。彼のことで、私になにか聞きたいことはありませんか? 私が教えてあげられることはあまり多くはないけれど、そのなかに貴方が知りたいことの一部が、ふくまれているかもしれません」
口をひらきかけた。
うごきがとまり、また閉じる。唇をかむ。
目のまえの若者の逡巡を、少女は根気強く見守ってくれていた。
隣のカゲロウの、気遣わしげな視線を頬に感じる。
「僕は……」
フォルスはまぶたをきつくつむり、顔をあげた。
唇の扉をこじあける。堰き止められていた言葉が、とめどなくほとばしった。
「―――管理官さん。エルストさんは、どこにいますか。いま、何をしているんですか。いまでも調停召喚師やってるんですか。元気にしてますか。怪我や、病気をしてやいませんか。どうして僕に会いにきてくれないんでしょうか」
一息に言って、ふかく頭をさげた。
「教えてください。お願いします」
兄のすがたを見て、隣のカゲロウが勢いよく、テーブルに額の角がつきそうなくらい頭をさげた。
「お願いします!」
「ちょ、ちょっとおふたりとも……顔をあげてください」
おずおずと元の位置にもどったフォルスの顔が、かっと熱くなる。たぶんシルドの実と同じくらい赤くなっていることだろう。恥ずかしくて、火が出そうだった。
目をまるくしていた少女は、上品な顔をくずして苦笑し、2度、3度とうなずいた。
「なにからお答えしましょうね……」
そういって彼女は、考えこむ。
その表情は、幼子を見守る母のそれであった。
「彼は―――召喚師エルストは、現在も、異世界調停機構に籍を置く調停召喚師です」
フォルスとカゲロウは顔を見合わせた。たぶん自分はいま、とても情けない顔をしているだろうな、とフォルスは思った。
少女が、ただ、とつづけた。
「ただ、現在彼はとても……特殊な任務についています。彼にしかできないことを、やっているのです。任務の内容はいえません。どこにいるかも、お答えできません。でも、彼は生きて―――」
やわらかそうなまぶたが伏せられた。
「生きて、必死に頑張っています。今は、彼に会うことは難しいかもしれません。あなた方には寂しい思いをさせてしまうけれど、彼はたたかっています。だからあなた方も、彼を信じてあげてください」
―――信じる。
それはフォルスの耳をうつ言葉だった。
かつての青年が、なにより愛する言葉であった。そしてフォルスもまた。
「管理官さん」
不安からではなく、この人に聞いておきたいというただそれだけの思いで、フォルスは問いを口にした。
「エルストさんって……どんな人でしたか」
ソファに座る人形が、一瞬、時を止めた。
膝のうえで組み合わせた細い指。そして華奢な肩のうえに、背後のまどから差しこむ白い光がおちていた。
その精巧に作られたふくりとした唇がつぼみのようにほころぶのを、フォルスはただじっと、息をつめて見守っていた。
「一言でいうと、お調子者」
ビー玉のような瞳をまたたきもせず、少女人形はかたりはじめた。
「褒められると分かりやすく得意になって、叱られると目に見えて落ち込む人でした。思い立ったら即行動しますが肝心なところでウッカリとやらかす。恥ずかしいことを真顔で口走る。人をからかっては簡単に返り討ちにあう―――主に私に。よく遅刻する。失言が多い。書類が雑。まあ、そんなところでしょうか。響友のガウディさんとは、よくケンカしていましたね」
「は、はあ……」
オルゴールのように淡々と語りつづける少女の声音に、フォルスは汗をたらし、あいまいな相槌をうつほかなかった。
少女は一息に暴露して満足したようにうなずき、それからふと、寂しげな表情を浮かべた。
「―――優しい人でしたよ」
オルゴールの音色がかわる。
「人を信じ、信じられたいと願う、心の優しい人でした」
真昼の陽にみちた白い部屋の空気に、人形が奏でる懐かしいメロディがとけていく。
甘い紅茶の香りが可憐な花となって、目を伏せた彼女のまわりをかざっていた。
「6年前。彼は私たちを信じて、貴方たちを託してくれました。私も―――いえ」
少女は言葉を切り、まるでそうすることが誕生の瞬間からプログラムされていたかのようにうつくしい動作で、胸に手をあて、微笑んだ。
「私たちも、信じています。あの人のことを」
***
オレンジがかった白金の光が、セイヴァールの街をひたしていた。
夕陽が赤色を投げかける直前。神々しいまでに透きとおった、真珠色のひととき。
その街の底を、ふたりは肩をならべて歩いていた。はるか視線の先では、巨大な独楽のような遺跡が幾つもせり立ち、黄昏にけぶる空を黒くくりぬいている。
「あの人、散々言ってたね」
フォルスが言うと、低い肩がくつくつと揺れた。
「ホントだな。笑いそうになっちまった」
「エルストさんも、人間なんだなあ」
「そりゃ、そうだ」
「……だよね」
嬉しい、あたたかい、でもどこか寂しい気持ちで、フォルスはこたえた。
あの少女が語ったエルストを、フォルスはしらない。
でも不思議と、不快ではなかった。故郷をとびだした彼のすすんだ先に、少女がいた。そうして2人は出会ったのだ。そう、素直に思うことができた。
息をすう。肺の奥までふかく。
フォルスは、となりを歩く弟の、光に透けた瞳を見つめた。
「ありがとう、カゲロウ。今回、エルストさんのことを調べて、本当に良かった」
きっとひとりだったら、いまでもフォルスは不安をかかえた石のままだった。
カゲロウは照れ隠しか、唇をとがらせている。
「おいらは別に……。つうか、良かったって言っても、結局何も分かってないんだけどな。管理官さんの話だと、エルストさんとは、当分会えそうにもないし」
「何も分かっていない、なんてことないよ」
フォルスは、暮れゆく太陽に手をかざした。
蜂蜜色にかがやく円に照らされて、爪のさきに光がともる。
「僕はエルストさんを信じる。信じて、前にすすむ。それでいい。それでいいんだってことが、今回、わかったんだ。僕が僕で必死に頑張っていれば、きっといつか追いつける」
追いついた先で、彼はもしかしたら昔のままではないのかもしれない。人は変わる。仕方のないことだ。
しかしそれでも、エルストはエルストなのだ。
あの日の延長線上に、彼はいる。こんなに確かなことはない。
これからたとえ、どれほどの長い時が経ったとしても。
フォルスが、彼と自分とをむすぶロープを手放しさえしなければ、きっとまたつながりあえる。
「―――そう、信じてる」
「……ふうん。よく、分かんねえけど。おいらとしては、兄貴が元気になればそれでいいよ」
頬をかきながら、カゲロウがつぶやく。
そんな弟がどうしようもなく可愛くなって、フォルスはカゲロウの細い体を抱きしめた。腕のなかにかかえこみ、銀の髪をかきまぜる。
「うわ、何す……」
「僕はつくづく、いい弟をもったなあ、と思ってさ。本当にありがとう、カゲロウ」
「やめてくれよ兄貴。ここ、道の真ん中だぜ!」
やっぱりウチの兄貴は、昔っから変わらずおかしい。
そう声をくぐもらせる腕のなかの弟を、フォルスはやさしく見おろした。
***
その夜フォルスは夢を見た。
木漏れ日が揺らめき、新緑の葉が舞い落ちる午後。
枝のあいだにかかった細い蜘の巣が、露に濡れて光っている。
ふたりの子供の足が、草のうえを駆けていく。小さい靴が跳びはね、樹のまわりをくるくるとまわり、他方を待って立ちどまり、追いつけばまた走りだす。
子供たちが走り去ったあと、ゆっくりと草を踏みしめていく青年の、ブーツの足が枠のなかに現れた。
その足は歩みをとめ、明るすぎる緑のなかで佇んでいたが、やがて子供たちを追って、コートをなびかせ視界のそとへと消えていく。黒い影法師を、長く細くひきつれて。
登場人物がいなくなった絵画は、いつまでも終わらない昼の、甘美でけだるい陽の暑さをたたえ、風にそよいでいる。
どこまでも空に伸びていく、緑の枝。
暮れることのない空。
樹のねもとに忘れられた、もう決して読まれることのない一冊の本。
こだまする子供たちの、透明な笑い声。
閉じた記憶のなかで、物語はいまも続いている。