柔らかい殻「さて。どういうことか、説明してもらおうか」
私は脅えた。
半円状の机が、私を取り囲んでいる。座る人たちの顔は見えない。暗い部屋の中で、唯一の光源である窓を彼らが背負っているからだ。
「レイム、答えよ。何故一人で戻ってきた。お前の他の人間はどうした」
正面に座る指を組んだ男の影が、威圧的に言った。うつむいてしまいたかったが、射竦められたようにあごが動かない。私はこの場から抜け出したい一心で、何とか言葉を発しようとした。
(あの森には悪魔が……)
「あの森は悪魔の巣窟でした」
(他の人は、みんな……)
「他の兵は、みな悪魔の軍団を前に無念の死を遂げました」
驚愕の声が次々とあがる。
「派遣した兵のことごとくが屠られたと申すか! 獅子将軍アグラバインは」
「亡くなりました」
「なんと……」
ざわめきが一層ひどくなる。恐い。レイムは肩を抱こうとしたが、腕がぴくりとも上がらなかった。
「さすれば貴様、レイム、何故貴様だけが生き残った。そしてどうやって戻ってこれた。敵国からの帰路、ただひとり、一介の召喚師の辿れる道でもない」
(分からない)
「幸運……いえ大いなる力が、私を導いたのでしょう」
唇の片端がつい、と引きつり、持ち上がった。
「……」
口を手で押さえ、黙りこむ正面の男の様子にあわてて、私は言った。
(ですが、彼には会えました)
「ですが、兵器は見つかりました」
(森の奥に、確かにいたのです)
「森の奥に、確かにあったのです」
「本当か」
(はい)
「はい」
―――先程から、何故ふたつ声がするのだろうか?
その答えは、私は愚かなので分からなかった。
正面の男は腕を組み、私を強く睨みつけた。何を言うか迷って口を閉ざしているのではなく、私を見透かそうとしているようだった。
影のかかった顔の中で、目だけがぎらぎらと光っている。明らかに敵意のこもった視線。私はあの目をとじてくれるといいのに、と思った。
途端、男の顔が急に歪んだ。かと思うと顔中の筋肉が弛緩し、最後に満面の笑顔になった。目は閉じられていた。
変貌に驚く私に、男は目を瞑ったまま、ひどく優しく言った。
「よく分かった。お前も疲れていることだろう、今はゆっくり休むといい」
戸惑って周りをうかがうと、他の参席者もみな、目を閉じて笑っていた。
あてがわれた部屋は広くはなかったが、白い光がいっぱいに射し込み、清潔な匂いがした。
私は扉が閉じられる音を聞いてようやく緊張をほぐした。そして、先の男たちのことを忘れた。
棚の上に飾っている花に気がつく。根元が青みがかった白い花弁が幾重にも折り重なった大きな花。吸い寄せられるように私は棚の前に立った。美しい、見たことはあるが名は忘れてしまったその花を手で弄ぶ。
猫の喉をくすぐるように茎を指の甲で撫で上げながら、私はぼんやりとある情景を思い出していた。
*
「おい、召喚師。お前、戦場の経験はあるのか」
うつむいていたところに声をかけられ、私は肩を震わせた。顔を上げると、ひげをたくわえたたくましい顔つきの将がこちらを見ていた。
目が合うと私はひどく動揺してしまって、視線を男の背後にそらす。外の風に揺れる天幕の布と、吊り下げられたランプが目に入った。
「戦場の経験はあるのかと聞いている」
自信に満ちた太い声は怒りは孕んでなかったが、重ねて訊かれると責められているような錯覚をする。私は何度も、首を横に振った。
男の語調が幾分柔らかくなった。
「だろうな。そのような細い体では、敵から攻撃を受ける前に戦地を歩き回るだけでくたばってしまう。―――お前は普段、何を食べているのだ」
「……お野菜と、」
「と?」
私は俯いてしまった。野菜だけだ。あとは水、水は食べるとは言わない。
私が黙りこくっていると、何故か将軍は口を大きく開けて笑いだした。そしておずおずと顔を上げた私に、
「それではいかん。肉を食え、召喚師。そして太ってきたら酒を飲め。これでちょっとは、健康的にもなるさ。男らしくな。それと、その髪―――」
言って将軍は、体を引きかけた私の髪を一房手に取った。大きな、ごつごつとして乾いた巌のような手だった。
「いや。髪はいいか……長くとも」
将軍は、手の中にある私の銀色の髪を眺めた。すぐ近くにあるものなのに、随分遠くを見やるような目つきだった。
私は、自分の髪に触れてみた。あの時の将軍のように。
「将軍……本当に死んでしまったのでしょうか」
軍人や偉い人の中では、あの男だけが優しかった。鈍い私の心にも、悲しみの水が沸いていく。
「いや―――しかし、あの時彼に差し向けた追っ手は帰ってはこなかった。或いは、再びお目にかかる時が来るやも知れませんね」
―――何を言っているのだろう? 口が勝手に動く。
「その時は……」
私の指が花を包みこむ。そして花弁をむしりとった。
昔からこの世界は、私にはわからないことだらけだった。
何故幼い頃から独りだったのか、何故召喚師の養成施設に入れられたのか、何故皆が自分を笑うのか、何故つばを吐きかけるのか―――。
わからない。自分はとても愚かだから。
私は他の人のように頭がよくない。ずっとその理由を考えてみたけれど、やはり答えは出なかった。
だが、いつからか私は根拠なく、皆が当然に持っている「賢さ」というものを、自分は生まれてすぐにどこかに置いてきてしまったのだ、と信じるようになっていた。それを取り戻しさえすれば、私はもはや愚かでなくなるに違いないと。
……白い天使の羽を拾ってから毎夜頭に響く声―――レイム、森へ会いにきて会いにきて会いにきて―――。
その不思議な声を聞いて私は、きっとその「賢さ」、長年取り戻したいと願ってやまなかったそれを、とうとう返してもらえる日がきたのだと思った。声の主である「彼」が宝を持っている。だから私を呼んでいる。
「彼」に会わなければ。「彼」に会いさえすれば私は救われる、この世界も苦しくなくなる。
そう、確信していた。
そしてその確信は当たっていた。
あの森で「彼」と会い、帰ってきてからというもの、私は周りから虐げられることがなくなっていった。
私の口や手が聡く動き、そのたびに皆が優しくなった。
時にはそうならない人もいたが、そういう人たちはしばらくすると突然姿を消すのである。
赤い髪の男の人もそうだった。
将軍のご友人だというその人は、会う度に私を睨み、問い詰めていたが、一年も経った頃だろうか、やはり姿を消した。
その後私は彼の子供にも会った。父に似た赤い髪がうつむき、肩が細かく震えていた。
それを見て私は何ともかわいそうになり、小さな頭を撫でてやろうと思ったが、代わりに私の口はひどいことを言った。
その頃になると私は既に、自分の心と体が分離しているらしいということに気づいていた。
賢くなったのは私の体。心の方は愚かなままで、自分の体が何をしているのかもよく分からなかった。私は彼からまだ、「賢さ」の一部を受け取っただけだったのかもしれない。
だが、それでも今は十分である。賢くなった体の内側から新しい世界をのぞき見るのは面白い。
それは昔、没頭していた遊びに似ていた。通りに面した部屋の窓にカーテンをひいて、少しだけ開いている隙間から外を眺めるという一人遊び。
皆、私の目の前を通り過ぎ、キスをし、吐いたり、喧嘩したりする。私が覗いていることなど気づかずに。
とても愉快なことだった。それは私が唯一、優越というものに浸れる時間だったのである。
そうやって私は今日も覗き見をしていた。
いつか机に座っていた怖い人たちが私に、いや私の体にかしづくのを見て満足し、ふと、視線を外すと私は奇妙なことに気がついた。
膜である。
私の周りの空間に、何やら乳白色の薄い膜が張っているのだ。
小さな覗き穴だけを残して、私はすっぽり包まれている。手で押してみるとそれは柔らかいものだったが、破れそうになかった。ゴムのような弾力だった。
気のせいか、濁った白い色は時とともに濃くなり、しかもじりじりと狭まっている。
(何……これは)
あわてて私は覗き穴から外を見たが、私の体は平生どおり。上品で知的な笑い声をあげていた。どうやらこの異変は、私の心の方に起こっていることらしい。
(誰か助けて……誰か)
私は咄嗟に「彼」を呼ぼうとしたが、名が分からないので呼べなかった。だから私は将軍を呼んだ。
(将軍……アグラバインさま!)
「――――召喚師! 召喚師!」
将軍の声が響いた。私はすぐさま叫んで助けを求めた。
(アグラバインさま、助けて……)
「召喚師―――ちぃ、死んだかっ」
……死んだ?
何を言っているのだろう。
私はどういうことか辺りを確認しようとしたが、動かなかった。眼前に、突如として映像が広がる。青みがかった空気と緑の匂いが生々しく肌を包んだ。
遠くに揺れる生い茂った葉。飛んでいる鳥のようなもの。頬を這うムカデ。
私は今、仰向けになって横たわり、空を見ているのだと気づくや否や、すぐ近くで羽ばたきの音が聞こえた。そして耳をつんざく咆哮、人間の悲鳴。
自分の頭を飛び越える黒く巨大なかぎ爪の足を見た瞬間、私は声の限り叫んだ。
映像は掻き消えて、乳白色のスクリーンが視界に戻る。私はその柔らかい壁を爪で掻き毟った。
(ここから出して、恐い)
こぶしで力の限り壁を叩き出した私を、後ろから伸びてきた何者かの手がとどめた。
私が振り返るよりも早く、背中からその誰かに抱きすくめられる。子を宥めるような、優しい力で。
「大人しくなさい……貴方の願いは全て、私が叶えてさしあげますから」
穏やかなその声には、聞き覚えがあった。胎児が聞く、母の心音の響きであった。
私はすっかり安心しきって、後ろの胸に体をもたせ、そのまま心地よい眠りに落ちた。