15 剣は眠る 指先が、ためらいがちに弦を弾いていく。
一音一音、慎重に。
記憶をたどり、訥々と思い出語りをするかのように、つぶやきの音符はつむがれていく。優しく、しかしどこか寂しげな、ふるい子守唄の旋律だ。
フォルスはベッドに腰かけ、窓から差しこむ白い陽光のなか、弦楽を弾いていた。
湾曲した胴をもつ楽器の弦を、左手で押さえ、右指ではじきながら音色を奏でていたフォルスは、あごを上向かせて溜息をついた。最後の音を爪弾き、余韻を味わってから、膝のうえに胴を横たわらせる。
しばしの瞑目ののち、フォルスは、口をひらいた。
「カゲロウ」
傍らの椅子に座り、無言で聞き入っていたカゲロウは、顔をあげる。
「なんだ兄貴」
「感想は」
「うーん……」
背もたれを胸に抱えるように座る鬼の少年は、首をかしげた。
目を閉じ、口のなかで時間をかけて言葉を吟味したのち、しみじみと答える。
「これで眠れる子供なら、そもそも子守唄はいらねえ気がする……」
「……」
「……」
「えっ、それってどういう」
カゲロウは足元の箱から一枚の絵を取りあげ、目の高さにかかげた。
フォルスが学生時代、美術の課題で描いた絵である。教師から「とても前衛的」と評された逸品だ。
「ああ! 何見てるんだよカゲロウ」
「いや。兄貴はつくづく、ゲージツ全般ダメなんだなあと思ってさ」
弟の感心したような言いように、フォルスは、がっくりと肩を落とした。
兄の黒歴史を箱に戻し、カゲロウはフォルスに向きなおる。
「つうか兄貴。何で突然、楽器なんか弾いてるんだよ」
「ん? ああ、いやちょっとね。押入れの中で見つけて、懐かしいなと思ってさ」
言ってフォルスは、数年ぶりに再会した楽器を、なつかしげに撫でた。学生の時分、フォルスが珍しく衝動買いした品である。
むかし、親友のアベルトが弦楽器をはじめたことがあった。
何でも卒なくこなす器用な親友は、楽器を持った姿もやはり洗練されていた。指先ひとつで自在に奏で、弾き終わったあとは余韻を残して小粋にウィンク。
そのカッコよさにすっかり参ってしまったフォルスは、その日のうちに貯めたバイト代を握りしめて楽器屋に駆けこみ、親友と同じ楽器を買った。それがこの、弦楽器という訳だ。
楽器を手に入れたフォルスは、親友には内緒で、自宅で特訓をした。
苦悶の表情を浮かべる弟を横目に、楽器を弾きまくること数か月。
自分に音楽の才能がないことを思い知り、打ちひしがれたフォルスは、弟の憐みの視線を受けながら、物入れの奥深くに楽器を埋葬したのであった。
「確かに懐かしいな。あの忍耐の日々……」 当時のことを思いだしたのか、カゲロウの額には脂汗が浮いている。
「それで、取りあえず構えてみたらさ。何だか上手に弾ける気がしたんだよね。学生時代は上手くできなかったけど、今なら何とかやれるんじゃないかって」
「それは多分気のせいだと思うぞ兄貴。ところでさっきの曲、兄貴の故郷に伝わる子守唄、だっけ?」
「うん、そうだよ。子供のころ、よくお母さんが歌ってくれたんだ」
「おいら、初めて聞いたよ。今まで兄貴に歌ってもらったことって、なかったよな」
そういう弟は、なぜか不満そうである。
「だって、今までカゲロウに子守唄が必要になる夜なんて、一日もなかったじゃないか。君は尋常じゃなく寝つきいいから」
うっ、と言葉を失う弟の横で、フォルスは歌うように言った。
「布団にもぐり、すやすや寝息が聞こえてくるまで、約3秒。遅くて10秒、早くて0秒―――」
「そ、そんなことないぞ。おいらにだって眠れない夜はあらあ」
「はいはい」
口をとがらせる弟の横で、フォルスは目を伏せ、再び楽器をぽろん、ぽろんと弾きはじめた。
―――むかし、寝つきの悪い弟をもった年上の青年に、この歌を教えてあげたことがあった。
彼は、子守唄をひとつも知らないのだと言っていた。
物知りな彼も知らないことがあったのかと驚けば、彼は照れたように頭をかいて、笑っていた。
幼いフォルスが歌う拙い子守唄を、膝を抱えて聞いていた青年の表情を、今になって思いだす。
その顔ににじむ、何ともいえない愛おしさ、哀しさ。
壊れそうに繊細な、憧れを。
むかしのフォルスは、何ひとつ気づかなかった。
あの頃のフォルスはただ、歌い終わった自分の頭を大きな手が優しく撫で、礼を言ってくれたことを無邪気に喜ぶばかりだった。
彼はこの歌を、弟に歌ってあげたのだろうか?
弟は眠りゆく時のなかで、彼の歌声を聞いたのだろうか。
「……僕はうまく弾けないけれど」
弦をはじきながら、フォルスはつぶやいた。
「きれいな曲なんだよ。本当は……」
背もたれに頬杖をついて、カゲロウは黙っている。
ポロン、ポロンと弦は震え、最後の一音まで辿りついた。
指がすべり、ビョン、と変な音が出る。
あわてて、もう一度正しい音を弾きなおす。今度は決まった。
格好は悪いが、とにもかくにも曲は終わった。照れ笑いを浮かべながら楽器を置いて、言葉を繰りかえす。
「きれいな曲さ。とても、ね」
「そか」
「うん」
「わかった―――それでさ、兄貴」
「うん?」
弟が、すっと腕を伸ばして、左右の床を指さした。
「その楽器は、『いらない箱』? それとも、『いる箱』?」
弟の両手が指さす先。
そこには、それぞれ「いらない箱」「いる箱」と書かれた、大きな箱があった。
いらない箱の方には、「燃やす!」という不穏な言葉も書き添えられている。
フォルスは胸にかばうように楽器をひしと抱き、ベッドの上で身を縮こまらせた。
「い、いや、待ってくれよカゲロウ。まだ心の準備が」
「待たねえ。即断即決が肝要だぜ兄貴」
「ちょ、そんなこと言っても……なんていうか、ほら……まだ使うかもしれないし……」
「兄貴ぃ」
カゲロウが目を細めた。
「その楽器、いつ買った」
「ええと……5年前? くらいかな?」
「最後に弾いたのはいつだ」
「5年前」
「決まりだな。いらない箱行き」
「ああー!」
腕に抱いていた楽器を、椅子から立ちあがったカゲロウに素早く抜き取られ、フォルスは悲鳴をあげた。
「殺生な……」
「燃やす! いらない箱」に入れられる楽器をみて、フォルスの手がおろおろと宙をさまよう。
「いい加減、割り切れ兄貴! そうやって未練たらしくしていたら、いつまで経っても物は処分できねえし、引っ越しなんてできやしねえ。過去1年以内に使っていないものは、原則処分! いいな」
びしりと指を突きつけられ、フォルスは、さめざめと両手で顔を覆った。
フォルスとカゲロウは、もうじきセイヴァールの街を発つ。
ここより遠く離れた都市にある「ライル機関」という研究所に行くためだ。
冥土召喚術の脅威は、セイヴァールで起こった一連の騒動によってつまびらかとなった。
冥土召喚術の第一人者であるギフト・ブラッテルンが滅したとはいえ、彼の後を継ぐ者があらわれないとは限らない。現に、縛を逃れた無色研究員の一団が、似非冥土召喚実験を続けているとの報告も異世界調停機構には入っている。冥土召喚術の分析と克服方法の発見は、急務といえた。
そうした状況のもと、ごく自然な成り行きとして、現在唯一の冥土克服手段をもつフォルスとカゲロウに白羽の矢が立った。
騒動収束直後より異世界調停機構のもとには、数々の研究機関からフォルスとカゲロウコンビの召喚要請が舞い込んだ。まさに引っ張りだこ、というやつである。
「ライル機関」は、フォルスらに招待状を送ってきた研究所のひとつだった。
多くのロレイラル出身の研究者が集うこの機関では、冥土召喚術に関する研究がいち早く進められており、研究結果がすでに蓄積されているという。ブラッテルン兄弟との因縁も、多少なりともあると聞く。フォルスは個人的にも、ライル機関に興味があった。
「大家は荷物を残しておいていいと言ってくれたけど、これから行く先はライル機関だけじゃない。他の組織も色々まわることになるだろうし、半年1年で戻れるとも限らない。だからきちんと片して、一度部屋を明け渡そう。―――そう言っていたのは、兄貴じゃねえか」
「うう」
「実家に送るにしても限界があるから、できる限りこっちで物を処分しよう。そう言っていたのも、兄貴だぜ」
「分かってる、分かってるよカゲロウ。ただ、思い入れのある物が多すぎて、お別れするのがつらいんだ……」
言ってフォルスは、枕元のタケシー人形をひしと抱きしめた。
「そうやって一々物をかかえて泣いてるから、引っ越し作業がまるで進まねえ」
断捨離に燃えるカゲロウは、手を叩いて「捨てられない男」フォルスを叱咤した。
「さあさあ、来月頭には引っ越ししなきゃいけないんだぜ。その人形は、いらない箱? いる箱?」
「いらない箱……」
フォルスはよろよろと「いらない箱」の前に行き、涙目で人形に語りかけた。
「ごめんね。さようならゲレゲレ君……生まれ変わったらまた会おうね」
「いちいち、すげえ湿っぽいな……。ええと、次は」
言って、カゲロウは言葉をのんだ。
ゲレゲレ人形をいらない箱に入れたフォルスが、いま手に持って眺めているのは、ひとふりの剣だった。
黒ずみ汚れた、おもちゃの剣。
「兄貴、それは」
「カゲロウ」 気まずげに口をつぐんだカゲロウに、フォルスは笑いかけた。「保留でいいかな」
「保留っつうか……形見だろ? あいつの。だったらそれは、『いる箱』に入れようぜ」
兄の手から剣をとろうとするカゲロウを制し、フォルスは首をふった。
「待って、カゲロウ。捨てる気はもちろんないけれど、ちょっと後回しにしてほしいんだ。心の整理がついたら、ちゃんと箱に入れる。だから」
ふたつの箱を素通りし、窓際の壁に剣を立てかける。
「今は、保留―――ね?」
振り向いてにこりと笑うフォルスに、カゲロウは何も言わなかった。
「よし、じゃあ次行こうか次!」
フォルスは殊更、明るい声をだした。
「ええと、次はこの賞状だな。これは僕が学園に入って3年目の夏に書いた作文が入賞したときの……」
***
(疲れたなあ)
フォルスは頭のうしろで手を組み、ベッドに横たわっていた。
隣のベッドでは、寝つきの良すぎる弟が、すでに寝息を立てている。
カゲロウのスパルタ断捨離は、一日もおかずに続いていた。
引っ越し前ラスト1、2週間は、引継ぎや送別会つづきで引っ越し作業なんてできないんだから、今のうちに根詰めてやらなきゃダメだ、というのがカゲロウの言である。完膚なきまでに正論であった。
ここ数日のあいだに、フォルスは数えきれない思い出の品たちと向き合った。なつかしみ、心からの感謝をささげ、さようならを言った。あるいは、これからもよろしく、と頭を下げた。
そんな作業の繰り返しのなかで、少しずつ―――部屋だけではなく、心のなかもまた整理されていくのを、フォルスは感じていた。
騒動が収束した「あの日」以来胸のうちに積み重なって固まっていた凝りが、少しずつほぐれて、流れていく。心が柔らかくなっていく。
そうして軽くなった心で辺りを見わたせば、不思議なことに、縁のつづきを誓ったものだけではなく別れを告げたものたちまで、以前よりもかえって近くに息づいているような、そんな感覚に包まれるのであった。
(そういえば、疲れたと素直に感じるのも、久しぶりだ)
そんなことをぼんやりと考えながら、フォルスは、ひたひたと忍びよる眠りの波に身を任せ、まぶたを閉じた。
そのとき雲の合間から月が顔をだしたのか、カーテンの隙間から漏れでる光が、より一層に輝いた。
綺羅星の群れのようなきらめきが、音もなく、四角い部屋に注がれていく。
***
夢をみた。
故郷の村はずれの花畑に、フォルスは、少年の姿で立っていた。
そよ風が赤い髪を揺らす。やわらかな花弁たちが、立ち尽くすフォルスの、むきだしの膝小僧をくすぐる。
花畑の最果ては見えない。低い子供の目線で見わたす先、一面が鮮やかな色彩に包まれていた。
空は明るく、真珠色に輝いている。
ふと見ると、少し先を白い蝶が二匹、くるくるとまわりながら飛んでいた。
フォルスは何気なくその蝶たちの軌跡を目で追い、顔をめぐらせた。蝶たちはゆらり、ゆらりと風に流れていく。足を動かし、その行く先に向きなおった。
視線の先。
人が、立っていた。それを見た。
膝が震え、くずれ落ちそうになる。
目が見ひらかれ、驚きに喉がしまり、声がでない。
花畑のなか、会いたくて仕方なかった人たちが立っていた。
憧れの青年。そして青年の弟であり、フォルスの友でもある少年が、穏やかな笑みを浮かべ佇んでいる。青年のうしろには蒼い機械が、寄り添うように浮かんでいた。
エルストさん。ガウディさん。ギフトォ……っ!
小さいフォルスは花のなかを駆けた。
花びらを散らしながら地を蹴り、エルストの胸に飛びこむ。
青年はバランスをくずしそうになりながらも、フォルスを抱きとめた。背に、力強い腕がまわされるのを感じた。
フォルスは、白いコートの背をかき抱き、大声で泣いた。身も世もなく、顔をぐしゃぐしゃに濡らして泣いた。
その間ずっと、大きな手が、フォルスの髪を撫でてくれていた。背には、あやすように、友の手が添えられている。
フォルスは涙にぼやけた目で、青年と少年の顔をみた。ふたりとも優しい顔をしていた。
急に照れくさくなり、身を離し、右腕で顔をぬぐった。左手は、白いコートを握ったままだ。
エルストは白い歯をみせて笑った。ギフトには頬を人差し指ではじかれる。
そんなふたりに、フォルスは、拳をふって訴えた。
ぼく、さびしかったんだよ。悲しかったんだ。
さよならも言わずに、みんな急にいなくなっちゃうから。
穏やかに目を細めて、ふたりはフォルスは見つめている。
会いたいって、思ってたんだ。
もう一度、みんなの顔を見たかった。話をしたかった。
みんなに言いたかった。ぼくと出会ってくれて、ありがとうって。そう伝えたかったんだよ。
見つめる先で、エルストの口がひらき、動いた。
「……、……」
しかし、声は聞こえなかった。
なあに。いま何て言ったの、エルストさん。
エルストは屈んで、フォルスの目の高さに視線をあわせた。
フォルスの腕をつかみ、やさしく、そして真摯に、フォルスに語りかける。彼の唇が、動いている。しかし、やはり声は聞こえない。
肩に手を置かれ、振りむくと、ギフトも何かをフォルスに言った。悪戯っぽく、その目は輝いている。昔よく見た、友の表情だ。
フォルスは焦った。ふたりとも、何を言っているのだろう。
こんなにも望んでいるのに、彼らの声が自分には届かない。
聞こえないよ、エルストさん。ギフト。ガウディさん。
エルストが立ちあがった。見上げる顔は、逆光に影がかかっている。
ふいにフォルスは眩暈を感じ、意識が遠のいていった。白い光と、ふたりの笑みの気配が、体を甘くつつんでいく。待って、行かないで。伸ばした腕は宙をかく。
意識の途切れる瞬間、耳のすぐ側から、声が聞こえた。
「さようなら―――そして、ありがとう。君を信じて良かった」
***
フォルスはベッドのうえで、暗い天井を見上げていた。
こめかみに、一粒の涙が流れている。
まぶたを閉じると、目じりから熱いものがふたつ、みっつと流れ落ちた。
フォルスがあの日以来、はじめて流した涙だった。
身を起こし、両の手で、落ちる涙を受け止める。あごを伝い落ちる滴は、ぱらぱらと音をたてて手のひらを濡らした。
(エルストさんは、やっと弟を取りもどすことができたんだな……)
それとも、ギフトが兄を取りもどしたというべきか。
いや、どちらでも意味に違いなどないだろう。哀しいまでに固く結ばれた兄弟だった。分かたれていることが、不幸と言えるほどに。
フォルスはそのまましばし動かず、やがて手の甲で頬をぬぐった。
濡れて光る眼を、壁際の剣に向ける。
カーテンの下の隙間から漏れ出る月光が、その刀身を、青白く照らしていた。
ベッドから降り、壁に歩み寄る。剣を胸に抱き、カーテンをひらいた。
さあ、という涼やかな音とともに、まばゆい月影がフォルスの全身を包む。
いつになく、美しい月夜だった。
濃紺の空に浮かぶ光は真円。その円は金剛石のきらめきに隈なく覆われ、見ていると吸いこまれそうなほどの存在感をもっていた。いつか見た黒い月は今はなく、その輝きを翳らせるものはない。
フォルスは陶然と光のシャワーを浴びながら、心のなかで語りかけた。
(ギフト。あの日語った君の言葉は正しい)
結局フォルスは、ギフトを救うことができなかった。
手を伸ばしつづけた。言葉を尽くしつづけた。しかし最後まで分かり合うことはできなかった。
すべてを拒絶し笑う友を、フォルスはこの手で斬り捨てた。
誰もが分かりあって繋がりあうなんてことはできはしないと、彼は言った。
おそらく真理だ。
フォルスが描いた理想は、あの月のようなものだ。常に美しく輝き、心を揺さぶる光をはなつが、地上から手を伸ばしても決して届くことはない。
(本当は分かってるんだ、全部。―――だけど。それでも)
フォルスは、手を空に伸ばした。
窓にうつる月の輪郭を、指先でなぞる。
(僕は、歩いていきたいんだ。光さす方向へ、まっすぐ。遠い未来、いつか奇跡が起こって楽園に辿りつける。そんな日が来ることを信じて)
「ごめん、カゲロウ。起こしちゃったね」
フォルスは後ろをふりむかず、言った。ベッドのうえに身を起こした弟が、フォルスの背を無言で見つめている。
「兄貴……」
思いつめた声で、弟が言った。
「おいらは、頼りないかい」
フォルスは振り向き、笑顔をみせた。
「そうじゃないよ、カゲロウ。これは、僕の我儘なんだ」
フォルスがあの日喪ったのは、フォルスの幸せな子供時代そのものだった。
3人で過ごした、甘く閉じた世界。フォルスだけの宝物。
その弔いと胸のうちの痛みは、誰と共有することなく、フォルスだけのものにしておきたかった。
「心配かけたね、カゲロウ。でも、もう大丈夫」
窓に向きなおり、ふたたび月を見上げた。
「さっきみんなと、会うことができたんだ。だからもう」
フォルスは、目を閉じる。まぶたの上に、白い光が注がれるのを感じた。
「ちゃんと、お別れできる」
そうしてフォルスは、剣を握りしめ、心のなかで別れの言葉をつぶやいた。
本来の持ち主。幼き頃の、友の名とともに。
***
「よおし。とりあえず大きいところはこれで終わりか」
燦々と差しこむ陽光のもと。
がらんと片付いた部屋の真ん中で、カゲロウは満足げにつぶやいた。
彼の足元の床には幾つもの大きな箱と、ぜいぜいと消耗して座りこむフォルスの姿があった。
「か、過酷な作業だった……」
「ホントにな! いつまでも終わらないんじゃねえかと思ってた。でも何とかなったな。お疲れ、兄貴」
言ってカゲロウは、よいしょ、と荷物を抱え上げた。「いらない箱」に入っていた品々である。
「じゃあ、早速行ってくるか」
「も、燃やすのかい」
おそるおそる、弟を見上げると、カゲロウは苦笑していた。
「違うって。人にあげるんだよ」
「えっ」
思いもよらぬ言葉に、フォルスは目を丸くする。
「だって勿体ないだろ。まだ使えるもの沢山あるし。おいらたちが要らなくっても、他の誰かは要るかもしれないだろ? だから、そういう人たちにもらってもらうんだよ」
こういうの、『りさいくる』っていうんだぜ、とカゲロウは胸を張っている。
「風雷卿で、こういう使い古しの物や服を引き取ってくれる店があるんだ。機械系だけは、アルトリクスに持っていこうと思うけどな」
「もしかして、最初からそのつもりだったの、カゲロウ」
「まあな」
「君、そんなこと一言もいわなかったから、僕はてっきり」
自分の知らないところで、いつの間にか「リサイクル計画」を立てていたらしい弟に感心しながらも、思わず拗ねたような口調になってしまう。
カゲロウは、困ったように笑って、言った。
「悪かったよ。でもさ。もう会えないと思って物と向き合わないと、きっと兄貴はしっかりお別れできないだろ。ずるずる色んな思いを引きずってさ」
それは誰にとっても不幸な「未練」になるのだとカゲロウは言う。
「何事も、次の段階に行くには『けじめ』が必要なんだよ。ひとつひとつ心のなかで区切りをつけて、次に行く。そういう手順ってのが大事なんだ。―――って悪い、エラそうなこと言っちまって」
言って恥ずかしそうに赤くなる弟の言葉は、今のフォルスの胸をつくものだった。
ストンと心のうちに落ち、欠けていたパズルピースが全て埋まったかのように、気分が晴れていく。
「君は本当に……すごいね。僕に足りない発想を、君が全部補ってくれる」
「そりゃまあ」 カゲロウは、首をかしげて苦笑いをした。「だから、おいらは兄貴の響友なんだろ」
「カゲロウ……」
感動をあらわそうとフォルスが口をひらいた途端、カゲロウは突然焦ったように、大声をだした。
「あ、ああーっ! 思いだした」
「え、え、どうしたの」
「大家に、調味料関係店に譲ってくれないかって頼まれてたんだ! おいら渡してくるよ」
言って荷物を置き、脱兎のごとく走り去った弟の耳は、先の方まで赤かった。どうやら照れていたらしい。
フォルスは苦笑いをしながら、目じりをぬぐった。
「……」
ひとりになった部屋を、何となしに見わたす。
10年―――フォルスの人生の半分を過ごした空間だ。部屋のしみひとつ、床のきしみひとつに、思い出がある。
フォルスは心のなかで、今までありがとうとつぶやいた。いつか戻ってくることがあるのだとしても、それはそれで。
フォルスは部屋の真ん中に歩み寄り、「いる箱」の上に乗せていた剣を手にとった。目の高さにかかげる。
軽くて丈夫な、おもちゃの剣。柄のところには、透きとおった小さな丸い石が埋めこまれている。剣の元の所有者が、子供のころに細工したものだった。
日に透かすと、石のなかには、天使の輪のような円状の光が浮かびあがる。瞳の虹彩のように、フォルスを見つめる二重円。子供時代はただ美しいと思って眺めていたこの石は、友の家の家紋をかたどったものだったのだろうと今ならば分かる。
輪は、むかし見せてもらったときと同じように、夢見るようにゆっくりと回っていた。
「そういえば君、むかし言っていたよね……負けた方が勝った方のいうことを何でもひとつ聞くとか何とか」
そんなこと言ったっけ、とばつの悪そうな友の声が聞こえてくるようである。
「でもって、僕は君に勝ったよね。それも圧勝だったよね。僕も結構負けず嫌いな男でさ。『勝ち負けの問題じゃない』……とかそういうことを言うタイプじゃないんだよね、本当は。君は十分知っていると思うけど」
フォルスは言って、剣の石に口づけを落とした。
「という訳で、僕のいうこと、聞いてもらうよ。ギフト」
「ただいまー」
弟が頭をかきながら戻ってきた。
「お帰りカゲロウ。この『いらない箱』、これからすぐに引き取ってもらいに行くのかい」
「ああ、そのつもり。兄貴も一緒に行ってくれるか」
「もちろん」
「よし、じゃあ、兄貴そっちの箱持ってくれよ。おいらはこっちの荷物を持つから」
箱を抱えあげたフォルスは、ふと気づいて声をあげた。
「あれ。楽器は?」
部屋を見わたすと、いつの間にかベッドのうえに楽器が乗せられている。
「置き忘れてる。これも持っていくんだよね、カゲロウ?」
「ああ、いや―――その楽器は、おいらがもらうことにした。『りさいくる』で」
「え」
「おいら、こう見えても実は、結構ゲージツが得意なんだ。だからさ、その」
荷物を抱えながら、ごにょごにょと呟いていたカゲロウは、頬をそめてそっぽを向いた。
「今度眠れない夜があったら、おいらがこれ弾きながら、兄貴に子守唄うたってやるよ」
「カゲロウ……」
「兄貴の村の子守唄、おいらにもきちんと、教えてくれよな」
「……うん!」
いつの間にか背が伸び、自分に並び立つようになった弟を追い、フォルスは部屋を出た。その腰には、おもちゃの剣が下がっている。
***
「なあギフト。僕と一緒に行こう。ゼロから始まるこれから先の時間を、共に歩もう。
そして進んでいこう。本当は誰もが憧れてやまない光の方向へ。まっすぐ」
剣は眠っている―――。