記憶 <表> <裏>記憶 <表> 茂った青葉を揺らし、風が木立を渡る。春の間に山に染み入った雪解け水が巌に滲み出している。戴にも夏が巡ってこようとしていた。
三月、雪解けと同時に馬州の凌雲山の裾野で大規模な山崩れが起き、里廬が土砂に飲まれ、街道が寸断された。当初は馬州師が復興に当たっていたが、州師のみでは負担が大きいと州侯から要請を受け、禁軍左軍が派遣されることになった。
「馬州師にはこの辺りの出身の者が多いのです」
州師中軍将軍は驍宗に言った。
「山に囲まれた土地で、雪解け水が流れ込んだ川が氾濫しやすい。水捌けも悪いから一度水が出たらその年の収穫は絶望的です。だから兄弟がいる者は兵卒になって家計を助けようとする者が多いのですね。兵卒のうちだいたい三人に一人がこの辺の里の生まれです」
そう説明すると、彼は声を落とした。
「家族をまるごと亡くした者も少なくない。彼らはなんとか自分で家族を見つけてやりたいと土砂を掘るのですが、いかんせん消耗が激しい。……王師に協力してもらえて助かります」
急峻な山麓の緑が突然抉られ、山肌が露わになって土砂が扇状に広がる。山崩れを起こした周辺は地盤が不安定だ。残った家の民も退避させ、端から土砂を掘っていく。人手さえあれば土砂をまるごと動かすことは難しくないが、どこに民が埋まっているか分からない。少しずつ地道に掘り進めるしかない。
山の比較的地盤の安定した場所を選んで窖を掘り、岩で補強しながら遺体の安置所を作った。見つけた遺体を洗浄し、冷ややかな安置所に横たえる。日を限って民が安置所に来られるようにして、縁者が遺体を引き取ることが出来るようにした。それでも日々気温が上がっていく季節だから、傷みが激しい遺体になると特徴や衣類などを書き留めて手厚く葬る。いずれ親類が捜しにくるかもしれないからだ。
これらの到底軍隊の任務を越えた指示に、驍宗の麾下はよく従ってくれていた。自分の手で家族を探してやりたかったのだろう、最初は王師が派遣されたことに不満げだった州師の兵卒も、やがて驍宗を見ると感謝の目を向けるようになった。
驍宗のやり方に感じ入っていたのは州師や民ばかりではない。左軍師帥の巌趙もそうだった。
巌趙は先の将軍の麾下だった。その地位が空いたならばまず将軍になるだろうと目されていた。それを瑞州師将軍だった驍宗が横から攫った格好になる。扱いは難しくなると驍宗も思ったし、実際、巌趙の麾下は驍宗の麾下と僅かに距離がある。だが、当の巌趙本人はよく勤めてくれている。
巌趙は磊落を絵に描いたような男だった。情に厚く義理を重んじ、土に埋もれた民を思って泣いた。年端もいかない子供の遺体を掘り出したときは、いかつい背を丸め、涙ぐみながら自分の手で清水で遺体を清めてやっていた。
土木や警羅も軍隊の仕事ではあるが、天災の、ましてや掘っても掘っても遺体しか出てこない状況では士卒の心もそそけだつ。誰かがやらねばならないし、やるなら自分たち軍人だという自負もあるが、精神的な疲労は積み重なっていく。こういう状況で、巌趙のような男は不思議と愛された。
人の懐に入るのがうまいのだろうか。気付けば驍宗麾下どころか、州師の士卒とまで親しげに口をきいている。
「将軍は委州の出身でしたか」
日が落ちて、今日の作業が終わりになると兵卒に道具を片付けさせ、進捗を確認する。州師とは手分けをして土砂を掘っているから、州師とも密な連絡が必要だった。
連絡役である巌趙は、州師との相談の報告をした帰り驍宗に訊いた。
「そうだが、どうした」
巌趙はいや、と首を振って笑った。
「州師の連中となんで軍人になったかって話になりまして。俺は地元では手がつけられない荒くれ者で、性根を直せと親父に軍隊に叩き込まれたと言ったら笑われました」
「それはそうだろう」
驍宗が笑い含みに返すと、巌趙もまた声を上げて笑った。巌趙は裏表がなく、飾り気がない。そういうところが人好きするのだろう。
「軍隊で出世していくうち、いつの間にか故郷の英雄ということになっていました。最近じゃうちの子が軍人になると言って聞かないと妹に文句を言われます」
巌趙は丸い目をくるくると動かして驍宗を見る。
「将軍はなぜ軍人に?」
驍宗は巌趙の視線を受けて苦笑した。
「……故郷に年の離れた兄がいる。折り合いが悪くてな。私は末に生まれた子だから両親に甘やかされたが、それが気に食わなかったのかもしれん。私は可愛げのない子供だったし、この見掛けのせいもあるのだろうな。両親が亡くなると疎まれて、早くに家を出た。……軍隊に入ったのは、ここであれば己の実力次第でどうとでもなると聞いたことがあったからだ」
予想は出来ていたが、驍宗の話を聞きながら巌趙は萎れていった。
「……それで、御兄君はどうなさっておられます」
「生きているのは知っているが。かといって故郷を厭うてはいない。良い思い出もあるが、兄が存命のうちは帰っても歓迎されないだろう、とは思う。……どうした」
巌趙はぼろぼろと涙を流していた。
「酷い話だ……。兄が弟を嫌う、など」
驍宗は静かに笑う。
「巌趙。私は自分を憐れんだことはない」
「なればこそです」
巌趙は大きな掌で乱暴に目元を擦った。
「ご自分を憐れだと思っておられないのが、尚更不憫です」
そういうものか、と驍宗は思った。巌趙は両手で自分の顔を拭うと、改めて驍宗を見る。
「俺は今回馬州に派遣されて、あなたの指示の下で働き、あなたの麾下になりたいと思った。そして今、あなたの兄になりたいと思っている」
驍宗は面食らったが、巌趙は真剣な表情を浮かべている。
「……麾下で、兄」
「麾下である限り、あなたのために死力を尽くすことを誓う。また、あなたは俺を兄だと思って構わない。麾下として、兄として、あなたを守り、あなたを支えよう」
いいだろうか、と言って巌趙は首を傾げた。その様子が、どこか主人の言葉を待つ獣を思わせた。驍宗は喉の奥を鳴らす。
「……そんな麾下のなり方があるか……」
くつくつと笑いながら驍宗は巌趙を手招きする。近く寄った巌趙に、驍宗は笑んだ。
「巌趙。よろしく頼む」
記憶 <裏> 谷底に風が吹いている。暗雲は谷間に蓋をするように伸し掛かり、聳え立つ岩壁の狭間を凍てつく風が吹き抜けた。雪こそ止んでいたものの、一旦は地面に降りたはずの雪が猛風に撒き上げられ、視界が白く煙る。頭上で鈍い物音がした。地面の上で重さのあるものが無理やり引っ張られるような音だ。
前方で鋭い声があがった。男は近くにいた兵卒の腕を掴んで背後に飛びのいた。曇天を仰ぐと崖の上に張り出した雪庇がゆっくりと盛り上がり、根元から折れ曲がるようにして崩れるところだった。雪庇は巌にぶつかり、砕けながら谷底に落ちる。新雪の中に一塊の氷が埋まった。
男は注意深く立ち上がる。
「申し訳ありません」
男に腕を掴まれて助けられた兵卒の謝意に苦笑する。男は両司馬だったが、この兵卒の顔には馴染みがない。
「この季節の行軍は初めてか」
「いえ、初めてではありませんが。ここまで雪深い場所は今までありませんでした」
呼気さえも凍る寒さだが、兵卒の顔は上気して赤い。
冬の行軍は厄介だ。荷も多く、雪と寒気で兵卒の消耗も大きい。そのことを男はこれまでの軍隊生活の中で実感していた。
「雪庇に押し潰されたらまず命はない。毎回助けてやれる訳ではないから気をつけろ」
「はい」
言うと、兵卒は表情を引き締めた。
一時的に崩れた隊列がまた元のように組まれ、再び行軍を開始する。
新雪の下に根雪と氷を覆い隠した道は意外にも脆い。迂闊に体重を掛けると底が抜けて沈み込み、身動きもままならなくなる。ここに至るにも何人もがそうして足を取られ、彼を引き起こすまで一伍の動きが止まる。一伍の乱れは少しずつ全体に波及し、自然と一旅の動きが鈍る。
谷底は緩い起伏を繰り返しながら次第に上り坂になり、視界の先で断崖の上と合流するのが見えた。しばらく歩くと、前方の両伍が溜まっている。拓けた場所があり、そこで後続を待っているようだった。男の部隊の背後にもまだ士卒は続いているから、一旅が揃うまでに夕刻になるだろう。今日はここで野営になりそうだった。
男は伍長らに命じて、寒さに悴む足で頻りに足踏みをする兵卒を整列させる。谷間を吹き抜ける風は強く冷たい。おそらく岩壁を掘り、風避けを作って交互に休みながら夜を明かすことになるだろう。すでに先に着いた両伍から岩壁に窖を掘り始めていた。
男が自分の部隊を確認していると、ある伍長が不意に崖を見上げた。
「あれを」
伍長の指を差した先を追う。岩壁の上を動くものがあった。粗末な衣を着た子供のように見える。珍しい灰白色の髪が、時折岩壁の影に隠れながら移動していた。
男は眉を顰める。子供が一人で出歩くような場所でも、時間でもなかった。
男は上長に報告するついでに、その子供のことも告げた。
「見間違いじゃないのか」
卒長はすぐにそう言った。
「で、あればいいのですが」
ここから一番近い里廬でも、子供の足では夜までには帰り着けまい。昼間でさえ雪混じりの風が吹き荒び、呼吸は凍りつく。氷に取り巻かれた巌の大地だから夜はもっと底冷えがするはずだ。もし子供が迷っているのであればまず無事では済まないだろう。
「そうだな」
卒長は頷いて自分の顎を撫でた。
「じきに日が暮れる。一応見てきてくれ。見つからなかければそれでいい。見つけたら保護を」
「はい」
男は坂を登りきり、子供の歩いていった方角へと足を向けた。岩肌を覆った霜が白く凝っている。巌ばかり積み重なった間隙から細く樹木が伸びて、立ち枯れた枝の先に氷の柱をつけていた。
雪と巌だけが見える中、生きているものの気配を探して男は歩いた。岩の間を縫うような細い通路が続く。急な勾配を登ると、葉を落としきった林だった。木は風が吹き付ける片面のみ黒い樹皮が見え、もう片面は白く雪が貼り付いている。
夕暮れの林の中に小さな背中が見えた。子供は一抱えもあろうかという桶を持ち、雪道を歩いている。
男は子供を追った。近寄ると桶になみなみと水が張っているのが見える。沢で水を汲んでいたのか。それではこれから家に帰るところだろう。
普通、冬の間の水は雪を掬って炉の傍に置いて溶かすか、火にかける。子供の親は手間を惜しんだか、あるいは炭か。
「運んでやろうか」
男は子供に声をかける。振り返った子供は印象的な紅の瞳をしていた。
「平気です」
しっかりした声だった。子供の鞜は破れている。この季節だというのに褞袍さえ着ていなかった。
男は子供の前でしゃがんで微笑む。
「……どこまで行く? 親は?」
子供は逡巡する気配を見せてから、近くの里廬の名前を言った。
「遠いな。着く頃には夜になるだろう」
「慣れている」
物怖じしない子供だった。男は苦笑する。
「いつもこの時間に水を汲むのか」
子供は頷いた。
「ならば、一日くらい甘えておけ」
男は子供の手から桶をすくい取った。目を丸くする子供の先を歩き始める。
子供は小走りになって男を追い越した。
「返せ」
「なぜだ」
「運んでもらう義理がない」
子供は強く言って男を見上げる。
「義理か。難しいことを言うな」
「子供扱いするな」
「そうだな」
反発した声をあげる子供の頭を軽く混ぜると、そのまま通り過ぎた。
「おい」
子供は男を追いかける。
「里廬はこっちだろう?」
「返せったら」
男は苦笑した。
「強情だな。言われないか」
子供は一瞬黙った。図星なのだろう。
「……あんた士卒だろう。こんなところにいていいのか」
「心配してくれるなら早くお前の里廬に帰るぞ」
子供は男の少し後ろをついて歩いた。どうやら諦めてくれたようだ。
林を抜けると冷たい風が吹き抜ける。男は肩越しに子供を見た。
「寒くないか」
「……慣れている」
答える子供の鼻も耳も赤い。軽く背中で括ってある白銀の髪が風になぶられる。
男は立ち止まり、一度桶を雪道に置いた。自分の囲巾を外すと、屈んで子供の首に巻いた。
「……いい」
「巻いておけ。市井のものより余程暖かい」
男は子供の首元で固く結び目を作って微笑む。子供の緋色の瞳の周りで睫毛が凍っている。
男が再び桶を持って歩き出すと、子供の軽い足音がついてくる。
「……ありがとう」
小さな声に男は少し笑う。大人を頼ることに慣れていない物腰が、どことなく昔の自分を見るようで懐かしかった。
しばらく雪道を行くと、不意に袖を引かれた。
「そっちの道は冬の間は危ない。風が吹きつけて凍りやすい。遠回りになるけど山道のほうがいい」
子供はそう言って小高い丘陵を指差した。
「ありがとう。案内してくれるか」
「ああ」
子供が男より先を歩き始める。
口数は少ないが、聡明な子供だった。男が子供に向かって何かを訊くと、すぐに的確な答えが返ってくる。
「今は小学か」
「ああ」
「学校は楽しいか?」
「考えたことがない。やるべきことがあるからやるだけだ」
「なるほどな」
男は苦笑した。
「……あんたは?」
珍しく子供から問いかけられる。
「軍隊は楽しいのか?」
「楽しいな」
男は即答した。
「全て実力次第だ。運もある、だが運だけで戦場を渡れば死ぬ。単純な力に優れた者が必ずしも勝つとは限らない」
「死ぬことが怖くないのか」
「怖いさ。だから知恵を絞る。自分が死なないために、そして死なせないために」
「死なせないために?」
男は笑う。
「私には部下がいる。部下の生死は私の指示にかかっている。故郷が戦場になればその土地は荒れる。民の被害を最小限にするのも仕事のうちだ。それでも戦になれば民は軍隊を恨むのだろうが」
「部下?」
子供は驚いたように男を振り返った。
「若そうに見えるのに」
「年齢は関係ない」
男は言葉を続ける。
「戦略、戦術、それらを考案する頭と実行する能力、どちらもないと生き残れない。逆に言えばそれさえあれば勝ち抜けるし、成り上がれる。全ては自分の実力で決まる」
「そうか」
丘陵を登ると眼下に灯火が集まっているところが見えた。目的の里廬だろう。男は笑う。
「軍人になってみたくなったか?」
「……少し」
子供は男に背を向けながら言う。
「お前はきっと軍人に向いているよ。親には止められるかもしれないが」
「……そうかな」
「ああ」
坂道を下り、里閭の前まで歩く。落ちかけた夕映えが雪に反射している。
「ここでいい」
子供は里閭の前で立ち止まり、男を見上げる。
「本当に? お前がいいなら家の前まで運ぶが」
「いい」
子供は首を振った。囲巾を外そうとする。
「返さなくていい」
「でも」
「私は予備を持っているから、お前のものにしていい」
子供はしばらく男を見つめていたが、そのまま囲巾を巻き直した。
「ありがとう」
「構わない」
男は微笑んで、桶を置く。桶を担いだ子供の頭を撫でた。
「じゃあな、坊主。軍隊で待っている」
「……考えておく」
男は委州への派兵から帰ると間もなく、上長の推挙を受けて軍学に進んだ。本姓は朴、名は高、後に阿選、と字される男であった。