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    ライムライト 阿選が事務所の階段を昇っているとき、ちょうど驍宗が降りてくるところだった。
    「おはよう」
     驍宗の言葉に、阿選も笑って返した。昼も過ぎた時間だが、何時に会ってもその日初めて会うときに朝の挨拶をする。この業界の不思議な習慣だった。
    「仕事か?」
    「いや、休みなんだが。手紙を取りに」
     驍宗に訊かれて、阿選は笑う。基本的に、ファンからの手紙は事務所付けで届く。阿選は手の空いたときにその手紙を貰いに行き、読むようにしていた。忙しさに波のある仕事だから返信はしないことにしている。一人に返信をすると、全員に返さなくてはならないから。その代わり、手紙をくれたファンには年賀状を送ることにしている。
    「一緒に取りに行こう」
     驍宗は思いついた顔をして、今まで下ってきた階段を昇り始めた。阿選も隣に並んで階段を昇る。
    「驍宗は仕事だったのか」
    「……厳密には違うな」
     阿選は驍宗を見る。意味を問おうとしたが、すぐに事務所についてしまった。
     雑居ビルの三階に二人の所属している事務所はある。スタッフは十名、この規模の事務所にしては多いほうだ。
     ドアを開けると社長も出ていくところだったらしい、向かい合わせに視線があった。阿選は挨拶をして、「手紙を取りに来ました」と言った。
    「ああ……。そうか。驍宗もか」
     社長はどこか上の空のような返答をして、驍宗を見遣る。驍宗は軽く頭を下げた。妙な雰囲気だ。
     何かあったのだろうか。訊いてみたい気がしたが、事務所では憚られた。
     阿選と驍宗はそれぞれスタッフからファンレターを受け取り、事務所を出た。階段を降り始める。
    「社長とどうかしたのか」
     水を向けると、驍宗は阿選を見つめた。
    「阿選。昼飯食べたか」
    「ん? いや、まだだが」
    「じゃあ行こう」
     阿選の返事を待たず、驍宗は先に階段を降り切った。昼を食べながら、ということなのだろうか。

     驍宗と初めて出会ったのは数年前、あるオーディションでのことだった。ギリシア悲劇を元に大物演出家の手掛ける新作、それもほぼメインになる役どころという話で、年齢設定が二十代から四十代と幅広い。当然のように応募者も多く、最終選考に残ったのは映像畑で知られた名優や舞台一筋の中堅など名前の通った役者が多かった。その中にひとり、全く無名の驍宗がいたのだ。
     阿選は、最終選考に残った中では自分が一番若いだろうと思っていた。しかし驍宗は更に若かった。後に訊けば、あのとき驍宗はまだ学生だったらしい。商業演劇のオーディション自体が初めてだった。
     驍宗は場違いなほど若かったが、同時に落ち着き払ってもいた。それが尚更違和感となって目立っていたが、驍宗本人は気にしていないようだった。
     オーディションの中では、エチュードと呼ばれる即興劇がある。その場でテーマが与えられ、役者が自由に設定や動き、台詞を考えて演じるものだ。一人で演じる場合もあれば、同じオーディション参加者でグループを組まされることもある。
     このオーディションでは、二人一組となってエチュードを行った。阿選とペアになったのが、驍宗だった。テーマは「殺した男/殺された男」。
     正直に言えば、不安だった。芝居はキャッチボールに近い。相手がこちらの芝居を受け取ってくれるか、またどう返してくるかで形が変わってくる。ましてや即興では、相手の返し方ひとつでとんでもない方向に走りかねない。
     他の参加者であれば心配ないが、驍宗は新人だった。こちらの芝居をどう受けるか、また、きちんと投げ返してくれるのか。どのようにボールを投げられてもコントロールできる自信はあったが、コントロールすることを気を取られて自分の芝居ができないのでは困る。
     阿選は驍宗とその場で簡単な打ち合わせをした。第一印象は、寡黙な男だと思った。
     他の組のエチュードが始まった。さすがに実力者揃いで観ているだけで面白い。それは横で観ている驍宗も同じようで、食い入るように見ている様子は同じ演劇人として好感が持てた。
     阿選と驍宗の組の番になる。この中では一番若い組み合わせだった。居並ぶ演出家やプロデューサーたちの様子から、期待はされていないのが分かる。阿選自身も運がないと内心で苦笑していた。──芝居が始まる瞬間までは。
     阿選には何が起きたか分からなかった。しかし、始まった一瞬から審査員たちのことも、オーディションであることも意識から消え失せた。
     そこにはただ、舞台だけがあった。舞台と、そして照明。
     暗転。

     男Aが客席のほうを向いて、舞台の真ん中に立っている。正円のスポットライトが男Aを照らす。他は真の闇。
     男Aの背後から右腕が現れる。腕は男Aの肩から突き出すように伸びて、やがて男Aの肩から垂れ下がる。腕は力なく、しかし意志を持って、男Aの胸を掻きむしる。

    男B「お前が殺した」

     男Bは男Aの背後から言う。

    男B「お前が私を殺した。私はお前の半身、お前の影、お前自身。お前はお前自身を殺した」

     男Aは黙って立っている。

    男B「私はお前の影、いや違う。影になどなりたくなかった。ましてやお前の影になど。お前は私の存在を知らない、なぜなら私はお前の影だから。光あるところから暗闇は見えない。お前は私を知らない。お前には私が見えない」

     男Bは男Aの背後から離れる。男Bは右手だけを男Aの肩に残し、スポットライトの外に立つ。

    男B「私はお前を憎んでいる。お前は光、私は影。光がなければ影はできない。お前がいなければ私は存在すらできないのに、お前がいると私は暗闇に沈められる。お前がいる限り私は息ができない。お前が憎い。私を苦しめるお前が憎い」

     男Aは舞台の真ん中に立っている。男Bは男Aの肩から右手を離してスポットライトの外に消える。

    男B「お前には分かるまい、私の気持ちなど。お前は光、私は影。お前には私が見えない。私の目からはこんなにもお前が見えるのに、お前は私を知らない。知らないままに断罪の斧を振り下ろし、お前は私を殺した。お前が憎い。私を殺した、お前が憎い」

     男Aが左腕を伸ばす。スポットライトの外にある男Bの手を掴み、二人の手がスポットライトの正円の中に収まる。男Aは男Bを見る。

    男A「だから忘れない。覚えている。お前は私の影だから。影が光から分かたれて存在することができないように、光もまた、影から分かたれて存在することはできない」

     暗転。

     男Aが膝を抱え、客席から斜になるように舞台の中心に座り込んでいる。正円のスポットライトが男Aを照らす。他は真の闇。
     男Aの斜め後ろで、男Bも舞台に座り込んでいる。正円のスポットライトが男Bを照らす。男Bは男Aに背中を向けて、横顔を客席に見せている。

    男A「お前はずっと黙っている」

     男Aは膝に顔を埋めている。

    男A「私がお前を殺した。それ以来ずっと、お前はそこにいる。黙ってそこにいるだけで何も言わない。お前は私が憎いのだろう。恨めしいのだろう。だからそこにいるのだろう」

     男Aは顔を上げて自嘲する。

    男A「憑り殺したいのであればそうすればいい。なぜ何も言わない。私はお前が憎かった、だから殺した。妬んだことはない。お前の何かが欲しかったわけではない。ただ、苦しかっただけ。お前の存在抜きに語られえぬ己が憎かっただけ」

     男Bは静かに座っている。

    男A「なぜ黙っているのだ。そうやってずっと、亡霊になってまでお前は私について回る気なのか。お前が死んでも、私はお前から解放されないのか」

     男Aは舞台の上に伏してくずおれる。
     男Bは立ち上がり、男Aのそばで膝をつく。

    男B「私はお前を恨んだことはない。憎んでいるわけでもない。私はただ、ここにいる。お前の傍にいるだけだ。何にも替えがたい、私の無二の影よ」

     男Aは驚愕し、男Bを見上げる。

     暗転。
     阿選は息を吐いた。時間にして十五分も経っていないが汗だくだった。
     「殺した男」と「殺された男」を役を代えながら二通り演じた。驚いたのは芝居のしやすさだった。
     驍宗は何もしないという芝居ができる男だった。
     普通、演じるともなれば誰もが反応を返さなければならないと思う。誰かが何かを言えば、それに返事をしなければならないと思う。特にこういうエチュードでは、そうやって話を回していくことが多い。だが一方で、全ての言葉、全ての動きに反応をしていると次第にリアルからは遠ざかっていく。
     人間は普段、それほど他人の言葉や動きに反応しているわけではない。相手から出された信号を、咄嗟に取捨選択しながら重要度の高いものにレスポンスを返している。しかし舞台では、相手の言葉はもちろん声音、視線の動き、それら全てに意味がある。舞台俳優が映像に進出したときに演技過剰と言われやすいのは、場合によっては全てに反応を返す訓練を積んでいるからだ。
     俳優は見られなければ存在することができない生き物だ。その場に、芝居の中に存在したいと思うから、相手の芝居に反応を返す。
     驍宗は、敢えて反応を返すということをしない役者だった。反応を返さなくても、その芝居に「いる」ことができる。芝居に存在を溶け込ませて、芝居の中で自然に呼吸ができる、その役を生きることができる役者だ。
     真の名優には豪華なセットも衣装も必要がないとよく言われるが、それに近い。姿勢で、視線で、何があるのか、何を思っているのかを表現できる。
     驍宗が自然に芝居の中で役を生きていてくれるから、阿選もまた自分の思う芝居を演じやすかった。しかし、驍宗は時に予想がつかない。予想がつかないからこそ、思いも寄らないものが引きずり出されている感覚がした。
     久しぶりに、強烈な演劇の面白さを感じた。
    「ありがとう」
     阿選は驍宗に礼を言った。最終選考に残った以上、役を獲りたい気持ちはあったが、なんとなくこのエチュードが出来たならば満足だという気がした。
    「こちらこそ。楽しかったです」
     驍宗も笑った。お互いに同じことを思っていたのだろう。

     数週間後、阿選はオーディションの結果を受け取った。それで掴み取った役で阿選はいくつかの演劇賞をとり、今や同年代の舞台俳優の中では一番に名前が挙がる存在になっている。
     驍宗は役を掴み損ねたわけだが、同じ演出家の別の作品に出演して頭角を表した。あのエチュードの時点でいずれ出てくる存在であろうとは思っていたが、さすがに同じ事務所に所属したのには驚いた。
     年に数回ある事務所の飲み会以外でも、阿選と驍宗は会えば食事に行くくらいの仲にはなっていた。驍宗の中でもあのエチュードは印象深いらしく、たまに話題に出たりする。
     思い返しながら阿選は驍宗の手つきを眺めていたが、結局、溜息をついて言った。
    「貸してみろ」
     もんじゃ焼きである。最初にヘラで土手を作るんだとはアドバイスしたが、一向に土手が出来上がる気配がない。当然のように生地が鉄板の上に流れて広がっている。
     阿選は驍宗からヘラを受け取ると、さっさと生地を中央に集めて土手を作ってしまう。
    「……お前は本当に仕事以外のことはできないのだな……」
     阿選はしみじみとぼやいた。
    「仕事はできると思っててくれるのだな」
     驍宗が嬉しそうに言う。
    「それはそうだろう。……できた。食えるぞ」
     言うと、驍宗は自分の皿に取り分け始める。
    「阿選は器用だな」
    「嫌味か?」
    「そんなことは言っていない」
     二人でもんじゃ焼きを平らげると、阿選は頬杖をついて驍宗を見た。
    「それで。社長と何か話したのか?」
     驍宗はサイドメニューで頼んだ牛すじ煮込みをつまみながら頷いた。
    「ああ。事務所を辞めようと思って」
    「は?」
     役者業以外は何もできんだろうお前、と言おうと思ったが、すんでのところで飲み込む。
    「……フリーになるのか?」
    「ああ」
     驍宗は牛すじ煮込みを食べ終わって、箸を置いた。驍宗の視線が何かを探して泳ぐのでメニューを差し出してやる。
    「事務作業とか管理とか……、やれるのか」
    「得意ではない。だがやらないわけにもいかないだろう。何よりやりたいことがあるし」
     驍宗は店員を呼び止める。だし巻き玉子を頼んだ。
     阿選は水を一口飲んだ。
    「やりたいことって?」
    「演出。制作のほうをやってみたい。役者も続けるが」
     それに、と驍宗は続けた。
    「うちの事務所は一つの役のオーディションは一人の所属俳優しか受けられない。それで何回か、機会を譲り合っただろう」
    「ああ」
     所属俳優同士で役を獲りあったり、いがみ合うのを避けるためなのか、そういうローカルルールが存在している。阿選と驍宗はやりたい役が似ているから、何度か事務所内でバッティングしていた。
     阿選は苦笑した。
    「それが不満か」
    「少しな。機会を奪われているようで」
    「なるほどな……」
     理解できる感情だった。そうなると確かに、自由に受ける仕事やオーディションを選べるというのは大きな利点だろう。
     驍宗はだし巻き玉子を箸で切り分けながら食べていく。大味な男のわりに、所作が綺麗だといつも思う。
     驍宗は破顔する。
    「だから阿選、これからは同じ役を獲り合うことになるぞ。この様子ならまたオーディションで会う可能性のほうが高い」
    「そういうことになるか」
     阿選は少しだけ笑った。いずれ必ず、役者としての阿選にとって驍宗が強大な壁になるであろうことは予想できた。
     どちらかが選ばれるということは、どちらかが選ばれないということだ。年齢が近く、タイプが似ている役者同士は大体仲が良くない。この業界のお約束だ。
    「またああいうエチュードみたいなものが出来たら楽しいが」
     驍宗の言葉に、阿選は思わず噴き出した。
    「そう毎回、うまいこと組まされるわけがないだろう」
    「だろうな」
     驍宗がつまらなそうに言うので、阿選は微苦笑を浮かべた。
    「いつか共演ができたらいいな」
    「ああ。いつかな」
     驍宗は笑う。
     驍宗が事務所を辞めてフリーになったのは、その半年後のことだった。
    「名実ともに事務所のエースですね」
     恵棟が阿選を見て言う。阿選は苦笑した。
    「エース、というのか?」
    「だと思いますが」
     阿選は打ち合わせをするために事務所に来ていた。
     この事務所にいるマネージメントスタッフは二人、基本は一人のマネージャーが複数の俳優の管理をする。業界として個人の信用で成り立つところが多いから、マネージャーの人員はそうそう増えない。
     しかし阿選の仕事量に比してマネージメント業務も多くなってきたため、事務作業含め内々の業務は別のスタッフが担当することになっている。それが恵棟だった。
    「ドラマの仕事、受けることにしたと聞きました」
     恵棟は嬉しそうに言う。元々、阿選は都内の劇団に所属していた。恵棟はその劇団のファンだったのだ。阿選が退団して事務所に所属したとき、いつか一緒に仕事ができたらと思っていた、と言われた。
    「単発ゲストだ」
    「でもいい役ですよね」
     恵棟の言葉に阿選は苦笑して頷く。
    「映像の仕事は興味ないんですか?」
     恵棟は訊いた。
    「興味がない、というか……どこかで舞台を抑えないと、映像の仕事は入らないだろう」
     今度は恵棟が苦笑する番だった。
    「確かに。難しいでしょうね」
     舞台は公演期間の前に数カ月の稽古を必要とする。稽古は深夜にまで及ぶこともあるから、稽古期間はまず他の仕事は入らない。人によっては掛け持ちすることもあるが、阿選はどちらかといえば一つの仕事に集中していたいタイプだった。
    「そういえば、友尚がうちの事務所に入りましたよ」
    「ああ。本人から聞いた」
     友尚は2.5次元舞台からこの世界に入り、初めて漫画原作でない舞台に出る、というときに阿選と共演した。とにかく勝手が違うと言って困惑していた友尚に、阿選は色々とアドバイスした記憶がある。その後どういうわけか慕われて、同じ事務所に入りたいと言われたのが一ヶ月ほど前のことだ。
     阿選が社長に仲介したが、決まったのか。
    「……賑やかになるかな」
    「そうですね」


     驍宗が事務所を辞めて半年が経っていた。特に連絡は取り合っていない。
     事務所が同じでいる間はなんとなく互いの仕事も把握しているから飲みにも行きやすいが、そうでなくなると相手がいつ忙しいのかが全く分からない。結果、疎遠になる。
     この業界は友人が出来にくいというのもこういうことなのだと思う。共演者は数ヶ月朝から夜中まで一緒にいるが、公演が終わってしまうと全く会わなくなる。相手も自分も不規則なスケジュールで暮らしているのが分かっているから、連絡が途絶えてしまう。そういうものだと思っている。
     だからオーディションの控え室で驍宗に会ったとき懐かしい気持ちがした。驍宗のほうも阿選に気が付いて寄ってくる。
     また最終選考だった。思えば、確かに驍宗も受けていそうなオーディションではある。国内外に知られた演出家の再演もので、日本の戯曲を映像やモニターを印象的に用いて表現した作品だった。
    「驍宗」
     声を掛けると、驍宗は笑った。
    「久しぶりだな」
    「ああ。元気だったか」
    「勿論。そういえば観たぞ。面白かった」
     驍宗は一番最近阿選が出演した作品の名前を言った。
    「ありがとう。観に来ていたのなら楽屋に来てくれれば良かったのに」
    「集中力が必要な役だろうから悪いと思ったんだ」
    「そうか」
     阿選は頷いた。心身ともに大変な役であったことは確かだ。
     その時、阿選の名前が呼ばれた。まだ話し足りない気もしたが、やむを得ない。
    「落ち着いたら連絡をくれ。また飲もう」
     半ば社交辞令ではあったが、そう言うと驍宗は笑って応じた。

     阿選は数日後、そのオーディションの結果を受けた。駄目だったが、そういうこともある。
     やりたい演目、やりたい役を必ずしもやれる訳ではない。その時の演出や、役の造形によって必要とされる俳優は変わってくる。演出家の描いている世界を舞台上に出現させるのが役者の仕事だから仕方がない。
     どちらかといえば、阿選本人よりもマネージャーや事務所のスタッフのほうが悔しがっていた。
    「そういうものだ」
     阿選が苦笑すると、恵棟は「でもあの役、観てみたかったです」と残念そうに言った。
    「誰がやるにせよ面白い作品になるだろう。スケジュールが合えば観に行きたいな」
    「分かりました。できるだけ調整しておきますね」
    「頼む」
     阿選がその役を誰が獲ったのかを知ったのは偶然だった。ある芝居を観に行ったときだ。
     その劇場には本格的なオペラパレスのほかに、収容人数千人規模の中劇場、四百人規模の小劇場が付随している。阿選は知り合いの出演する作品を観るため、小劇場に向かうところだった。電車を降り、地下の通路を抜けて階段を昇ると直通で劇場に出られる作りになっているが、階段の周辺には、現在上演中の演目のほかにこれから上演予定の演目のポスターが貼ってあった。
     その中に、驍宗の横顔があった。オーディションの控え室で驍宗と会った、あの演目のポスターだった。
     普通、ポスターとは限りなく商業目的で制作される。宣伝のためのものだから、耳目を集める画面や好奇心を惹起する文句が並ぶものだ。気鋭の役者とはいえ、驍宗はまだごくコアな演劇ファンにしか知られていない。にも関わらず、そのポスターは深紅の背景にモノクロの驍宗の横顔だけをアイキャッチにしていた。
     誰かが選ばれるということは、誰かが選ばれないということだ。かつては阿選が選ばれ、驍宗は選ばれなかった。しかし今、驍宗が選ばれ、阿選は選ばれなかった。
     阿選は階段で足を止め、ポスターの前で目を瞑った。掌に自分の爪が食い込んだ。

     家に帰ってからもあのポスターが頭を離れなかった。あのオーディションのとき、驍宗は阿選の出演作を観たらしかったが、楽屋には来なかった。集中力が必要だろうから、と驍宗は言っていたが、その実、会いに行くほどのものでもないと思っていたのだろうか。
     阿選の芝居を見て、この程度のものかと驍宗は感じたに違いない。だからわざわざ楽屋に顔を出す気にもならなかった。
     阿選はいたたまれない心地がした。羞恥と屈辱で体が震える。先輩面をして──相手にもされていなかったというのに。
     阿選はその後、意図的に驍宗との連絡を絶った。件の演目も観にはいかなかった。この業界の利点は、なんとか会わないで済ませようと思えば、そうすることが可能だという点だ。
     そうしているうちに、あるオーディションの話が舞い込んだ。『コリオレイナス』、シェイクスピア最後の悲劇とされ、古代ローマの将軍コリオレイナスの生涯を描いたものだ。演出はストレートプレイ、ミュージカルからオペラまで様々なものを手掛ける演出家で、概念的で幾何学的な舞台空間の使い方と鮮烈な色使いを特徴とする。
     阿選はこの戯曲が好きだった。政治劇の風合いが強く、今日的にも好まれそうだ。一方で、いかにも驍宗が受けそうだ、とも思った。
     阿選は迷い、結局このオーディションを受けた。必ずしもどちらかに決まる、というわけではない。
     やはり最終選考で驍宗の姿を見つけたが、軽く挨拶をして別れた。あまり長く話していたくはなかった。
     『コリオレイナス』のオーディションの結果は、阿選にとっては複雑なものになった。主演のコリオレイナス役は驍宗に決まった。阿選はコリオレイナス役ではなく、コリオレイナスの好敵手にして暗殺者・オーフィディアス役としてキャスティングされたのだった。
     『コリオレイナス』は冒頭、ローマ市民が暴徒となってケイアス・マーシャス──後のコリオレイナス──を殺そうといきり立っている場面から始まる。民衆は今や窮乏しており、貴族や元老、マーシャスら軍人たちが貴重な食物を独占しているというのだ。
     それだけではない。マーシャスは不遜で、傲慢だった。極めて優れた軍人、ローマの鉄壁の盾であり不敗の剣でもあったが、自負心が強く、苛烈で言葉を選ばない。彼の友人であり父と慕うメニーニアスや元老のように、穏やかに民衆を宥める術を知らない。ゆえに毀誉褒貶が激しく、本人もそれを承知している。
     民衆とマーシャスは一触即発の空気となるが、その場に元老から急使がやってくる。ローマの仇敵、ヴォルサイが兵を挙げたという。ここで最初に、オーフィディアスの名前が現れる。

    マーシャス「向こうにはタラス・オーフィディアスという名将がおります。もし自分以外の者になれるものなら、他の誰よりもあの男になりたい」

     ローマは執政官であるコミニアスを総指揮官とし、ヴォルサイの首都コリオライに向かって出兵する。無論、マーシャス、メニーニアスもその軍勢に加わっている。
     一方、コリオライ。元老院で元老たちとオーフィディアスが戦況を話し合っている。
     ここで元老らはオーフィディアスにコリオライの守備は任せてもらいたい、と請け負い、オーフィディアスもそれを託した。
     しかしオーフィディアスが精鋭部隊をつれてローマ軍の本隊に斬り込んだ直後、コリオライはマーシャス単騎の恐るべき活躍により奪われてしまう。マーシャスはコリオライを落とすとそのまま本隊の援護に向かい、宿敵オーフィディアスとの一騎打ちとなった。
     マーシャスとオーフィディアスは互いに挑発しあい、死闘を繰り広げるが、やがてオーフィディアスが押され始め、オーフィディアスがヴォルサイ兵に引き剥がされる形で決着となる。
     マーシャスは軍功を讃えられ、コミニアスから「コリオレイナス」という名前を与えられる。また、ローマに戻ったコリオレイナスは度重なる栄光により元老院に執政官に推挙される。執政官とは今日でいう国家元首だ。
     しかしここで、再び民衆との確執が頭を擡げる。民衆から選ばれた護民官たちが煽動すると、瞬く間にコリオレイナスへの憎しみが燃え上がり、コリオレイナスはローマを追放となってしまう。
     これまでの国家に対する献身も虚しく身一つで放浪するコリオレイナスは、故国への復讐を誓う。そこで向かったのは、ヴォルサイのオーフィディアスの館だった。
     放浪してうらぶれたコリオレイナスは、オーフィディアス邸の召使に変わらず不遜な口をきき、やがてオーフィディアスとの面会を果たす。

    コリオレイナス「俺の名はケイアス・マーシャスだ。誰よりも貴様に、そしてあらゆるヴォルサイ人に手酷い傷と禍を齎した男だ。その証拠がコリオレイナス、祖国のために我が身を苦しめ、この上ない危険を冒し、さんざん血を流しもした、恩を知らぬローマがその報いとしてくれだのがただその称号だけだった──それこそ貴様にとっては怨みと憎しみの思い出と証でしかあるまい。その名だけしか残っていない。民衆の残酷な憎悪が、それを見てみぬふりの腰抜け貴族共から見捨てられた俺から何もかも剥ぎ取ってしまい、その挙げ句、奴隷共は罵声を浴びせて俺をローマから追い払った。そうまで酷く扱われ、俺は今こうして貴様の邸の炉端に身を寄せたというわけだ」

     オーフィディアスは茫然とする。ローマは遠い。それだけの政変があったのであれば当然オーフィディアスの耳に入って然るべきだが、まだヴォルサイまでは届いていなかった。
     オーフィディアスの背後から向けられる舞台照明が、コリオレイナスの痩けた頬を照らし出した。襤褸を身に纏い、瞳だけが異様な光に輝いている。
     おそらくコリオレイナスは、ローマを追放になって殆ど飲まず食わず、碌に眠ることもせずにここまでやってきたのだろう。ただ一つ、故国への憎悪だけを胸に。
     何というときにやってきたのか、とオーフィディアスは運命を思った。今日、オーフィディアス邸ではパーティが開かれていた。ヴォルサイの貴族や元老を招いての宴だ。
     ヴォルサイは再びローマに向けて進軍しようとしていた。敗北の記憶も真新しく、進軍に消極的な元老たちをオーフィディアスは宥め、派兵の条件を呑ませた。戦争には際限無く金がかかる。莫大な軍費を国庫から振り出すのに元老や貴族たちの機嫌を取ることは不可欠だ。オーフィディアスはそういう目的を持っての追従が苦にならない質だった。

    コリオレイナス「俺は命が助かりたいわけではない。もし死を恐れるなら、この世の誰よりも貴様に会うことを避けたろう。俺はただ憎いのだ。俺を追放して奴等と決着をつけたいのだ。その為に今、俺は貴様の前に立っている。もし貴様のうちにまだ復讐の炎が残っているのなら、いや、貴様自身の怨みを晴らし、貴様の国が今なお耐えている恥辱の跡を雪ごうという気があるなら、すぐにも俺を利用し、この惨めな立場を貴様の役に立てるがいい。だが、もし貴様がそうまでする気はない、これ以上、運命を試す気力を失ったというのなら、それなら俺も一言で済む」

     コリオレイナスはオーフィディアスの前に膝をついた。自分の手で襤褸の襟元を引き下げ、オーフィディアスに首筋を晒して見上げる。

    コリオレイナス「もうこれ以上生きているのは嫌だ。この喉を貴様の前に晒す、宿敵の憎悪の前にだ。それをかっさばくのが嫌だと言うなら、貴様は大馬鹿者だ。俺は昔から貴様を憎み、貴様を追い詰め、貴様の国の胸を破り、血の川を流した男だ。生きて貴様の為に働けぬとなれば、貴様に恥をかかせてやるよりほかにない」

     オーフィディアスは迷った。眼下にはコリオレイナスの喉が息づいて震えている。そのまま腰に帯びている短剣で喉を突いても良い、この指で縊り殺しても良い。コリオレイナスの生死はオーフィディアスの手の中にあった。
     この男への怒りと恥辱、憎しみは未だ身のうちにあった。
     コリオライはこの男によって奪われた──それを知った瞬間の屈辱。口先だけでコリオライの防備を語った元老への憤懣と侮蔑。オーフィディアスは自分の有能を理解していた。純粋な剣の腕ではコリオレイナスに敵いはしないものの、軍略や兵法においてはコリオレイナスと同等か、或いはそれを上回ると自負していた。
     自分がもう一人いればコリオライをこうやすやすと奪わせはしなかったものを、とオーフィディアスは歯噛みした。
     もう一人の自分。オーフィディアスははっとした。コリオレイナスを見下ろす。
     オーフィディアスが決して破れなかった相手。オーフィディアスと同等程度の武勇と軍略を持つとなれば、このコリオレイナスを置いてほかにない。
     コリオレイナスならばオーフィディアスの憤懣を分かってくれるはずだと思った。同時に、オーフィディアスにはコリオレイナスの憎悪がよく分かった。
     ローマは、民衆どもの下らない暴動によって至高の盾を手放した。見過ごした元老、貴族たちは、血をもって己の愚かさを知るのだ。
     オーフィディアスは微笑んで、コリオレイナスの手を握りしめる。

    オーフィディアス「実は準備は整っている、今すぐにでも出陣できるのだ。俺はもう一度その手から盾を叩き落とすか、この俺の腕を切り落とされるか、勝敗を決しようとしていたところだった。……君との一騎打ちを夜ごと夢に見た。その夢の中で二人は共に馬から落ち、互いに兜を引き剥がそうとしたり、喉を締めようとして揉み合ったものだ。そして目を覚ます、体中ぐったりしてしまう、たかが夢にすぎぬというのに」

     オーフィディアスはコリオレイナスに立ち上がるよう促し、その体を思い切り抱きしめた。コリオレイナスは抱擁を解くと笑みを浮かべ礼を言った。
     オーフィディアスはこの後、自邸に招いていた元老たちを説得し、コリオレイナスを受け入れるよう懇願する。自軍の半分を割いてコリオレイナスに与えて向けて進軍を開始すると、瞬く間にローマの所領を落とし、ヴォルサイ軍は勝鬨をあげた。

     ここまでが第一幕の内容になる。本来シェイクスピアの戯曲であれば五幕ものだが、いくつかの場面をカットし、第四幕の途中までを一幕とした。
     『コリオレイナス』は開幕後からじわじわと客足を伸ばし、公演期間の後半に入ると劇場窓口には当日券を求める列ができるようになった。
     評判の良さは阿選も肌で感じていた。舞台に立つと、熱量が違う。客電が消えてスポットライトがつくと、暗闇となった客席から圧されるような熱量が発されているのが分かる。
     シェイクスピアは古典になる。ましてや『コリオレイナス』は政治劇であり、シェイクスピア特有の洒落た言葉遊びや詩的な表現が殆どなく、上演されることは少ない。一般に膾炙しているとは言い難いこの物語が評判になるのは、ひとえに主演の驍宗の色が強く反映されているからだった。
     驍宗には華があった。傲岸不遜なコリオレイナスを演じていても、どこか稚気があって無邪気だった。作中メニーニアスによって、コリオレイナスは高潔で追従を述べることができない、と語られるが、それを納得させる底の明るさがあった。
     オーフィディアスとして舞台上で驍宗と対峙していて、阿選でさえも時々はっとするほどの笑顔を浮かべる。野心家のコリオレイナスらしい太い笑みだが、それがまた客席からは魅力的に見えるだろう。
     阿選は、例え自分がコリオレイナスを演じたとしてもこれほど評判になることはないと悟らざるを得なかった。

     二幕は、破竹の勢いで進軍を続けるヴォルサイ軍がローマに迫るところから始まる。
     コリオレイナスを追放したローマの民衆や護民官は完全に浮足立ち、口々に「追放まですることはないと思ったんだ」「自分たちの意志ではなかった」と言い出し、コリオレイナスを擁護し、その咎によって冷遇されていた貴族や元老に泣きつく。
     泣きつかれたコミニアスは、渋々とコリオレイナスの説得に赴くことになる。
     一方、ヴォルサイの陣地では自身の天幕の中、オーフィディアスが脇息に凭れ、ひっそりと副官と話している。

    オーフィディアス「あのローマ人のところへ飛んでいく者は、まだ跡を断たぬのか?」

     ローマ人とは、言うまでもなくコリオレイナスのことだ。
     オーフィディアスは自軍の半分をコリオレイナスに与え指揮権も渡していたが、オーフィディアスの部下からもコリオレイナスの指揮下に入りたがる者が現れるようになった。誰もが、オーフィディアスの部下でさえも、寄ると触るとコリオレイナスを讃え称賛する。
     オーフィディアスはそこに、コリオレイナスと自分とを比べる視線があることを感じた。その視線はオーフィディアスよりもコリオレイナスのほうが上であると判断しているのだ。
     かつて、ヴォルサイ随一の名将と言えばオーフィディアスだった。ローマ随一の名将であったコリオレイナスと比肩し得るのは、ただオーフィディアスだけだった。共に好敵手と見做し、戦場で競い合った。
     しかし今や、誰もオーフィディアスとコリオレイナスを並べる者はいない。オーフィディアスを見る者は、その上位に常にコリオレイナスを見る。
     もはやヴォルサイ軍は殆どコリオレイナス軍と言って良く、オーフィディアスはコリオレイナスの影に成り果てた。

    オーフィディアス「コリオレイナスは俺に対してさえ傲慢になってきている。だが、それがあの男の身上、直すことのできぬものは文句を言っても始まらぬ」

    副官「しかし、思うに──あなたのお立場を考えてのことですが──あの男と行動を共になさらぬほうが良かった。むしろ単独で全軍をお率いになるか、さもなければ、あの男一人に万事お任せになるかすべきでした」

     コリオレイナスがローマを占領できるか、副官が疑問を口にするとオーフィディアスはすぐさま肯定する。軍人としてのコリオレイナスの能力は、オーフィディアスにとって疑うべくもなかった。
     オーフィディアスはコリオレイナスの性格上の弱点を三つ数え上げた。

    オーフィディアス「この三つの弱点の全部という訳でもなかろうから、俺も今まで見逃してきたものの──例えその一つだけでも、民衆に恐れられ、憎まれ、追放されたという訳だ。だが、奴にも取り柄はある。それあればこそ、誰もその弱点に文句がつけられないのだ」

     オーフィディアスは掌で脇息を握りしめて笑う。いずれ必ず、全ての帳尻が合う瞬間が訪れる。コリオレイナスの栄華も長くは続くまい。──ましてや、コリオレイナスが攻め落とそうとしているのは故国なのだ。
     あの不遜な男は、自ら滅ぼした故国の瓦礫を前にしたとき、何を思うのか。

    オーフィディアス「ローマが貴様の物になった時、貴様ほど惨めな奴はいまい。間もなく貴様は、俺の物になる」

     ローマでは、コリオレイナスを説得するために使者となったコミニアス、メニーニアスが次々と返されてきていた。コリオレイナスはメニーニアスには辛うじて手紙を持たせたものの、コミニアスには視線をくれさえしなかった。
     コリオレイナスの怒りは深く、復讐心はなお深い。誰の懇願にも耳を貸すつもりはなかった。
     その時、コリオレイナスの天幕に再びローマからの使者が現れる。今度はコリオレイナスの母ヴォラムニアと妻が、コリオレイナスの子を伴ってやってきていた。
     一度は席を立とうとしたコリオレイナスだったが、その母の嘆願が胸を打った。コリオレイナスの母もまた、苛烈な女だった。武勲を立てぬのであれば戦場で死んで来いと言うことも憚らない母だった。

    ヴォラムニア「もしお前がローマを攻め滅ぼしたなら、それから得られる収穫は悪名だけ。口々に呪いの言葉を浴びせられ、その伝記にはこう書かれるだろう。かつては高潔の士なりしも、最後の一挙において過去の名誉を自ら放擲し、祖国を滅ぼすに至りし者。その名は後世まで永遠に憎まるべしと」

     ヴォラムニアはそう言うと、もはや母でもなければ子でもない、と突っぱねてコリオレイナスに背を向け、ローマへと戻ろうとする。コリオレイナスは咄嗟に母の手を掴んだ。

    コリオレイナス「おお、母上! あなたはローマのためにこの上ない勝利を齎した。が、息子のためには──あなたには分かっておいでなのか、あなたには──あなたは、息子を最も危険な道に追い込んでしまったのだ。が、この身はどうなろうと構わぬ。オーフィディアス、もはや約束通りの戦はできなくなったが、有利な条件で和平を講じよう。どうだ、オーフィディアス、君が俺の立場に立たされたら、母親の頼みをこれ以上無視することはできまい? これ以上、聞き流すことはできまい、オーフィディアス?」

     オーフィディアスはこの愁嘆場を冷めた目で眺めていた。コリオレイナスは息を荒げて、肩越しのオーフィディアスに縋るような視線を向ける。

    オーフィディアス「聞いていて、大いに心を動かされた」

    コリオレイナス「信じていた、そうに違いないと! 並大抵のことでは俺の目は憐れみの涙を零しはせぬ。だが、和平の条件はどうする、気のついたことは何でも言ってくれ。俺のことだが、ローマへ帰る気はない。君と一緒に引き上げる。その時は頼む、こうなったことについては俺の立場を弁護してもらいたい」

     コリオレイナスの母や妻がローマに戻ると、トランペットが吹かれ花が撒かれて歓呼の声に迎えられる。彼女たちはまさしくローマの命の恩人だった。

     ここで終われば、さぞかしこの物語は大団円になるのだろう、と阿選は思う。しかしこの話は悲劇だ。コリオレイナスにとっての、あるいはオーフィディアスにとっても悲劇なのかもしれない。
     オーフィディアスはコリオレイナスと対になるように造形されている。コリオレイナスが不遜で、形ばかりの追従を述べたり頭を下げることができない高潔な男であるなら、オーフィディアスはそれらが苦にならない男なのだろう。コリオレイナスが激して舌鋒鋭く、それで失脚した男なら、逆にオーフィディアスは慎重で礼節を弁えた穏やかな男だったのだろう。
     それが、何かの弾みで狂った。オーフィディアスは、元は正攻法でコリオレイナスを破ることを目的としていたのだ。にも関わらず、一騎打ちで押されたまま決着をつけることが叶わずに終わる。やがてコリオレイナスが手元に転がり込み、養い育てるつもりであったものが、コリオレイナスはヴォルサイ軍で勢力を伸ばし、オーフィディアスを飲み込んでしまった。
     オーフィディアスはさぞ苦しかったろう、と阿選は感じた。自分の影が目の前にいる、その圧迫感。しかもその影が強大となり、自分を飲み込み、ついには自分のほうが影になってしまった。コリオレイナスが目の前にいる限り、オーフィディアスは息が出来ない。お前さえいなければ、とオーフィディアスが考えたとしても無理はない。
     理解できる、と思った。阿選は感情からその役を手繰り寄せるタイプの役者だった。阿選にはオーフィディアスが分かる。オーフィディアスの感情を通して、コリオレイナスを──驍宗を見ていた。
     驍宗に役を取られたと感じたことはない、と阿選は思う。その時の演出や役の造形によって必要とされる役者の個性は違う。このコリオレイナス役は驍宗の個性に合っている。
     阿選よりも驍宗のほうが上だとも思ったことはない。芸術の世界で優劣をつけることに意味があるとも思えなかった。しかし名優というものは確かに存在し、驍宗には才能がある。
     終劇後、カーテンコールの挨拶で最後に驍宗が真ん中に立ち、一礼をする。客席から万雷の拍手が降り注ぐ。それらの拍手は演出家、スタッフ、役者含めて座組全てのものであって、驍宗ひとりに還元されるべきものではない。
     しかし驍宗に合わせて客席に向かって礼をするとき、喝采を全身で受けながら、これは自分に向けられたものではないと阿選は感じてしまう。驍宗に──際立って素晴らしい主演に向けられたものだと感じてしまう。瞬間、喉元が焼け付くような感情が迫り上がり、なんとか飲み下しながら無理やり笑顔を作り、顔を上げた。

     コリオレイナスの母をローマが歓喜でもって迎え入れたころ、ヴォルサイの首都・コリオライでは、オーフィディアスからの書面によりコリオレイナスの裏切りの一報が齎された。ヴォルサイの貴族や民衆たちは憤激する。
     オーフィディアスは広場で、共謀者たちと密かに落ち合った。

    オーフィディアス「奴は追放されて、俺の懐に飛び込んできた。そして喉を俺のナイフの前に突き出したのだ。が、俺は奴を受け入れ、同僚にしてやった。そればかりか俺は自分の部下から奴の望み通りに精鋭を選りすぐって協力してやった。俺はそうまでして自分を不当に扱うことに多少の誇りさえ感じていたのだ。揚げ句の果てが、いつの間にか、俺は奴の部下のごときありさまに成り下がり、誰の目にも同僚とは見えなくなってしまった。奴は俺を見下し、まるで傭兵であるかのようなあしらいをし始めたのだ」

     遅れて、コリオレイナスは軍隊と共にコリオライの城門を潜った。彼らが広場にやってきたときには、既に共謀者たちは民衆を率いて集っている。
     同じ広場で、オーフィディアスは貴族たちと共にコリオレイナスを待ち構えた。
     コリオレイナスはローマとの和平交渉の書面を貴族たちに差し出す。それに、オーフィディアスはぴしゃりと叩きつけるよう言った。

    オーフィディアス「そんなもの、お読みになる必要はない。あなた方の権力を乱用したこの上なき裏切り者と決めつけておやりになるがいい!」

     コリオレイナスは驚いてオーフィディアスを見つめる。

    コリオレイナス「裏切り者だと! 何を言うのだ!」

    オーフィディアス「そうだ、貴様は裏切り者だ! マーシャス!」

     オーフィディアスはもはやコリオレイナスとは呼ばなかった。呼ぶ必要があったとも思えない。

    オーフィディアス「貴様はケイアス・マーシャスに過ぎぬ! 貴様を俺がそんなお人好しだと思っているのか、このコリオライで強盗よろしく盗んでいったコリオレイナスという名で呼びかけるなどと? この国の元老、貴族の方々に敢えて申し上げる。この男はあなた方の信任を裏切り、あなた方のローマを女たちに売り渡したのだ。これらは全て独断だった!」

     コリオレイナスは激高する。オーフィディアスの策略通りだった。

    コリオレイナス「嘘をつくにも程がある、そうだ、お前だって嘘には気が付いているはずだ。お前の体に私が与えた傷があり、それを墓場まで持っていかねばならぬ以上は!」

     さっとオーフィディアスの顔色が変わった。それはオーフィディアスにとって古傷だった。オーフィディアスは、剣においては決してコリオレイナスに敵わない。
     オーフィディアスは、──阿選は、驍宗を睨みつける。阿選は役に自分の感情が呑まれていくのを感じた。危険な兆候だった。
     全て作り物のはずの芝居が観ている者の心を動かすのは、芝居に乗っている感情が本物だからだ。真実の感情があるから、観客に届く。しかし芝居には段取りがあり、その後の台詞がある。感情に引きずられすぎると、芝居の均衡が崩れてそれら全てが吹き飛びかねない。
     驍宗が阿選に向かって指弾する。

    コリオレイナス「もしも正しい記録が残っているなら、そこにははっきりと書き留められているはずだ。この俺がコリオライでヴォルサイ人どもを羽ばたかせたことが!」

    オーフィディアス「なんということだ、ご一同は、この男のまぐれ当たりの幸運を思い出して黙って聞き惚れているつもりか! あれはご自分の恥とも言うべきこと、これをこの大嘘つきに目の前で勝手に言わせ放題、それを何ともお思いにならぬのか?」

     民衆の中に潜ませたオーフィディアスの共謀者たちが、一斉に声をあげた。

    共謀者「殺してしまえ!」「八つ裂きだ!」

     共謀者たちに煽られ、民衆は口々に叫ぶ。

    民衆「この場で片付けろ!」「俺の息子を殺しやがって」「私の娘もあいつに」「従兄のマーカスを殺したのもあいつだ」「俺の親父もあいつに殺された!」

     ヴォルサイの民衆は、コリオレイナスへの憎悪を思い出した。復讐と憎悪の炎が広場を嘗める。民衆は津波のように押し寄せ、コリオレイナスと彼の軍隊を分断した。
     全て、オーフィディアスがコリオレイナスに向けて仕掛けた罠だった。コリオレイナスは自らその罠に飛び込み、自らその口を締めようとしていた。
     コリオレイナスが沈めばオーフィディアスは浮かぶ──ちょうど、コリオレイナスが本体となったときにオーフィディアスが影になってしまったように。
     破滅へと追い込まれていくコリオレイナスを見て、阿選は嘲笑った。
     ──お前さえいなければ。
     それは真実の感情だった。阿選はその瞬間、コリオレイナスに──驍宗に、本物の殺意を抱いた。
     一瞬、驍宗は阿選を見て瞠目した気がした。すぐにコリオレイナスとしての表情に戻る。
     自らを取り巻いた群衆の中で、驍宗は剣を抜いた。

    共謀者「見ろ! あいつは剣を抜いたぞ、始めからそのつもりだったんだ。所詮はローマ人だ、俺達の敵だ!」

    民衆「殺してしまえ!」「殺せ! 殺せ! 俺達の敵!」

     共謀者達も剣を抜き、驍宗に斬りかかる。阿選はそれを愉悦と共に眺めていた。驍宗はもはや逃げることも叶うまい、共謀者達によって切り刻まれ、なぶり殺しにされるであろう。
     不意に驍宗の視線が阿選を射た。阿選は息を呑む。
     これは今までになかった。これまでの公演では、コリオレイナスは激したまま共謀者達に大立ち回りを演じた末に討たれた。終盤の驍宗の見せ場であり、コリオレイナスの壮絶な最期だ。
     驍宗は目の前の剣を持った敵ではなく、阿選を見上げていた。──悲しげな顔をして。
     阿選は動揺した。これはオーフィディアスとしての感情なのか、自分の感情なのか分からない。
     共謀者達の剣がコリオレイナスを貫き、驍宗を切り裂いた。段取り通りに斃れていく驍宗を見て、酷く胸が痛む。何故だ?
     切り裂かれたコリオレイナスの遺骸を前にして、民衆は熱が引いたように離れていく。今更、殺人が恐ろしくなったのか。阿選は民衆の中に踏み込んだ。民衆は阿選を一度見て目を反らし、畏れるように道を開けた。
     阿選は倒れている驍宗を──死んだコリオレイナスを見下ろした。段取りを、思い出せ。

     オーフィディアスはコリオレイナスの死体に足を掛けた。眼前で起きた惨劇に、貴族たちは臆したように叫ぶ。

    貴族「なんということをしたのだ!」「皆、落ち着いてくれ」「屍に土足を掛けるな!」

    オーフィディアス「ご一同にもいずれお分かりいただけよう。この男がいかに大きな危険を蔵していたのか、それがお分かりになれば奴をこうして今のうちに片付けてしまったことを喜んでくださるに違いない」

    第一の貴族「まず何より亡骸を片付け、哀悼の意を表してくれ。最も尊敬すべき死者として、丁重に葬ってもらいたい」

    第二の貴族「この男の激しやすい気性を考えてみると、あながちオーフィディアスのみを責める訳にもいくまい」

    オーフィディアス「……俺の憤りはどこかに行ってしまった。その後に悲しみが俺を虜にする。亡骸を掲げて歩こう、俺も担がせてもらう。この街から多くの夫や子供を奪い、その傷跡は今なお消えぬものの、高邁な心の持ち主としてこの男のことは長く心の底に留めておかねばならぬ」

     阿選の本来の演技プランであれば、ここでオーフィディアスは昏い笑みを浮かべることになっていた。
     全てオーフィディアスの計略通りに進み、コリオレイナスは謀殺された。その計略の締めとも言えるのが、このオーフィディアスの振る舞いだった。
     オーフィディアスはコリオレイナスのヴォルサイへの裏切りを糾弾し、憎悪に燃え上がる群衆によってコリオレイナスは斬殺された。結果としてオーフィディアスはコリオレイナスを殺したが、始めから謀ったものではなく、全ては偶然に引き起こされたもの──そういう建前が、ヴォルサイにおけるこれからのオーフィディアスの政治的立場のために必要だった。
     だから、形だけでもコリオレイナスを悼まねばならない。同じ武人として武人のコリオレイナスを惜しみ、その遺骸を自ら担いで涙の一つでも零すことができれば、この血生臭い惨劇もオーフィディアスの体面を汚すことはないであろう。そういう思惑のもとで発された言葉であると、阿選は解釈し、演じていた。
     オーフィディアスは、コリオレイナスの遺骸を担ぐ直前に、自分の勝利を確信して嗤う。その終焉に行きつくように、阿選はこれまでの芝居を積んできたつもりだった。
     しかし阿選は、どうしても嗤うことが出来なかった。自分が勝利したとはとても思えない。
     胸に満ちるこの感情は例えて言うなら虚しさか、あるいは悲しみなのか。これはオーフィディアスの感情なのか、それとも自分の感情か。
     分からないまま阿選はわらった。苦い笑みになった、ような気がする。

     終幕。
     カーテンコールが終わり、舞台袖に入ると驍宗が話しかけてきた。
    「阿選、大丈夫か。戻ってるか?」
    「……戻れていない」
     阿選はげんなりして答えた。
     驍宗は理屈から役に入るためか、カーテンコールでも終演後も全く役を残すことなく、けろりとしている。しかし阿選は元々、中々役から戻ることが出来ないタイプだった。しかも今日は、思い切り役の感情に引きずられてしまった。まだ気分が重苦しいままだ。
    「なんだか今日は面白かったな」
    「あれが面白いのか、お前は……」
     阿選は鉛の入ったような手足をなんとか動かして楽屋へと向かう。
     観る天国、やる地獄とはさる劇団の創始者の言葉だが、これほど心身ともに削られる役も久しぶりだった。
    「面白かったな。……新しくて」
     そうか、と適当に返しながら廊下を歩いていると、後ろからスタッフが駆けてくる。
    「戻ってください! もう一度開けます!」
     阿選は驍宗と顔を見合わせる。ダブルコール。
     最初のカーテンコールが終わり、出演者が舞台袖に捌けた後も興奮冷めやらぬ観客が帰らず、拍手によって出演者を舞台上に呼び戻すことを、その回数に合わせてダブルコール、トリプルコールと言う。音楽を伴うオペラやミュージカルでは複数回のカーテンコールも珍しくないが、ストレートプレイではあまりないことだった。
     スタッフはインカムに耳を傾けてから二人を見る。
    「もう緞帳開けるそうです、走ってください!」
     動き出したのは驍宗が早かった。阿選も慌ててあとを追う。
     観る天国、やる地獄。どうやら阿選の地獄は、観客に届いたらしかった。
     『コリオレイナス』は好評のうちに幕を閉じた。3週間の公演だったが、2週目からは満員が出始め、最終週には立見席も埋まった。
     楽屋口から劇場に入り、通路をまっすぐに進むと着到板というものがあり、表裏の名札を返して自分の楽屋入りを知らせる。その横には星取表──便宜上、星取表と呼ぶが、要は舞台のスケジュール表が貼ってある。その日の公演が終わるごとにスタッフが表に印をつけ、残りの公演期間がどれくらいかを見ることができる。
     星取表の下に、初日後に出た劇評のコピーが貼ってあったが、公演が進むと劇評は増えていき、千秋楽には星取表の周りをぐるりとコピーが囲んでいた。
     中には辛い評価もあるが、劇評は概ね好意的たった。何より舞台に立っている役者が、この公演は「当たり」だと感じていた。
     〈暗い炎、情念のオーフィディアス〉、阿選について書かれた劇評の中で印象に残ったのはこの言葉だった。コリオレイナスとオーフィディアス、驍宗の明と阿選の暗、好対照を作った二人の軍人の物語だと書かれていた。
     楽日の後は、役者達の打ち上げだ。舞台俳優はとかく酒好きが多かった。今は少なくなったが、往時は朝まで飲んでそのまま舞台に立つ役者もいたらしい。
     阿選もまた、それなりに飲むほうだった。役者同士で飲みに行くと大体最後まで残っている。朝まで残ることもあった。
     役者全体の打ち上げが散会になり、飲み足りない者でまた飲んでいたが、潰れそうになったり終電で帰ったりして、最後には驍宗と二人になった。
    「移動するか?」
     驍宗が訊いてくる。まだ飲む気らしい。
    「開いてるところを探すか」
     阿選は笑って言った。公演が成功して気分が良い。久しぶりに二人で飲むのも悪くない気がした。
    「あ」
    「ん?」
     驍宗が何か思いついた顔をする。
    「お前の家、近くないか」
    「うちで飲む気か」
     阿選は嘆息する。仕方がない。

     タクシーを拾って、阿選のマンションに帰る。部屋のドアを開けて電気をつけると、後ろで驍宗が笑う気配がした。
    「相変わらずちょっとしたバーのようだな」
    「それをあてにしていたんだろう。酒の味も分からない癖に」
    「うまいか不味いかは分かる」
     本当だろうか。
     バーのよう、と驍宗は言ったが、阿選は家のリビングに酒をストックして飾っていた。
     阿選は元々、通る声をしていない。こもりやすく、舞台向きの声ではないのだと思う。だから酒はともかく煙草は避けたい。しかし外で酒を飲むとなると、酒場に煙草は付き物だ。せめて自分一人で飲むときくらいはと思って家にウイスキーを置くようになり、やがていつの間にか数が増えた。
    「シェイカーでも買ったらカクテルも作り出しそうだな」
    「……まあ、やれると思う」
     阿選は答えた。実際、阿選は器用だから練習すれば作れるようになるだろう。
    「えっ」
     驍宗は嬉しそうな顔を作った。駄目だ、これ以上うちに酒を増やすと驍宗が入り浸る。
    「何飲む?」
    「お前がおいしいと思うものを」
     阿選はキッチンで二人分のグラスにロックアイスを入れる。リビングに座った驍宗が自分の荷物を漁りだした。
    「テレビとプレイヤー使ってもいいか」
     驍宗が訊いてくる。こういうところは律義な男だと思う。
    「構わない。今回の公演の記録か」
    「うん。制作さんが映像くれたから。……阿選も貰っただろう?」
    「ああ」
     グラスと適当にボトルをいくつか見繕い、阿選はリビングに向かった。驍宗の前にグラスを置いて、自分は驍宗の向かいに腰を下ろす。
    「今回の公演楽しかったな」
     ディスクを読み込むのを待つ間、驍宗はぽつりと呟いた。
    「俺はきつかった」
     阿選が言うと驍宗はグラスを持って笑う。
    「にしてはしっかり家片づけてるな」
    「リセットしたくて休演日にひたすら家事してた。体を動かすと頭が空っぽになるから」
    「ああ、それも分かるな。夜公演終わるとジョギングしてた」
    「二回公演後にか?」
    「うん」
     阿選は呆れた。一般に役者は、作中で「死ぬ」役を演じると体力も神経も擦り減らす。驍宗の体力が尋常でないのは今に始まったことではないが、四時間の公演を昼夜二回やってその後に運動できるのが信じられない。
     二人がグラスを傾けつつ待っていると、テレビの画面がうっすらと明るくなる。暗転した舞台が映っているのだ。瞬間、ぱっと照明がついた。白茶けたイタリアの、ローマの大地。砂埃にまみれた民衆達が群れをなして、貴族やコリオレイナスへの憤りを語る。
    「舞台をやってると、時々予想外のことが起きる。あらかじめ作っていた芝居の方向性とは違う方向に走ることがある」
     驍宗は視線を画面に向けたままで言った。
    「そういう瞬間が楽しいと思う。今回のコリオレイナスは、特にそう思ったな」
    「……そうか」
     分かる気がした。阿選もまた、どうしても予定通りの芝居が出来ない瞬間があった。特に公演期間の後半、最後の幕切れでうまく笑うことが出来なかった。鬼気迫る、と劇評では表現されていたが、役の感情に引きずられて芝居が大崩れしないように手綱を取り続けることに苦労した。
     阿選は本気でコリオレイナスを憎んでいたし、殺そうと思った。自分と役が不可分になってしまい、コリオレイナスと驍宗の区別をつけるのも難しかった。
     画面ではコリオライの戦いが展開されていた。一人城門に閉じ込められるが、獅子奮迅の活躍をするコリオレイナス。
     驍宗は言う。
    「最終週あたりから、本当に殺すつもりなんじゃないかと思った」
    「ああ」
     阿選の殺気に気が付いていたのか。
    「役の感情と自分の感情を分けられなかった。悪かったな」
    「いや」
     驍宗は含み笑った。
    「本気で憎まれていると思った瞬間に、これまでの演技と違う感情が出てきた。悲しかった」
     阿選は思わずグラスを置いて驍宗を見遣る。
    「……コリオレイナスは真っ直ぐにしか進めない男だ。それでオーフィディアスに糾弾されたときに怒ったのだと思っていた。でも、違う。コリオレイナスは悲しかったんだ。だから怒らずにいられなかった」
     驍宗は苦笑して阿選を見返す。
    「コリオレイナスはローマと講和を結ぶことがヴォルサイにとっての裏切りだと理解していた。元老たちとの約束を違えたのだからな。だから裏切り者と呼ばれることは分かっていたんだ。でもそれを、オーフィディアスが言うと思っていなかった。ローマを追放されたときと同じ言葉が、オーフィディアスの口から発せられると思っていなかったんだ」
     コリオレイナスは心血かけて守ってきた故国の民衆から「裏切り者」と罵声を浴びせられて故国を追われる。その絶望の深さが彼を復讐に駆り立てた。そして終盤、オーフィディアスもまたコリオレイナスを「裏切り者」と呼んだ。
    「コリオレイナスは自分が故国を裏切り敵国に奔ったことも、その敵国での約束を破ったことも理解していた。どちらの国でも裁かれれば死罪になることも。──でも、オーフィディアスを裏切ったことは一度もないつもりだった」
     阿選は目を瞠る。
    「……彼への友情だけは、真実だったと?」
    「そうなんだと思う。オーフィディアスは自分が軽んじられたように感じていたようだが、コリオレイナスはそんなつもりはなかったのじゃないか。コリオレイナスにとっては、たった一人、対等に語り合える友だったのじゃないか……と思ったな」
    「コリオレイナスにとってはオーフィディアスの糾弾のほうこそ、裏切りだったんだな」
     阿選が敢えて裏切りと言うと、驍宗は笑って首を振った。
    「裏切りだとは思わなかった。ただ悲しかったんだ。通じていたと思っていたものが、実は通じていなかったことが。友情を一方的に断ち切られてしまったことが、悲しかった」
     あの表情はそういうことだったのか。阿選は納得して、やがて苦く笑った。
    「そうなるとオーフィディアスは様にならないな」
    「なぜ」
     驍宗は不思議そうに言う。阿選は口許を歪めてグラスを舐めた。
    「オーフィディアスの一人相撲だから」
    「そうだろうか」
     驍宗は画面に視線をやる。映像の中では、コリオレイナスがローマ時代に父と慕ったメニーニアスの嘆願を蹴って追い返すところだった。オーフィディアスは一部始終を見ていた。映像の中で、苦しい決断をした驍宗の背を阿選が叩く。そこには確かに一つの信頼関係があり、友情があった。
    「二人とも不器用だったのだろう。何か一つでも違っていたら、二人は殺し合わないで済んだのかもしれない」
    「……そうかもしれないな」

     目が覚めると夜が明けていた。カーテン越しの陽射しが高く、正午前あたりかと検討をつけた。ソファに凭れるようにして寝入っていた。
     背後に水音がして、阿選は首を巡らす。シンクで驍宗が洗い物をしているところだった。
     昔、それこそ一ヶ月程度だが、家に驍宗を居候させていたことがある。基本的に舞台のギャラは公演の二、三ヶ月後に振り込まれるのだが、耐震補強か何かで驍宗が住んでいたアパートを一時的に離れざるを得なくなったときに、たまたま驍宗にはまとまった給料が入っていなかった。
     驍宗がこの家に住んでいた頃は、度々二人で過去の舞台の映像を観ながら酒を飲んだりしていた。飲んでいると大体いつの間にか阿選のほうが潰れているし、驍宗のほうが起き出すのがはやかった。
     体を伸ばすと、身体のあちこちが痛い。頭まで痛かった。殺陣のある舞台だと気付くと青痣だらけになっているものだ。公演期間中は気付かないが、後になってどっと痛みが来る。おまけに二日酔いまで加わって気分が悪かった。
    「……驍宗」
     一応呼んでみる。水を出しているから気付かないかとも思ったが、驍宗は阿選の声を拾った。
    「どうした?」
    「洗い物ついでに湯を沸かしておいてくれ」
    「分かった」
     阿選は息を吐いた。テーブルに手をついてなんとか立ち上がる。テーブルの上は綺麗に片づけられていた。
     阿選はキッチンまで歩いていくと、驍宗の隣に立った。シンクの上の戸棚を開ける。
    「コーヒーと味噌汁どちらがいい」
    「コーヒー」
    「分かった」
     阿選は自分用のインスタントの味噌汁のパッケージと、コーヒーの瓶を取り出す。隣で驍宗が笑うのが見えた。
    「なんだ?」
    「昔は味噌汁あったかな、と思っただけだ」
    「……二日酔いにはオルチニンと言うだろう」
    「そうなのか」
     珍しそうに言う驍宗は、そもそも二日酔いをしたことがないらしい。そういうところも癪に障らない訳ではない。
    「今日仕事は?」
    「ないな。……ああ、でも、ジョギングはする予定だ」
    「あれだけ飲んで走るのか……」
     阿選はしみじみと呆れる。驍宗のこの無尽蔵な体力というか、代謝はどこから来ているのだろう。
     湯が沸いた気配がして、阿選は二人分のカップに湯を注いだ。コーヒーと味噌汁の匂いが、それぞれキッチンに香っていた。
    ユバ Link Message Mute
    2020/05/04 11:54:47

    ライムライト

    双璧の現代役者パロ。 二人が現代で驍宗と阿選の物語を演じていたり、仲良くもんじゃ焼きを作っていたりお酒飲んでるだけの平和な話。

    ライムライト:照明器具の一種。電灯が発明され、普及する前に舞台照明に用いられた。20世紀初頭には照明としては使用されなくなったが、「ライムライト」という言葉は「名声」の代名詞として残った。(wikiより改変) #十二国記 #白銀の墟_玄の月 #阿選 #驍宗

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