REmote 1&21、在宅勤務のTACグラアン
アンジョルラスが家で仕事をするようになって二ヶ月が経つ。とは言っても、基本的に仕事をするとき彼は自室に籠ってしまうから、これまでと大して変わりはない。
グランテールは昼間からリビングで酒を傾けつつ、適当にテレビをザッピングする。どこも似たようなワイドショーばかりだ。
昼近くなると、グランテールはアンジョルラスの部屋のドアをノックする。
「アンジョルラス、何か食べたいものある?」
一応訊いてみるが、大体は「なんでもいい」と返ってくる。
グランテールはその答えを聞いてから、スマホをスワイプして良さそうな宅配を頼む。最近はウーバーイーツでいくらでも好きなものを頼むことができる。良い世の中になったものだ。
ウーバーイーツが届いたころ、グランテールはもう一度アンジョルラスの部屋のドアを叩いた。
「アンジョルラス、ご飯にしよう」
言うと、十秒ほどしてドアが開く。些か前髪が乱れたアンジョルラスが姿を現した。アンジョルラスが会社に出社していたころ、身だしなみをきちんと整えた状態しか見たことがなかったから新鮮だ。スーツこそ着ているが、会社に行くときよりも少しリラックスしている気がする。
グランテールは食卓に宅配されたご飯を並べる。アンジョルラスにはコーヒーを淹れ、自分のぶんの酒のグラスを出した。
「……また飲んでいたのか」
アンジョルラスが食卓の椅子を引いて訊く。呆れるだとか、怒るのではなく、あくまで今日のグランテールのことを確認している調子だった。在宅時間が増えて、アンジョルラスからグランテールに話しかけることが多くなった。
「うん。仕事はどう?」
「案件がいくつか延期になって、その調整をしている」
「ふうん」
訊いてはみたが、もちろんグランテールには分からない。
今日頼んだのは、チキンと野菜をふんだんに使ったヘルシーさで有名なレストランの宅配だった。
アンジョルラスは、グランテールが声をかけないといつまでも仕事をしている。在宅勤務が始まったばかりのころ、アンジョルラスが夜まで部屋から出てこないので心配して声をかけると「もうそんな時間か」と少し目を丸くして言った。驚くアンジョルラスはあまり見られるものではないので嬉しかったが、そんな生活が体にいいはずがない。
最近は、頃合いを見計らってグランテールがアンジョルラスに声をかけ、昼食、夕食ときちんと採ってもらうようにしている。特にアンジョルラスに確認もせずにこのルーティンを始めたが、何かを言われたことはないのでこれで良いのだろう。
アンジョルラスはナイフとフォークを綺麗に使ってチキンを切り分けて食べていく。箸を使ってもナイフを使っても、アンジョルラスの食べ方は綺麗だった。肉の細切れが皿の上に残るということもない。本来食事というものは最も動物的な行為のはずだが、アンジョルラスの食べる様子からは一切の生々しさが消えている。
まるで霞でも食べているかのようだ。アンジョルラスの食べる様子をこっそりと窺い、グランテールは思う。
「おいしい?」
気になって訊いてみる。グランテールは当然おいしいと感じていたが、アンジョルラスが同じように感じているかはわからなかった。
「ああ」
アンジョルラスは顔を上げてグランテールを見る。なぜそんなことを、とでも言いたげな顔をしていた。その額に、常ならぬほつれ毛の影が落ちている。
「……なら、良かった」
グランテールは嬉しくなって、アンジョルラスに笑いかけた。アンジョルラスは僅かに首を傾げただけで、再び料理に視線を落とす。
グランテールは少しだけ、こういう日常も悪くないな、と思っていた。
2、電話をする新井グラアン
アンジョーラはきょろきょろと周囲を見回した。家の廊下である。古い家で、天井は高く、狭い板間の廊下は歩くとみしみしと音がする。玄関は客を迎えるために広くなっていて、入って突き当りに戸棚があり、その上に今どき珍しい据え置きの電話が置いてある。
アンジョーラは携帯電話を持っていない。今どき、と言われることはよくあった。現代では防犯意識の高い親ほど子供に携帯電話を持たせるが、学校の行き帰りに送迎の車がつくアンジョーラには必要がないのだ。
だからアンジョーラは、家の電話を使わなければグランテールに連絡ができない。グランテールのほうから掛けると、家のお手伝いさんが電話を取ることになってしまうから、いつもアンジョーラのほうから掛けることにしている。数か月前、まだ学校でグランテールと顔を合わせていたころ、アンジョーラがそう提案した。
まずアンジョーラに直接連絡する手段がないことにグランテールは驚いていたが、了承してくれた。その後、通学が禁止され、学校から送られてくる宿題を毎日こなすようになって一ヶ月。
アンジョーラは一週間に一度、グランテールに電話している。毎日顔を合わせていたものが、週に一度だけ、しかも声しか聴けないとなると何となく物足りない。だが、仕方がない。毎日電話をしていてはさすがに怪しまれてしまう。
アンジョーラは受話器を持ち上げる。耳に当てるとツーという長い音がしている。覚えた番号をそのまま押した。トゥルルル……と音声が鳴って、すぐに途切れる。
「……はい」
グランテールの低い声がする。電話を通すと、どこか知らない人の声のようだ。
「グランテール?」
「アンジョーラか」
グランテールの吐息が笑う。
「元気か」
グランテールが訊いてくる。アンジョーラは頷いた。
「ああ。グランテールは?」
「変わりない」
アンジョーラは背を壁に預けた。古い家は、そこここに冷気が溜まる。肩にかけた赤いカーディガンを胸元に掻き寄せた。
「何をしていたんだ」
アンジョーラは訊いた。グランテールは夜空を見ていた、と答える。
「空?」
「ああ。晴れて、星が出ている。そこから見えるか?」
アンジョーラは廊下を見回した。一番近い窓でも三メートルは離れていて、通話を繋いだままでは窓を開けることはできない。
「いや、無理なようだ」
アンジョーラが答えると、グランテールはそうかと落胆する様子もなく呟いた。
「まず北斗七星がある。北斗七星を含んでいるのがおおぐま座だな。くまのしっぽ、北斗七星の柄杓の柄からカーブを描いて、一際明るい星がある。これがアークトゥルスだ。そこからさらに伸びてスピカ。春の星の代表だ。今日はどれもよく見える。アークトゥルスは金色に光って、まるで……」
グランテールはそこで言葉を切った。アンジョーラは首を傾げる。
「どうした?」
「……いや。まるで君のようだと思ったのさ」
アンジョーラは目を瞬かせた。
「……ふざけたことを」
「ふざけてなんかいないさ」
言葉に反して、グランテールの声はどこか笑っていた。アンジョーラは眉間に皺を寄せる。もう切るぞ、と言おうとしたときだった。
「はやく君に会いたい」
受話器の向こうで、存外真剣な声が言う。一瞬、アンジョーラは沈黙した。
「……僕もだ」