阿選と阿選麾下の話残影 派兵から帰還する道程だったように思う。
暮れ方、友尚が阿選に報告を上げようとすると、主公の姿が見えない。麾下に何も言わずにいなくなるなど常にはないことだ。阿選の剣の腕なら滅多なことはあるまいが、珍しいこともあるものだ。
士卒に阿選の行方を聞きつつ友尚は天幕の周囲を探した。天幕を三方から囲うように崖が迫っていて、前面のみが拓けている。崖にそってしばらく行くと灌木があり、岸壁から湧き出るような小さな渓流があった。
灌木の側に阿選が佇んでいるのが見える。友尚は近付いた。主公は渓流に身を屈めていた。
「阿選様?」
声をかけると、阿選は体を起こした。長い黒髪を片手でかきあげて右肩に寄せる。
「友尚か」
阿選は振り返って苦笑した。
「報告だろう。……埃っぽくてな」
主のこめかみから頬、鋭利な顎の線を経て首筋に水が滴るのが見える。阿選は服が濡れるのを嫌ってか衿許を緩めていた。白い鎖骨の上のくぼみに水が溜まって、残照に光る。
友尚は首を振って目を反らした。
「いえ」
「みっともないところを見せて済まないな。……ついでに、そこの手巾を取って貰えるか」
阿選の指した先を見ると、巌の上に白い手巾が置かれていた。言葉に従って手巾を差し出す。友尚から手巾を受け取る主の濡れた手が、いつまでも瞼の裏に残っていた。
影がどんどん伸びていく 表情のない使者に伴われ、帰泉は内宮に招かれた。普通、臣下の出入りが許されるのは外殿まで、良くて内殿といったところ、ましてや帰泉の身分では朝議への参加も適わないから全く見知らぬ場所と言っていい。帰泉は戸惑って使者の背中を見たが、使者は頓着せずに進んでいく。阿選の命があってのことなのだろう。
夜半を過ぎて、内宮に呼ばれる。破格の扱いだ、ということは帰泉にも分かった。内々の指令があるのだと思った。阿選に忘れられた訳ではない。それどころか、帰泉を、ひいては上官である品堅を買ってくれていたのだろう。だから帰泉は今、ここにいる。
帰泉は嬉しかった。かつての出来事が胸を過る。お前の失敗ではない、と温かく笑って帰泉の背中を叩いてくれた阿選を思い出す。愚直に懸命に仕えることしかできない帰泉を評価してくれた。得がたい資質だ、と言ってくれた。
行く先には、きっと品堅も呼ばれているだろう。むしろ待たせてしまっているのかもしれない。我々には不足があった、文州においても充分な働きができなかったと切なげに言っていた品堅も、この内示をさぞかし喜んでいることだろう。
あれから六年、ようやく務めを果たせるときが来たのだ。帰泉の胸が歓喜ではち切れそうだった。一方で、微かな緊張感が四肢に巡る。今度こそ失敗しないようにしなければ。阿選を、失望させてしまわないように。
使者は内殿に入ると、一言「お連れしました」とだけ言って機械的な仕草で玉座に向かって叩頭した。帰泉は慌てて跪拝する。
「顔を上げよ」
懐かしい声だった。帰泉はその通りにする。御簾は上げられていて、玉座の阿選をそのまま仰ぎ見ることができた。
帰泉は感動で声を出すこともできなかった。数年ぶりにまみえる主公というだけではない、阿選が玉座にいる、というその事実。
驍宗が王だと聞いたとき、なぜ、と思った。なぜ阿選様ではないのか。驕王よりも驍宗よりも誰よりも、王に相応しいのは阿選様なのに、という不満が帰泉の中に燻り続けていた。しかし泰麒が帰還し、阿選を王に名指しした。当然だと思っていた。天も間違うことがあるのだ。こうして玉座にいる阿選を仰いで、ようやく過ちが正されたことを実感した。
「帰泉?」
名前を呼ばれ、帰泉は我に返った。思わず跪拝する。
「失礼致しました」
その帰泉の頭上から、笑い含みの声が降ってくる。
「帰泉。……いいから、顔を上げろ」
親し気な言い方に嬉しくなる。見返すと、阿選はくつくつと笑っていた。
「お前は変わらないな」
そう言われて、帰泉は複雑な気持ちになる。だが、阿選がこう言うのであれば悪い意味ではないのだろう。
内殿には阿選と帰泉の二人きりだった。品堅はいない。そのことに内心首を捻っていると、阿選が「お前に密令を与える」と言った。
「品堅は元より呼んでいない。お前にだけだ」
その言葉をどう受け取ったものか、一瞬帰泉は迷う。品堅は帰泉の上官であり、帰泉は阿選の麾下であると同時に、品堅の麾下でもある。品堅は良い上司だ。思慮深く堅実で、部下に対する配慮も行き届いている。その品堅を飛び越えて帰泉にだけ内密の指令が下され、それを喜ぶのは、いかにも品堅を軽んじているようで気が引けた。
「品堅には別の命令を下してあるのだ」
阿選はそう言って笑った。
「だから安心していい」
帰泉は安堵の息をついた。さすが阿選様だ、と思う。阿選が品堅を、帰泉を、麾下を軽んじるような振る舞いをする訳がない。
そうなれば帰泉に否やのあろうはずもない。あったところで帰泉は士卒だから下された命令には従うしかないのだが、それでも麾下の気持ちを考えてくれる阿選の優しさが身に染みた。
これが帰泉の主公であり、この国の新しい王なのだ。帰泉は誇らしい気持ちで阿選を仰いだ。
帰泉の様子を見て取ったか、阿選は玉座から立ち上がる。
「ついてこい」
阿選に連れてこられたのは内宮の奥だった。内殿を過ぎ、正寝を過ぎたと思われるあたりで帰泉は改めて主公を窺ったが、阿選は足を止めない。王宮の主である阿選が構わないのであれば咎められるということはないのだろうが、帰泉は握った掌に汗が滲むのを感じた。
六寝は王の居院らしく、どこも凝った造りになっている。前王である驍宗の登極直後、驕王が遺した王宮の様々な贅沢品は容赦なく売り払われていった。阿選も奢侈を好むほうではないから、これでも簡素なのだろう。
帰泉はもはや自分が六寝のどこにいるのか分からない。阿選を追って歩廊伝いに行き、庭院に降りてしばらく往くと暗がりの中に灯りが見えた。阿選はその灯りに向かっていく。
帰泉の目に、その堂宇は蔵のように見えた。観音開きの扉の両脇に立てられた灯明は二つ、豪奢な六寝の中にあっては寂しく思える。黒く厳しい扉の横には下官が控えていた。虚ろな目をした下官は阿選の姿を認めると、人形のような動きで閂を鎹から外した。
扉の中は外よりもなお暗い。阿選は躊躇せずに蔵に入っていった。そのあとに続いて帰泉も蔵の中に入る。元は路寝の宝物殿か何かだったのだろうか、紐に括られた桐箱が片隅に重ねられている。灯りといえば寒々とした空間に、尾の長い鳥を象った燭台が一つだけ、四隅に闇が凝っている。
そのとき、帰泉の背後で重々しい音を立てて扉が閉められる。帰泉は驚いて振り返った。
「大丈夫だ。私の指示だから」
苦笑する阿選の声がする。帰泉は照れ笑いをしながら阿選を見た。自分は何を子供のように怯えているのだろう。阿選はありし日のまま、六年間幾度も望んだように微笑んで帰泉を見つめている。
「帰泉」
阿選は蔵の奥で帰泉を呼び、小さく頷いた。傍に寄れ、という合図なのだと知っている。帰泉は喜び勇んで近くに歩みを進めた。頭上の暗闇から、ぽう、と鳩の声がする。どこかに巣を作っているのだろうか。
帰泉は阿選の膝元まで寄った。蔵の奥、決して余人に知られぬところで指示をしなければならないくらい内密な命令なのだと思うと身体が震える。阿選はそれほど帰泉を評価してくれていたのだ。何がなんでも、期待に応えたい。
帰泉が跪礼をして阿選の言葉を待っていると、不意に阿選が傍らに膝をついた。驚く間もなく「顔を上げよ」と言われる。
帰泉は命じられた通りに頭を上げた。阿選は笑う。帰泉の首筋に阿選の手が添えられた。
唇に柔らかい感触がした。ついで舌で歯列を割り開かれる。最初に感じたのは刺すような苦み、やがて微かな甘さが広がる。一拍置いて、口付けられているのだと分かった。阿選の舌が何かを帰泉の口の中に流し込んでいる。それは繊維を含んで帰泉の口の中を漂い、上向かされた帰泉の喉の奥を通過していった。
帰泉の頭は阿選の掌に固定されていて、動かすこともできない。そもそも動かしていいものかさえ分からなかった。阿選の意図は分からないが、阿選の意図に沿うことが適わず阿選に失望されてしまうことが恐ろしい。それは、帰泉が主公に見捨てられてしまうのと同義だ。
帰泉はなんとかそれを飲み下した。阿選が唇を離し、帰泉を覗き込む。
「よく飲めたな。いい子だ」
阿選は指先で帰泉の額に落ちたほつれ毛を掻き上げて微笑んだ。
「阿選様……?」
帰泉の言葉には答えず、阿選は懐から裂かれた紙片を取り出した。阿選は更にそれを細かく千切っていく。ぽう、と再び鳩の鳴き声が聞こえた。帰泉は僅かに視界が暗くなるのを感じる。口付けられている間、呼吸ができなかったせいだろう。
阿選は小さくなった紙片を自らの口許に運んだ。阿選の指から唇にそれが吸い込まれるのを、帰泉は茫然と見守る。阿選の口が動き、中で紙片が繊維になるまで寸断されていくのが分かる。
もしかすると、先程飲み込まされたのはこの紙片だったのだろうか。帰泉が霞のかかった頭で思っていると、阿選は笑みを浮かべる。阿選の指が帰泉の唇を撫でた。帰泉は反射のように口を開けた。
刺すような苦みと甘さ、繊維の感触が上顎に残る。帰泉は何も考えられず、阿選の口から与えられる紙片を懸命に飲み込んでいく。
帰泉の頭の真上あたりで、ぽう、と鳩の声がした。