崑崙の島崑崙の島
呉帝の孫権が亶州へ船を派遣する事を提言したのは、黄龍2年の事だった。
亶州とは、呉の国土に面した海上にぽつんと浮かんだ孤島である。空気の澄んだ晴天の日に、水平線上になんとか視認出来る程度の距離にある。
呉の民…というより、中華の人間は永らくその島を亶州と呼んでいた。
人が住んでいるかも分からない。ただ、あれほどの大きさの島だ。きっと先住民がいるだろう。中華の人間は一様にそんな風に決め付けていた。近いようで遠いその島は、沿岸地域に住む人間にとっての一つの目標だった。
もしかするとそこは、年中暖かな陽気で様々な作物が実る豊かな土地かもしれない。
自らの境遇が厳しくなるほど、人々の亶州への空想はより強く輝やかしいものへと変わっていく。
海の民は皆、亶州に夢を見るようになる。
皆が見る夢は、形を持つ。
亶州は次第に、仙人が住む豊かな島なのだと御伽噺の如く言い伝えられる様になった。
呉の民ならば、余程内陸に住む者ではない限り、亶州の御伽噺を耳にした事があるだろう。呉の民の一人である孫権が亶州を目指す様になるのは、至極当然の事だったのかもしれない。
帝位に就いて十数年。老い先短いと言っても過言では無い孫権は、永年想い焦がれて来た亶州に今こそ手を伸ばそうとしているのだ。
一方、上大将軍にして右都護を兼任する呉軍の中枢といっても過言ではない陸遜。
しかしその彼は孫権の考えには賛同していなかった。
国土を拡げたいのなら、向かうべきは南だ。
山越他異民族が雑多と暮らす南は、今なお拡大の余地がある。
国土に加入して長くない交州も、まだまだ支配が曖昧で、その全体を把握出来てはいない。
交州の整備を見直すだけでも、かなりの耕地や賦役が望めるだろう。
あえて危険な海路を選択する必要は無い。
人口の補完……要するに人の移住を望んでいるのだとしても、船で連れてこれる量などたかが知れている。
それも、もし転覆などしようものならどうなる?小利を焦って大利を失う結果だけは絶対にだめだ。
だから、陸遜は理解できない。
何故かくも孫権が亶州に拘るのかと。
無論、陸遜も呉の民だ。
呉――国名としてではなく地名の――人間としては、孫家よりもよっぽど陸家の方が根は深い。
そもそも呉は、陸家一帯の勢力が及ぶ地域だったのだ。
呉は海に面する。
幼い頃から亶州を見て育ち、言い伝えも勿論耳に慣らして大人になった。
亶州に憧れを抱いた時期も、ある。
しかしそれは所詮こどもの見る夢だ。
良い大人の、それも国を動かす立場の人間が耽る夢ではない。
幻の島へ大船団を送るというと、過去に秦の始皇帝の例があるにはある。しかしこちらはしがない地方領主の身だ。天下統一の覇業を成した始皇帝とは比べるべくもない。国だ皇帝だと嘯いてはいるが、この事実ばかりは認めざるを得ないだろう。同じ皇帝とはいえ立つ場所が違うのだ――。内心ではそう思っているのは陸遜だけではあるまい。
あちらはどうなのだろうか、と陸遜は西の空を仰いだ。
漢を継承し、帝を奉ずる蜀漢――というより、その丞相の諸葛孔明。彼の人は本気で自国こそが中華の正統などと信じているのだろうか。陸遜には、その心情を察するのは難しい。
それはともかく、今は亶州の件だ。
どうしたら孫権を止められるのか、近頃そればかりを考えている。
こんな時、張昭や虞翻といった、今は亡きうるさ方が思われてならない。
こんな時にばかり懐かしがられるとは故人らも心外であろうなと、陸遜は静かに失笑した。
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「陛下は夷州への兵の派遣のついでに、亶州を探させるおつもりだそうですね」
「ええ、存じておりますとも全琮殿」
閑散とした宮中の廊下で、陸遜は偶然に全琮と相対した。
陸遜より一回り若い、しかしどこかくたびれた印象のある武将である。
孫権の娘・孫魯班の夫であるため、陸遜といえど全琮に対して大きな顔は出来ない。そもそも全家は、呉でも有数な名家である。勿論陸家も全家にひけを取らない血統ではあるのだが。
「閣下は、どう思われますか」
「どうとは……、亶州への船団派遣の事で?」
「ええ、はい」
「……正直、賛同は致しかねますな。あまりに危険な道です」
「……やはり閣下もそう思われて」
「陛下に直談判する他無いかと、今は少し考えています」
「……実は私、今その件で陛下にお目通りを致したばかりなのです」
「えっ」
陸遜ははたと顔を上げて目の前の男を見た。どうやらこの目の前の全琮は、謁見から戻る道程であったらしい。陸遜の方は逆に孫権に会いに行く所だったので、途中で鉢合わせするのも当然とは言えた。
「陛下には何と?」
「……ハッキリ、諫言させて頂きました。今は亶州・夷州に兵を送る時ではないと」
それは思い切った事をしたものだ。孫家と言えど蔑ろには出来ない全家の人間、それも娘婿の全琮だからこそ出来る芸当かもしれない。
「それで、陛下は」
「我が国の領土拡大、及び長年頭を悩ませてきた人口不足の問題を解決出来るのかもしれぬのだぞと、お叱り頂きました」
「はあ……」
その主張は一見すると理が通っている様にも見えるが、それは違う。仮に伝説の通り亶州が人と物資に溢れた夢の島であるならばまだ得るものはあるが、まずそこまでの投資も馬鹿にならない。確証もない段階で危険を侵してまでやる事ではないだろう。よしんば夷州亶州を制圧出来たとしても、飛び地の支配が容易に進むわけがない。
思考を巡らせていると、ぼそりと全琮が言葉を続けた。
「……思うに、陛下の目的は領土や人口問題の解決では無いのではないかと」
「……と言うと、あれですか。崑崙の伝説の方が目的だと?」
全琮は苦虫を噛んだ様な表情で、ゆっくりと頷いた。
崑崙の伝説――
中華の東の向こうの果てには、不老不死の仙人達が住まう場所があるという。
その場所は『山海経』曰く崑崙の島と言い、人の生死を司る不老不死の仙人西王母がその他の仙人達を統べて暮らしている。
かつて不老不死を望んだ秦の始皇帝は、崑崙の島の探索を目的に方士の徐福を東の海へ航海の旅に出させた。徐福は三千人の処女童貞の若者達を率い海へ出たが、以後二度と戻る事はなかったという。
徐福が崑崙の島へ辿り着いたのかどうかは分からない。しかしそれ以降、崑崙の島は仙人が住む幻の島と民間の間にも広まり、人口に膾炙されるようになった。そしていつしか呉の人間の間では、海の果てに蜃気楼の様に見える亶州に崑崙島伝説を重ねるようになったのだ。
勿論その伝説は陸遜も全琮も、孫権だってきっと知っている。知っているのは間違いないとは思うが……
「しかし、陛下に限ってそんな事は……」
言いながら陸遜は嘆息した。孫家は勇猛で、虎の様な激しい血統だ。黴臭い道士の様に不老不死を追求するなど、余りにも似合わないのではないか。
事実、孫堅や孫策も激しくその若い命を散らせたのだ。故に孫権も、既に父や兄に比べ長生きだとは言え、父や兄に倣いたいのではないかと陸遜は思ってきた。
しかし全琮はそうではないらしかった。
「私はそうは思いません。むしろ、お二方の死を目の当たりにされたからこそ、死の呆気なさを恐れているのではないでしょうか」
「ふむ……」
全琮の言い分は分からないでもない。
確かに孫堅や孫策の死はあまりに突然ではあったが、死は誰の傍にも存在している。孫権のような境遇はこの乱世においては珍しくもない。それこそ陸遜だって軍人として数え切れない仲間の死を目の当たりにしてきた。
誰にとっても死は恐ろしく、唐突で、予見が出来ない。決して孫権だけが特別ではない。そう考えてどうしても、孫権の執着に理解ができないと陸遜は思った。
「私はやはり……理解は難しいですな」
「人の想いは千差万別。この私も事実陛下のお心を理解しているわけではありません」
「しかし全琮殿は、陛下の不老不死を願う気持ちを理解できるのでしょう?」
「それすらも私の憶測に過ぎません。不老不死を望む人間の心は、私とて分かりませんよ」
目の前のやや老け顔の男は、視線を当てもなくさ迷わせた。陸遜と相対している人間によく見られる仕草だ。
お前の瞳が強すぎるんだよ――と、以前に一度朱然に言われた事がある。
良く分からないのだが、簡単に言えば時折怖い顔をしているという事らしい。
表情がキツイとは若い身空からしばしば言われて来た事なので、陸遜自身人前で表情を繕うクセはつけてきた。しかしこうして私的な場面では、つい素直に顔に出してしまう事がある。
こんな込み入った話の場面ならば尚更だ。
「全琮殿は不老不死への憧れをお持ちでない?」
「老いるというのは、そりゃあ嫌なものです。しかし不老不死になりたいかと言われたら、私は……怖いです」
全琮は直言は避ける形で問いに答え、そして続けた。
「同じ問いをされたら、貴方はどうですか?」
問われた陸遜は少し考えるように首をかしげ――、考えているように見せ、淀みなく答えた。
「嫌ですね、私も。永遠がどういうものか私は知りません。知っている者はいない。知らないものは怖い。私は臆病なもので」
「貴方が臆病なわけではありません。私とて同じですよ。不老不死に一度なってしまえば、死にたいと願っても死ねないのか。分かりませんからね、それは恐ろしい」
「……それだけではない。私はそもそも不老不死というものが底知れぬ暗闇の様で、憧れる気持ちが持てませんな」
「暗闇、ですか?」
全琮が不思議そうに目を見開いた。
陸遜自身も、自分自身の考えが上手く表現できず、言葉を探している。
「不老不死とはつまり停滞することでしょう。前にも後にも進まない。生きている人間は、一瞬一瞬違う時間を進んでいる。変化があります。生き血が流れていて暖かい」
詩や賦を詠む習慣を一切持たない自分が、四苦八苦して詩的な詞を並べ連ねている事実がなんだか面映い。形のないものを表現することは現実主義の陸遜には難しいことだった。
「……申し訳ない。可笑しな事を申し上げましたな」
対する全琮は、馬鹿にした態度もなく、思いの外真面目に答えた。
「いえ、なんとなく分かります。不老不死になるという事は、止まった時間に閉じ込められる事と同義ではないか、ということでしょうか」
「そう、良くお分かり下さった」
「……刹那、でしたかな」
「セツナ?」
不思議な音感が、陸遜の耳をくすぐる。陸遜の知らない単語であった。
「ブトの者達の使う言葉だそうです。私も良く知らないのですが、人間の生きる時間は刹那という極々短小な時間の連続したものなのだそうです」
「へぇ……」
ブト……仏教徒の言葉が出てくるとは思わなかった。
陸遜は、ブトの者達の事は良く知らない。知らなかったが、全琮は仏教徒なのだろうか。
「不老不死の者は刹那の積み重ねではない、別の時間を生きているのかもしれませんな。それが仙人になるという事なのか……」
陸遜の追及に、全琮は頭を振った。
「私にもあまり理解出来ない問題です。お知りになりたいのであれば、直接話を訊きに行ってみては如何ですか」
「全琮殿はブトを信仰しているわけではないのですか?」
「私?いいえ、違います。仏教をかじった者の言葉を小耳に挟んだ程度の事です。最近は建業でもブトの姿を見るようになりましたな」
確かに、健業にはブトの者が一定数存在している。
邪淫排斥を唱えた曹操の流れを受けてかあまり宗教が手厚く扱われない魏とは違い、ここ呉では新興宗教の仏教なども迫害される事は少ない。
「ブトの事は私も良く知りませぬ。この機会に少し知識をつけるのも良いかもしれませんな」
そう言い残して陸遜は全琮と別れた。
孫権の謁見は事前に約束しているものではない。陸遜の脚は宮中の奥ではなく、外へと向けられた。
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今より数十年前、窄融という武将がいた。
初めは徐州刺史陶謙に仕えたが、曹操の徐州虐殺の際、難を逃れるため江南へと落ち延びてきた。窄融は野心家で残虐な男であったが、同時に仏教の普及に大変な尽力をした。
大寺院を造り、仏教徒を集めたのである。
結果、中華における仏教の流行はこの時からだと、後の世には言われるに至る。
窄融は一時、秣陵(今の建業)の南に軍を置いた。
そのため、今もなお建業周辺の地域には仏教徒が多い。
孫権自身もその影響を受けて、仏教徒を保護しているとも聞く。夭折した長子の孫登は熱心な仏教徒だったはずである。
しかし陸遜自身はあまり仏教……というより宗教染みたものに興味が無く、当然仏教徒との関わりをもった事も無かった。
陸遜にとっては未開の分野である。
しかし仏教の教えを伝える役目だという僧という人間は、信者以外の人間にも比較的親切だと聞いていた。
直接出向いて頭を下げれば話をしてくれるだろう、そう考えて陸遜は一人仏教徒が多いと言われる村へ足を運んだ。
建業の都にも、当然仏教徒はいる。
だがあえてそれを避けた陸遜の心境は――陸遜自身にも良く分からない。
誰かに見られたくないという気持ちが一番だろうか。伴をつけずに出たのもその気持ちの表れであろう。なんとなく、仏教に興味を持ったのだと他人から思われるのは嫌な気持ちだった。
陸遜が訪れた村は田舎だがどこか整備された印象のある場所で、そこに住む人間の人柄が推し量れるようだ。
殺伐とした雰囲気の無い、長閑な村。
ブト信者は決して多数派なわけではないのだが、この村では平和が良く守られているようである。
良い場所じゃないか……陸遜は素直にそう思った。
村人に尋ねると、すぐに僧のいる場合を教えてくれた。
信者が集まり、教えを説いてもらう専用の建物があって、僧という者はそこで修行をしながら暮らしているのだという。
先に流行った太平道とは、少し趣が異なる。
ブトの民は、基本的には移動というものをしないらしい。
陸遜は手土産がてら、途中で酒を買った。
陸遜は酒の入った瓢箪を片手に、件の場所へ向かった。
村全体は決して豊かではないなかで、その建物は目を引く程に大きくて立派だ。都の貴族達の邸宅に比べてしまえば細やかなものだが、この村の中では一番大きい建物ではないだろうか。
それでも奢侈を思わせるものはなく、あくまで厳かな雰囲気が漂う。
ブトは中華の南に位置する国から入ってきたのだというが、そのせいなのか、どこか異国的な情緒が漂っている。
家屋を囲う土壁は周りとそう変わらない造りであるのだが、壁に囲まれた内部――建築物も、庭の造りも陸遜の感覚には馴染まない。
はっきりと異質なのではないが、妙に肌がざらつくような感覚を受ける。
異界の庭は、ひどく静かだった。外界を遮断する壁もそうは高くはなく、外界との距離もさほど離れていない筈なのに、ここは冷たい沈黙に包まれていた。
故に、陸遜の問う声はよく響いた。
「ご無礼つかまつる」
陸遜が抱える瓢箪の中で酒が踊る音が聞こえる。陸遜の声が消えてしばらくして、人影が庭の奥から現れた。
「はい、はい、何ですかな」
門からまっすぐ正面に見える家屋ではなく、庭の植木の方から現れたのには、陸遜も少し驚いた。
植木の整備でもしていたのだろうか、着物の裾が汚れている。
しかし本当に陸遜の目を釘付けにしたのは、そんな土の汚れなどではない。
その特異な頭髪である。
いや、頭髪と表現するのはおかしいだろうか。その頭には、一片の毛髪も無いのだから。
「あ、貴方がここの……」
「いかにも、主であります」
男は、掌を合わせる不思議な挨拶をした。つられて陸遜は、拱手を返した。
「貴方の様な貴人がこの様な場所へ何用でございましょう」
浅黒く焼けた顔の中で、白い目だけがギョロリと目立つ。精悍な印象な反面、身体はひどく痩せている。男は少々の不躾さを隠しもせず陸遜をジロジロと観察した。
「私が貴人だと?」
陸遜は目立たぬよう、冠は外しあくまで粗末な衣服に身を包んで来た。身分は分からぬよう、最善を尽くしたつもりだったのだが……。
「一目瞭然ですよ、貴方の手は労働者のそれではございませぬ。……剣を握る手でございますな、妙な場所にタコが出来ておられる」
思わず陸遜は己の掌を見た。剣や槍を振るう最前線を離れて久しいが、今も最低限の鍛錬は怠っていない。掌に出来た不格好なタコは今や陸遜の体の一部になっている。
「ほう、中々の洞察眼をお持ちだ」
「貴方の様な血の臭いのする御方が何用です?我々の信仰に興味がおありでしょうか」
「信仰というよりは思想ですかな。ブトは独特の死生観を持つのだと聞きまして」
「死生観?人を斬る運命に嫌気がさされたのですかな」
男はどうも軍人に好意を持っていないのか、それとも陸遜をブトに勧誘するためなのか、話を折って来て困る。
「私は当分戦稼業から手を引くつもりはありません。私はただ「セツナ」という言葉の意味が知りたいだけなのです」
「刹那?それだけの為にわざわざ参られましたか。いやはや、ご足労な事でございます」
男は再び、あの例の手を合わせるおかしな仕草をして、一礼してみせた。
「刹那とは、我々人が生きる時間の最小単位の事でございます。人間……、いや人間に限らず命ある身は全てこの短き刹那の時間を積み重ねの上に生きておるのです」
「時間は繋がっているようで、繋がっていないと?絶えず更新されているわけなのですか」
「命ある身の存在は、その刹那の時間毎に新たに生まれ、繋がっているように見えて違う命を頂いているのです」
「なるほど……?」
分かるような、分からないような。
とにかく人間の生は限りある時間の単位内にのみ、存在しているという事のようだ。
人間の生は有限であり、不老長寿というものは存在しないと、そういう解釈で良いのだろうか。
陸遜は、自分が求めていた答えが与えられたようでスッキリした。
不老長寿の否定、その為にこんな場所にまで足を運んだのだと今なら分かる。
「面白い考えだと思います。永遠という物はやはり存在しないのですね。人が求めるものではやはりない――」
「我々人間界には永遠は確かにありませぬ。しかし、極楽浄土の釈迦は永遠を生きておられます」
「シャカ?」
「初めて悟りを開き、我々に信仰をお与えになった存在です。我ら信徒の目標でもあります」
なるほど、よく聞くような話である。
人間にあらざる不死の存在。中華の神話でいう、西王母がそれにあたるのだろうか。そういう存在、存在を信じる思想はやはりどこにでも存在する。
それは良いのだ。
その存在に自分を重ねようとする行為が、陸遜にとっては禁忌に思われる。
いや、禁忌というよりは、純粋なる嫌悪だろうか。
それを望む事は、実に浅ましいことだと陸遜には思えた。
「貴殿方はそのシャカなる者を信仰しておられるのですね」
「半分はそうで、半分は違います。釈迦は我々にとって指標となるべき素晴らしき御方には御座いますが、釈迦そのものは我々と変わらぬ人間にございます」
「……?」
「釈迦は元々人間として生を受けましたものを、自身の悟りにより人間の枠を超えられたので御座います。釈迦と同じ存在には、我々の皆がなれる可能性を有しておるのです」
「――――」
「我々ブトの民の最終目標は、釈迦と同じく悟りを開き、浄土たる捕陀落に行く事なので御座います」
「それでは――」
不老不死を求める孫権と、同じではないのか?
いや、きっと、細かく言えば違うのだろう。
しかしブト信者ではない陸遜には悟りというものがよく分からない上に、最終的にいきつく場所が一緒ならば、それは即ち同義足り得る。
「捕陀落は西の海の先、遥か遠くに存在する島にあると言われております。悟りを開いたものは、死んでそこにいけるのだといいます」
――崑崙の島ではないか!!
陸遜は俄に頭を強く殴られた様な感覚に襲われた。
あまりの衝撃にほんの一瞬、目の前が白く霞む。頭がふらつき、たたらを踏んだ。
「大丈夫でございますか?急に顔色がお悪くなられたようですが」
男は、心配そうに陸遜に歩み寄る。
しかし陸遜は、その行為を遮る様に手で払った。
近付かれたくない。
陸遜にとって、男は急に得体の知れないおぞましいものに変わった。
この男から一刻も早く離れたい。
いや、この場所から離れなくてはならない。
この村全体が、ブトの信仰に覆われているのだから。
胸が早鐘を鳴らす。
逃げなければ――、耳の奥で誰かが叫んでいる。
「……悪いがこれで失礼する」
陸遜は、ろくに男の顔も見ずに、門の方へ急いだ。
男は随分驚いた様だが、陸遜をとめようとはしなかった。
「興味がおありならば、いつでもまたお越しなされ。釈迦の教えは、何人をも拒みませぬ」
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陸遜は脇目も振らず、一心に駆けた。
これほど馬を飛ばすのはいつ以来かというぐらい、前へ前へとひたすらに進んだ。
もう決して若いとは言えない陸遜は、ここ数年この様にがむしゃらに駆けるような真似はしていない。
そんな事も忘れるくらい、駆ける事に集中していた。
建業の城内へ入っていた事も、ろくに認識していなかった。
しかしそんな無理をすれば、すぐに馬に限界がくる。
そして、同じく陸遜の体力にも限界があった。
そこでようやく陸遜は馬を降りた。
もうこの馬は、一晩休ませないと無理だろう。
自身の息を整えるためにも、馬を引き徒歩で帰路をとる事にした。
見渡せば、陸遜は人通り多い市街地にいた。
昼過ぎの比較的往来が静かな時間ではあるが、こんな路を馬で疾走するなど正気の沙汰ではない。
事故が怒らなかったから良かったものの、随分危険な事をしたものだ。
もう分別のある年であろうに大人気ないと、陸遜は自悔した。
「ああ、もう、本当にこんな所にいるではないか」
陸遜が馬を曳いてゆるゆると歩き始めてから幾ばくかした頃、後ろから話しかける者がある。
背後には小振りな馬車が一台、その馬車の入り口からは陸遜の良く見知った顔がこちらを見下ろしていた。
「これは……奇遇ですな義封殿」
馬車に乗っているのは朱然だった。
小柄で童顔なきらいのある男だが、流石にこの年になれば些かの威厳も出てきただろうか。
それでも陸遜は、この男が己より数才年長だという事をたまに忘れてしまう。
外見的な意味もさることながら、朱然は常に元気が良く溌剌としていて、若い頃は幼いという意味で年下の様に思われたその点は今の年には若々しいという風に働いている。
年をとって随分意欲が無くなったと自分で思う陸遜にとっては羨ましく、そして単純に元気が貰えるという意味で有難い存在だった。
簾の隙間からのぞく朱然は、私事の時間なのか鎧も礼装もしておらず、比較的簡素で目立たない装いだった。
背が低い事を補うためなのか、朱然は普段はどちらかと言えば派手で存在感のある装いをしている事が多い。
そのためこうして地味な格好をしていると、なんだか拍子抜けしてしまう様な印象がある。
勿論そんな事は本人に言いはしないが。
「奇遇ではない、お前に良く似た者が全速力の馬でこの道を駆けていったと聞いたものだから、まさかと思って追っていたのだ」
どうやら陸遜の顔を知る者が見ていたらしい。
あれだけ無茶な事をしていたのだから、目立ってしまうのは自業自得なのだが。
「それがどうして、本当にお前じゃないか。どこぞの無頼者ならともかく、お前の様な者が天下の往来で爆走とはどうした事だ。全くらしくないぞ」
「いや、反省はしています。少し急いでいまして。つい……」
「馬が潰れる程の急ぎの用とは何か知らんが、乗れ。送ってやろう」
「何か用があるというわけでもないのですが……」
「はぁ?要領を得んな。とにかく乗れ。だったら家まで送ってやるぞ」
せっかくの好意を断るのも気が引けるし、正直若くない陸遜には徒歩での家路は辛いものがあったため、素直に馬車に乗り込んだ。
「感謝いたします、義封殿」
「遠慮するな。将軍閣下を一人で歩かせなどは出来んからな」
陸遜が腰を落ち着けた頃、ゆっくりと馬車は進み始めた。
壁を隔てただけで、随分と街の喧騒は遠くなる。
「やや、酒を持参での用事とは益々分からぬな」
朱然が陸遜の腰に下がった瓢箪をみて言った。
土産にと買った酒だったが、結局渡す事なく帰ってしまった。
実際、陸遜は指摘されるまで酒の存在を忘れていた。
「もう用は済んだのです。酒は渡し忘れましたが……どうです、一緒に飲みますか」
陸遜は朱然の眼前に瓢箪を差し出した。
「おい陸遜、一体どこに行っていたのだ。さっぱり見当がつかぬ」
「……ブトの所ですよ」
「ブト?」
陸遜は訪問の目的から、訪問先であった事、一切を朱然に話した。
「不老不死ねぇ……」
朱然は、瓢箪の酒を傾けながら言う。
「亶州に執着なさる陛下のご様子には俺も少し違和感を感じてはいたがな」
「正直に言ってしまうと、私は陛下に少し失望と侮蔑をしていました」
とんでもない不敬罪だが、朱然はきっと他言はしない。
それでも、陸遜は無意識に声を下げて言った。
「……まぁ、そうだな。その件に関わらず最近の陛下のご様子には俺も参っているが」
「義封殿」
「お前も同罪だろう、陸遜。我々の仲ではないか。たまには、腹の内を語り合いたいものだ」
朱然はカラカラと笑う。
確かに陸遜と朱然はもう長い付き合いで、そして周りを見渡せば同輩はほとんどいない。
陸遜と同じくらいの年齢で、地位や身分が相応なものは今や朱然くらいなものだった。
そういう意味で陸遜にとって朱然は、かけがえのない話し相手である。
朱然の方も、きっと同じ様に思っている事だろう。
「陛下ももうお年だ、我々と同様にな。不老不死に興味を持つ頃ではあるかもしれん」
「ですが私には、陛下のお気持ちは理解できませぬ。不老不死など何故に―」
「興味を持つのは、誰であろうと個人の自由ではないのかな、陸遜」
「っ……」
「お前が嫌悪を示すのと同じ様にな。そして、人である以上持ちうる欲だと俺は思うがな」
朱然が、酒の入った瓢箪を差し出す。
陸遜はそれを憮然とした表情で受け取った。
朱然の反応は、少し意に沿わぬものであったから。
返ってきた瓢箪は当初よりだいぶ軽くなっている。
残り少なくなった酒を一気に仰ぐが、それでも一息に飲み干せる量ではなかった。喉がにわかに、カッと焼けつく。思ったよりも強い酒であるらしい。
「貴方もやはり、そういう類に興味を持たれるのですか」
詰問する口調であったが、問うた陸遜の顔はどちらかといえば哀願というに近い。
ああ、貴方だけは――と。
「どうだろうな……まぁ俺も人間だし、興味が無いといえば嘘になるが……。不思議な事に、この歳に成ると昔の事が思い出されてならぬ」
馬車が角を曲がる。
それにつられて、二人の体も傾ぐ。
陸遜の手から滑り落ちた瓢箪が、コロコロと転がって壁にぶつかる。
零れるほどには酒は残っていなかった。
「先に死んでいった者達の顔が特にな。こうして酒を酌み交わす事もあったなと……」
朱然が壁際の瓢箪を掬い上げる。
「酒を飲む相手がいるというのは良い事だ」
朱然が小さく、瓢箪を仰ぐ。
そしてすぐに、陸遜に手渡した。
「共に苦労をわかち合った者と飲む酒が一番旨いと、俺は思う。疲れて、それこそ死ぬ想いをして、同じ戦場を乗り越えた戦友との酒は格別だ。こればかりは、泰山に棲む仙人道士には味わえまい」
零れる様な笑み。
ああ、これだ――と陸遜も微笑む。
瓢箪は先程よりもずっと軽い。
逆さにしても、口内に落ちてきたのはほんの一滴だけだった。
だがそのひとしずくが、こんなにも愛おしい。
「旨い」
「ああ、そうだな」
二人の視線が合わさると、どちらともなく笑い声があがる。
次第に馬車は笑いに満ちる。
(このひとしずく。このひとしずくは何千年生きようと、得られるものではない)
〔終〕