畜狼談
畜狼談
夜の街に狼が出るという噂がまことしやかに流れ始めたのは晩秋の、そろそろ冬支度が始まろうかという頃であった。
街と言っても中華でも有数の大都市たる洛陽の話である。
城は日暮れに門を閉ざし外との往来を遮断するものの、大都洛陽は陽が落ちても城下全体が眠りにつくことがない。
要するに、狼などが出るという事は考えられないのだ。
天下の京師・洛陽に狼が出る。
それは洛陽の評判を貶める恐れすらある噂であった。
故に、曹丕はその噂を側近の陳羣から聞いた時、まず己の耳を疑った。
「狼だと?」
「確かに城下ではそう噂されております」
「その様な事があるものか。この京師に、その様なけだものが?信じられぬ」
自分に非があるわけでは無いのに非難された陳羣は、困ったように肩を竦めた。
傍には呉質や司馬懿といった他の側近達も控えてはいたが、発言はせずに静かに二人のやりとりを聞いている。
「私も不埒な噂だと思い出所を探そうと思ったのですが……、どうやら実際に被害者が出ているようです」
「被害者?狼に食われたとでも言うのか」
「肉を食われた者もあれば、食われずにただ噛まれた者もありといった状況です」
「狼の姿を実際に見た者は」
「サッと横切る影を、と言った程度です。襲われた者は、皆死んでおります故」
曹丕はふんと、不機嫌そうに鼻を鳴らした。
こういう時は穏便に済ませるに限ると、側近達は密かに思っている。藪蛇を突くまいと皆口を噤み、曹丕の次の言葉を待った。
「ならばいっそ退治するしかあるまい」
「え?」
ここで初めて、呉質が声を出した。
陳羣も同時に同じ反応をしたので、面白いように二人の声は重なった。
司馬懿だけは、相変わらず聞いているのかいないのか、感情の読めない表情のまま黙っている。
こう見えて実は良く話を聞いて理解している、というのは曹丕も長年の付き合いで分かっているため、今更叱責するでもない。
「その様な噂、我が軍の沽券にも関わろう。根本から処置してしまうが良い」
「では、狼退治に兵を出しますか?」
陳羣がやや上擦った声で訊いた。
曹丕はどうしてか思ったよりも不機嫌で、側近たちは皆ハラハラしている。
「早速今宵から出すが良い。……そうだな、私直々指揮をしてやる」
再び「えっ」と陳羣と呉質の声が重なった。
「気に食わぬその畜生は、私が捕らえてやるというのだ」
はぁ、と伏し目がちに返した陳羣は、ならば準備を致しますと続けた。兵の運用には門外漢の呉質は、明らかに視線を反らしてこの話から逃れようとしている。
司馬懿は結局最後まで何も話さなかった。
天下の大都たる洛陽は、日が暮れ夜が更けても完全に灯りが消えるわけではない。
中央通りならば手元に灯りがなくともなんとか歩けてしまう。そんな程度には常に灯りが配置されている。
しかし今宵はそんな日頃の仄明るい夜とは打って変わって、灯が、炎が、街中を照らしていた。
大通りに焚かれた篝火が、道々に灯された松明が、夜の闇を拒むかの様に燃えている。
そしていつも無いほどに人が溢れ、夜の街は活気に満ちていた。
否、活気というには些か物々しいかもしれない。
鎧を着、武器を手に持った彼等は勿論街の住人ではなく、軍の兵士。
常時王宮を警備する近衛兵達が、今夜は多く城下に駆り出されていた。
「公子、兵は皆配置に付き監視を行っていますが今の所目撃情報は無い様です」
将の一人が、松明の側に佇む曹丕へと駆け寄って報告した。
「そうか……分かった。もっと火を強めよ。怪しげな影があればすぐに分かるようにな」
将は「御意に」と一言言い残し、元来た方向へ再び走り去る。
武装した曹丕は、将の後ろ姿をふんと満足そうに笑って見送った。
曹丕は闇夜の中でも一際目立つ白い戦袍と、造りの良い甲冑に身を包んでいる。
一方で側に立つ司馬懿の装束は、闇に溶けていきそうな焦げ茶色である。
その上に簡素な甲冑を着込み、曹丕と並ぶとまさに影の様だ。
陳羣や呉質は宮中の警備として城に残されている。
司馬懿だけ連れて来られたのは、他の二人と違い多少なりとも従軍の経験があるからだ。
いくら賢くても、冷静でも、従軍経験の無い者はこういう場ではただの足手まといだ……というのが曹丕の持論だった。
曹丕は公子とはいえ、親征好きの父の影響で年端もいかない頃から戦地を経験している。
己が何の力にもなれず、戦地で兄を亡くした事もある。
戦の上手い下手ではなく、慣れない者は浮き足立つのだ。自身の人生経験がそう忠告している。
チラリと横目で後ろに立つ司馬懿を観察すると、流石に落ち着いた様子で佇んでいた。
もっとも、この男の場合何時なんどきでもこんな調子な気もするのだが。
「仲達、行くぞ」
曹丕はぶっきらぼうに、無口に立ち尽くしている己の従僕に言った。
「どちらへ行かれます?」
「黙ってついて来い」
司馬懿に返事を挟む暇も与えず、曹丕は篝火から離れ暗闇の方へと進んでいく。
兵は一定感覚毎に配置させているが、それでも誰もいない区域は発生する。
今夜は住民に夜更けに家を出るなと予め通告してあったため、人気の無い場所は本当に動く影すらない。重苦しいほどの静寂。
兵達の奏でる喧騒も遠く、焚かれた篝火の光も届かない。
司馬懿が左手にもった小さな松明だけが辺りを朧気に照らし出す。
「殿下、この様に暗い場所は危のうございます」
ちらちらと揺れる松明の火が、艶やかな曹丕の甲冑の輪郭を炙り出す。
曹丕は答えない。
この男が臣下の発言を無視する事は珍しくもないが、流石にこの状況では引き下がってもいられまい。
司馬懿は再度、前を歩く主人に声を掛けた。
「殿下、火の近くへ戻りましょう。獣は火を恐れますので、火の傍ならば安全です」
「そんな事は分かっている。故にこうして道を外れているのであろうが」
唐突に歩みを止めて、曹丕はくるりと司馬懿の方へ振り返った。
白い戦袍が大袈裟にはためく。
二人の立つ道は暗く、松明の灯りでさえ闇に飲み込まれそうなほど。
白い戦袍だけが、奇妙に浮かび上がって曹丕の輪郭をなぞる。
「あれだけ火を焚けば、狼は火を避けて暗がりへ移動するだろう。そこに人がいないなら、なおさらだ」
曹丕が腰に差した剣を抜き放ち、一瞬、刀身が松明の光を受けて輝いた。
「……殿下、もしやご自身で?」
「言わずもがな。腹立たしい畜生はこの私が直々に討ち取ってくれる」
吐き捨てるように言い放った言葉は、苛立たしさと共にどこか憐れむ風でもあった。
「殿下が直々に手を下すべき事ではありません」
「黙れ仲達。私はこの手でたたっ斬ってやりたいのだ」
なおも司馬懿は食い下がる。
「危険でございます」
「うるさい、私は狼が嫌いなのだ。どうしても切り捨ててやりたい」
嫌い?
頑是ない子どものような物言いに、司馬懿は呆気にとられずにはいられなかった。
棒立ちの司馬懿を置きざりにしたまま、曹丕は更に暗い方へと再び歩を進める。
狼は嫌いなのだ――。
誰にも、司馬懿にも聞かせるわけではなく、肩で風を切って歩く曹丕はそう繰り返した。
あれは何歳の頃だっただろうか。
とうに元服はしていたが、今よりはずっとずっと背丈の小さな頃。
ある日、曹操は息子達を連れて狩りに出かけたことがある。曹丕も勿論それに加わっていた。
狩りとはいってもまだ弟達は幼い。
馬に乗って動物を追いかけ回す程度の行楽だった。
しかし、最年長の曹丕はその程度に満足出来る年齢では既にない。児戯に飽きた曹丕は少ない供回りを連れて、家族達とは離れ森の奥へ進んだ。
良く晴れてそよ風の吹く、気持ちの良い日であったと記憶している。背の高い木々に覆われて出来た影の中に、所々木漏れ日が落ちる。実に行楽日和の佳き日と言えた。
これから起こることなど予想も出来ない、そんな日和だったのだ。
そんな気候につい気が緩んだのだと、今になっては言えるかもしれない。ともかくその時の曹丕はためらいもせずにずんずんと奥へ進んでしまった。
森は木々が複雑に生い茂っているため馬を操るのは難しく、自然と隊列はバラけていったが、曹丕は若くして弓馬に長けていたため、常に隊列の先頭をいった。
「まったく、まるで獲物がいない」
家族から離れ、浮かれる気持ちで森へ入ったは良いが、どうにも獲物となる獣がいない。
もしや、父は獣があまり出ないのを承知の上でこの森を狩り場に選んだのではないか――そんな考えさえ脳裏を掠めた。
子供達と遊ぶのが目的ならば、それくらいの方が危険が無くて良い……そういう理由でだ。
そんな考えが頭をよぎったその時、一瞬視界の端を黒い影がサッと横切る気配がして急いで弓をつがえた。しかし勘違いか、ただ風が過ぎただけなのか、そこには何の姿も無い。
気のせいだったかと、曹丕は不機嫌に弓を下ろした。
「仕方がない、戻るとするか。全員に伝えよ、ただいまより帰還する」
黒い影の気配は消えた。
曹丕は振り替えり、後ろについてきている兵士たちに言った。
言った……つもりだったのだが、自分の後ろには思ったよりも兵士の数は少なかった。
その数三、四人。
共に森へ入った時点では、十人以上はいた筈だ。
「他の者はどうした?随分と頭数が足りないようだが」
「脱落したようでございます。道を戻れば合流出来ると思います」
「それもそうだな」と答え、曹丕は残りの兵士達を連れて来た道を戻り始めた。
しかし、間違いなく来た道を戻った筈なのに、はぐれた兵士の姿は無い。
勿論、合流できた者はいたのだが2、3人足りないのだ。
結局森を抜けるまで全員は集まらなかった。
「私は家族の元に戻る。何人かは森で迷ってる者を探してから部隊へ戻れ」
そう言って曹丕は家族の元に戻り、そのまま森での出来事を忘れた。
「狼は危険な畜生だ。そんなものが都を我が物顔で闊歩しているなど許されん」
狼は恐ろしい。
牙、爪、獰猛な性質。
その全てが恐ろしいが、奴の恐ろしい所は何よりもそれらの凶暴な面を押し隠せる所にある。
あの日、はぐれた兵士達は帰って来なかった。
捜索の後に遺体が発見されたと、そう報告されただけである。
その報告を聞くまで正直曹丕はその一件の事などすっかり忘れていた。
忘れてしまうくらい、なんでもない出来事だったのだ。
しかしそんな呑気に受け取っていたのは曹丕……いや、曹丕だけではなくその場の兵士達も、皆が皆自分達の少し視界から外れた所で残虐な殺戮が行われていたなどと露にも思わなかったのである。
「殿下、どうかお考え直し下さい」
なおも、司馬懿はすがる様に後を小走りでついて来た。
いつも感情の起伏が乏しい司馬懿だが、今夜ばかりは声にやや力が籠っている。
「口答えするな」
「不躾ながら、何をそれほどまでにムキになられるのでございます?」
「なに?」
「私には、何やら殿下が狼に異常な執着を持っているように見えますが」
夜に同化しそうな闇の中、ふと司馬懿の瞳が煌めいたように見えた。
いや、そんな馬鹿な。
唯一の光源たる司馬懿が持つ松明は、揺れつつも常に一定の明るさを保っている。
大通りの篝火から離れたこの路地裏では、互いの顔を認めるのがやっとだ。
「良かろう、ならば教えてやる。何故私が狼狩りに執着するかを」
「…………」
司馬懿はおし黙っている。
「私はな、殺されかけた事がある。狼にだ。襲われたというわけではない。奴は私を狙わなかった。他のもっと狙いやすい人間を選んだだけだ。生かされただけなのだ」
いつも読みにくい司馬懿の表情が、今夜は暗くて余計に掴み所がない。
構わず曹丕は続ける。
「私が一切気付かぬ、そう、獣はいないとすら私が思い込んでいた場所で、その裏で、配下の兵士が殺された。遺体は獣に食いちぎられた後だった」
「それが狼の仕業であったと?」
「その森にそれ以上の大きな獣はいない。勿論、その地の住民が断言したのだ、これは狼に噛まれた、間違いないとな!」
その時ジャリ、と土を踏む音が聞こえた。
瞬時に司馬懿も、興奮ぎみに話していた曹丕も、弾かれた様に辺りを警戒する。
音源の方へ向く――と言っても、その音がどこからしたのかもハッキリと分からない。
司馬懿と曹丕は互いにあらぬ方向を見ていた。
「何だ今の音は!?」
人ではない。
人にしては音が大きすぎる。
心臓がぎゅっと握られている様に痛み、なんとか鼓動を落ち着かせるべく深く息を吐く。
司馬懿も周りに気を張り詰めているらしく、微動だにしない。
暫く二人はそうやって立ち尽くしていたが、二回目は聞こえなかった。
「気のせいか……?」
まだ安心するには早いと心身に刷り込まれた恐怖がそう告げているが、とりあえず曹丕は抜き身の刀を鞘に収めた。
「──殿下」
「……なんだ」
司馬懿も緊張が解けたらしく、ゆらりと曹丕の傍へ移動した。
「どうした仲達」
緊張は解けた……だが、何か別の感情が取り巻いているように見える。
「戻りましょう」
「は?」
「一刻も早く戻りましょうと言っているのです」
「黙れ、何度言えば」
「冗談ではありません!本当に狼が出たら取り返しがつかないのですっ!」
「っ──」
仲達が、声を、荒げただと!?
普段感情的になる事がない相手だっただけに、とても、驚いた。
「もし怪我をされたらどうされるのです!怪我で済むならまだ良い」
「お前、誰に対して物を言っている」
「貴方です!魏王第一公子の貴方に!」
「痛ッ」
司馬懿に腕を取られた。
「無理にでも連れて帰る所存です」
「放せ!無礼な!」
「無礼でも結構!貴方がもし傷でも負ったら私はどうなるとお思いですか!?」
「な、に!?」
腕を振り払うが、むしろ腕は強く握られる一方。
こんなに力が強かったのかと驚くほどに。
「お前は、自分のために、私を連れ戻そうと言うのか!?」
一瞬、ほんの一瞬だけ司馬懿の顔がひきつったかのように見えた。
「貴方がもし傷でも負えば、私は罰を受けます。場合によっては極刑です」
「……ああ、そうだろうな」
「例えそれが貴方の我儘に端を発する事態であっても」
「……冷酷な第一公子に我慢して仕えてきた苦労も、水泡に帰すだろうな」
曹丕の言葉に反応する様に、一瞬腕に力が更に籠る。
痛みを気取られるのがしゃくで、顔では平然を装った。
「私だけではない。司馬家も罪を問われる可能性もある。それを恐れるのは悪い事ですか。己が身を守ろうとするのが悪い事ですか」
「……それだけか、仲達」
「え?」
「自分の栄達の道に影がさすから……そうではないのか?」
「…………」
月が雲間に隠れ、二人の立つ路地は完全に暗闇に呑み込まれる。
なのに司馬懿の瞳が、獰猛に煌めいた。
この目は──
あの森で、一瞬傍を何かが通りすぎた時に見た──。
一瞬過ぎて、見た事も覚えていなかった。
あの時の事件を忘れてしまっていたように。
狼──!
「仲達……放せ」
「放せません。貴方をこのまま連れ帰る」
「帰ると言っているのだ!だから放せ……一人で歩かせろ」
「…………」
司馬懿は訝しむ様な顔をしたが、やがて、手を離した。
「……本当に帰りますね?」
司馬懿は、尚もじろじろと曹丕の表情を窺っている。
「ああ、帰る。もう狼探しは良い」
「……本当に?」
「しつこいぞ仲達!もう良い。戻る」
曹丕の言葉に司馬懿は、微かに安堵の息を漏らした。
その顔に、先程までのような獰猛さは見えない。
狼は、隠す事が出来るのだ、その獰猛さを──。
「狼は探すまでもなかった……」
「はい?」
「……興が削がれた。後は勝手に探させろ」
「は、はぁ……」
突然の主人の心変わりに、司馬懿は素直に戸惑っているようだ。
その姿は間違いなく、いつもの側近だ。
私の、飼い犬──
ちりりと傷む腕の着物をめくった。
灯りをかざす。
腕に爪痕が残っている。
狼の牙跡か──面白い。
狼を飼うというのも面白いではないか。
「では私は兵達に指示を」
「お前も来い、帰るぞ。残りは適当に他の者らに任せておけ」
「え?」
「酒の一杯でも付き合えと言っている」
「はぁ……」
「久々にお前の下手な詩を聴かせろ」
「それは、ご勘弁下さい……」
〔終〕