新野の夏、劉備軍の夏
新野の夏、劉備軍の夏
「あ~つ~い~」
新野城の城主、劉備はその人より長めな両腕を椅子の外へとだらしなく伸ばし深く腰掛けていた。胸元も大きくはだけさせ、例え小城とは言え一国の主とは思えない姿である。
「あ~つ~い~」
「劉兄者、あんまり暑い暑いって言わないでくれや……。余計暑くなるぜ」
「いやだって暑いんだもんよ……」
「兄者、益徳、心を強く持てば、暑さも耐えられ申す」
「雲長、見てて暑い……」
「関兄者、そのヒゲ暑くないのかよ……?」
荊州、新野は例年になく猛暑にみまわれていた。劉備、関羽、張飛の三人も例外ではなく、このうだる様な暑さに辟易としていた。
「暑いなら、固まらなければ良いのでは……」
黒衣に身を包んだ孔明が、部屋の入り口から三人を見て、呆れた様子で呟いた。関羽と張飛は椅子に座った劉備の側に腰を下ろしている。床に敷いた筵の上に、二人の男が肩を寄せ合って座る様子は、夏でなくても暑苦しい。それもただの男ではない。人並み以上の大男ときている。椅子に座る劉備とて、決して体格の小さな男ではなかった。
ちなみに、床に敷いた筵は長兄劉備の手編みである。
「うげ、また暑苦しいのが来たな」
お前には言われたくないとばかりに、孔明は張飛を睨んだ。
「孔明ちゃん、そんな服着て暑くないわけ?」
劉備は信じられないものを見る様な目をして言った。孔明は、劉備軍に出仕し始めた春先から変わらず、毎日同じ恰好で城に出て来る。三国時代の文人が良く好んで良くきた鶴氅衣(鶴の羽を織り込んだ上質な外衣)という装いなのだが、これは厚手で丈が長く、冬は良いが夏にはまるで向かないものである。それでも孔明は、襟元を緩めるでもなくいつも通りに着こなしている。
「……慣れてますので」
「孔明は痩せてるからなー。我慢出来るんだろ」
「……」
体型が分からない様に着込んでいるのに何故分かるのだ、と孔明は臍を噛んだ。余談になるが、実は痩せてる人間の方が体温は高いのだが、当時の人間には知る由も無い。
「私なんて最近太り気味だから暑くて、暑くて……。太ももの肉なんて凄いんだけど、見る?」
「我が君、ならば運動なされませ。城の庭に作った菜園、最近あまり世話してない様ですが?土いじりは良い運動になりますよ」
「うー、だってこの暑さだしなぁ。倒れちゃうって」
劉備は相変わらずだらしなく椅子に腰掛けた姿のままで、パタパタと手で首もとに風を送る。
「我が君……ほんの少し、涼しくなる話を致しましょうか?」
「……えっ?」
ニコリと微笑む孔明の涼やかな口元を見ただけで、劉備の背中はほんの少し寒くなった……気がした。
「ある趙貞という農夫が、家の畑でネギを作っていたそうです」
「へぇ、ネギ……ネギね、うん」
「まだ収穫していなかったある日、突然そのネギが一斉に縮んで、地中に潜ってしまうという、不思議な事が起こりました」
「はぁ、そりゃ大変だ」
「近所の者達はこぞって、これは何かの凶兆ではないかと噂しました」
「…………」
「そうしたところ案の定というべきか、趙貞の兄弟達が暫くしないうちにバタバタと変死を遂げたそうです」
「いやぁ、奇っ怪な話もあったもんだなぁ」
「嘘くせぇ話だな」
劉備はまるで信じていない様子であり、張飛は鼻で笑ってみせた。
「……と、今新野の城下で民達の間で話題になっております」
「…………」
「我が君、我が君の畑にネギは……」
「益徳、畑行くぞ」
「は!?」
「畑行くぞっ!!付いて来い!!」
「え、ちょっ、兄者……ちょっと待ってくれよっ!!」
劉備と、それに続く張飛がバタバタと慌ただしく部屋を後にした。部屋には関羽と、孔明の二人が残された。
「やれやれ、この暑いのに元気な事です」
孔明は緩やかに左手の羽扇で首元に風を送った。
「軍師、流石ですな」
「……何がです?」
「言葉巧みに兄者を動かすその会話術でござる」
「……私はただ、本当の事を言ったまでですが?」
「…………」
「…………」
「……拙者も、畑に行って参る」
関羽が出て行き、部屋には孔明だけが残される。持ち主のいなくなった椅子に、孔明は腰掛けた。
「信じるも信じないも、自由ですけどね」
終