イラストを魅せる。護る。究極のイラストSNS。

GALLERIA[ギャレリア]は創作活動を支援する豊富な機能を揃えた創作SNSです。

  • 1 / 1
    しおり
    1 / 1
    しおり
    肩甲骨は翼のなごり ベランダに天使がいる。手摺りに凭れ掛かり、頬杖をついて、西陽が川の水面に乱反射するのを眺めている。
     俺は悪魔で、詩人じゃない。つくねはまさに言葉通りの意味で天使なのであって、俺があいつを天使と呼ぶのは、SNSでダース単位で見かける病気の男が自分の恋人を甘ったるく呼ぶような類のあれとは断じて異なる。
     つくね──下に木のないほうの「筑」に音と書いてつくねと読む。ロシア人とのハーフだかで、下の名前はミハイルとかいう小洒落た名前らしいが、そちらの名前で呼んだことは記憶する限り一度もない。俺とつくねは長らくライバル関係だったし、そうなる前も友人ではなかった。つくねには山手線の車両を四つは満員にできそうなくらいに友人がいたし、俺は友人や恋人を作ることよりも単に生きていくことに精一杯だったからだ。疲れ果てて座席の端で手摺りに頬を押しつけ、元気な老人に舌打ちされながら必死で寝たふりをしているような俺に、つくねはなぜか手を差し出した。俺がつくねの手を取った理由は思い出せないが、きっといつものようにひどく疲れていたからだろう。
    「罪前、きれいだよ」
     つくねが振り向き、俺に呼びかけた。
    「水面がまるで燃えてるみたいだ。川沿いの家を選んでよかった」
     俺はベランダ用のサンダルをつっかけて、つくねのそばに寄った。土手まで降りれば分かるが、川は汚れている。何年か前に東京湾のアザラシがこのあたりまで遡ってきたときは、川の汚染がアザラシの健康に悪いとマスコミが騒ぎ立て、非難が集中した。汚染は住民の罪で、治安が悪いので住民はゴミの収集日を守らないし、みんな地球はでかいゴミ箱だと思っている。この天使も先月からその罪をともに負うことになった。
     返事の代わりに、「寒くないか」と俺はつくねに尋ねた。
     今月に入った途端に、しつこく居座っていた猛暑は去りどきを思い出したようだった。半袖だと肌寒く、カーディガンを一枚羽織ってちょうどいい。つくねは薄手のシャツ一枚で、ユニクロの広告のように決まっていた。
    「寒くないよ。君は?」
    「俺は上を着てる。中に入れよ」
    「もう少し見ていたいんだ、景色を」
     景色なんか面白くもない。つくねの横に並んで西のほうを眺めると、自転車の親子が土手を走っていくのが見えた。川向こうにはいくつもの鉄塔がきつい逆光の中に浮かび上がり、途切れがちな輪郭を網膜に刻もうとしている。
     横を向けば、つくねは黙って十月の空気を呼吸していた。こちらを見ないのをいいことに、俺は少し上向きにカーブしたつくねの長い睫毛と、高い鼻梁が橙の光に縁どられているさまを観察した。普段は明るい瞳の色は、今は判然としない。形のよい唇は、一度俺にキスした。ここに住みはじめたばかりのときに、救命活動とは無関係に。その意味さえ俺は尋ねる勇気を持てない。つくねは美しい。そして、俺はつくねを恐れている。
    「おい、つくね……」
    「なに?」
    「新しい仕事、楽しいか?」
    「楽しいよ」
     つくねがようやく俺を見て、笑った。
    「みんな感じのいい人ばかりだし……。先月歓迎会ができなかったから、来週企画してくれるって」
     いいことのようには聞こえなかったが、「よかったな」と言ってやった。俺だったら、そんな暇があるなら家に帰って寝ていたいと思う。でも、こいつは天使だから、きっと俺とは考え方が違うのだろう。つくねが俺に顔を近づけ、すんと鼻を鳴らした。ぎょっとして俺は思い切り上体を反らした。
    「いい匂いがする。デミグラスソース?」
    「煮込みハンバーグだよ。もうすぐできる。だからもう戻れって」
     つくねは少し頭を下げて俺の胸元のあたりに鼻を埋め、深呼吸した。俺は困惑する。
    「おい……」
     行き場のない手が空中を彷徨い、つくねの髪のふわふわした毛先に触れた──と思うやいなやつくねが突然顔を上げたので、俺は慌てて手を下ろした。つくねの表情は逆光で、微妙なニュアンスを読み取ることは難しかった。俺はもう一度中に入るよう促そうと、息を吸い込んだ。
    「つ──」
    「罪前、きれいだよ」
     つくねはそう言うと、俺を残してサンダルを脱ぎ、部屋の中に上がった。ベランダの俺に向かって手を差し出す。俺はヒールを履いたお姫様じゃないし、サッシの段差は3センチしかないのに。
     カバーから透けて見えるシーリングライトの丸い蛍光灯が、光輪のかわりにつくねの色素の薄い髪を照らしている。蛍光灯の下のつくねは、天使というよりかなり「人間っぽく」見えた。肩甲骨は翼のなごりで、今は薄いシャツ一枚の下に隠れている。俺はつくねを眺めていたい。俺は傷つきたくない。蛍光灯の下にずっといてくれと思い、太陽の下に出してやりたいとも思う。俺は俺の気持ちがわからない。それでも、いつも少し冷たいこの手を取ってしまうのだ。
     どこからか、煙草の煙たい匂いが漂ってくる。階下の誰かが吸っているのかもしれない。火照る頬にひたひたと触れる外気は心地いいが、俺は窓を閉めなきゃならない。どうやら秋が来たらしいのだ。

    おわり
    ledonis5 Link Message Mute
    2023/10/05 17:33:09

    肩甲骨は翼のなごり

    エンデビネタバレを含む

    more...
    作者が共有を許可していません Love ステキと思ったらハートを送ろう!ログイン不要です。ログインするとハートをカスタマイズできます。
    200 reply
    転載
    NG
    クレジット非表示
    NG
    商用利用
    NG
    改変
    NG
    ライセンス改変
    NG
    保存閲覧
    NG
    URLの共有
    NG
    模写・トレース
    NG
  • CONNECT この作品とコネクトしている作品