ハッピーバースデイ 横から伸びてきた手が、樒戸の指を給湯ボタンから外させた。見ると、熱湯はマグカップの縁ぎりぎりまで満たされている。樒戸は慌てて沈みかけの紙片をつまんでティーバッグを救出し、紅茶の水位を下げた。
「ぼんやりしすぎじゃないスか?」
樒戸の手を火傷から救ったのは郁李巧。言わずと知れた天才ホワイトハッカーで、とある事件での『誤射』により一時期は樒戸の頭痛の種となったが、今や“ごく普通”の気安く生意気な部下である。郁李は樒戸をシンクのほうへ押しやると、代わりに自分が給湯器の前に陣取り、春雨スープに湯を注ぎ入れはじめた。
「ありがとう」
「チーフ、最近なんかありました? 抜けてるのはいつもですけど……」
無礼な後半は聞き流し、樒戸は答えた。
「特になにもない。いつも通りだ。この仕事をしていると、代わり映えのしない一見単調で退屈な毎日というのがいかに貴重で得難い財産であるかということに気付かされないか? 平和っていいものだよな。家の壁にはエビフライもキノコも生えてないし……」
喋りすぎた、と樒戸は内心顔を顰めた。ティーバッグをゴミ箱に落とす樒戸の横顔に、郁李の探るような視線がついてくる。この部下の勘の鋭さに樒戸は信頼を置いているが、その優れた直感力がときに不要な場面で発揮されがちなのが玉に瑕だ。
「そういえば、後閑サン、今日誕生日スよね」
「ああ、そうだっけ」
「そうだっけって……仲いいじゃないスか。なにもしないんですか?」
んー、と曖昧な返事をし、樒戸は給湯室からさっさと逃げ出した。
まさにそれなのである。
言い訳のようだが、けっして後閑の誕生日を忘れていたわけではない。二ヶ月前に後閑が狗飼に話していたのが耳に入り、そういえばそうだと思い出してからというもの、散々検討した。
昨年は悩んだ挙句水族館に誘ったわけだが、結局諸々の事情により行き損ね、いつも通り──すなわち後閑の家でだらだらと酒を飲む代わり映えのしない休日──になってしまった。誘ったときはこちらがやや反応に困るくらいには喜んで見えたから、方向性としては正しかったのだろう。だが、今年も同じでは芸がない。それに、事件後の様子を見るに……後閑にとってもおそらく嫌な記憶を呼び起こさせるはずだ。そうなると、やはり物を贈るという選択肢が再浮上してくる。だが、後閑の欲しがるものなど樒戸には検討もつかない。いいや、まったく検討がつかないというと嘘になるのだが、選ぶのが難しいものばかりなのである。趣味のキャンプ用品などはこだわりがあるのだろうし、調べて誰もが喜ぶ一級品を贈ったところで、あの後閑のことだから既に持っている可能性は高い。万年筆などの高級文具なども悪くはないが、事務作業は今やコンピュータを使って行う作業が主であるから、実用性という面においては今ひとつだ。そもそも、同僚から万年筆なんか贈られて嬉しいものだろうか? 父親からの就職祝いじゃあるまいし。服飾品。これは論外だ。言ってしまえばどちらかというと樒戸が選んでもらう側である。ブランドについては後閑のほうがよほど詳しいし、自分自身に似合う品を選ぶ能力については疑いの持ちようもない。何度かは身につけてくれるかもしれないが、誕生日に贈った品で気を遣わせてどうするというのだろう? それに、自分が選んだネクタイやらベルトやらを締めて登庁してくる後閑というのを想像してみるとなんとなく居心地が悪い。そもそも、同性の友人同士で個人的に服飾品なんか贈りあうものだろうか。そういうものなのかもしれないが、樒戸には個人的に誕生日を祝いあうほどの友人は他にいないので、考えてみてもよくわからなかった。これが上司や部下への祝い事なら楽なのである。後閑相手だと考えるからよくわからなくなるのだ。ごく普通に考えれば、職場の友人への誕生日祝いなら、高級な酒などの消え物が妥当と思われる。後閑の給料でも少し手が出にくいようなウイスキー、ブランデーなど、心当たりはいくつかないでもない。おそらく後閑は喜ぶだろう。というか、なにを貰っても喜ぶだろうことが予想できる。
樒戸はここまで考え、響の二十一年を通販サイトのショッピングカートに入れた。そのまま響は十日ばかりカートの中で買われるのを待っていたが、結局樒戸はそれを削除してしまった。
要するに、普通は嫌なのだった。こんなときに相模原がいたら、きっといいアドバイスをしてくれただろう。相模原はいつも誰よりもみんなのことをよく観察していたし、なにを望んでいるかを知っていた。だが、今はいない。
そんなことをしているうちに仕事が忙しくなり、あれよあれよという間に一ヶ月が経過し、この問題が再び樒戸の意識の内に上ってきたときには、既に後閑の誕生日まで三日を切っていた。三日間でいったいなにができただろう? 神でさえ天地創造に六日をかけたのである。樒戸は三日を上の空で過ごした。そして、今日に至る。
響を買っておくべきだった、と樒戸は早朝のベッドの上でごくまっとうな後悔の念に襲われた。普通でも、なにもないよりはましだ。そもそも一昨年まではなにもなかったのだが、十四年越しに「後閑へのお返し」という概念に思い当たってしまった以上、もう元には戻れない。一度茹でられた卵が生卵に戻ることはないように、人間の精神というのもときに不可逆的な変化を経験するものなのである。
後閑サン今日誕生日スよね、おめでとうございます。
あっ後閑さん誕生日なんですか? そりゃめでたい、おめでとうございます。
ああ郁李くんありがとうございます、覚えててくれたんですね……。狗飼さんもありがとうございます。
あの、大したもん用意してないんですけど、もしよかったら。
郁李ィ、それ用意したのか? お前が?
あんたには関係ないでしょ。
んだとコラ、それが先輩への口のききかたか?
今日後閑サンの誕生日なんだから大きな声出すのやめてもらえます?
アハハ、郁李くん、嬉しいです。大事に食べますね。
それ、うちの近所で美味しいって評判らしいんで。後閑サンの口に合うかは分かりませんけど……。
そんじゃ後閑さん、週末の予定のついでに飲みに行きましょうや。ちょうど行ってみたい店があったんで。俺に出させてくださいよ。
そんな、悪いですよ、狗飼さん……。
こんなやりとりを聞こえないふりで乗り切り、そうこうしているうちに夜になった。郁李と狗飼は一足先に退庁し、残っているのは後閑と樒戸だけになった。後閑は仕事に集中しているようで、黙ってディスプレイの光を浴びている。やがて、後閑がコンピュータの電源を落とし、鞄に荷物を詰めはじめた。後閑が樒戸に目を遣る。
「それでは、チーフ、お先に……」
「旅行だ」と樒戸は出し抜けに、断固として言った。
「なに?」と後閑が怪訝な顔をした。
「今の事件が無事片付けば、来月あたりに四日、いや……三日くらいは休みが取れるはずだ。なんとか、俺の休みも合わせる。郁李や狗飼にも相談してみようと思う。なにか埋め合わせを考えないとな。お前にも多少協力してもらわないといけないとは思うが」
「おい、待て。なんの話だ?」
「旅行だよ。国内でいいか? いや、台湾くらいなら三日でも行けなくはないか……。でも、お前俺と台湾行きたいか? この時期だと北海道は寒いだろ。でも冬に沖縄ってのもどうなんだ。このあたりは検討が必要だが……」
「どうして旅行?」
「だって……」
そこで、樒戸は一番大切なことを言い忘れていたことに気がついた。後閑は訝しげに樒戸の顔を見つめている。
「お前、それは……」
突然、樒戸は異様な気恥ずかしさに襲われた。首筋がじわじわと熱くなり、手が汗ばむ。自分はなにか勘違いしていたかもしれない。
「旅行、行きたくないか?」
後閑がデスクの上に鞄を置いて樒戸に近づき、止める間もなく額に手の甲を当てた。
「熱でもあるのか?」
「俺は健康だ」
「お前、前風邪引いたときもそれ言ってたよな。早めに帰れよ。今日も電車だよな。送っていこうか?」
「違う、そうじゃなくて……」樒戸はじっとりした手のひらで鼻や口のあたりを擦った。「お前、今日誕生日じゃないか」
後閑が目を丸くした。
「お前、覚えてたのか?」
「覚えてたが、その、なにも用意できてない。色々考えてはいたんだが」
なにを言っても言い訳がましくなることに気づき、樒戸はまた嫌な汗をかきはじめた。
「去年、俺が水族館に誘ったら喜んでただろ」やや自信を失い、付け加える。「喜んでたように見えた」
「……それで、旅行か?」
単純すぎる、と樒戸は思った。去年が日帰りの遊びだったから今年は旅行。あまりにも単純な発想すぎる。樒戸はすべてをなかったことにしたくなった。そもそも、三十代半ばの男二人で旅行というのもどうなのだろう。今更かもしれないが。樒戸は後閑との正常な距離感を見失いつつある。樒戸はさりげなく深呼吸し、平静を取り戻そうとした。
「……酒のほうがよかったか? 今から頼めば、多分……一週間以内には……」
「いや、旅行がいい。お前と旅行に行きたい」
後閑が素早く遮った。
「お前が連れていってくれるんだろ?」
「……ああ」樒戸は頷いた。
「お前が行き先もホテルも決めて? どこで食事をするかとか、どこを観光するかとか……」
「ああ」
「へえ」と後閑は言い、そこで耐えきれなくなったように破顔した。三十半ばの男に対してそう言ってよければ、苺のたくさん載ったホールケーキを目の前にした子どものような、無邪気で眩しい笑顔だった。「お前が俺の誕生日祝いに、旅行」
「なに笑ってる?」
「嬉しいと人間は笑うだろ」
樒戸はなにか言い返そうとして黙り込んだ。
「嬉しいのか」
「お前、見ればわかるだろ。得意じゃないか。こっちをよく見ろよ」
「いいよ、わかったから」
「で、どこに連れていってくれるんだ?」
後閑は腕を組んで窓枠に凭れ掛かり、樒戸に向かってにっこりした。
「交通手段はお前の車? 電車? それとも飛行機?」
「それは……これから考える」
「楽しみだな」と後閑は指先で口元を撫ぜた。その表情があまりに嬉しそうだったので、樒戸は思わず口元を緩めた。手のひらで首筋を擦る。
「あのなあ、そんなに喜ぶなよ。お前、旅行なんか一人でしょっちゅう行ってるじゃないか」
「俺を喜ばせたかったんじゃないのか」
樒戸は端末の電源を落とし、かぶりを振った。いつもの草臥れたコートを取り、袖を通す。「このあと、空いてるか?」
「残念ながら、空いてるな」
「飲もうか」
後閑がくすくす笑った。「それも誕生日祝いのつもりか?」
「そう思いたければ思え」樒戸が肩を竦める。「ケーキでも買って帰るか。大きいやつ……」
「お前、そんなに食べられないだろ。それに、太るんじゃないか」お前が。
余計なお世話だよ、お前が全部食えばいい……と返しながら、ふと樒戸はまだ言っていなかった言葉に気がついた。
「後閑、誕生日おめでとう」
部屋を出かけていた後閑が振り返る。口元に微笑みを浮かべていた。
「言うのが遅いんだよ。待たせすぎだ」
後閑はくるりと踵を返し、一足先に廊下へ出ていった。それで、樒戸は慌ててその後を追いかけたのだった。
おわり