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    夜を背に 目を覚ますと、小田原だった。

     樒戸敬久はホームに棒立ちになり、パンタグラフを下げてゆっくりと動き出す終電を見送った。車庫へ向かうのだろう。さよなら。
     駅構内はがらんとしている。電光掲示板ばかりが煌々と、「本日の列車はすべて終了しました」の文字を無情に映し出していた。ひとまず、改札を出る。

     深夜一時である。
     実のところ、終電を乗り過ごして小田原駅に辿りついてしまう人間というのはそう珍しいわけではない。よって、駅前にはホテルや朝まで滞在できるカラオケルーム、ネットカフェの類が集まっており、迷える孤独な魂の持ち主たちは悔恨を胸に各々それらの店舗へと吸い込まれていくのである。宿泊代を惜しむのであれば、二宮駅まで歩いて始発に乗るという方法もあるが、大の男の足で迷わず向かっても三時間はかかるため、歩こうなどという蛮勇の徒は稀であろう。
     明日——既に今日だが、樒戸は非番であるから、この近辺で夜を明かすことは(嫌だが)可能だ。問題は別のところにある。
     樒戸は冷えきった手をコートのポケットに突っ込んだ。溜息を吐く気にもなれない。

     財布がないのである。考えるまでもなく、飲み屋に忘れてきたらしかった。樒戸は別段酒豪というわけでもない。正直気が進まない飲み会だったが、警視正に直接声を掛けられた以上断るわけにはいかなかった。
     財布はないくせに、警察手帳とスマートフォンだけはコートの内ポケットにしっかり入っていた。あとは、外ポケットに小銭がいくらか。
     十一月の深夜である。吐く息はまだかろうじて白くはないが、アルコールのお陰でいくらか火照っていた身体はとうに熱を失い、むしろその末梢血管拡張作用のために猛烈に冷えつつある段階にあった。
     樒戸は全身の運動器が健気にも小刻みな収縮により幾ばくかの熱を得ようと試みるのを感じながら──要するに震えながら、考えを巡らせた。チームのメンバーの顔を順に想起する。腕時計をもう一度確認する。一時十六分。樒戸はこの後に及んで躊躇っていたが、やがて意を決し、悴む手でスマートフォンを操作した。耳に当て、待つ。
     呼び出し音は三コールで途切れた。
    「後閑?」
    「どうした、樒戸」
     存外明瞭な声が返ってきて安堵する。眠っていたわけではなさそうだ。問題はここからだった。
    「その……今、小田原にいるんだが」
    「小田原?」
     訝しげな後閑の声が鸚鵡返しするが、すぐに得心したような調子になる。
    「終電を乗り過ごしたんだな」
     さすが、この同期は話が早い。思わず笑い出しそうになるが、それを声色に出さない程度の配慮を樒戸は持ち合わせていた。
    「そうなんだ。それで、実は財布を飲み屋に忘れたようで……」
    「そうか。あのへんは静かだしキャンプにはもってこいだな、じゃあおやすみ……」
    「後閑」思いのほか必死な声が出た。すぐにくぐもった笑い声が返ってくる。
    「小銭はあるか?」
    「ああ」
    「一時間はかからないと思うが、飲み物でも買って待ってろ」
     返事をする前に電話は切れた。樒戸はスマートフォンをポケットに仕舞うと、一番近くのベンチに腰掛けた。外気は相変わらず身を切るように冷たかったが、ぬるま湯のように胸中に押し寄せた安堵は眠気を引き連れてきた。樒戸はそのまま眠り込んでしまった。


    ***


     大抵の場合、後閑の計算は正しい。誰かの手の甲で頬を軽く叩かれ、樒戸は目を覚ました。のろのろと腕時計を見ると、二時七分だった。
    「異状死体を増やす気か?」
     レクサスである。いや、後閑だ。
    「そしたら、お前が俺の無念を晴らしてくれ」
     掠れた声でそう返す。後閑が座った格好のまま固まっていた樒戸をベンチから引き剥がし、レクサスの助手席に押し込んだ。強張った関節を動かすのは途方もない苦痛だ。
     温かい車内に乗り込んだ瞬間に、樒戸の体は震えるという仕事を思い出したらしい。反対側に回り込んだ後閑が運転席に乗り込み、ドアを閉めた。シートベルトの音。
    「温かい飲み物を買って待ってろと言った気がするけどな」
    「うん」樒戸は最低限文化的な返事に留めた。視線だけを運転席に送る。
     後閑は薄着だった。此方には目を向けず、視線をフロントガラスの向こうに投げ出している。その俳優のように整った横顔を眺めながら、樒戸は「助かった」と呟いた。
    「俺が起きてて命拾いしたな」
     同期の声には揶揄の気配がある。後閑の手がハザードランプを消し、ウインカーを出す。緩やかに踏み込まれるアクセル。
    「コンビニ寄るか?」
    「いい」
     カーオーディオは切られていた。エンジン音と、タイヤが舗装路を噛む音だけが深夜の車内に響いている。後閑の声はそれらの音に馴染んだ。
    「樒戸、たまには断れ」
     樒戸は返事をしなかった。
     足元に目を落とすと、塵ひとつないフロアマットの上に、なにか白く、小さく薄いものが落ちていることに気づいた。紙吹雪のような。黒い背景でそれは目立った。樒戸はぎこちなく身を屈め、気になるそれを拾い上げた。花弁だった。
    「後閑」
    「なんだ?」
    「花が落ちてる」
     少しの沈黙。
    「そうか」
     後閑の返事は簡潔だった。樒戸は頷いた。瞼が閉じかけていた。ここは安全だ、と樒戸は思う。
     後閑がまたアクセルを踏む。
     車は夜が明ける方角へ向かっている。

    おわり
    ledonis5 Link Message Mute
    2020/12/26 0:07:05

    夜を背に

    後閑と樒戸

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