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    ささやかなおふざけ「おめでとう、樒戸」
     後閑幸博がこれを言うのはもう今夜で三回目だった。酔っている。酔っているときは、同じ台詞を何回言っても許されるのだと聞いている。
    「スピード出世じゃないか。全警察官の上位七パーセントに仲間入りするわけだ。俺が先にお前に敬礼しなくちゃならなくなるってことか?」
     タンブラーを掲げると、斜向かいの位置に座っていた樒戸敬久が手を伸ばし、自分のグラスをぶつけた。乾杯はこれで五回目になる。後閑が自分用に買い求めたステンレス製の真空断熱タンブラーは、ハイボールを最後まで冷たいまま楽しむことができる。
     今夜は樒戸の昇任祝いという名目で、後閑の家で飲んでいた。三週に一度くらいはなにかと理由をつけて飲んでいるような気もするが、まあ今日はめでたい日だから、百光を開けてもいいし、山崎の十二年を開けてもよい、ということになる。おまけに明日は全休ときたもので、飲まない理由がなかった。
    「名ばかりだよ」と樒戸は笑った。「警部補の立場では課長は務まらないからな。的場さんの後押しだ」
    「謙遜するなよ。それでも試験には自力で合格したわけだろう」
    「いや、お前が協力してくれなきゃ無理だったかもわからんな」
     自分のグラスにウイスキーを継ぎ足しながら、樒戸がくすくす笑う。もとよりよく笑う男だが、酒が入るとことに機嫌がいい。
    「まったく、三十二歳で警部か。まだ上を目指せる。まあ、敵も増えるだろうが」
     うまくやれよ、と付け足そうして、僅かに自嘲的な気分が胸中に滲む。俺が言うことでもないか。今日は祝いの席だから、よくない感情は育つ前にハイボールで流し込む。
     樒戸は気づいたのか気づかなかったのか、後閑の手元を見ていた。グラスを持ったまま、小指で指し示す。
    「新しい時計か?」
     後閑は樒戸の目線を辿り、自分の手首に行き着いた。新品の時計が光沢を放っている。
    「これか。貰った」
    「へえ、いいじゃないか。誰に」
    「今付きあってる相手に」
    「あの二十七歳の薬剤師?」
    「いや、彼女とは先々月別れた」
     もともと眠たげな樒戸の瞼が半ばまで下ろされ、お前なあ、と言わんばかりの目つきになる。後閑は涼しい顔で往なす。
    「今年に入って何人目だ? 言ってみろ」
    「いいんだよ、円満に別れたんだから」
    「そういう問題か?」
    「そういう問題だろう」
     誤魔化すように、酒を煽る。酔いが回るにつれ注意が散漫になり、頭から透明な薄い膜を一枚ずつかけられていくような錯覚を覚える。この感覚は嫌いではなかった。後閑は笑った。
    「お前に貰った腕時計も捨ててないぞ、樒戸」
    「腕時計?」樒戸が怪訝な顔をした。「そんなものお前にやったっけ?」
    「警察学校のころに。使ってたやつが土壇場で壊れて、借りたんだったかな。お前、確かあのあと返さなくていいとか言ってそのままだ。そこに置いてあるだろ」
     後閑はベッドサイドテーブルを指した。樒戸が酒を持ったままソファから立ち上がり、見に行く。
    「ああ、これか。まだ動いてるのか?」
    「一番どうでもいい日にたまに着けてるが、全然壊れなくて困ってる。あれはどういうわけだ?」
    「前、水難救助訓練のときに外し忘れたまま泳いだんだが、それでも壊れなかったからな」
     樒戸は断りもなくベッドに腰を下ろした。グラスを空にし、サイドテーブルに置く。そこには濡れたグラスを置いてはいけないことになっている。跡がつくからだ。
    「そういえば」と樒戸が話題を切り替えた。「写真の紛失事件の話、聞いてるか?」
    「なんだ、それは」
    「殺人事件の現場写真だ。それも仏の写真ばかり、ときどき無くなるらしい。偶然失くすようなものじゃないだろう? ファイルから誰かが抜いてるんじゃないかって話だ。鑑識で噂になってる」
    「誰が。なんのために」
    「さあな」と樒戸がベッドの上にごろりと横になった。天井を眺めながら、ゆっくりと瞬きをしているのが見えた。「好きで、集めてるんじゃないか。死体の写真が好きな誰かが……」
    「趣味の悪い冗談だな。おい、樒戸、なに寝てる?」
    「眠くなった。泊めてくれ」
     後閑はやれやれとばかりに立ち上がり、樒戸に近づいた。
    「家主のベッドで寝るやつがいるか? お前はソファに決まってる」
    「固いこと言うなよ。俺の祝いの席だろう。どうせお前、毎晩ここで寝てるんじゃないか。たまには譲ってくれないか」
    「俺が俺のベッドで寝るのは当然だろうが」
     樒戸が寝返りを打ち、挑発的に笑った。この同期には珍しい表情だった。
    「そんなにここで寝たいなら、お前も横に寝ればいい。お前のベッドは広い」
     後閑は額に手を当て、呆れた素振りをした。
    「飲み過ぎだな、樒戸?」
    「なにを気にする必要があるんだ。俺はベッドで寝たい、お前もベッドで寝たい。いいじゃないか。誰も見てない」
    「そういう問題か?」
    「そういう問題だろう」
     唐突に伸びてきた腕にシャツを引っ掴まれ、後閑はたまらずバランスを崩した。手も突けずにベッドの上に倒れこみ、一瞬息が詰まる。空になっていたタンブラーが手から離れ、ベッドの下に音を立てて転がった。
    「おい!」
     樒戸が弾けるように笑った。
    「なにをするんだ、この酔っ払い」
     息を荒げて起き上がりながら、後閑は笑っている樒戸を軽く叩いた。ベッドの端に胡座をかいて座る。樒戸はしばらくの間小刻みに震えていたが、やがて笑いを収めて無言になった。疲れたように溜息を吐く。酔いのためか、樒戸の目は僅かに充血していた。樒戸は呟いた。
    「お前がいてくれてよかった」
    「またそれか。あんまり言うと有り難みが薄れるぞ」
    「本心だからな、後閑。まったく、最近は色々考えることがあって、疲れるよ」
    「素直に喜んでおけばいいだろうが」
    「昇任は嬉しいさ。別のことだ……」
     樒戸が目蓋を下ろす。そうすると、この男の顔はいつもよりずっとくたびれて見える。大人びてみえる、という言い方は三十二の男に使うにはおかしいか。
     そんな同期の姿を見ているうちに、後閑の中に、ふと子どもじみた悪戯心が湧き起こった。
     後閑は油断している樒戸の足首を掴み、脱げかけのスリッパを振り落とすと、親指で足裏を力任せに押した。樒戸が短い悲鳴を上げ、足を引っ込めようとしたが、後閑は許さなかった。存外素早く飛んできた右足の蹴りを押さえ込み、叩きつけられる枕を身を屈めて躱し、笑う。
     マッサージ程度に少し圧を弱めてやると、多少身体の力が抜け、樒戸は大人しくなった。顔を顰めて呻く。
    「痛い、だろうが……」
    「へえ、でも痛いだけじゃないだろう?」
    「後閑、お前……いっ」
    「この位置は胃か? はは、養生しろよ。余計な気を回しすぎだ」
    「お節介め」
    「どっちがだ」
     うう、とまた痛そうに呻いた樒戸は、アルコールとささやかな運動のために微かに上気していた。日に焼けていないと首まで赤くなるんだな、と後閑はどうでもいいことに気づく。樒戸が目を薄く開けて後閑を見た。
    「お開きにしよう。そろそろ本当に眠い」
     後閑は頷いた。そして樒戸の足を下ろしてやろうとしたが、そのとき、この男の足の小指の爪に、僅かになにか薄紅色のものが付着していることに気づいた。それは剥げかけの塗料のように見え、男の爪の上で甚だ異質だった。その色彩に、後閑はなにかが記憶の扉を弱く引っ掻くのを感じた。確かに、どこかで見たはずの色。だが、思い出せない。
    「なんだ、これは」
    「ん?」
     樒戸の常より眠たげな瞼は、閉じかけようとしていた。寝るな、樒戸。後閑は手で足の甲を打つ。痛、と気の抜けた非難が返ってくる。
    「なにか言ったか、後閑……」
    「なんでもない」
     そう答えた瞬間、後閑はこの奇妙な塗料のことを完全に忘れた。そして、新しい上司が今夜寝るためのシュラフを自分がいったいどこに仕舞い込んだのか、それを思い出すことで頭が一杯になってしまった。

    おわり
    ledonis5 Link Message Mute
    2020/12/26 0:20:13

    ささやかなおふざけ

    後閑と樒戸

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