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    五拍子で、あるいは五分程度の休憩 樒戸敬久がクロスワードパズルの右下のマスにちょうど「ト」の字を書き込んだとき、向かいの席に誰かが座った。樒戸は目を上げず、7番目の問題文を横線で消しながら「悪いな」と声を掛けた。紐付き封筒が雑誌の上にドサリと置かれる。
    「まったく、うちのチーフは人遣いが荒いんですから」
     返事もなしに封筒を開封し、樒戸はようやく後閑幸博の顔に視線を向けた。
    「二十分後に出よう。郁李の予想では、海堂はおそらく二十四分発ののぞみに乗る。俺もそれは確かだと思う」
    「じゃあコーヒーの一杯くらいは飲む時間があるな」
     後閑が後ろを振り返り、手を挙げて店員を呼んだ。ブレンドコーヒーを注文する。店内はほどよく人が入っていて、『枯葉』のアレンジ・ヴァージョンがごく小さな音量でかかっていた。資料を確認している樒戸に、後閑が尋ねた。
    「なにやってたんだよ。クロスワード?」
    「ああ。父親に押しつけられた」
    「父親ってお前の?」
    「他に誰がいる? 最近肺炎で入院したんだよ。暇だ暇だと言うから買っていったら、ちょっと難しすぎたらしいな。お前がやれってさ」
    「お大事に」
     樒戸は書類を封筒に戻し、ハトメに紐を巻きつけながら半目で後閑を見た。後閑が肩を竦める。
    「どうしたんだよ。いつにもまして眠そうな顔になってるぞ」
    「なにか失礼なこと考えてるな、お前」ボールペンの尻をカチカチと鳴らす。「俺にも父親くらいいる。特別仲がいいわけじゃないが」
    「別にそんなこと考えてない」
    「顔を見ればわかる」
     樒戸はそう言い、さっきまでかかりきりになっていた雑誌のページをもう一度開いた。ひとつ欠伸をする。
    「どうしても縦の十一番が埋まらない。思うに、出題に問題がある」
     ペンを回そうとし、失敗して取り落とす。拾い上げ、ページの隅にくるくると螺旋を描きはじめる。
    「これが『エスペラント』、『シナノガワ』だろ。こっちが『レウキッポス』だから……」
     ふーん、と言いながら後閑が問題文を読んだ。「なんだ、これ。八文字?」
    「外来語なのかそうでないのかすらわからん」
     樒戸が頬杖をついた。そうして目を閉じかけているあいだに、店員が後閑のコーヒーを運んできた。後閑はカップに口をつけ、ほとんど音を立てずにソーサーへ戻した。
    「寝てないのか?」
    「ん?」
     樒戸は片目だけ開き、後閑がコーヒーにミルクを加えるのを見た。
    「ああ……。昨晩三時ごろに病院に呼ばれた。ただの夜間譫妄だ。だが、あれは本当にひどいもんだな。騙し絵をひっくり返したみたいに人格を一変させ、どんな穏やかな人間もまるきり別人かのように見せかける。本当はどちらが仮面でどちらが素顔なのか、家族でさえわからなくなるんだ、そのときには。今すぐうちに帰る、ここにいたら殺される、警察に通報するぞ、なんて騒いだらしくてな。まったく、警察は俺だって感じだ」
    「いくつくらいだっけ、お前のお父さんは」
    「今年七十一……二か。晩婚だったから。こんなに早くとは思ってなかったが、あと五年もすれば施設とか探さないといけなくなるんだろうな。俺は、他に兄弟がいるわけでもないし……」
     それに俺もいつまで無事かわからないしな。そう付け加えかけ、樒戸はそれをやめた。口に出す必要のないことだ。後閑はそうか、とだけ言い、余計なことは言わなかった。ただ視線を硝子の向こうに遣り、問題の男が待合所から動いていないことを確認した。
     樒戸は腕時計に目を遣り、また頬杖をつくと、残りの七分が過ぎていくのを待った。自分のカップの底にはまだ少しコーヒーが残っていたが、既に冷めきっており、飲み干す気は起こらなかった。二杯のコーヒーは既に樒戸の胸にむかつきを与えている。
     そういえば後閑に両親の話をするのは初めてだったな、とまどろみかけながら考えた。樒戸の父親は典型的な昭和の企業戦士で、家庭では無口なほうだったし、樒戸はどちらかといえば内省的な子どもだった。だから父親よりもむしろ母方の叔父に懐いていた記憶はある。
     成人してから一度だけ、樒戸が選んだ店で父親と二人で飲んだ。それほど会話は弾まなかったが、健全と言える程度のやり取りはあり、少なくとも穏やかではあった。帰り際樒戸が会計をしようとすると、父親はそれを押しとどめ、草臥れた財布から全額を支払った。そして、別れ際にこう言った。
    「敬久、お前は一人で大きくなったんだな」と。
     父も母もあまり自分とは似ていない、と思う。今も昔も。一人で大きくなる人間などいない。だが、樒戸は自分が幼いころのことをあまり思い出せない。

     ふと後閑が立ち上がったので、時計を見ると長針は二十分の位置を指し示そうとしていた。硝子越しに、ターゲットの男が同様に時計を確認しているのが見えた。樒戸も腰を上げ、伝票を掴んだ。
    「先に行ってくれ、後閑」
     頷きかけた後閑が、ふと「あ」と声を上げた。
    「望雲之情、だよ」
    「なんだって?」
     樒戸は雑誌を閉じかけていた手を思わず止め、後閑を見た。
    「さっきのクロスワードの答えだ。ほら……文字数もぴったりだろ」後閑の長い指が升目を数える。「中国の故事だ。旅の途中で青い空に白い雲が一片ぽつんと飛んでいるのを見て、その下に住んでいる親を思い起こし、悲しむ……というたとえだな。『懐郷の念』、だけで思いつくか? 不親切だな、この問題文は」
     樒戸はクロスワード・パズルを覗き込み、頭の中で後閑の答えを合成した。後閑がいち早く鞄を掴み、歩き出す。その背中に声を掛ける。
    「懸賞が当たったら、お前にやるよ」
    「要ると思うか? お前の父さんに送ってやれ」
     樒戸は雑誌を鞄に仕舞い、慌ただしく会計に向かう。後閑の長躯は硝子戸の向こうで既に雑踏に紛れつつあり、感傷を誘う『枯葉』はいつのまにか『テイク・ファイブ』へと変わっていた。


    おわり
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    2021/07/23 23:32:21

    五拍子で、あるいは五分程度の休憩

    樒戸と父親

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