今日はピクニック日和「今度の休み、出かけようか」と言うと、キッチンの相模原涼が踊り出した。円やかな曲線を描く肢体が若い鹿のように弾み、爪先が軽いステップを踏みはじめる。樒戸は机の上に広げた二社の新聞記事を見比べているところだったが、その気配から相模原が近づいてくるのがわかった。背凭れへ手をかけ、振り向く。フライ返しを持ったままの相模原が嬉しそうに樒戸を見ていた。
「どこへ?」
「そう遠くへは行けないが……ゆっくりできるところ。ここのところ気候もいいし、晴れてたら屋外がいいかな。新宿御苑は?」
「ピクニックのお誘いってこと?」
「そういうことになるのか」
「そういうことになります」
相模原は断定した。二人の間でお馴染みの、ミュージカルの有名なナンバーを口ずさみながら、その場でくるりと回る。主人公の青年とヒロインが歌う、未来への希望に満ちた明るいデュエット曲だ。相模原が青年役のテノーレ・リリコを精一杯声を低めて歌い、一人二役を始めた。
「ほら、敬久さん歌ってよ」
「無理だ、歌えない。高すぎる」
「歌ってってば」
樒戸は仕方なしに合わせて歌おうとし、くすくす笑いを抑えられなくなった。
「ちゃんと火は止めたよな?」
「当たり前じゃない。まだお腹空いてないでしょ?」
相模原が樒戸の手を取り、立ち上がらせる。
「この時期だったら、きっとムクゲやスイセンが見頃だわ。温室のほうではベゴニアが綺麗に咲いてる……」
相模原が鼻歌を歌いながら樒戸を引っ張り、一緒に踊ろうとしはじめた。
「踊れないって」
「踊れる踊れる」
「涼……」
「私だって適当だもの。適当でいいじゃない」ラララ、と相模原が歌う。歌詞をよく覚えていないらしい。樒戸は諦めて、不器用に相模原と踊る。どうせ誰も見ていない。敬久さんからデートのお誘い、と相模原が替え歌した。樒戸は困ってしまう。
「どうして俺なんだ」と樒戸は尋ねる。
「今更すぎない?」樒戸を優しく振り回しながら、相模原が噴き出した。「何回も敬久さんのことが好きって言ったのに、その質問は初めて」
「君に一度も聞けなかった」
「そうね。だから答えられない」
「なあ、涼。君はこんなだったか?」
樒戸は立ち止まった。繊細な睫毛に縁取られた、黒目がちな瞳を覗き込む。睫毛はもう少し短かったかもしれない。二重の幅はもう少し狭くはなかったか。耳元の黒子は一つではなく二つだったような気がする。相模原が困ったように微笑んだ。樒戸は目を逸らした。相模原の嫋やかな身体を掻き抱き、鼻先を胸元に押しつける。その温もりと柔らかさはどこまでも記憶の通りだった。微かに伝わる息遣いと、鼓動のリズムでさえも。
物心ついたころから、樒戸は人の心を読むことが得意だった。息を吸って吐き出すように、自然とそれができた、望もうと望むまいと。今はなにも読み取れない。
「君が歪んでいくことが怖い」樒戸は相模原の肌に額を擦りよせた。溜息が唇を湿らせる。
「だから、私に土を被せてしまうの。標本みたいに、永久に変わらないままの私を仕舞い込もうとしてる。あなたは、まだ私について話さない。郁李くんにも、狗飼さんにも。後閑さんにさえ」
「誰も傷つけたくない」
「あなた自身が傷つきたくないだけじゃなく?」
「そうだ」樒戸は肯定した。「そうだよ。そうなんだ」
目を閉じ、眼裏に相模原の顔を思い描いた。相模原の手が樒戸の頭の後ろを撫ぜた。次に彼女がなんと言うのか、樒戸はわかっていた。
「私、敬久さんを許すわ」
「教えてくれ、涼」
次の瞬間、相模原の姿は掻き消えた。
ケトルが甲高い音を立てていた。樒戸は立ち尽くしたままその音を聞いていたが、やがてキッチンへ行き、コンロの火を止めた。家の中は静まり返っていた。あんまり静かなので、チューリップの色を数える子どもの声が、二つ向こうの通りから聞こえてくるほどだった。それから、樒戸は自分がなにをしようとしていたのか思い出した。冷蔵庫から卵と昨日開封したばかりの牛乳パックを取り出すと、焦げ気味のホットケーキを二枚焼き、時間を掛けてそれを食べた。皿はすぐに洗った。
濡れた手をタオルで拭っていると、ふと、なにかが樒戸の肩に触れたような気がした。目を上げると、青空の色調を孕んだ初夏の陽射しがカーテンを透かして忍びこみ、のんびりした休日の訪れを告げていた。
誘惑の六月。ピクニック日和だった。
おわり