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    KP、クリチケをください 扉をノックする音で、灰色の海に沈んでいたジェイデン・スタンフォードの思考は、意識の浜辺へと打ち寄せられた。控えめな音が、続けて三回。
     ジェイデンは扉の向こうの相手に聞かれないように溜息を吐き、机の木目をぼんやりと見つめた。ラテン語の参考書は広げてすらいない。
    「悪い、今取り込んでるんだ。後にしてくれないか」
     そう言ってから、これだけでは相手にあんまりだろうと時計に目を遣った。「十五分後以降に来てくれ」
     扉の向こうの相手はわずかに沈黙した。短い静寂が、ジェイデンの罪悪感をちくちくと刺激する。いいや、やはり今要件を聞こう、と思い直した瞬間、「では、またあとで」とカナリアが囀るような──これはとある監督生の言だ──声がドア越しに聞こえた。ジェイデンは反射的に椅子から腰を浮かせた。棚から適当な数学の参考書を引っ張り出して広げる。立ち上がり、「アドニス?」と声を張り上げた。足早にベッドの横を通り過ぎようとしたが、ふと備え付けの鏡を覗き込んで顔を確認し、ボウタイを直しながら扉へ向かう。
     扉を開けると、見慣れた小柄な背中が廊下を歩き出そうとしているところだった。なにかの包みを大切そうに抱えたアドニス・リリーが猫よりも素早く振り向き、驚いたように口を開いた。
    「取り込み中って……」
    「君なら、いい」
     ジェイデンは大きく扉を開いてみせた。アドニスは逡巡したようだったが、結局はジェイデンの体の脇をすり抜けて部屋に入った。包みをコーヒーテーブルに置く。包みを解くアドニスの華奢な両手を見ながら、ジェイデンは「それは?」と尋ねた。
    「糖蜜パイです。貰ったんですけど、俺ひとりでは食べ切れないので……」アドニスが机をちらりと見た。「お勉強中だったんですね」
    「どうせ集中力が切れるタイミングだったんだ。お茶にしようか」
    「お淹れします」
     棚から茶葉の缶を取り出すアドニスの後ろ姿を眺める。少し前までは、背伸びをして取り出していたように思うが、もしかすると多少背が伸びたのかもしれない。ジェイデンはぼんやりと、ベッドの中で成長痛に苦しんでいたころの自分自身の姿を、この美少年に重ね合わせた。ジェイデンの身長はすっかり頭打ちだが、アドニスはまだまだこれから伸びる盛りだろう。きっと靴の大きさはすぐに合わなくなるし、シャツの袖も足りなくなるはずだ。オーリンはもうじき、カナリアよりも精悍な鳥の名前を考え出さなくてはならないかもしれない。
    「ここのところの調子は?」と声をかける。「みんなの名前は思い出せたかい」
    「まだ少し」アドニスはカップを温めている。「でも、よくなってきてると思いますよ」
    「密室で一人になったりはしてないか? 寮監に事情は伝えてあるはずだが……」
    「兄さんが気にかけてくれてるから、平気です」
    「息苦しさは?」
    「大丈夫、ジェイデン」ちらりと振り返って少し笑う。
     ジェイデンは溜息を吐いた。まるで俺が過保護になっているみたいじゃないか。
     幾分慣れた手つきで紅茶を淹れ終えたアドニスがカップを運んでくる。個室で電気ケトルを使えるのは寮長の特権だ。ジェイデンがカップを並べるのを手伝うと、優秀な寮弟は糖蜜パイを切り分ける段に入る。パイ生地にナイフを入れる音が、サクサクと小気味よく響く。本当は糖質を制限しているのだが、今そんなことを言い出すのは野暮だとジェイデンにもわかっている。
     ジェイデンが椅子を勧めると、アドニスははにかみながら腰掛けた。自分が手をつけなければ、アドニスが食べられないだろう。デザートフォークで一口大に切り、口に入れる。瞬間、懐かしさが押し寄せた。ゴールデンシロップを使ったフィリングはねっとりと甘く、カラメルのように微かに香ばしい風味がある。大人に近づいたジェイデンの好みには少し甘すぎるが、今はこの甘さが嬉しかった。
     自分のぶんを上品につつきながら、アドニスが躊躇いがちに尋ねた。
    「気にしてるんですか? 卓開始前にクリチケを一枚も貰えてないこと」
    「そんなことない」と即答しかけ、ジェイデンは咳払いした。「ロンドンでなにかあったときのことを考えて、万全にしておいたほうがいいだろう?」
    「でも……俺のを寮長にあげるのに」
    「そういう問題じゃない」
     自分がアドニスの立場なら、多分同じことを言ったに違いない。だが、もしアドニスのクリチケを使って自分が生き残り、万が一のことがあったとしたら、俺は自分を責めずにはいられないだろう。それに、もしクリチケが余るのなら、伸びしろのあるアドニスに使ってほしかった。
     自分がさほど賢いわけでも、身体的に恵まれているわけでもないと知っている。ダイス目にも、卓にも関係のない部分でクリチケが配布されているなら、自分は自分なりの方法で努力するしかない。そうやってここまで来たのだ。
    「寮長なら、卓中にきっとすぐに稼げます」
    「アドニス、前回俺が出したファンブルの回数を知ってるかい? クリティカルを二回出す間にファンブルを六回出したんだ」それでも、あだむらさんほどじゃないな……。「とにかく、君が気にすることじゃない。俺は俺で、なんとかする。KPのミスを待つんじゃなく、なにか俺にできることで……」
     そう言いながら、ふとジェイデンの脳裏にある考えが閃いた。皿の上にフォークを置き、膝の上で手を組み合わせて尋ねた。
    「俺を慰めようと?」
     糖蜜パイを頬張ったまま、アドニスが固まった。ジェイデンを見つめながら、咀嚼し、飲み込む。アドニスの白く細い喉が上下するのを観察していると、彼はおそるおそる尋ねた。
    「糖蜜パイ、お口に合いませんでしたか?」
    「好きだよ」
    「どうしてかわからないんですが」と観念したようにアドニスが呟く。「こんなことを言うのは、もしかすると失礼かもしれないんですけど」
    「失礼かどうかは聞いてみてから決めよう」
    「さっき、ふと……」
    「うん」
    「なんとなく、ジェイデンが泣いてる気がして……」
     ジェイデンは呆気に取られ、アドニスを凝視した。密度の大きい静寂が、主の御告げを運ぶ大天使のように、二人の前をしずしずと横切った。ジェイデンは爆発的な笑いの発作に襲われた。
     体を折って笑っているジェイデンを、アドニスはしばらくの間唖然として見つめていたが、やがて真っ赤になった。
    「そ、そんなに笑うことですか!?」
     ジェイデンは笑いを収めようとしたが、アドニスの唇の端にフィリングがついているのを見て、ますます呼吸が苦しくなった。
    「末恐ろしいな、きみ」喘ぐように言う。「来年以降、きみに気のある後輩に言うんじゃないぞ」
    「揶揄わないでください。オーリ先輩じゃないんですから」
     なんとか息を整えたジェイデンはカップを傾け、ぬるくなった紅茶を飲んだ。アドニスは幾分むくれたようすで糖蜜パイの続きに戻った。
    「机の上の参考書が逆さまです」
    「逆立ちしながら読んでたんだ、トレーニングのために」
    「嘘!」
     ジェイデンはほほえみを浮かべた。本当は、アドニスがクリチケのことなどを言いにきたわけではないことくらいわかっていた。
    「あの……」アドニスの、明るいカンラン石のような瞳がジェイデンを見る。
    「俺と兄が……ああなったことで、あなたの心が傷つかなかったのはよかったことなのかもって、俺、ずっとそう思おうとしてたんですけど」
    「うん」とジェイデンはやさしく相槌を打った。
    「本当は、いいとか悪いとかじゃなくて」アドニスは言葉を切った。「多分、俺が嫌だったんです。自分勝手かもしれません。でも、痛みを感じないから傷ついていいわけじゃない。傷から身を守るために、やっぱり痛みは必要で……だから、寮長が悲しみを切り捨てるんじゃなくて、寮長が悲しまなくて済むように、これから俺が守るので」
    「うん」
    「とにかく……そういうことです」
     アドニスの声が尻すぼみになった。小さな手で顔を扇ぎはじめる。
    「ありがとう」とジェイデンは答え、まだ赤いアドニスの顔に手を伸ばした。腰を浮かせて口元のフィリングをちり紙で拭い、また椅子に掛け直す。
    「次に悲しくなったら君を呼ぶ」
     ジェイデンはそう言いながら、目を瞑り、自分の心の中を見つめた。そこには確かに悲しみがあった。それは広漠たる灰の海で、水平線は見渡す限りどこまでも続いていた。しかし、無限のグレイの階調の中に、今ジェイデンはイトスギでできた一艘の小舟を見た。寒々しい景色の中で、それは仄かに輝いていた。
     ジェイデンはほほえんだ。

    おわり
    ledonis5 Link Message Mute
    2023/03/16 12:46:54

    KP、クリチケをください

    REGlCiDEバレ 寮長と寮弟
    (ふざけています)

    more...
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