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    祝福でも呪いでもない
     隅田川花火大会といえば、まだ母親に手を引かれているような時分に家族で行ったことがある。あの日もひどい混雑で、五歳の樒戸は暑さと疲労で不機嫌だったはずだ。履き慣れていない草履で足は擦りむけていたし、なにより一緒に来るはずだった叔父が急な仕事だとかで──今なら無理もないとわかる──来られなくなったのがいけなかった。困り顔の父が人混みの中で樒戸を抱き上げ、肩車してくれた記憶はあり、フィナーレの花火だけはよく見えたように思う。多分綺麗だったはずだ。多分、というのは、そのときの気持ちをよく覚えていないからだが、子どもなんて案外そんなものなのかもしれない。覚えているのは、シャツ越しに汗のしみとおる父の肩の厚み、宥めるように見上げて笑う母の顔ばかりだ。
     その後は花火大会とは縁のない中学、高校時代を過ごし、花火といえば地元の友人に誘われて楽しむ手持ち花火か、空調の効いた室内でテレビ中継を眺める程度といったところであった。いや、大学生のころに一度、同期のグループに誘われて行ったこともあったか。
     どちらにせよ、それほど印象に残ってはいないということなのだろう。

    「後閑なら蘊蓄を並べてるところだな」

    ──知ってるか樒戸。この大会の起源についてはいろいろな説があって……もっとも有名なものは慰霊と悪病退散を目的として催された水神祭で、その際に花火を打ち上げたのがはじまり、という説だ。だがこの説は、現在では後の時代に作られた創作だとされていて……

    「本当は単に花火業者の広告がもとなんでしょ? テレビでやってたの見たわ」
     隣を歩く相模原が草履の底をアスファルトに軽くぶつけ、コロンと音を出した。
    「事実っていうのは大抵の場合、それほどロマンチックじゃないんだよな」と樒戸が答えた。「なんにでも物語があるわけじゃないってことに、みんな納得できない。だからより“それらしい”ものが好まれるってことだな」
    「私も物語って好きよ。子どものころよく空想したわ」
    「どんな話を?」
     相模原は答えず、樒戸のほうを見てにんまりと笑った。樒戸は瞬きをする。
    「浴衣着てきてくれたの、意外だったわ」
     樒戸は無意識に手をポケットにしまおうとして、浴衣では不可能な動作であることに気づいた。どうしても語調が言い訳がましくなる。
    「君がせっかくの花火大会なんだから浴衣じゃないと、とか言ったんじゃないか。言っておいて忘れたのか?」
    「もしかしてわざわざ買いに行ってくれたの? それとも持ってたの?」
    「わざわざ買いに行ったというわけじゃないが……近所で売ってたから」
     この返しはひどい、と樒戸は自己評価した。近所ってどこだ。職場からの帰り道に必ずショッピングセンターを通らなくてはならない規則があるわけでなし、自分の意志で売り場に足を運んだのは事実だ。
    「敬久さん、着付けとかできたんだ」
    「今は動画サイトがある」
     むっつりと答えると、相模原が声を立てて笑った。裸足の足の下で草履が鳴るような、軽やかな笑い声だった。
    「来年は手伝うわね」それとも、後閑さんに頼めるようになってるかしら。
     さりげない調子で付け足されたその言葉に、樒戸は答えを考えあぐね、結局は黙ったままやりすごしてしまった。
     隠しているわけではない。言い訳なら色々ある。学生ではないのだから、誰と付き合っただの、別れただの、いちいち報告する義務があるものでもない。はっきりとした展望が見えたら、然るべきときに、自分の口から伝えるつもりだった。まずは後閑に。それから的場に、狗飼に、郁李に。
     相模原は樒戸の沈黙を気にかけていないように見えた。やがて子どものように小走りにかき氷の屋台に駆け寄ったので、樒戸は財布を取り出した。同じ屋台で、自分にはビールを一杯買うことにする。たった八百円の買い物のために、長蛇の列に並んだ。腹の底に響くような音が鳴り響き、上空から光の飛沫が降り注ぐ。周囲の人々がどよめき、スマートフォンを掲げた。
    「並んでる間に花火が終わりそうだ」
     空を見上げる樒戸の袖を相模原が引く。
    「ねえ、敬久さん」
    「ん?」
    「褒めてくれないの?」
    「似合うよ」
     相模原の手が樒戸を小突いた。
    「ちゃんと見てる?」
     樒戸は相模原を真正面から見つめた。白地に向日葵柄の浴衣を着ている。樒戸は浴衣の柄に詳しくないからそれ以上のことは分からないが、抑制の効いた色や図案に品があり、好ましかった。髪型は普段とさほど変わらない、と思う。目に入るたびに指先で触れたくなる柔らかそうな後れ毛が、今は屋台の裸電球の光を浴びて輝いている。むすっとした表情を大袈裟に作ってはいるが、瞳には面白がるような光が踊っており、今にも笑い出しそうだ。
    「君といると緊張する」と樒戸は白状する。
    「敬久さんが?」
    「ときどき、なにを考えてるかもよくわからないし」
    「敬久さんが?」
    「俺をなんだと思ってるんだ。人間だぞ」
    「知ってるわよ。キスしよっか」
    「しない」
     行列が進んだので、樒戸は数歩前に出た。後について進む相模原が口を尖らせている気配を感じる。暗いから大丈夫よ、もう、こういうときくらい……。樒戸はさりげなく体を傾け、右手で相模原の左手を取り、繋いだ。あっ、と相模原が小さく驚いたような声を上げる。
    「誰かに見られたら言い訳できないな……」
     樒戸がぼやく。
    「子どもみたい。どうせならもっと恋人っぽい繋ぎ方がいいのに」
    「離そうか?」
    「離しません」
     うふふと笑った相模原が、樒戸の手を力強く握り返した。樒戸の手よりも華奢なつくりだが、力はそこいらの貧弱な男よりは強いだろう。郁李相手なら確実だ。
    「初めてはいつか好きな人と来られたらいいなと思ってたの」夢、叶ってよかったわ。
    「初めて?」
    「子どものときはここから遠いところに住んでたし、お父さんも忙しかったし……」
    「そうか」
    「学生のころは、毎年この日はバイト。忙しくて」
    「感心するよ」
     唐突に、樒戸は例えようもなく口惜しくなった。今から時間を遡って、小さな相模原の手をこうして握ってやりたかった。肩車もしてやりたかったし、かき氷を買ってやりたかった。高校生の相模原と肩を並べて歩きたかったし、大学生の相模原と手を繋ぎたかった。それはもうできないから、こうして大人の相模原の手を引いている。年老いて皺だらけになった相模原の手を変わらずに握っていられたら、と思う。
    「でもね……」
     相模原がそう言いかけた瞬間、花火が上がる。薄ぼけた都会の夜空に、大輪の光の花が咲き、消える。白。ピンク。次いで、緑。残響が騒めきを撫ぜるようにして、鼓膜を震わせる。相模原が顔を上げ、うっすらと唇を開けて花火を見た。誰もが足を止め、言葉を止めて、同じように空を見上げていた。
     樒戸だけが相模原を見ていた。
     また空がパッと光り、心臓を震わせるような音が尾を引く。相模原の額と頬とに落ち、瞳の中に宿る祝福された光の反映を見ていた。
     花火。音と音との間隙に、完全な静寂が生まれた。その瞬間、はじめからそうすることが決まっていたように、相模原が樒戸を見た。
     すべての時間が魔法にかけられ、永遠の中に引き伸ばされた。
     花火が上がる。


     俺はこの続きを知っている。暗くなった空を見上げて、涼がなんと言うのかを。俺がなんと答えて、涼がどんなふうに笑うのかを。
     この年の次の年に、俺と涼がここを訪れることはない。その次の年にも。俺は的場の正体に気づかない。涼は後閑を庇い、的場に殺され、俺は涼の額を寸分違わず撃ち抜くことになるだろう。後閑は一生消えない軛を背負い、すべてがこれまで通りではなくなるだろう。俺は自分のしたことを受け止められずに、『庭師』という虚像を生み出してしまう。そして、俺の弱さが相模原の身体を死後まで辱めることになるのだ。俺のために、郁李の妹の遺体は見つかることがなく、泉は殺される。郁李は俺たちに銃を向け、俺は涼をもう一度撃ち殺すことになるだろう。これが俺たちに用意された未来であり、過去であり、現在だ。
     夢の中でさえも、俺たちにとっては安息の場所ではないことを知っている。あの日俺たちは決定的に変質し、そしてそれを自ら受け入れたのだ。わかっている。ここにあるのは、幸福の脱け殻にすぎないのだと。手のひらに受けた光の残滓の、まぼろしのようなぬくもり。
     「なんにでも物語があるわけじゃない」。その通りだ。これは俺の物語じゃない、それでも俺はページを捲らなくてはならないのだ。
     祝福も呪いもない世界で、相模原涼を葬ると決めたのだから。


    おわり
    ledonis5 Link Message Mute
    2022/07/20 21:12:03

    祝福でも呪いでもない

    樒戸とNPC

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