春をいざなう アドニス・リリーが躊躇いがちな声を発したとき、ジェイデン・スタンフォードはちょうどランの花茎を剪定しているところだった。一昨年は水のやりすぎで根腐れさせてしまったが、今年は無事植え替えに漕ぎ着けられそうに見える。本当は昨日のうちに済ませておくべきだったのだが。
メルゴー・カレッジの敷地の奥に、忘れ去られた温室がある。あまり広くはないが、一人になりたい生徒にとってはうってつけの居心地のいい場所で、五年前にはジェイデンも一時の孤独(solitude)を求める生徒のひとりだった。老齢の生物学教師が長らくこの温室の管理を任されていたが、三年前に彼が退職してからはジェイデンがほとんど一人で面倒を見ていた。この教師は彼自身植物のような人で、スタンフォードの名を意に介さないばかりか、小さな温室の中の世界以外のすべてに関心がないように見えた。実際彼の授業は実に退屈なことで有名だったので、彼が黒板へ書きつけるチョークの音が耳に届くほど教室が静かだったことは、ジェイデンが記憶する限り一度もなかった。
ぶん、と音を立ててマルハナバチが鼻先を横切り、ジェイデンは鋏をそのままに軽く首を振った。春の花の送粉者(ポリネーター)だ。角張ったドームに嵌め込まれた硝子は多少土埃に塗れてはいるが、夏には強すぎる陽射しを拡散し、冬は低い太陽を集めて温帯から熱帯の植物たちを温める。今は春真っ盛りの温室は、青々とした生命の歓びに満ちていた。
「咲き終わった花を放置しておくと、病気のもとになるんだ」とジェイデンは出し抜けに説明し、また別の茎をパチリと切り落とした。「名残惜しいようだが、美しいうちに断ち落とさなくては」
「あの」とアドニスが再び遠慮がちに言った。「寮長だったなんて知りませんでした」
「あのときはまだ、寮長じゃなかったからね。それに、君もまだここの生徒じゃなかった」
ジェイデンは剪定鋏を脚立の上に置き、振り返った。
「よく迷わずに来られたじゃないか、アドニス。それとも、また迷子?」
アドニス・リリーは未だ温室の入り口で立ち尽くしたままだった。
「迷子じゃありません。他のどこにもいなかったから。スタンフォード先輩、あなたを探してたんです」
「君がリリーの弟だというのは知らなかったな。これからは彼をフレデリックと呼ばなくてはいけなくなる」
言われてみれば確かに似てるかもしれないな、と言い、ジェイデンはアドニスをしげしげと眺めた。
美しい少年だ。神話の一場面を描いたフレスコ画からそのまま抜け出してきたような。陽光に透き通る繊細なプラチナ・ブロンドの髪、咲き染めたばかりのばらを思わせる唇、琺瑯のように滑らかな肌、幻の中を揺蕩うような薄荷色の瞳。成長途上の肉体は華奢で、瑞々しい若木のようだ。“アドニス”、そして百合の名を冠するに相応しい。目立つ容貌は、良くも悪くも関心を引き寄せる、入学式の日にエドワーズたちが興奮したように捲し立てていたのは彼のことだったに違いない。見たか、まるで天使だ、ありゃあ砂糖菓子だよ……。
「なぜ俺を探してた?」
「それは、あなたのファッグだから、あなたがそう決めたから……」アドニスは戸惑ったように答え、ジェイデンの側へ歩み寄った。ジェイデンは再び剪定の続きに取りかかった。
「その、俺はなにをすればいいですか?」
「好きにするといい。なんでも」
「ええと……」
「じゃあ、これを」ジェイデンは片手で霧吹きを押しつけた。「ポンテローザを頼むよ」
「ポンテローザ?」言われるがまま霧吹きを受け取ったアドニスが、目を白黒させた。
「そこの、檸檬の木だ。冬には大きな実をつけるから、楽しみにしているといい。ハダニがつきやすいから、定期的に葉の裏を霧吹きで……」
そこでジェイデンはアドニスに目を遣り、彼の表情を見て微笑んだ。美しい顔に浮かんでいたのは、ごく素朴な、少年らしい表情だった。アドニスは尋ねた。
「どうして俺をファッグに選んだんですか」
ジェイデンは首を傾げた。まさにそれは、ジェイデン自身にとっても疑問だった。
「そこが俺にもわからない。実際、俺はファギングというやつが嫌いなんだ。俺自身が一年生のころ、うまくいかなくて嫌な思いをしたからね……」
「先輩にそんなころがあったなんて、想像できませんね。俺とは違う人、みたいだから」
「もちろん、君はどの人間とも違うだろう。他のどんな人間ともね」
ジェイデンは意図的に話の焦点をずらした。
「この温室は手がかかる。一人で見るには少し広いし、俺は来年卒業だ。誰でもよかったのかもしれないし、君が植物の世話が得意かどうかは、さしたる問題じゃなかったかもしれないな。でも、君がここに入寮したことには運命的なものを感じている。アフロディテの寵愛を受けたアドニスのことを君も知ってるだろ」
アドニスは没薬の木の幹から生まれ、冬に殉じて死に、春に再び目覚める。繰り返し。
「古代ギリシアでアドニスの葬儀に使われた木が、糸杉だ。彼は植物の象徴で、アドニスの死、つまり植物の枯死を嘆く祭に、葉の落ちない常緑の糸杉が使われた。だから、糸杉は生と死に跨るシンボルなんだ。君がサイプレス・ハウスに入寮してくれて嬉しいよ、アドニス」
ジェイデンは右手を差し出した。年中オールを握っているせいで皮が分厚くなった、大きな手だ。ほとんど大人の手。その手を、ひとまわり小さな白い手が握った。花から花へと飛び回っていたマルハナバチがアドニスの肩にひと時留まり、すぐに飛び去っていく。ジェイデンはこの温室にまだ百合はないと気づく。
春。匂い立つような春が、明るい温室の午後を満たしている。
おわり