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    世界で一番平和な夜 年の瀬だからか飲み屋は混んでいる。壁の薄い個室なものだから、隣からは楽しそうな男女の喧騒が響いていた。一際声の大きい誰かが笑いを取ったらしく、どっと沸き立つ。この世になにも案ずることはないと心から信じているような、あっけらかんとした笑い声だった。何処からともなく拍手が湧き、誰かが歌い、また笑い声に呑まれる。平和で、心地よいざわめきだった。
     口を覆う間もなく欠伸がまろび出た。狗飼がお品書きの冊子を畳んで脇へやり、笑った。
    「そろそろお開きにしますか?」
     んん、と樒戸は咳払いした。
    「いいや、まだ……」
     樒戸はすっかり汗をかいたグラスにのろのろと手を伸ばし、幾分薄まったウイスキーを呷った。喉を滑り落ちる冷たい酒が、粘膜を焼くような灼熱感を生み、ぼやけがちな意識に僅かな覚醒をもたらす。
    「無理せんでくださいよ。俺も三人を運ぶのは骨が折れますから」
    「そんなに弱くない。お前に迷惑は掛けないよ。今夜は楽しく酔えているから、なんだか勿体なくて」
     横に突っ伏している後閑の腕を、樒戸は肘で押しやった。
    「まったく、幹事が潰れてたら世話ないじゃないか……」
     二人で飲んでいるとき以外で後閑が酔い潰れたのは実に久し振りのことだった。後閑の寝顔など見慣れているが、この男は眠ると、きりりとした眉の精悍さや鋭く切れ長の目の冷ややかさが和らいで、やや無邪気な印象を帯びる。顔を横向け、頬を卓にぴったりつけたまま、後閑は微動だにしない。きっと後で首の痛みに悩まされるはずだ。
     郁李は壁にもたれ掛かって眠っている。眼鏡は外され、重なった皿とグラスの間に放り出されていた。伸びすぎて持て余しているような手足は、今は壁と卓の間で折り畳まれ、少し窮屈そうにも見える。それでもいつもより血色のよい唇から漏れる寝息は、まるでねぐらの中で安心しきった動物のようにやすらかだ。樒戸の目の中に、郁李巧は実際よりも幾分幼い姿で像が結ばれた。
     ぼんやりと郁李の姿を見ていると、「こいつが酔っ払ってるところ、初めて見ましたよ」と狗飼が言った。狗飼のほうへ目を遣ると、彼も同じようにこの歳下の同僚を眺めていた。狗飼は樒戸の視線に気づかない。顔のケロイドに覆われていないほうの側が樒戸に向けられており、大きな傷跡に引き攣れてはいても、十分柔らかい横顔に見えた。狗飼が今自分自身の浮かべている表情に気づいているのか、樒戸は尋ねてみたくなった。
    「ハリネズミみたいなやつですからね。目をかけてやっても、なかなか懐かない。かわいくないやつですよ」
    「そうかな」
     樒戸は頬杖を突き、口角を緩めた。
    「俺がこいつくらいの頃は、こんなの許される環境じゃあなかった。樒戸さんだってそうでしょう。きつい扱きがあって、多少は体を張って、そりゃあときには腹が立つこたァありますけどね、それでもへこたれずにやってりゃ認めてもらえて、かわいがってもらって……それが社会ってやつじゃないですか。みんなそうやって生きてきた」
    「うん」
    「こいつはそんなの清々しいくらいに無視しやがる。まあ、実際、むかつきますよ。時代ってやつなんですかね」
     狗飼の手が郁李の眼鏡を取り上げ、存外に優しい手つきでつるを折り畳んで、机の上に置き直した。郁李はぴくりともせず、寝息を立てている。狗飼はそのまま、三つ編みに手を伸ばしかけ、自分でも驚いたように指を引っ込めた。
     樒戸は笑った。
    「郁李のことが気に食わないか?」
    「いや、正直……」
     狗飼が首を横に振った。
    「嫌いじゃない。こいつは愛想はないけど、性根は優しいやつなんだなって思いますよ。優しくて、直向きだ。危なっかしいですが、羨ましくもある。俺ァもうとっくに仕事として割り切る事に慣れちまったんで、ああいう青さは眩しいですよ」
     樒戸が手を伸ばしかけるのを断り、狗飼が自分の猪口に手酌で日本酒を注いだ。「樒戸さんもどうですか」と勧められ、じゃあ貰おうかな、と店員を呼ぶ。すぐにやってきた店員が、狗飼の火傷にぎょっとする。狗飼も樒戸もこんなことは慣れっこだから、意に介さずに新しい猪口と、つまみの追加を注文する。
     日本酒を入れると更に気分がよくなった。ほどほどに耳が遠くなり、雲の上を歩くかのようだ。経験上、水を飲むことさえ怠らなければあと一時間は上機嫌を保っていられるはずだった。
     散漫になりがちな意識が、ふと視界の端に違和感を捉えた。郁李が薄く目を開いていた。樒戸はさりげなく狗飼のほうへ視線を戻した。少し考え、口を開く。
    「お前も、今夜は随分素直に褒めるじゃないか。それを本人の前でも言ってやればいい」
     樒戸は瞼を半ばまで下ろし、揶揄するような表情を浮かべてみせた。ふは、と狗飼が笑い、手を大袈裟に顔の前で振った。
    「嫌ですよ、小っ恥ずかしい。褒めるのは樒戸さんと後閑さんの担当でお願いします、俺は憎まれ役がちょうどいいですよ」
    「そうか? 喜ぶと思うんだが」
    「調子に乗りますからね」
     そうかな、と樒戸はまた言った。そうですよ、と狗飼。また手酌で酒を盃に満たし、まだ半ばまで入っている樒戸の猪口にも、なみなみと縁まで注ぎ足す。動作がすっかり緩慢になっている樒戸には止める暇もない。狗飼が独白の調子で零した。
    「……俺みたいな“慣れちまってる”刑事が取りこぼすようなもんも、あいつなら掬い上げられたりするのかもしれませんね。育ち方間違えなけりゃ、良い刑事になります」
     樒戸がもう一度郁李のほうに視線を配ると、既に郁李は瞼を下ろしていた。樒戸は思わずにこりとしそうになり、慌てて表情を整える。明らかに、郁李は目を覚ましていた。樒戸は目を伏せ、溢さないように慎重に自分の猪口を持ち上げた。
    「私たちは良くも悪くも組織に染まりすぎたからな。そうでなければ生きていけなかった。それを後悔してるわけじゃないが、郁李を見ていると、私もときどきはっとさせられるよ」
     聞かれているとなると、自分もやや気恥ずかしくなる。まあ、こんなところで話す内容でもないか、などと付け加えると、狗飼が不思議そうに首を傾げた。
    「確かに危なっかしいところはあるが、お前が見ていてくれると安心だ。郁李もああしてお前に噛みついてはいるが、本音では感謝していると思うよ……」
     そうだろ、郁李。
    「そんなタマじゃないと思いますけどね。まあ、ふらふらしてたら首根っこ掴んで引き戻しまさぁ」
    「頼もしいよ、狗飼巡査部長」
     景気良く猪口を空にする狗飼の向かいで、樒戸は時間をかけて日本酒を舐める。不意に、狗飼が言った。
    「後閑さんとは、変わりないんですね」
    「ん?」
    「色々、あったでしょう」
     ああ、と樒戸は曖昧な返事をする。こう見えて案外弁えている狗飼にしては、大胆な切り込みだった。この男もそういうことを気にするのか、と樒戸は微かに意外に思う。それはそうか。樒戸はこっそり爪先で後閑の膝をつつき、確かに寝ていることを確かめた。
    「大丈夫だよ。まあ、付き合い長いからな」
     狗飼が尋ねる。
    「警察学校時代から、なんでしたっけ」
    「ああ。同じ班だった。すごかったんだぞ。六ヶ月間で、私が後閑に勝てたのは、実のところ射撃訓練だけなんだ……」
    「本当に?」狗飼が笑う。本当に、と樒戸が繰り返す。
    「私は、ほら、そんなに器用じゃないだろう。後閑に色々教えてもらったし、練習にも随分付き合ってもらった。案外世話を焼くのが好きなんだな。こいつほど私にワッパをかけられたやつはいないと思うよ」
     樒戸はなんとはなしに布巾を手元に引き寄せ、机の上に溢れていた醤油の跡を拭った。
    「実際、後閑は同期の誰よりも早く希望の二課に配属されたからな。お互い、忙しくなったよ。その後は、お前もきっと噂で聞いているだろうが……」
     狗飼が頷いた。
    「それで、零課に推薦した?」
    「推薦したってほどのことはしてない。私はまた後閑と一緒に仕事がしたかった。そう、的場……に伝えただけだ」
     独特の沈黙が通りすぎた。また、壁の向こうからどっと笑い声が響く。狗飼が躊躇いがちに口を開いた。
    「まったく知りませんでした。相模原のこと」
    「隠してたからな」
     樒戸は微笑んだ。左手に嵌った指輪を、指先でなぞる。
    「言っておけばよかったのかもしれない、みんなに。今でも……ときどき思うよ。なぜ気づけなかったのだろうと。後閑のことにも、的場のことにも」
    「そんなの、仕方なかったことです。相模原だって……」
    「分かってる」樒戸はやや語気を強め、遮るようにした。
    「たらればの話に意味などない。ただ、そう思う、というだけだ。そう思うんだ。起きてしまったことが仕方ないことなら、考えてしまうことも仕方がない。理屈じゃない」
     狗飼は沈黙し、少しの間をおいてから頷いた。そして、尋ねた。
    「戻りたいですか?」
    「お前はどうなんだ、狗飼」
     間髪入れずに尋ねかえすと、狗飼は戸惑ったように右手を持ち上げ、無骨な指で顎まで広がるケロイドの端を引っ掻いた。樒戸は、自分の薬指の指輪を手持ち無沙汰に回しながら、その指先を目で追っていた。
    「わかりません」
     狗飼は答えた。
    「この三年間で……俺たちは一度全部がめちゃくちゃになった。完膚なきまでに叩き壊されて、失われたものがたくさんあった。それは、もう戻ってこない」
    「そうだな」
     狗飼は、郁李のほうへもう一度視線を向けた。後閑にも。
    「でも、四年前にはなかったものが、今はあるような、そんな気がします。それはそれで、間違ってない。正しい変化、なんじゃないかと」
     そう言ったあとで、狗飼は急に我に返ったように、照れ臭そうな素振りをした。潰れ気味の耳を掴み、気を紛らわすように自分で揉む。
    「なんか、意味の分からんことを言ってますかね? 俺は。はは、酒が入るとだめですね……」
    「いいや」樒戸は答えた。「私もそう思う」
     そう言う自分の声を自分の耳で聞き、樒戸は納得した。そして、自分が笑っていることに気づいた。
    「私もそう思うよ、狗飼」
     今度の沈黙は心地よかった。酒精が指先まで血を巡らせ、仄かな温かさをもたらしていた。今ならなんでも言えそうな気がした。樒戸は溜息を吐き、ゆっくりと瞬きをした。
    「お前たちは、私には勿体無いくらいの部下だな」
    「樒戸さんだからついていこうと思うんです、俺たちは」
     なんでも言えそうだ、というのはどうやら嘘だったらしい。樒戸は猛烈な気恥ずかしさに襲われ、思わず笑い声を漏らした。なんてことだ。顔どころか首まで赤くなっているかもしれない。
    「お前、そんなこと言う柄だったっけ」
    「ちょっとそりゃないですよ、樒戸さん。酷いじゃあないですか。今のはそういう流れだったでしょう、これァ裏切りですよ」
     狗飼も声を上げて笑った。うん、そうだな、悪かった。私もお前が大好きだよ、狗飼。
     いつまでも笑っている樒戸を他所に、狗飼が立ち上がった。やっぱり、この男は身長の割に大きく見える。
    ──後閑が俺の両腕なら。
     樒戸はぼんやりと考えた。
    ──郁李は俺の目だ。遥か遠くまで見渡せる、叡智の目。ならば、狗飼は俺の脚だろう。しっかりと地に足の裏をつけ、一歩ずつ踏みしめて歩く。
     そして、相模原涼は樒戸の心だった。それは三年前のあの日に永遠に失われた。でも、彼女がいた場所は、けっして空虚になったわけじゃない。暖かく脈打つなにかが、今確かにそこを満たしている。
     狗飼が樒戸に声をかけた。
    「そろそろ店が閉まりますよ。幹事が潰れてますが、どうします?」
    「順当にここは私が払っておくよ。ま、年の瀬だからな」
    「ご馳走様です。俺、タクシー呼びますね」
     そう言って出て行こうとする狗飼を、樒戸は呼び止めた。
    「狗飼、二人を片付けたら、もう一軒行こうか」
     狗飼は振り返り、驚いたように尋ね返した。
    「大丈夫なんですか?」
    「大丈夫じゃなかったら、お前が家まで届けてくれると思ってるんだが」樒戸は首を傾げた。「だめか? まだ帰りたくない」
     狗飼は少しの間ぽかんとしていたが、やがて顔をくしゃくしゃにして笑った。
    「樒戸さんに誘われちゃあ、断れないっすね」
     狗飼の広い背中を見送り、郁李のほうに目を遣ると、またすっかり眠りこんでいた。どこまで聞いていただろう、と考え、何度目かも分からない笑いを漏らす。別にいいか。後閑はもうずっと寝ている。頭を壁につけると、微かに食器を片付ける音が聞こえた。隣の部屋の宴会は、いつのまにかお開きになったらしい。
     除夜の鐘はまだ鳴らない。

    おわり
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    2020/12/31 21:18:47

    世界で一番平和な夜

    狗飼と樒戸 零課忘年会

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