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    愛は生きている「なんか、いいなあ」
    「なにが?」
     樒戸は振り返らずに尋ねた。スリッパの音がして、背中が暖かくなった。
    「敬久さんがキッチンに立ってるところ。お嫁さんを貰った旦那さんってこんな気持ちなのかしら」
     逆だろう、と言いかけて、樒戸はほほえんだ。相模原の華奢で嫋やかな、それでも同年代の女性よりも幾分荒れた手が腹のあたりに回る。その薬指に、新しい指輪が嵌っている。
     樒戸は木べらを鍋の縁にコンコンと当てると、コンロのつまみを捻り、一旦火を止めた。飴色になった玉ねぎの甘く香ばしい匂い。樒戸が人に振る舞うことのできる、唯一の料理がカレーだった。
    「たまにはね。君ほどうまくは作れないが」
     鍋の中にじゃがいもと人参を放り込む。少し大きかったかもしれないな、と樒戸は思った。まあいいか。どうせ、自分の作るカレーはいつもじゃがいもが崩れてしまうから。本当は野菜に火が通るのを待つべきなのだが、面倒になって、すぐに鶏肉を追加する。
     視界の右下から、突然白いものが現れた。
    「ねえ、これ見て」
     花だった。白い花弁が瑞々しく重なりあい、キッチンの照明を淡く透かしながら樒戸の鼻先で揺れた。炒めた食材の香りに混じり、生花の甘く青く、かすかに鼻を突くような芳香が届く。
     樒戸は火を弱め、相模原のほうを振り向いた。色白の頬の輪郭を丸くして、相模原ははにかむように笑っていた。瞼にさらりと零れかかる髪のひと筋を、樒戸は指で掬いあげてやりたいと思う。
    「カーネーション。帰り道のお花屋さんで綺麗に咲いてたから、つい買ってきちゃった」花瓶、あったっけ?と相模原が首を傾げる。
    「カーネーション? ああ、母の日に贈る……」
    「それは赤のカーネーションでしょ。白のカーネーションの花言葉はまた違うんだから。『尊敬』とか……」
     樒戸は濡れた手をタオルで拭った。
    「へえ。そんな花言葉、どこで覚えるんだ?」
    「教えてもらったのよ」
    「誰に」
    「あれ、気になる?」
    「気にならない」
    「残念」と相模原が口を尖らせる。こんなときは、少し子どもっぽく見える。昔から、相模原はむしろ大人びて見える女性だった。優しく包み込むようでもあり、ときに強かで、しなやかな女。初めて出会ったときのことを樒戸は覚えてはいない。高校生だったのだという。今となっては、思い出せないことが少し口惜しい。
     あっ、敬久さんまた裸足だ。冷たいじゃない。スリッパを脱いだ相模原がちょんちょんと足先に触れる。
    「花瓶の代わりになるような空き瓶があったと思う。ちょっと、探してみるよ」と樒戸は言い、コンロのほうに向き直って鍋の中に水を追加した。真っ白な蒸気が立ち上り、前髪を湿らせる。口元に笑みを浮かべながら、樒戸は尋ねる。
    「どうだった、今日の墓参りは」
    「うん」樒戸の横から鍋を覗き込みながら、相模原が答えた。
    「お父さんとお母さんに、昨日のこと、報告してきたわ」
    「昨日のこと?」
    「ようやく敬久さんにプロポーズされたって。遅すぎよね、って。でも、すごく嬉しくって、天にも昇る心地だったって」
    「そう」
     樒戸は鍋を掻き回した。左手でコンソメのブロックを鍋に落とし入れる。溶けるのを待たずにカレールーの箱を探っていると、相模原が笑った。
    「敬久さんでも赤くなること、あるんだ。昨日は暗くてよく見えなかったから、嬉しいわ」
     樒戸は顔を横向け、笑う相模原の唇に口づけた。朗らかな笑い声が止まり、ようやく煮えはじめた鍋の控えめな音だけが、やさしくキッチンを満たす。樒戸はゆっくり唇を離すと、「次は、一緒に行ってもいいか?」と尋ねた。
    「うん、来て」相模原が肩に頬を擦り寄せた。「ねえ、敬久さん」
    「ん?」
    「好きって言って」
    「昨日言ったじゃないか」
    「言ってない。『結婚してくれ』と『もう少し待っててくれないか』しか聞いてない」
    「そうだったっけ」
     敬久さん、と相模原が咎めるように言った。その唇が動き、なにかを伝えようとする。


     目が覚めた瞬間、混乱した。
     午前六時のアラームが鳴っていた。樒戸は頭を擡げ、手のひらで瞼を擦ると、ぱしりと時計を叩いてしつこい目覚まし音を消した。
     久々に、悪夢以外の夢を見た。
     カーテンの隙間から漏れてくる早朝の日差しの眩しさに目を瞬かせ、樒戸はむくりと上体を起こした。ひとつ向こうの通りからは、もう車が行き交う音がかすかに聞こえはじめている。
     ベッドの隣は空虚だった。この空虚にも随分慣れた。
     仕事の習慣で、随分早い時間に目覚ましをかけてしまったらしい。もう少し微睡んでいられたはずだが、冷たい水で顔を洗うと、覚めかけの夢は眠気とともに指の間を通り抜け、排水口へと流れていった。
    ──あのとき、結局言ったんだったかな。
     記憶を念入りに探ってみても、よく思い出せなかった。分かってくれていると思っていたからあまり言葉にはしなかった。たくさん言っておけばよかった、と今では思う。相模原のためではなく、自分のために。
     樒戸は紅茶のための湯を沸かすと、戸棚を開け、三日前に部下から貰ったカロリーメイトを発見した。誰も咎める人間がいないので、これを簡単な朝食に代用する。カロリーメイトを齧りながら、時計を眺めた。九時になれば、花屋が開く。いくら怠惰になったとしても、それまでに洗濯機を回して、掃除機を掛けるくらいまでは済ませられるはずだった。



     早起きした休日にありがちなことで、突然思い立って本棚の整理など始めてしまい、結局家を出るのが十時になった。平日のラッシュアワーを過ぎて、車両内は空いていた。なにかイヤホンで音楽を聞いている大学生風の男と、広げた新聞を膝に置いて眠りこけている帽子の中年男、リクルートスーツの若い女、それにスマートフォンを弄ることに熱心になっている二人組の少女の他は誰も座ってはいない。
     新しく乗り込んできた親子連れが、樒戸の隣に座る。四歳くらいの少年が、座面に上がるなり反対向きに膝をついて、窓の外を眺めはじめた。少年の靴が樒戸の膝にぶつかるのを見て、若い母親が慌てたように謝罪した。
    「大丈夫ですよ」と樒戸はほほえんでみせた。樒戸は少年の横から窓を振り向き、「なにか面白いもの、見えるかい?」と尋ねた。せんろ、と少年が答えた。あと、でんしゃ。一馬身ほど離れて、急行列車が並走している。急行列車は一瞬こちらに並んだが、すぐに速度を上げ、こちらを追い抜きながら向こうへと逸れていった。
     やがて、電車はスピードを緩め、駅のホームへと滑り込んだ。
     樒戸が立ち上がると、先程の母親が頭を下げた。
    「ほら、なおくん。バイバイって」
     母親に促され、「なおくん」はにこりともせず、無言で手を振った。樒戸は手を上げて笑い返し、下車した。
     子どもは笑わない、と樒戸は考える。点字ブロックを踏みながら。笑顔は無邪気さの象徴ではない。相模原の屈託のない笑顔の裏にいつも孤独があったことを、誰も知らなかっただろう。零課と自分を別にすれば、相模原にはなにもなかった。
     家族を作ってやりたかった。もう少し自分の決断が早ければ、籍さえ入れていれば、そうなったはずだった。相模原も自分も子どもにはなりきれず、自由に生きるには多くのものが見えすぎていた。三年前、相模原ではない死体が世界から隠されるようにひっそりと葬られたとき、樒戸は相模原のなんでもなかった。夫ではない。家族ではない。ただの上司だった。家族でなければ、骨壷を持ち帰ることもできない。悲嘆に暮れる部下たちの前で、どうしてすべてを打ち明けられただろう。相模原と樒戸の間にあった温もりは、相模原涼の、否、郁李葵の骨とともに冷たく暗い地中へと葬られた。歪められた記憶の一部とともに。



    「すみません」
     花屋の入り口で声を掛ける。小さい花屋は、二人客が来ただけでいっぱいになってしまいそうに見える。エプロンをつけた四十がらみの女性が、髪を纏め直しながら奥から現れた。溌剌として小柄なこの店員は、いつ見ても随分若く感じられる。
    「ああ! 月初めにいらっしゃるのは珍しいですね」
    「今は仕事が休みなんです。それで。いつものを何本か、見繕ってください」
    「はあい」
     店員が白い花を選び、手際よく花束に纏めていく。
    「妹と話してたんですよ。毎月同じ花を買っていく男の人がいるって。奥様への贈り物、とかですか?」
    「いや、まあ……」樒戸は曖昧な笑みを浮かべ、言い淀んだ。この反応を照れと解釈したのか、店員は悪戯っぽい笑みを浮かべた。樒戸は困って頬を掻いた。
    「そんなようなものかもしれませんが」
    「素敵じゃないですか。奥様、喜ばれるでしょう?」
     はい、と花束を差し出される。
     花束の中には、頼んでいないオレンジのカーネーションが一本、挿しこまれていた。淡い色合いの、しっとりと柔らかそうな花弁の重なり。控えめで、しかし瑞々しく、美しい一輪だった。ほのかな芳香が漂った。
     その花を見て、樒戸は口を開いた。
    「妻は死にました」
     えっ、と店員が樒戸の顔を見たが、樒戸のほうが驚いていた。誰か別人が樒戸の口を借りて勝手に喋ったかのように思われ、一体どうしてそんなことを言ってしまったのか、まるで分からなかった。樒戸は慌てて取り繕おうとしたが、先に店員が謝罪した。
    「すみません、不躾なことを……」
    「いいえ、いいんです。こちらこそ、すみません」
    「それで、白のカーネーションだったんですね」
     樒戸は、納得したような店員の言葉の意味がわからなかった。首を傾げると、彼女も首を傾げた。そして、躊躇いがちに笑った。
    「『あなたへの愛は生きている』」
    「えっ?」
    「白いカーネーションの花言葉ですよ。『純粋な愛』、『尊敬』。そして、『あなたへの愛は生きている』」
     店員が樒戸の手に花束を握らせた。
    「生涯愛する人への、弔いの花です。ご存知なかったんですか」



     水を取り替え、花を挿し替える。月に一度の墓参りでは、どうしても萎れてしまう。燻んだグレイの色調の中で、白と橙のカーネーションは眩しかった。
     この季節でも、多少運動をすると汗が滲んでくる。樒戸はコートを脱ぎ、それでも足りずにセーターの袖をシャツごと捲り上げた。墓石を綺麗に磨いてやり、手のひらで軽く撫ぜる。
    「涼。一か月に一度しか来られなくて悪いな」
     ひんやりとした感触が、剥き出しの肌に伝わった。墓の下はもっと冷たいだろう。返事を期待せずに話しかけるのはなんだか気恥ずかしいが、平日昼の墓地にはどうせ誰もいない。生きているものは誰も。
    「君がいないとだめな気がしていたが、みんな、なんとかやってるよ。ようやく、本当に元に戻ってきたような気がする。郁李がまた笑うようになったんだ。狗飼のお蔭もあるのかな。雰囲気が少し柔らかくなった」
     安心したわ。あの二人、喧嘩ばかりだったから。相模原が生きていたら、そんなふうに返事しただろう。
    「後閑も相変わらずだ。なあ、あいつも君のことが好きだったらしい。知ってたか? 知らなかったよな。君のことは流石に譲ってやれないから、もし君が生きてたら長年の友情が壊れてたところだ……」
     樒戸は笑った。
    「まあ、でも、大丈夫だ。みんな、大丈夫だよ。涼、君がいなくても。心配しないでくれ。俺だって……」
     突然声が喉に痞えた。樒戸は目を丸くし、それから眉を顰めた。
    「俺も……」
     その先がどうしても口に出せなかった。
     涼! 唐突に胸を掻きむしりたくなるような激情が押し寄せた。燃え上がるような、心臓の裏側まで焼け爛れるような、予想だにしない激しい苦痛だった。息もつけないほどの感情の暴風雨。あの頬に、唇に、手に、肩に、背中に触れたかった。涼。あの声で名前を呼んで、肌に触れてほしかった。身体に手を回して、背に頬を擦り寄せて。白いうなじの上の、星座のような黒子の並びを辿り、血の通った肌の温かさを感じたかった。今はもうどこにもない、相模原の身体。孤独で、優しく、世界でもっとも美しい魂の器。
     樒戸は、一瞬その場に屈み込んでしまいそうになった。
     しかし、そうはならなかった。次の瞬間には、樒戸の心は何事もなかったように凪いでいた。身体は心に従う。まだ春の訪う気配もない冬の大気の中で、樒戸は微動だにせず立っていた。樒戸は視線を落としたまま、ゆっくりと息を吸い、そして吐き出した。また、手のひらで墓石を撫ぜた。そうか、と樒戸は思った。
    ──本当のことを言うと、涼。
     本当のことを言うと、君がいない世界を生きるのは、少し怖い。ううんまいった、君が俺を臆病にしたんだな。このことを認めるのにこんなに時間がかかってしまった。
     だけど、明日は今日の続きで、今日は昨日の続きで、君が俺の手を握ったいつかの日の続きであるのなら、俺はこの世界を生きてみようと思う。
     樒戸は囁いた。
    「涼、好きだよ。愛している」
     言葉が舌を離れた瞬間、樒戸はなにか、ほの温かく捉えがたい感情を胸の奥底に感じた。いくら灯りを照らしてみても、手を伸ばしてみても、けっして掬い上げることのできない感情だった。樒戸は戸惑ったが、本当は気づいていた。他の誰でもない、相模原が、いつか教えた。
     それこそが、人を愛するということの、心震えるような幸福なのだと。

    おわり
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    2020/12/26 0:22:06

    愛は生きている

    樒戸、その後

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