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    夜、明けるまで まばらな街灯が円錐形に夜を切り抜いて、アスファルトを照らしている。晩夏に置き去りにされた蛾の一匹が、弱々しく羽ばたきながら光源に近づき、帰路につく樒戸敬久の頭上で耳障りな音を立てた。
     樒戸のほかに出歩く者の姿はなく、通りは静まり返っている。町の高齢化が進んでいるためか、二十三時を過ぎれば近隣の住民はすっかり眠りに就いてしまい、いくつかの例外の灯す光が締め切られたカーテンからわずかに零れるばかりである。
     ジジ、とまた街灯が鳴ったかと思うと、一瞬ののちに乾いた音を立て、暗くなった。樒戸は立ち止まり、切れた街灯を見上げた。寿命らしい。電灯に慣れた目は月明かりを拾わない。蛾はどこかへ飛び立っただろうか。樒戸は疲れ気味の目を瞑り、鞄をぶら下げていないほうの手で眉間を揉んだ。樒戸は再び歩き出すと、淡々と三ブロックぶんの距離を進み、カーブミラーのある角を左折した。
     交番から漏れる灯りが、暗闇に沈む住宅街の中に浮かび上がっていた。そっけない蛍光灯の白は、暗がりにあって不思議と温かみを感じさせる。まるで夜の海原に浮かぶ連絡船から臨む灯台、あるいは避難所のようだ、と樒戸は考え、ひとり頷く。実際避難所なのだ。
     硝子越しに、年配の警官が背を丸めているのが見える。樒戸は肩を竦めると、歩みを早めることもなく交番に向かった。
     建てつけの悪い硝子戸を叩き、引き開けると、五十がらみの巡査長が腰を上げて樒戸を出迎えた。
    「すみません、今夜は手ぶらです」
    「どうも、ご苦労さんです。今日も遅いんですねえ」
     樒戸は後ろ手に戸を締める。交番の中はやや湿気が籠り、むっとしていた。日焼けしてしみの浮いた肌をした巡査長は人懐こく笑みを浮かべ、樒戸に椅子を勧めた。
    「仕事、お忙しいんですか。ほら、先週は姿を見なかったもんだから」
    「ここのところ、立て込んでましてね」
     樒戸が鞄を置いて座ると、巡査長は奥に引っ込み、マグカップを二つと緑茶の入ったペットボトルを持ってきた。差し出されたマグカップは衛生的とはいえなかったが、樒戸はこの素朴な親切に悪い気はしなかった。
    「お構いなく。山岸さんがいないかと思って、ちょっと顔を出しただけなんですよ」
    「そう言わず、付き合ってくださいよ。続きをやらにゃ」
     山岸巡査長は、次いで持ち歩き用の小さな将棋盤を取り出した。折り畳みの盤面にはちゃちな駒がマグネットで貼りついて、前回の続きのままになっている。
    「じゃあ、少しだけ。いいんですか」
    「平和そのものですよ。今月はまだ自転車の盗難と、酔っ払いの立ち小便くらいですな。まったく、お蔭様で」
    「山岸さんたちがこうして地域の平和を守ってくださっているお蔭ですよ」
     樒戸は警視庁のマスコットキャラクターが印刷されたマグカップを取り、中の緑茶を一口飲むと、香車の駒を前進させた。
    「そういえば、向こうの街灯が切れてたな。ああいうのって、どこに連絡すればいいんでしょう」
    「ああ、そうですか。このあたりはただでさえ夜暗いですからねえ。明日になったらこちらから自治会に連絡しておきますよ」
    「助かります」
     巡査長は盤面を見つめて唸っている。仕事中に将棋の対局に興じるというのは本来警察官として褒められた振る舞いではないのだろうが、何事もない交番勤務の当直は退屈なものだ。樒戸にも覚えがある。この定年間際の巡査長にとってこうしたやり取りが無聊の慰めになっているのなら、それを取り上げる理由はない。駐在にとって地域住民との交流はきわめて重要な職務のひとつであるし、巡査長はこのうだつの上がらないサラリーマン風の地域住民──すなわち樒戸のことだが、この男が警視庁勤務の警部であるということを知らない。
    「しかし、お疲れですね。少し痩せられたんじゃないですか」
    「山岸さんこそ、当直というのもそろそろ体に堪えるんじゃありませんか」
    「若いのと比べるとね」巡査長が歩兵を進め、裏返した。「ここは都心と比べると犯罪件数が少ないから、楽させてもらってますよ。この歳になったらもう出世って感じでもないですからね。定年までここです。あなたはまだお若いから、これからでしょう」
     樒戸は桂馬で成ったばかりの金将を取る。あ、と山岸巡査長が禿げかけの額を叩く。
    「若いですかね」と樒戸。
    「若いでしょう。おいくつですか」
    「今年三十六になりますね」
    「警視庁の捜査零課って、ご存知ですか。特殊犯罪捜査零課」
     樒戸はマグカップに伸ばしかけた手を止め、苦笑した。「ええ」
    「私らにとっちゃね、雲の上の存在ですよ。たった五人で……四人だったか、難しい殺しを次々に解決してね。迷宮入りするんじゃないかって騒がれたあの“庭師事件”も、ほらニュースで話題になったでしょ、あそこが犯人逮捕に漕ぎ着けたんですよ。最近の若いのは、ああいうのに憧れて警察官になるんでしょうねえ。こうして地道に町を守るのも、いいもんだけど」
    「私もそう思いますよ。大切な仕事です」
    「それでね、そこの課長がちょうど、あなたくらいの年齢なんだそうですよ。それも、キャリア組じゃないっていうんだからねえ」
    「そうですか」と樒戸は答え、室温にぬるくなった緑茶を飲んだ。
    「キャリアと私らじゃあね、全然出世の速度が違うんだから。最近だとドラマとかでね、よくやってるでしょ、キャリアとノンキャリの対立、とか。実際あんなのはないんだけどね。全然、やってることが違うわけで」
     巡査長は節くれだった無骨な指で歩兵の駒を摘んだまま、喋りつづけている。今夜は饒舌だ。
    「男には野心がないとならん、と昔上司に言われたもんですがね。私は、ほら、そういう器じゃなかったから。零課の、ああいう人たちは違うんでしょうねえ。どんな人生を送ったらそうなるんだか……」
    「意外と、喋ってみたら普通の人かもしれませんよ」
     樒戸がそう言うと、巡査長は機嫌良く笑った。
    「しかし、こう言っちゃ失礼かもしれないけど、あなたも私とおんなじ感じだね。私の若い頃にちょっと似てるっていうか、なんか昔のこと思い出すというかね、なんとなく。本庁にいたころは随分周りからハッパかけられたもんですよ。口の悪い部下からも山岸さんは警察官にしちゃのんびりしすぎだ、なんつって」
     あはは、と樒戸も笑い返す。「ええ、そうなんです。私も部下の当たりが強くって、よく叱られてますよ」
    「あなたが上司だったら、部下も気楽なもんでしょう。なんせ、そうそう怒られそうにない」
    「優秀な部下たちですから、こちらから叱る機会がなかなかね」
     樒戸はぱちりと飛車を置き、角を狙う銀将を牽制した。
    「将棋だと手厳しいのになあ」
    「部下には負け越しです」
     マグカップを空にし、樒戸は立ち上がった。
    「すみません、このへんでお暇します。日付を跨ぐまでに家に帰りつかないと。お茶、ご馳走さまでした」
    「奥さんに叱られますか」
    「いや、甲斐性なしで。お勤めご苦労様です」
    「続きを楽しみにしてますよ。暗いからお気をつけて。最近怖い話も聞くからね」
     樒戸は鞄を手に硝子戸に手をかけ、ふと立ち止まった。
    「怖い話?」
    「オカルトじみた話ですよ。ここだけの話なんですけどね、この間ニュースでやってた奥多摩の連続死体遺棄事件……」
     山岸巡査長が声を潜めた。
    「死体がちょっと妙だったらしいんですよ。ここだけの話だよ。一般人には言っちゃいけないらしいから」
    「妙、というのは?」
    「『加工』されてたんだって言うんですよね。それがどうも、生きてるうちに行われたみたいで、しかも医者の縫合した痕もないっていう……オカルトでしょう。本庁の元同期が言ってたんですよ。私も詳しくは知らないんだけどね」
     樒戸は目を瞬かせ、一拍ののちにあっけらかんと笑った。
    「脅かさないでくださいよ。そんな、怪談話みたいな」
    「そんなこんなで被害者の身元特定に時間がかかったらしいんだけど、結局みんな夜中一人で出歩いてた人達だっていうからね。仕事もいいけどほどほどにして、あなたも気をつけてくださいよ。この町は平和じゃなけりゃ困るんですから」
    「分かりました、都市伝説の餌食にならないように気をつけましょう。山岸さんのお手を煩わせるわけにはいかない」
    「そうやって笑うけどね」巡査長が声を大きくした。
    「本当にあるんだよ。警察官やってると割合遭遇するんだから、科学とか常識とかじゃ説明できないようなことに。あのねえ、ときどき思うんですよ。この世界には目に見えない穴ぼこがたくさん空いてるんじゃないかって。そこにうっかり、なんかの拍子に足を踏み外して落っこちると、“裏側”に行っちまうんじゃないかって」
     樒戸は沈黙した。
    「一度裏側を見ると、戻ってこられなくなる。だから気づかないふりしなくちゃいけないんだね、私らみたいなのは。そうやってなんとかかんとか無視して、光の当たってる部分の平和を維持していく。それが身分相応ってやつなんですよ。分を超えて突っ込みすぎると、“消える”」
    「石蕗幸司という警察官をご存知ですか?」
     樒戸は遮り、そう尋ねた。えっ、と巡査長が目を丸くした。
    「知らないね、そういう人は。どうして」
    「いいえ。昔お世話になった刑事さんなんですが、もしかしてご存知ないかと思って」
    「うん、知らないね」と巡査長は繰り返した。「人探しなら、今度誰かに聞いてみますよ」
    「いや、大丈夫です。ちょっと聞いてみただけですから」樒戸は硝子戸を引き開けた。「また寄ります」
    「はい、ご苦労さま。気をつけて」

     交番を出ると、たちまち夜が樒戸を取り巻いた。革靴の底がアスファルトを噛む音が、微かに遅れてついてくる。湿り気を帯びた暗闇がひたひたと頬に触れる感触。樒戸は顔を上げた。行方には温度のない街灯の明かりだけが点々と並び、樒戸を導いている。
     不意に、ポケットの中のスマートフォンが震えた。取り出してみると、SMSの受信通知とともに「後閑幸博」と表示されていた。
     樒戸は歩きつづけたままスマートフォンを操作し、耳に当て、相手が着信に気づくのを待った。端末と鼓膜との間で、無機質な呼び出し音が小さく響く。きっかり三コールで途切れる。
    「樒戸、今どこにいる」
    「帰り道だ。棗川の件か」
     バツン、と音がして、背後で街灯の明かりがまた切れた。 
     樒戸は振り返らなかった。


    おわり
    ledonis5 Link Message Mute
    2021/04/01 0:26:22

    夜、明けるまで

    樒戸と巡査長

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