朝を待つ 月下美人が咲いたから見に来ないか、と言うので、十一年もののスバル・トレジアを走らせて後閑の家に来た。樒戸が二十五歳のときにはこれもぴかぴかの新車で、三課に異動になった年に奮発して買ったのだった。ここのところ流石にあちこちガタが来ており、郁李からは「そろそろ新しいの買ったらどうスか」なんて言われているが、まだ走る。
インターホンを鳴らすと、後閑が顔を出した。樒戸を頭から爪先まで眺め、扉を片手で支えて中に通しながら言う。
「遅いじゃないか。エンストでもしてたのか?」
「あのな、エンストしたのは一回だけだろ。もう直した」
イグニッションコイルの故障だったことはわかっている。
樒戸は三和土で靴を脱ぎながら、「お土産とか、ないぞ」と断った。「家からそのまま来たんだ」
「安心しろよ。はなからお前にそういうのは期待してない」
リビングルームに足を踏み入れると、どこからともなく、常にない甘く心地よい香りが漂ってきた。頤を軽く上げて芳香の出どころを探っていると、後閑が小さく笑った。
「お前でもわかるんだな。俺はもう鼻が慣れてる。ベランダだよ」
後閑は樒戸を案内した。日中のうちに運んでおいたのか、鉢植えがベランダの真ん中に引き出されていた。
大輪の月下美人がリビングから漏れる光を受けている。肉厚の花弁は内側からほの光るように青白く、鑑賞者を誘うように綻び、今まさに満開の状態へと達しようとしていた。花弁が擦れあう音が聞こえるようだった。
「大きいな」と樒戸は素朴な感想を口にした。夜行性の小動物の訪花に耐えるためだ、と硝子戸のサッシに手をかけた後閑が説明した。
「月下美人の原産地はメキシコの熱帯雨林だ。主な送粉者はコウモリだから、暗闇の中で目立つ白の花を夜に咲かせる」
樒戸は、鬱蒼としたジャングルの奥で、柔らかく分厚い腐葉土や苔の層に根を下ろす月下美人の姿を想像した。木々の間から零れる月明かりを受けながら、花弁を広げて噎せかえるような芳香を放ち、ただじっと訪花を待つ。その逞しさは、今清潔なベランダの鉢植えの中で微かに俯く姿からはうまく想像はできない。後閑のベランダにはコウモリはいない。芳香も美しい花冠も、何者かに媚びることなくただそこにあるだけだ。異国の景色は樒戸の中で曖昧に像を結ぶ。
「だが、朝には萎むんだ。潔いものじゃないか。花がらは、天ぷらにしてもいいし乾燥させてお茶にしてもいい」
しゃがみこんで花を見ている樒戸に、後閑が続ける。
「今年は咲いてよかった。去年は忙しくて、あんまり面倒見られなかったからな。台風もあったし……」後閑の指が葉を撫ぜた。「多分、あと一回くらいは咲くはずだ」
最近はあまり日に焼けていない後閑の手の甲に視線を遣りながら、樒戸は尋ねた。
「一年のうちのたった一日や二日のために、毎日水をやって、世話を焼くのか?」
後閑が笑う。
「なんだって、そうじゃないのか。この仕事だって、散々苦労して本当に報われたと感じるのは一年のうちに一度あるかないかだ。その一度のために続けられる」
そうかもしれない、と答えたきり、しばらくの間樒戸は口をきかなかった。しゃがみこんだまま、花に顔を近づける。目を瞑り、透き通るように甘く優雅な芳香を胸いっぱいに吸い込んだ。どこか奇妙に郷愁を誘うような、感傷的な香りがした。慎重に花冠に触れる。見た目よりもずっと丈夫そうな手触りだった。瑞々しくしっとりした花弁の感触を指先で味わうと、今度は唇でも触れたくなった。爪の先で雄蕊に触れ、萼を撫ぜると、また樒戸は快い香りを楽しんだ。
後閑は花を見る樒戸の姿を黙って見下ろしているようだったが、やがてその場を離れると、少しして銅製のタンブラーと折り畳みの小さいテーブルを運んできた。そしてキャンプ用の椅子をひとつ持ってきてテーブルの隣に広げると、そこに座った。後閑がタンブラーを揺らすとからんと音が鳴ったので、その中身が氷入りのハイボールだとわかった。後閑が口を開いた。
「それに、月下美人を育てていると、花が咲く日が特別になるだろ」
さっきの話の続きだと気づくまでに、しばらくかかった。
「昨晩蕾が膨らんでいるのを見て……嬉しかった。今朝香りに気づいて、今夜家に帰るのが楽しみだった」
後閑がまたタンブラーを傾け、お前も飲むか、と尋ねた。樒戸は首を振った。後閑は少し躊躇い、尋ねた。
「この前の話、まだ有効か?」
「この前の話?」
樒戸は振り向き、首を傾げた。
「お前、一緒に住まないかって言っただろ」
「そうだっけ」
言ったんだよ、と後閑がやや口を尖らせた。
「ここも手狭になってきた。もう少し広い部屋なら、窓際にモンステラを置ける。でも俺の給料だとここ以上はちょっときつい……」
ふうん、と樒戸は相槌を打った。
「お前にだって俺と暮らすメリットはあるしな。お前はときどき入院するし」
「好きで入院してるわけじゃない」
「大抵の家事は俺のほうがうまいし」
それには反論の余地がない。黙りこんだ樒戸を意に介さず、後閑が続けた。
「それに、一緒に住めば月下美人の開花も見逃さずに済む」
樒戸は花から視線を逸らし、後閑を見つめた。後閑は笑っていなかった。花を見ていた。後閑の顔の半分は部屋からの明かりに照らされ、すんなりと高い鼻梁が頬に影を落としていた。微かに後閑が首を傾けると、影は曲線を描いて肌の上を滑り、唇に触れないあたりで静止した。樒戸は再び花に目を向けた。
「考えておくよ」
「お前から言ったのに?」
「覚えてない」と言い、樒戸は顔を傾けて月下美人の花弁を食み、やさしく唇で触れた。花弁は期待した肌触りと弾性とを唇に伝えた。揺れた雄蕊が鼻先を擽り、甘やかな芳香が身体中を満たすような感覚があった。
食べるなよ、と後閑が呆れたように笑った。花冠に顔を埋めれば、今度は鼻が雌蕊に触れる。
月下美人は自家受粉では結実しないのだという。これもまた原種のクローンで、この国につがいはいない。茎節を切り落とされ、濡れた土へとうずめられ、根を張れば一晩限りの花を咲かせ、朝日とともに萎むのだ。繰り返し。
後閑の手が伸ばされ、花弁と樒戸の頬とに触れた。その手は温かかった。樒戸はなすがままにさせた。けっして嘆く必要はない、と樒戸は思う。朝が訪うのを恐れることもないのだろう。よくわかっていた。
樒戸は目を閉じ、もう一度大きく息を吸い込んだ。
おわり