それは、まるで その言葉は私にとってはまるでプロポーズだった。
RAD卒業の時期が近付いていたある日。この先どうしようかな……などと放課後の教室でひとり自分の席で肘をついてぼんやりと窓の外を眺めていた。バルバトスと離れて人間界に帰る気はないし、私の場合は希望しさえすればRADに残ることも出来るらしいのだけれど、皆がいないのに私一人残るのも気が進まない。かと言ってRADを出てしまうと一応寮である嘆きの館も出ないといけない。魔界で部屋ってどうやって借りるの? そもそも人間に貸してくれるの? と行き先は何も決まらないままだった。
「こちらにいらっしゃったのですね」
背後から声がした。すっかり黄昏れていて教室のドアの音にも気が付かなかったらしい。
「あ、バルバトス。どうしたの?」
「今、お時間少々よろしいですか?」
「大丈夫だよ」
座るよう勧めると、でしたらお言葉に甘えて、といつものように隣ではなくなぜか正面に座った。
「卒業後はどうするかお決めになりましたか?」
「ううん。全然。どうしようか今も悩んでたところ」
それはよかった、と小さく聞こえた気がした。進路が決まっていると何かまずかったのだろうか。
「えっと……何かあった?」
いえ、と小さく呼吸を整えたバルバトスは珍しく緊張した様子で私の手を取った。
「もしあなたさえよろしければ、魔王城に住み込みで働きませんか? 衣食住の保証はしますし、決して多いとは言えませんが給金もお支払いいたします」
その言葉は行き場のない私にとっては渡りに船で、何よりバルバトスも離れる気はないことが嬉しかった。
「よろしくお願いします!」
詳しい条件を聞く前に勢いよく頭を下げていた。
魔王城の間取りを隅から隅まで完璧に暗記し、ここに来た初日に渡された使用人見習いの服もすっかり体に馴染んだ頃。
「は?」
ソファに二人並んで過ごす寝る前のわずかな時間。バルバトスの淹れてくれたお茶が私の声に揺れた。
「ごめん。今のもっかい言って?」
聞き間違いかと思った。聞き返す私にバルバトスは一語一語丁寧に区切った綺麗な発音で小さい子に言い含めるようゆっくりと再度言ってくれた。
「坊ちゃまが、ご結婚、なさいます」
どうやらRAD卒業後に知り合ったひとで、三界の融和というディアボロの理想にも共感してくれているらしい。ディアボロは今でも対等に接してくれこそするものの、もとより私はどうこう言える立場ではないし、バルバトスが反対しないのならきっと相応しいひとなのだろう。
更にバルバトスの話によるとどうやら諸々の事情でついでに即位もするらしい。話が急すぎる。
「全てが初耳なんだけど。あ、別に怒ってるわけじゃなくて……」
「申し訳ありません。不用意に第三者に知られるわけにはいかなかったものですから。まだごく一部の限られた者しか知りませんが明日から準備が始まります。何かと忙しくなるかと思いますがよろしくお願いいたします」
「は、はい」
思わずつられてかしこまった返事になってしまった。頑張るね、とバルバトスの胸に顔を埋め、今夜のうちにたくさん甘えておこうと思った。
魔王城の中庭で私の向かいに座るディアボロはバルバトスの淹れた紅茶を一口飲むと、深く息を吐いて背もたれに体を預けた。
「こんなお茶会はずいぶんと久しぶりな気がするよ」
奥様、もとい王妃様は人間界の方で何やらお呼ばれがあるらしく、久しぶりにディアボロ、バルバトス、私の三人で午後のお茶会をしている。
「なんか……すごい昔に感じるね」
「最後のお茶会は坊ちゃまがご結婚なさる直前でしたから、まだ一年と少ししか経っていませんよ」
今までで一番長く感じた一年かもしれない。ディアボロはバルバトスの焼いたクッキーをいくつか口にした後、ふと思い出したように口を開いた。
「その……つかぬことを聞くんだが」
「どうしたの?」
ディアボロにしては珍しく歯切れが悪い。
「君たちはどうするつもりなんだい?」
「と、おっしゃいますと?」
「随分と長いだろう? もしこれまで私に気を使っていたのであればもうその必要もないと思ってね」
誰も何も喋らない。バルバトスも私もディアボロが言わんとしていることがわからないわけがない。
「あ、ううん! そういうのないから! 気にしないで!」
暗くならないようにと努めて明るく答える。期待はしていなかった、というよりもうとっくに諦めて意識の外に追いやっていたことを改めて突きつけられるとやっぱり少し堪える。
「ごめん、ちょっと追加のお菓子取ってくるね」
実際にどれくらいのお菓子が残っているかなんてことは確認せず勢いよく席を立った。
さっきまでのことを頭から追いやるようにお菓子のことだけを考えてキッチンの戸棚をあちこち開け閉めする。
「このお菓子RADでよく食べたっけ。懐かしい」
「こっちは嘆きの館でゲーム大会するときの定番」
「頂き物の残り。これも出しちゃおう」
キッチンを漁って見つけたお菓子を片っ端からお菓子用の大皿に盛りつけていく。
「あ……これ……」
マダムスクリームのお店のロゴが施された四角いミントグリーンの缶。開けると中には半分ほどのクッキーが残っている。
この前のデートで自分たちへのお土産として買って、僅かな休憩時間に二人でつまんでいたクッキー。ほんの数分でしかなくともあの時間はたしかに幸せだった。それなのに今は思い出したくない。
目に浮かびそうになる涙を堪えながら缶を棚に戻そうとしたとき、誰かがキッチンに入ってくる気配がして、慌てて笑顔を作って振り向いた。
「あれ? どうしたの? ディアボロのところにいなくていいの?」
「それが、坊ちゃまに叱られてしまいまして」
「バルバトスが叱られるなんて珍しいね。何かあった?」
「あなたを追いかけないとは何事か、と」
「……もしかして、ディアボロ的にはまだ私の仕事が不安だったりする?」
「そうではありません」
やれやれ、と言いたげな困った表情をする。
「『部下の悩みを聞くのも上司としての務めではないのか』と」
「ふーん……」
リトルDがバルバトスに悩みを聞いてもらっているなんて聞いたことがない。
「更に『そのうえ、私の大切な友人を悲しませるとは私に仕えているのは随分と酷い執事らしい。今すぐ結論を出す必要はないが、きちんと話をしてくるように』とまで言われてしまいました」
「……大丈夫だよ」
「ですが、先ほど」
「こうやって毎日バルバトスと一緒にお仕事して、寝る前に少しお喋りして、たまにデートして。それで十分」
「十分、ですか。」
「……これ以上なんて望まないよ。あ、このクッキーも出しちゃっていい? そろそろ食べきっちゃわないとダメになっちゃうから」
何か言おうとするバルバトスに気づかなかったふりをしてクッキーも皿に盛った。
「ほら、お菓子も準備できたし、ディアボロのとこ戻ろ」
バルバトスから視線を逸らしながらキッチンを出ようとしたところで腕を掴まれた。落としそうになった皿にはバルバトスの手が添えられていて、流石、と思った。
「話を聞いていただけませんか」
バルバトスの顔を見られない。
「戻らなきゃ」
「お願いです」
振りほどこうとしたところで普段滅多に言われることのない言葉に揺れてしまった。
「……少しなら。あんまりディアボロを待たせるのもよくないと思うから」
もちろんです、と仕事で私を褒めるときと同じ笑みが返ってきた。
皿を挟んでワークトップに二人並んで寄り掛かる。
気まずさをごまかすように、クッキーを一つ手に取って口に運んだ。少し湿気ているけどおいしい。
何か言った方がいいのかな……と若干の気まずさを感じ始めたところで、前を向いたままバルバトスがぽつりと口を開いた。
「私の望みはご存じですか?」
ずっと昔に一度聞いたきりだけれどちゃんと覚えている。
「魔王に即位したディアボロに私と一緒に仕えること、でしょ?」
「覚えていてくださったのですね」
あ、嬉しそう。
「あなたを魔王城にお誘いした日のことを覚えていらっしゃいますか?」
忘れるわけがない。あの瞬間は今でも私のよすがだった。
「あれほど緊張したのはいつぶりでしょうか。そして、承諾していただいたとき、どれほど嬉しかったことか。その日の晩は私としたことが『随分と嬉しそうだね』とまで坊ちゃまに言われてしまいました」
「大げさすぎない?」
「もしかしたらご存じかもしれませんが、嘆きの館の皆様も各々あなたをお誘いしようと色々と計画していらしたものですから」
全然知らなかった。
「でも、仮に他の誰かに先に誘われても断ってたと思う。……ずっと一緒にいるならバルバトスがいい」
「……ありがとうございます。あなたをこうして魔王城にお迎えして、共に坊ちゃまにお仕えできる。私の望みばかり叶えていただくのは不公平というものです。ですから」
「気を使わなくても大丈夫だよ。別に結婚したところで何が変わるわけでもないし」
そう、この魔界で結婚したところで人間界にある私の戸籍に何ら変化はないし、今の暮らしが変わるわけでもない。ただ、私とバルバトスの私物に指輪が一つずつ増えるだけだ。
「おっしゃる通りです。今の生活が変わるわけではありません」
でしょ? 、と言いかけた。
「ですが、何も変わらないからこそ、何かしらの区切りが必要なのではないでしょうか」
「実は、これまであなたとのことを考えたことがないわけではありません。しかし」
バルバトスにしては珍しく決まりの悪そうな顔をした。
「魔王城で働く者としてご存じかとは思いますが、坊ちゃまの状況はお恥ずかしながら盤石とは言い難い状況です」
その通り。根も葉もない噂や揚げ足取りの記事はまだいい方で、ここ一年は予定外の急な外出や深夜に難しい顔をして帰ってくることも多かった。
あの時教室でしたようにバルバトスが私の手を取る。
「ですからもう少し、坊ちゃまの立場が強固なものとなるまで待っていただけないでしょうか」
「……もし『待てない』って言ったら?」
「その時は仕方ありません。あなたの貴重な時間を無駄に浪費させた。そんな卑怯な男にあなたを引き留める資格などありません」
「嘘。そんなことするわけないよ。……戻ろっか」
住人の大半が人間よりも遥かに長い寿命を持つせいか、魔界の変化は人間界よりもずっとずっとゆっくりだ。バルバトスの言う状況がいつ実現するのかなんて見当もつかない。
それでも。
「ありがと。待ってるね」
お互いの気持ちを確認したところで、いつもと変わらない日々が続くのだろうと思っていた。この前までは。
「次の休日、ご予定はありますか?」
ソファで隣に座るバルバトスが質問を投げかける。
「ううん。ないけど……」
「でしたら、一日私にお付き合いいただけないでしょうか」
「いいよ。何するの?」
色々と準備が必要ですから、としか教えてくれないものの、珍しく服装まで指定されて、高級なレストランにでも行くのかな? と思った。
「料理の参考にしたいので」と自腹ではとても行けない店に何度か連れて行ってもらったことがあった。
そんな予想を裏切って、当日連れていかれたのはレストランではなく、宝飾店。ディアボロから王妃様へのプレゼントでも頼まれたのだろうか。アドバイスがほしいとかかな。
などと考えているうちに、明らかに特定の顧客しか通さないであろう個室に通され、どう見ても店で一番偉い人に挨拶をされ、輝くいくつもの指輪を目の前に並べられ。
「私たちの指輪は、どれになさいますか?」
「えっと………………なんで?」
ようやく絞り出せた言葉に、苦笑いと共にため息をつかれた。
もう少々お付き合いいただけますか? と連れていかれたのは魔王城の大広間。今日は使う予定がなかったはず。
「忘れ物?」
「いいえ。違います」
バルバトスが指を鳴らすとゆったりとしたワルツが流れ始めた。何度かパーティーで聞いたことのある曲。でもどうして? と疑問符を浮かべているうちに手を取られ、ホールドを組まれ、いつの間にかダンスが始まっていた。
RAD時代に何度か踊ったことはあるものの、今は踊っているというよりバルバトスの手によって踊らされている状態でしかない。
「なんで急に踊ってるの?」
「次のダンスパーティーでは私と踊っていただきます。ですからその練習です」
「いままでそんなことなかったのに、なんで?」
「私の大切なパートナーですから。今後、このようなことも増えますし、いい機会かと」
私が思っている以上に先日の出来事をバルバトスは重く捉えていたらしい。
「……当面の間、執務後に少し練習しましょうか」
少しだけ、私だけがわかるくらいに眉間に皺が寄っている。
「が、がんばります……」
私の足がもつれ、油断しきっていたバルバトスと二人で床に転がることになるのは、この直後。