クロスバインド 潜入任務の期間に髭を当たる機会がなかった。きれいに整えれば見栄えはするかというところだが、ぼくがかぶるジャックという名の仮面は明日の寝床もままならないその日暮らしの根無し草だ。髭を整えたジャックなど彼らしくない。
いまから三週間前、うだつの上がらない小物の犯罪者として目標に接近した。我々が求める情報を握る相手は見目の整った若い男を嗜好し、身の回りに侍らせるのが趣味だと聞いた。彼女の好みはブルネットで少しだらしのない白人男性。華奢なほうがいいらしいが、ぼくの身体でもじゅうぶん惹きつけられるだろう。髪を黒に染め、つい最近金づるに捨てられた売人という設定とともに道路の端で夜を明かした。
どのコミュニティにも入らずに界隈を転々としていると彼女は面白いほど簡単に釣れた。良くも悪くもツテのない新入りは目立つ。
──ひとりなの? 危ないわよ、わたしのところにいらっしゃい。
上品な誘い文句を素直に受け取ったジャックはさっそく自分が染めた色と同じブルネットの女性のもとに向かった。捨て犬を拾うような気安さでチンピラを手元に置くのは危険なのではないかとこちらが訝しく思うほどで、なにか裏があると思わずにはいられなかった。
差し迫った危険を感じないままジャックは彼女のそばに置かれた。たまに居心地が悪くなるほど見つめられはするものの、近づこうとすると首を振られた。
──わたしは見るのが好きだから。
ジャックはそんな彼女を鼻で笑ってたまに姿を消した。でもすぐに戻ってきては彼女がきちんとリードを握っているのだと意識づけた。
なかなか隙を見せない相手だったが、わざと怪我をして戻ったときにようやく口を割った。息子の名前で潜入させるなんて悪趣味だと我らがボスに心の中で悪態をつく。でも、そこからは絡まった糸を解きほぐすように彼女の心もほどけていった。
ジャックはよほど彼女の息子に似ていたのだろう。
彼女はぼくの髭を特に気にしていた。整えたらいいのにと言われもした。息子の面影をどこの誰とも知らない相手に重ねては自分を慰める彼女は哀れだったが、そんな相手を騙して情報を得ようとする自分はよりいっそう浅ましく感じられた。
これまでの任務でひとを殺したことはある。それに比べたら、今回の潜入は相手の身体を傷つけない簡単な仕事だ。ほしいものが手に入ればそれでおしまい。いままでにいくらでもしてきたことなのに、この落ち着かなさは何に起因するのだろうか。
必要なものを手に入れて、ジャックは彼女の息子と同じくある日突然、姿を消した。もう二度と彼女のもとには戻らない。
ぼくは今朝までジャックだった。
ボスの前で報告する際にはニールに戻っていなくてはならない。感傷にひずむ気持ちがあるという認識が、なにやら胸につかえていた。今回つかんだ情報を、彼はいったい何に利用するのだろうか。
視線が勝手に下を向く。汚れたスニーカーと腰履きで裾を引きずったジーンズが目に入る。ジャックであった期間を振り払うように足を踏みしめてボスのもとに向かった。
タクシーを乗り継いでストリートを歩いていると、道を阻むように立ちはだかる人物がいた。揉め事はごめんだと、顔を下向けてその人物を迂回しようとすると行く手に回り込んでくる。
軽く舌打ちをして相手を確認すべく目を滑らせた。買ったばかりのようなハイカットスニーカー、厚手のジーンズに指にはゴツいリングが何個もついている。身長は低くて首元には金色のチェーンネックレス……
ぼくは息を呑んで阿呆のように口を開いた。驚いて声も出せない。
そこには、立派にたくわえられていた髭をすべて剃った上に髪をブロンドに染めたボスがいた。髪を染めるのは簡単だ。色を抜いたあとに別の色を載せるだけ。もとに戻すのもすぐにできる。でも、髭をなくしてしまうなんて……。
仁王立ちしてぼくの行く手を塞ぐ姿は様になっていて迫力があった。自分と同じような目的を持っているのは確実だろうが、どうして彼自身がここに、という疑問で頭がいっぱいになる。出会い頭に知り合いを見つけたというには不自然なほどの視線を、一度も見たことのない姿に注ぐしかできない。
「よお」
固まった時間に焦れたようにボスが言う。彼らしくない言い方にぼくははっとして軽くうなずくだけの会釈をした。気詰まりな沈黙を顎をしゃくってボスが破る。着いてこいという意味だ。すぐそばにある、錆びついた門扉を開いて雑居ビルの階段を登っていく。彼の後ろ姿を追いかけながら、見た目の変化に居心地が悪くなっているのを自覚した。ついさっきまでは情報を得るための手段にひと言物申したくなっていたのに、ボスが自ら動いているのを目の当たりにすると自分の意見など取るに足らないのだと改めて思わされてしまう。
廊下の先にある鍵のかかっていない部屋の扉を彼が開けて中に入るように促した。部屋の中に家具はなく、壁にはスプレー缶で書かれたデザイン文字が踊っているもののがらんとしている。
「驚いてるな」
ボスが照れたように笑って言う。ぼくを見る瞳に差す光を受けて肩や背中にこごった緊張がさっと消えていった。潜入先にいたときに感じた彼へのかすかな不信感はもうどこにもない。いつもの調子を取り戻して訊く。
「これからどこかに行くのか、それとも帰り?」
彼はニヤリと笑うと、今日からだと教えてくれた。それを聞いて提案する。
「欲しいものは手に入れた。今日から仕事をするならぼくを使えばいい」
上から下まで彼の身体に視線を走らせないではいられない。最後に目が留まるのは金色の髪と顎の皮膚。そこは不可侵な場所だと思いこんでいた。なめらかな肌が丸見えでなぜかこちらが気恥ずかしくなる。今日から何をするにしても、彼が表に出る必要があるのだろうか。せっかくここまで役作りをしているが、ぼくを使ったほうがいいと思う。彼に出向いてほしくない。この姿を誰にも見せたくない。
ボスは穏やかに笑って言った。
「おまえ、つけられてるぞ」
とっさに窓に目を向けそうになった身体をこわばらせる。眉をひそめて見つめ返すと「相当気に入られたようだな」と返された。
「彼女がぼくを追いかけてるって? どうして」
「おまえが息子によく似ているからだろうな」
やはり、ボスは彼女のことを知っていながらぼくを使ったのだ。チクリとした棘が再び顔を見せる。それにしても、尾行に気づかなかったとは呆れてしまう。自分の不甲斐なさをうやむやにしたくて声を出した。
「あのひとは寂しかっただけだ。ぼくに執着するとは思えなかったけど……もしかしてバレたのか。だったらきみと接触してるのを見られたらまずいんじゃないか」
「おまえを手元に置いておきたいだけだろう。悪いことが起きないようにと見守っているんだ。おれが危険なやつかどうか注視しているのかもな」
彼女ならあり得ると納得する。彼女のやわらかな部分を手に入れられるほどには大切にされていたのだから。だが、うまく煙に巻かないとぼくが目的を持って潜入したことはバレてしまうだろう。やはり、早急に手を打つべきだ。
不安が顔に浮かんでしまったと思う。ボスはぼくを落ち着かせるように軽い所作で肩口を叩いた。そして、昼食に誘うような気軽さで命令した。
「ニール、おれを殴れ」
再びぽかんとしてしまう。その間にも肩を小突かれて壁際に身体を押しやられる。自分の弱みを握った相手に脅されるジャックが反撃のために殴りつける、という想定のためにいささか暴力的な扱いを受けている。
「ほら、早く」
背中はすでに壁にべったりとついていて逃げ場がない。ボスはぼくが自分を殴るさまを潜入相手に見せつけなくてはこの場とぼくの立場をとりなせないと思っているようだ。たしかにそう行動すれば楽に動ける気はするものの、ぼくの気持ちがついていかなかった。首を横に振って否を伝える。
「まさか、そんなことできない」
ボスは眉を上げてひと言「できるさ」と断言した。ぼくたちの距離はかなり縮まっていた。目の前には顎髭をなくして金髪の、普段より年若く見える自分の上司がいる。そこで、不意に自分の姿を思い出した。今回、ぼくは髪を黒に染めて髭をはやしている。見た目の特徴が逆になっているのだと気がついた。
逆……こういうときジャックならどうするかと考える。ジャックは手癖は悪いが暴力的ではない。どちらかといえばひとに取り入るのが得意な小物の男だ。
「殴りたくない。別のことをしていいか」
外に聞こえるわけもないのに小声で問いかけるとボスは目を細めて了承を示した。
あくまでもジャックならどうするかを考えた結果で、自分がそうしたいからではないのだと言い訳をした。そうしないと動けなかった。
ぐい、と身を乗り出すのと相手の首を引き寄せるのを同時に行う。厚い唇に噛みつくようにして覆いかぶさった。しばらくぶりの相手を味わい尽くすのだというような熱烈なキスをする。引き寄せたときだけ身体をこわばらせたものの、すぐに緊張を緩めたボスは腕を背中に回して積極的にぼくに応えた。
角度を変えて舌を吸い、離れることなく唇を合わせ続ける。窓辺に彼の身体を押し付けて追手にぼくをしっかり印象付けた。顔を真っ赤にさせて興奮しているさまが下からでもよく見えるだろう。
ジャックのつもりでいたぼくは、いつの間にかただのニールに戻っていた。ボスのつるつるとした顎の皮膚に夢中になって舌と唇を這わせて感触を楽しんでいると背中を叩かれた。気にせずに続けると耳元で彼の声がした。
「ニール、もうじゅうぶんだ」
「……なんでわかるんだ」
「下にはもういない。報告があった」
がばりと彼の上から身体を起こす。ボスは気まずそうにさっきまでぼくが舐めていた場所を拭った。
「うまくいった。もうわざわざおまえを追いかけて捕まえようとはしないだろう。恋人と復縁したと思わせられたんじゃないか」
彼はまだ息の上がったままのぼくに話しかけた。ちらりと窓の外に目を向けるが、誰かがこちらに注目しているようには思えない。うまく隠れているものだ。
そうか、と小さく答えただけで押し黙ったぼくに困ったような視線を投げてボスがつぶやいた。
「みんな口は硬い。言いふらしたりなんかしないさ」
彼らの口の硬さは知っている。ぼくが気にしているのはそんなことではない。これは単なる目眩ましで、追手を欺くためだけの手段にすぎないのだと思い込もうとした。
でも、ついさっきまでの感覚が忘れられない。キスをしたら素直に受け入れて応えてくれたあの感覚。舌の滑らかさも唾液の味も、背中に回された腕の強さも全部本物だった。
ぼくにとっては得難い特別なもの。それなのに、彼はいつもと変わらず平然としている。
「今日からきみは誰になるんだ」
脈絡のない質問にも、彼は律儀に答えてくれた。
「アラン・パーマー、恵まれた実家から逃げ出してきた火遊びに興味があるお坊ちゃんだ」
ふうん、と息を吐く。
「アラン、ぼくはジャック。ちょっと遊んでいかないか。きっと気に入ると思う」
きょとんと目を瞬かせた姿があまりにお坊ちゃんじみていて演技なのか本気なのかわからなくなる。顔を近づけて「さっきの続きをしよう」と囁くとごくりと喉を鳴らす音が聞こえた。
「馬鹿、何言ってる。見てるやつはいない、もう終わりだ」
そう言う割にアランはぼくを押しのけようとはせず、真近から目を見返すのみだった。
「ジャックはアランとキスがしたいって言ってる。久しぶりに会ったから抑えられないって」
他人の名前をいいように使って迫る。今を逃すともう二度と彼とこうする機会は訪れないのではないかと思うと必死になった。内心は緊張と恐れでいっぱいだったが、ジャックという外装がぼくをしたたかにさせた。
動揺しているのか、拒絶しない彼に唇を寄せる。軽く触れたと思ったら肩をつかまれて押しのけられた。
「だめだ、ニール。こんなのは……」
言葉を飲み込んで、彼はぼくをしっかりと見つめた。まるで、見つめさえすればぼくが彼の気持ちを全部読み取るだろうと思っているかのようだった。チリ、と胸にあった棘が存在感を増す。彼の思い通りに動くのがぼくの本望でその考えに変わりはなかった。ただ、ぼくのことを特別なひとりだと彼に思ってほしかった。大勢のうちのひとりではなく、他と違うたったひとりにしてほしい。ブルネットの女性が息子を想い続けるような、そういう特別な存在に。
肩をつかんだ手に指を添える。身体を起こして彼から距離を取った。
「ぼくはジャックだよ、アラン」
気まずいことは何もなかったように振る舞えているはずだ。顔をしかめる相手に微笑みかけ、ぼくは部屋を出るために背を向けた。
すると、ドン、と背中を小突かれた。驚いて彼に向き直ると首を抱え込まれるようにして腕を回された。
「おまえはニールだ」
それだけ言うと、彼はぎゅっとぼくを引き寄せた。
ボスの肩口に額を伏せる。彼の体温が移るのを感じ取るのと同時に徐々に自分が馬鹿なことをしたのだと思い知らされた。彼を動揺させてどうする、ぼくは自分のことしか考えていない愚か者だ。
「……ごめん、ボス」
ぽつりとつぶやいた声は彼の胸のあたりに消えていった。
いいんだというように、ボスはぼくの後頭部を撫でた。ぼくは頭を動かして鼻先で彼の頬に触る。髭のない頬はつるりとしてうっとりするほどきれいだった。
「ぼくはあなたのニールだ」
届いたはずの声への反応はなかった。彼はしばらくの間、ぼくを抱きしめたままにして眠くなるほどの安心を与えた。
こんなにも居心地のいいものを他の誰にも渡したくない。どうしても。
えらの際に唇を寄せて軽いキスをしても今度は身体を剥がされなかった。嬉しくなって額を肩に擦り付けるようにすると黒く染めた髪が目の前に散った。ジャックのことも彼の母親のこともできるだけ早く忘れてしまおう、ぼくにとって大切なのはこのひとだけだ。
背中に腕を回して分厚い彼の身体を抱きしめる。顔を直接見られないのが残念だとかすかに思った。