扉の向こうに 扉を開ける。打ち合わせの最中だったのだろう、それぞれに顔を突き合わせていた見知った顔が、こちらに気づき道を譲る。そのなかのひとりがおれを見つけて歩いてきた。
「遅かったじゃないか。なにか問題でも?」
自分より背が高く、金髪に碧眼、眉目秀麗といってよさそうな青年が顔を覗き込んでくる。おれはこの男をよく知っている。
「問題はない。揃っているか」
言葉数の少ない返答にも、相手は心得たりといったようすでうなずく。
「すべて順調だ。あとは君がサインを出すだけでことは起こる」
「おれが出すんじゃない。ただ、知っているだけだ」
「それこそが、サインなんだよ」
青年は薄く微笑んで集まった仲間たちの前におれを導いた。部屋にいる人間の視線が自分に集まる。皆の顔をひとわたり見渡し、隣の青年に目を向ける。彼は静かにたたずみ、おれの目をしっかりと見返した。
なにを言うべきかはわかっている。
「これは現実じゃない、ニール」
ニールはおれににっこりと微笑みかけ、満足そうにうなずいた。
カチカチと金属の触れ合う音が聞こえる。小さな道具でやさしく、やわらかく、深い部分を探り当て、ゆっくりと目的のものを見つけ出そうとしている。手応えを確かめるように音が止まり、そして、
扉を開ける。転がり込むようにして閉じたドアの影に身を潜めた。背後からは怒号と銃声が聞こえる。
おれたちが追い立てられているこの建物には、銃を持った警備員は少数しかおらず、裏口から侵入すれば相手を殺すまでもなく簡単に攻略できると報告されていた。事前調査通り、必要とする品物が隠されている場所を見つけるまでは滞りなく進み、あとは金庫から取り出すだけとなった。目的を果たすまであと一歩だ、鍵のかかった箱などどうとでもできる。我々には難なく解錠する手段があるのだから。
我々──おれが作った組織のことだ。
解錠する手段とは──
「見誤ったな」
廊下のようすに耳をそばだてながら相棒が言った。
「我々も一枚岩ではなかったか」
おれは自嘲して軽く息を吐く。この場にふさわしくないほどに思いやるような眼差しをおれに向けて、相棒は言う。
「だれにでも、失敗はあるさ。でも、この襲撃は君も知らなかったんだな」
「当たり前だ、おれに未来が見えていたら、こんなことには……」
──こんなことには、ならなかったはずなのに?
にわかに、扉の外に動きが出た。怒声がやみ、複数の足音が廊下をこちらに向かってくる。おれたちの居場所がわかっているかのように隊列を組んで集合する。
「誰を信じるべきか、もうわかっているよね」
相棒はおれを見つめて目を細めた。窓から差し込む月光が彼の青い両の瞳を淡く揺らす。
扉のすぐ外では、銃を構えた傭兵たちがこちらに照準を合わせている。おれにはそれがわかる。それしかわからない。
「ここから出るぞ、ニール」
こくりとうなずき立ち上がるニールから、窓の外に意識を走らせる。ここは何階だったろうか、そう上まで登ってきてはいないはずだが。
ニールにつづいて扉から離れようとしたとき、誰かが膝をつく気配を扉の外に感じた。耳元で金属音が響く。急いでいるようすはなかった。じっくりと時間をかけて慎重に手をかける。間違いが起こらないように、傷つけないように、驚かせないように。
おれは扉をきちんと閉めていただろうか。
振り返ると、窓のそばで月の光を背負ったニールがこちらを見つめている。影になってよく見えないけれど、こちらをじっと見つめている。おれは息を吸い、
扉を開く。やさしく響くピアノの旋律が耳をうつ。ウエイターが促す先に目的の人物がいた。冷ややかといってもよさそうな視線を青い目にたたえ、眼下に広がる都市の灯りを見下ろしている。
「待ったか」
「いいや、全然」
彼は機嫌よく微笑んでおれを迎える。「白でいいよね」と確認し注文を済ませると、さて、といったようすで指を組んだ。
「その服、似合ってる」
銀鼠色の三つ揃えは着心地が良く愛用していて、彼の前でも何度か着たことがあった。改めて褒められただけだろうか、曖昧に口角をあげて彼のてらいのない笑顔を躱す。
おれが呼び出したこの男に対して前口上はいらない。食事が運ばれてくる前に、と早々に口火を切った。
「最近、君のようすが変わったと感じることが多くなった。なにか不満や要望があるなら言ってほしい」
「ようすが変わったって、具体的にどういうふうに?」
好奇心をにじませた笑みを浮かべて相手が訊く。こころなしか身を乗り出しているように見えた。
「少し前までは、疑問や不満があるからと言って、ふたりで話をする時間を作っていただろう、それがピタリとなくなった。他愛のない会話の最中にも、なにかを言いかけて言葉を飲み込む回数が増えている。言いよどむのは、たいてい、周りにひとがいるときだから、他人に聞かれたくない話があるのかと思ったんだ」
「ぼくが隠し事をしているのは嫌なんだね」
目の前の男は、ふ、と視線を外して窓の外に目をやった。口元に笑みを残してこちらに向き直ると「さあ、食事をしよう」と言い、スズキのポワレに手を付ける。
目の前には銀色のナイフとフォーク、注がれた白ワインと温かい料理が並んでいる。見る間に、向かいの男は魚を腹におさめていく。
「これを食べたいのか?」
君も同じものを頼んでいるのに、と彼は少し困ったように笑ってフォークに切り身を乗せる。
「どうぞ」
差し出されたフォークの先には一枚のコインが乗っていた。この国で扱う種類のものではない。これは、彼の大切なものであるはずなのに、おれが食べてもいいのだろうか。
いいのか? と、目で問うと、もちろん、と目で答える。
身を乗り出して口を開くと、彼は、舌の上にうやうやしくコインを乗せた。
「飲み込んで」
言われたとおりに嚥下すると、彼はようやく話を再開させた。
「君は、ぼくのこころを飲んだんだ。もう、直接聞かなくてもぼくの気持ちがわかるだろう」
「お前から聞きたかったんだ」
顔をしかめて言うと、相手はおれの顔になにかを見つけ、ついてる、と自分の口元に指をあてて示した。おれが口元を触ると、違うよ、と腕が伸びてきて触ったのと反対側の唇がぬぐわれる。相手は満足げに、指先についたスズキのかけらを舐め取った。
「ニール!」
思わず強い口調でたしなめたが、当のニールはどこ吹く風だ。軽やかに笑ってグラスをかたむける。
なんの話をしていたんだったか。
皿をこするナイフとフォークの音がする。それとも、カップにあたるスプーンの音だろうか、いや、もっと小さくて高い金属音だ。狭いところを少しずつ前へと進む音だった。耳を澄まして音を聞く。もう少しで目的の場所に手が届く。
「準備はできた?」
ニールが正面からおれを見つめる。おれはニールに手を伸ばし、
扉を開ける。身体がどろのように重い。部屋に入ると沈み込むようにソファに横たわった。連日の任務で休息は充分に取れておらず、まぶたが勝手に落ちてくるのを阻むのがやっとだ。
「眠ってしまえばいいのに」
部屋にいた壮年の男が声をかけてきた。そういうわけにはいかない。
「ようやく時間ができたんだ、話をしよう」
おれがつぶやくように言うと、机の上に水の入ったグラスを置き、彼はふう、と息をついてソファのそばに座り込んだ。
「話って、なにを話すの? 疲れているでしょう」
重いまぶたをかろうじて開き、おれは目の前の人間に目を向ける。彼は床に直に座っているので顔を見上げるかたちになった。
「お前と話をしないといけないんだ」
どうしても、と心のなかでつづけ、でも、なぜだろう、と同時に考えた。
「なんでも訊いてくれ」
眉を上げておどけたように彼が言う。それから、なにかに気づいてにこりと笑い、「いい?」と問いかけた。目顔で了承を伝えると、こめかみのあたりをつまむ仕草をする。
「ついてた」
目の前に広げられた彼の手のひらは赤黒い液体でべったりと濡れていた。手首をつたってポタポタと雫がシャツの上に落ちてくる。濃い血のにおいが鼻の奥に刺さる。心臓が冷えて身体から温度がなくなっていくのに鼓動だけは速くなった。
「なにについて話そうか」
手のひらを広げたまま、彼はやさしい笑顔をこちらに向ける。
おれは魅入られたように、間断なく落ちる雫から目が離せない。
「これは誰の血だ」
かろうじて聞き取れるほどの音で訊くと、耳元で彼がささやく。
「君の血だよ。ずっと溢れて、止まらない」
横たわった胸の上に赤い雫が落ちてシミになっていく。
良かった、自分の血だったのか。
ほっとして隣を見上げると、彼は悲しげに眉を下げて、血のついていないほうの手をおれに伸ばした。
「君について話そうよ」
指の背で額を撫でる。
お前について話したい、という言葉は口から出なかった。
シャツを打つ雫から、額を撫でる指のほうへと意識が向かう。往復する指に集中すると鉄のにおいが引いていった。気持ちが緩んだのを見逃さず、強い眠気がおれを深みに引き込んでいく。身体から徐々に力が抜け、意識だけが浮き上がる。抗いがたい欲求に薄く見つけた隙間から、どうにかして一言だけ言葉を残した。
「ここはどこだ、ニール」
世界は暗闇に覆われた。
「部屋のなかだよ」
遠くに声が聞こえた気がした。
声ではなく、金属がこすれる音だった。重い音ではなく、か細くて聞き取れないくらいのかすかではりつめた音だ。息をのんで待ちわびるような緊張感が漂っている。なにかを期待しているようだった。カチリ、と音がして、
扉を開ける。
「無茶しちゃだめだよ!」
扉を支えきれずにたたらを踏んでよろけたおれを、彼がしっかりと支えた。身長は相手のほうが高いのだ、支えられてもおかしくはないはずなのに、なぜだかひどくうろたえた。
「悪い、思ったよりもダメみたいだ。来てくれてありがとう、ニール」
「熱が高いから、ベッドで寝てたほうがいいよ」
学校では、スポーツが得意だとわざわざ主張しない友人は、けれどもその実、身体を動かすのが苦手ではなかった。
「やっぱりニールもおれのチームに入らないか? 素質はあると思うんだけど」
「熱で判断力がなくなってるな。基礎体力が違うだろう」
「そんなの、鍛えればどうとでもなる」
支えられたまま、二階の自室まで連れて行かれてしまった。これではまさしく連行だな、とベッドに身を投げだして思っていると、おれの足から甲斐甲斐しく靴を脱がせてニールは言う。
「試合に出られなかったのは残念だけど、ここで無理したら練習もトレーニングもできなくなるんだよ」
わかってる? と指を突きつけられ、言葉もなかった。一瞥を残してニールは洗面所に向かい、なにやら作業に取りかかる。水の音が聞こえた。
発熱したことで試合に出られないとわかり、今日のためにずっと準備をしてきたのに、と自分の意思に従わない身体に腹を立てていた。自分のコントロールくらいできると証明しようとして少しトレーニングをしてしまった。身体を動かしているうちに、本格的に全身に熱が回って目も回った。
ニールから連絡が来たのはそんなときだった。
「君は、本当に無茶をするね」
濡れたタオルを額に乗せながらニールが言う。むっとして横目でにらむと、水でひやりとした手で頬を挟まれた。冷たくて気持ちがいい。目を閉じて感触を楽しんでいると、ニールの声が低く響いた。
「君は、生きたがっている。ぼくも、君には生きていてほしいと思っているよ」
まぶたを開くと、いたわりをたたえた優しい眼差しがおれを迎えた。
同じ学校に通っているクラスメイトで勉強が得意で、体力はあるのに面倒がってクラブ活動には参加しないニール、初めて会ったとき、久しぶり、と言って抱きついてきたニール、おれが倒れるときは、いつだってすぐそばで抱きとめてくれるニールがそこにいた。知っている相手とは、最低でも十は年齢が違うように見える、壮年の男を前にしておれにはそう見えた。
「お前は、いま、いくつなんだ?」
おれの問いかけに答える代わりに、おれの手のひらを自分の頬にいざなって、彼は訊く。
「いくつに見える?」
手のひらを上下に動かすと、頬からは無精ひげのチクチクとした感触がして、つるりとした肌触りとは言い難かった。両手を使って顔のパーツを確かめていく。眉間と目尻にはかすかにしわがあり、さすっても消えない。記憶よりも肌のはりがなく、皮膚は分厚くなっているように感じた。
「大人に見える。大人のニールだ」
でも、こちらを見つめる両目は覚えている友人の目と同じだった。おれに力を与える魔法の瞳だ。もっと違和感を覚えてもいいはずなのに、この状態をおかしいとはあまり思っていなかった。ああ、そうか、と妙に納得する自分がいた。
「ここはいつなんだ」
ニールはおれの手のひらに頬を寄せて目を閉じた。
「ここはいまだよ」
「おれは、夢を見ているのか」
自分の願いを具現化させて? 大人のニールに会いたかったのか?
「君は、記憶を見ているんだ。本当にあったことと、こうだったらいいと思ったことと、そのすべてをひとまとめにした記憶を」
「……おれは死ぬのか」
ニールは目をパッと見開いて腕にすがりついてきた。
「まさか! 君は死なない。ぼくが死なせない」
まったく、困ったひとだ、と言わんばかりにニールは顔をしかめてぎゅっとおれの手を握り、名残惜しげに自分の頬から離す。その手を、ニールを見上げて上向いたおれの顔まで導いた。
「君は、自分がいくつだと思う?」
触って確かめる。短い髪、広い額、眉があってまぶた、なだらかな鼻の下に厚い唇、頬から顎にかけては髭がたくわえられている。
おれはいま、いくつだったろうか、三十五歳? 四十五歳? 少なくとも学生ではなかった。そもそも、学生時代にこの男と出会ってはいない。だから、この記憶は、だれかが作り出したものなのだ。きっと、自分自身が。
すっかり熱は下がっていた。
「ここから出ないといけないのか」
真っ白な空間で、おれとニールは向かい合っていた。
「君は、どうしたい?」
ニールは首をかたむける。
「状況がわからない。おれは、おれの意思でここにいるんだろうか」
「自分の意思なら、ずっとここにいたい?」
「そうかもしれない。お前と一緒なら、醒めない夢のなかで過ごすのもいいと思っているのかも」
ふふふ、とニールは声に出して笑った。顔を隠すようにしてくすくすと笑いつづける。
「……なんだ、笑うなよ」
眉をひそめて睨みつけると、ニールは悪い、と答え、はあ、と息をつく。頬に赤みがさしていた。本気で笑われていたようだ。
「場所を変えようか、どこに行きたい?」
少しうるんだ瞳をこちらに向けて、彼が訊く。
「初めて会った場所へ」
深く考えるまでもなく、口からするりと言葉が出た。にこりと口角をあげ、ニールが指を鳴らす。
インドにある会員制クラブだった。湿度の高い外気を入れまいとして、冷房が景気よく回されている。客が機嫌よく過ごせるように、とボーイがそばで待機しており、ニールはすぐに飲み物を注文した。
おれたちは最初に会った場所にいた。同じ日、同じ時刻、同じ服を着て同じ椅子に座っている。
「乾杯をしよう」
ニールがグラスを軽く上げる。彼のグラスにはウォッカトニックが、おれのグラスにはダイエットコーラが入っている。涼やかな音がグラスの重なりから聞こえた。
「さっきは笑って悪かった。君があまりにも君らしくないことを言うものだから、おかしくて」
おれは眉間のしわを深くさせて足を揺らし、つづきを催促する。ニールは飲み物に口をつけ、こちらに身を寄せて言う。
「本当は、ここにいるのは不自然だって、わかっているだろう。君は嘘をつくのが上手いはずなのに、自分を騙すのは下手くそだな」
「お前のそばにいたいと思うのは、不自然か?」
「それこそ状況によるだろう」
髪をかきあげ、はあ、と深くため息をついてから、ニールは下からすくうようにおれを見た。
「さっきから、うるさいんだよな。君には聞こえないか? カチカチ、カチャカチャ、キイキイ、ここから引っ張り出したくてたまらないってさ」
そう言われて、耳を澄ませてみる。グラスとグラスを合わせたときのカチンという硬質な音が聞こえる。いや、なにか薄い金属どうしがぶつかる音だった。探り当てようとしている。なにを? きっと、おれを。おれたちを。
「夢の終わりに、毎回この音が聞こえていた気がする。これは、おれをここから出すための音なのか」
「そうだね、だれかさんが、君をぼくに独占させてなるものかと躍起になっているんだ」
身に覚えがあるようで、少し照れくさそうに目線を外してニールが言った。
これもおれの記憶か? これから起きることに対しても、記憶があるというのだろうか。
「おれがここから出たら、お前はどうなる?」
そうだな、とひとけのないロビーを見渡してからニールはおもむろに立ち上がり、おれの前に膝をついた。こちらをまっすぐに見上げ、手のひらをおれの胸に当てがう。
「ぼくはもう、君のここにいる」
ニールの手は温かかった。その手を通して、自分の鼓動を感じた。母親の腹のなかにいたときのような、無垢な安堵が波になって襲ってくる。ここから出ていく覚悟などなかった。ただ、夢の世界はこの身にとってあまりにも甘やかすぎる。
「外に出たときに役立つ情報はあるか?」
胸の上に手の感触を抱いたまま問いかける。ニールはいたずらっぽく口の端を片方だけ引き上げて言った。
「すごく痛いぞ、歯を食いしばれ」
規則的な金属の触れ合う音が、無視できないほど高く鋭く響いていた。徐々に視界が暗くひずんでぼやけ、目を開けていられなくなる。
意識が内側に収束していくようだった。たくさんの場所に散り散りになっていた自分が、少しずつ一箇所に集まっていく。いままでいた場所とはまったく違い、そこは不自由で、窮屈で、思い通りにならないところだ。閉じ込められる、と不安になる。
胸の上に重みを感じた。
あたりが真っ暗になり、なにも見えなくなっても、胸に乗った手の感触だけがいつまでも残った。
限界までギリギリと引き絞る。引く力を緩めれば反動で思わぬところまで飛んでいくものだ。活きが良ければならなおのこと。伸び縮みするのだから、意識もゴムのようなものだと言ったのはだれだったろうか。
呼吸とともに全身に命が運ばれる。恐ろしいほど寒く、冷えている。どくりと重々しく心臓が動くにつれて無音のなかに音がする。聞きたい声だけを耳が拾う。視界に赤々と光が差した。血の色を透かした光があまりに明るく、おれは大きく目を見開いた。
「死んだら、殺してやる!」
「目を覚ました、ニール、やめていい!」
光と音と身体反応との情報が一気に溢れてこぼれ落ちる。それまで感じなかった痛みが急激に全身に回り、身動きが取れない。一呼吸ごとに胸が、頭が、脚が痛んでうろたえた。どうしてこんな状態になっているんだ。
「痛むなら大丈夫。生きてる証拠だよ」
声をかけた人物は少し青ざめた顔をしていたが、素早く気を取り直してほかの者とのやり取りを始めた。彼女はおれの部下だ。怪我を負った者への応急処置を得意としている。おれも恩恵に預かったのだろう。大丈夫、覚えている。
事務所だろうか、机の上に雑然と書類や旧型のパソコンが並ぶプレハブのなかに寝かされていた。太陽はまだ高く、窓からは明るい光がさし込んでいる。おれたちはみな、スーツ姿の軽装だったので、傍から見たら事務仕事の最中に同僚の一人が倒れたようにしか見えないだろう。
座り込んでいるもうひとりに意識を向ける。ぐったりとして力を失い、口を少し開けておれを見つめている。彼の手とシャツに血がついていることに気づいた。思わず声を上げる。
「ニール、血が」
口から喉にかけてがカラカラに乾いていて話すのが難しい。息を吸い、声を出そうとすると乾いた咳が出る。咳き込むと、頭も胸も背中さえもが激しく痛んだ。すかさずニールがおれの頭を抱き上げて膝に乗せる。
「君の血だ。怪我をしたんだ」
その段になって、ようやく彼が震えていることに気がついた。
「……確かに、痛むな」
ニールははっとしたように腕の力を弱め、泣きそうな顔をしたままおれの顔を覗き込んだ。
「ばか野郎、ぼくが行くまで待てと言ったのに」
ぽとりと、こぼすように喉を震わせた声だった。目を覆って熱い息を長く吐き出している。
おれは咳き込みながら、こうなる直前の記憶を呼び覚まして尋ねる。
「無事なのか」
背負っていたバックパックから水を取り出したニールはしばし動きを止め、こちらを睨む。彼の肌には、じっとりと汗が滲んでいる。
「……ああ。あいつら、ただじゃおかない」
「おれが悪い」
「わかってるなら、なんで……」
ニールの震えはすでに止まっていたが、こちらを見る目には怖れが残っていた。
さる、有力者の大学生になる息子がさらわれた。
その情報を耳にしたとき、おれたちは航空運輸業者の買収に難航していた。移動手段を簡便にするためと、クリーンな資金源確保のために必要十分な企業であったが反発が強かった。
誘拐の情報を得た買収担当者は、息子を誘拐され脅迫を受けている人物に見覚えがあった。改めて確認すると、買収予定の運輸業者の取締役と同窓生であり、昵懇の仲であることがわかった。
誘拐された子どもを取り返し、犯人を捕まえることができれば買収の口添えが可能と見込んで、おれたちは事件解決に名乗りを上げた。
思えば最初から、この誘拐には違和感があったのだ。少しの痕跡も残さずに大学生にもなる男を連れ去る手腕は見事だったというのに、妙に素人くさい会話で両親をさいなんでは喜んでいるようだった。計画と実働がちぐはぐで、統制が取れていないように見えた。
わかっていたのに、結局、このざまである。
「事故に遭ったことは覚えてる?」
ホイーラーが隊員との会話を終えてこちらに向き直った。応急処置をした箇所に目を走らせて軽くうなずきシリンジに薬液を入れる。
「身代金を乗せた車で廃車置き場に行ったところまでは」
「頭も打ってるからね」
あんまり動かさないで、とニールに話しかける。
おれはニールの腿の上に頭を乗せてホイーラーが打つ痛み止めが効くのを待った。
「映像を見て、君は疑うことをやめてしまった。もっと詰めてから動いたほうがいいと言ったのに」
ニールが真上から平坦な声でつぶやく。表情らしい表情は抜け落ちていた。ただ、瞳は、静かにゆらゆらと青い炎が燃えているように見えた。
痛みが引くのと同時にじわじわと記憶が蘇ってくる。身代金の受け渡しまであとわずかとなったとき、誘拐された学生を痛めつける映像が親に届いた。それまでは平静を保っていた両親も、理由のない暴力に我を失った。明らかに不必要な手段である。金は支払うとすでに伝えてあったのになぜ送りつけてきたのかと、部下から疑問の声があがった。だが、泣いて頼む母親に言われるまま、部下の言うことを無視しておれは身代金を渡すために車を走らせた。
約束の廃車置場に車を回すと爆発音がした。前方から廃車の山がなだれ落ちて来て、避けようとして事故を起こした。
「今回はニールの言うことに理があるね。まあ、犯人確保のきっかけは、ボスの車が追突した先にあいつらが隠れていたから、だったけれど」
眉を下げてホイーラーがつづける。
「爆弾の威力自体は小さかったけど、効果はてきめんだった。見てたら肝が冷えたろうね。最初にここに着いたのはニールだったんだ、あなたを車から引きずり出して安全な場所まで運んだのも」
「犯人は四人、うち一名が当の被害者だ」
出ていく隊員と入れ替わりにアイヴスが戸をくぐりながら言った。
「誘拐は狂言だった。ただ金が欲しかったのか、親を困らせたかったのか、理由はわからないがとにかくこれで終わりだ。全員捕まえて引き渡したからこちらからは手が出せない」
念を押すようにしてニールに言い含める。ニールの拳が握りしめられるのを見て、思わず手を伸ばした。おれの指が触れると、はっとしたように拳をひらいて代わりにおれの手を握った。
「爆発物を仕掛けたのは『実験』の一環だったと言っている。世間でもそう処理されるだろう。誘拐されるより事件を起こすほうが、信頼を売る商売をしてるやつらにとってはダメージがでかい。結果として恩は売れた、想定以上にな」
アイヴスは大きく息を吐いて「だとしても、買収が成功するかはわからんが」とこぼし、おれを運び出すための担架を用意した。三人がかりで移動させるときに、床においたニールのバックパックが横倒しになった。硬質な金属がたてる高い音がした。おれにとっての鍵を開く音、この音を、夢を見ている間ずっと感じていた。
倒れた荷物を持ち上げてホイーラーが耳元に口を寄せる。
「ニールがずっと心肺蘇生をしてた。かなりのストレスだったと思うから、注意してあげてね」
わたしも、きつかったよ、と彼女らしからぬくぐもった声を出した。
「悪かった」
おれが謝ると、口の端を少し上げて、ホイーラーは肩を殴る振りをした。
ニールとアイヴスによってプレハブから運び出された。ホイーラーや部下たちも荷物を持ってあとにつづく。戸口をくぐる際に、日差しに目を焼かれ、夢と現実のあわいにいるように軽くめまいがした。プレハブの外には崩れ落ちた自動車の残骸が散乱している。担架の頭側の取手を摑んで、ニールは危なげなく歩いていた。声を張って話しかける。
「ちゃんと聞こえていた」
ニールはおれの顔に目を落として、どうしたのかと首をかたむける。
「お前がおれを探して、扉を開けようとしているのがわかった。おれを引き戻そうとしていることも。それなのに、一瞬でも戻るのを躊躇してすまない」
ニールは首をかたむけたまま、仕方がないなというように眉尻を下げて目を細めた。ひとつ息をつき静かに言う。
「大丈夫、わかってる。もう、安心して眠っていい」
そう言われて自分の状態に気がついた。身体からは力が抜けていき、視界は光にかすんでぼんやりとして意識が徐々に緩む。
しっかりしろ、起きろ、目を覚ませ、ニールは座り込んで震えている。震えを止めるために、なぜためらったのかをきちんと言わなければならない。おれの弱さを、愚かさを、君への想いを。
「お前のそばに、いたかったんだ」
まぶたが落ちる。担架が揺れ、アイヴスがニールを叱るような声がした。
負傷者を病院に搬送する車の後部に、青年と彼の上司が乗っていた。ひとりで勝手に行動し、挙げ句、傷を負った男はいまや深い眠りのなかにいる。
青年は、血で汚れたスーツのジャケットを脱ぎ、身じろぎもしない男の頭の下にそっと差し入れて、振動で頭が勝手に動かないように固定しようとした。ないよりはまし、という程度だったが、いくらかは安心できた。
横たわった男を観察し、彼の手が担架からはみ出しているのに気づいた青年は、その手に指を絡めて握りしめた。親指を手首のほうに這わせて心臓の鼓動を確かめる。
不意に、なにか、特別好ましい夢をみているかのように、男が薄く微笑んだ。きっと、好物のソルベに埋もれながらどれから食べようかと選んででもいるのだろう。青年は、自分の想像に満足して、肩に張り付いたままになっていた緊張をようやく解いた。
「死ぬほど、たくさん食べさせてやるからな、覚悟しておけよ」
そっと、あいた手で横たわる頭に触れる。ゆっくりと撫でながら、ひとり言のようにつぶやいた。
「……ああいうことは、シラフのときに言ってくれ」
車体が揺れる。青年のバックパックに結びつけられたコインが、同意するというようにキン、と音をたてた。