朝にあからむ 他人の匂いがする。ずいぶんと好ましい匂いで深く呼吸をしたくなる。このままずっとぬくもりを受け取って眠っていたいと感じさせる、ほっとする匂いだ。
どろりとしたにおいも薄くある。普段なら不快なはずだが嫌悪感はなかった。汚れたという感覚もない。
心地いい疲労感がたゆたっている。前日の記憶が呼ぶ声に応じて目を覚ました。
カーテンの隙間から差し込む縦に伸びた陽の光を受けて、金色の髪が光っている。自らキラキラと発光しているようでもあった。ニールは肩の上までシーツを引き上げ背を向けて眠っていた。おのずとおれ自身も鼻先までシーツにすっぽりと覆われ、それゆえニールの匂いを捉えていたようだった。
数時間前の記憶が戻ってくる。お互いがなにを求めてなにをしたのかも、しっかりと覚えていた。
身体を起こして顔を拭うように手でこすると隣で寝ている男の匂いが強くなった。指を鼻先に持っていこうとするのを握って止める。はあ、と一度息をついてちらりと横に目を向けた。おれが起き上がったためにシーツがめくれあがり、ニールの白い背中があらわになっていた。
ぎょっとして目を開いた。ぼうっとした気分が吹き飛ぶ。背中には、首筋から尾てい骨あたりまで──あるいはもっと下の方まで──まばらに赤いうっ血の跡が残っていた。跡なんてつけるつもりはなかったのだと心の中で言い訳をしている間も赤い色から目が離せない。
──もっとして、それ好き、もっと。
ニールの声が蘇り、言われるがままに口づけていたことを思い出して心拍数が上がった。音が鳴るほどの勢いでシーツから抜け出して下着を身につけすぐそばのキッチンに向かう。頭を冷やさなくてはならない。
顔を雑に洗い、グラス二杯分の水を飲み干して一応の落ち着きを取り戻し、形ばかりの寝室を振り返った。寝られればいいだけだからと借りた部屋は狭く、そこに置いたベッドは言うまでもなく小ぶりだった。
ニールは身体の下側に腕を抱え込むようにしてベッドの端からずり落ちそうな姿勢で眠っている。細い光が横たわる男の輪郭を照らし出していた。髪を輝かせ、肩口の滑らかさを際立たせ、堅い腰まわりと素直に伸びた脚先までを浮き上がらせる。その姿を舐めるようにして見ている自分に気づき、目が泳いだ。
もう一杯水を汲もうとしたとき、ようやくニールが起きる気配がした。
低くうなるような声を上げて身体を上向きにし、隣に手を伸ばして目を開く。かたわらの空いた空間に目をやり、すぐにこちらを振り向いた。まだ眠そうにしているものの、しっかりとした口調で言う。
「おはよう、よく眠れた?」
なぜか言葉を返せず、軽くうなずくにとどめた。ニールの顔に視線を送ろうとしてうろうろとさ迷わせる。そういえば水を注ごうとしていたんだった、とシンクに向き直りあわてて蛇口をひねると思った以上に水が勢いよく飛び出た。手から滑り落ちたグラスがシンクにぶつかり大きな音を立てる。
背後からひそやかな笑い声がした。できるだけ抑え込もうとしているが、堪えきれないといった感じだ。自分を笑う相手を振り向くと、ニールはくすぐったそうに肩を震わせている。ひとしきり笑い終えると涙の滲んだ瞳を細めてひとこと、「気まずい?」と訊いた。
口を引き結んで水を満たしたグラスを持っていく。無言で差し出すとニールは大儀そうに身体を起こしてから水を飲み干した。空になったグラスを受け取りキッチンに戻り、肩越しに「もう一杯飲むか」と問う。ニールがおれを目で追っているのはよくわかっていた。
返答が聞こえないので振り返ると、ニールはふたたびベッドの上に頭を横たえている。彼は二度ほどうなずきかけ、黙って両手をおれに差し伸ばした。とろんと軽く落ちたまぶたから覗く瞳には昨日のような激情は浮かんでおらず、親愛の情が滲んで見えた。単純なコミュニケーションだといった軽快さがあり、考えることを放棄させるやさしさを感じた。
水を満たしたグラスを運んで枕元に置くまでずっと、ニールは両手を開いたまま上目遣いにこちらを見つめる。抗いようのない魅惑に誘われ、ふらふらと腕の中に倒れ込んだ。するとすぐに体勢を入れ替えられ、ニールはおれの上に乗り上がるようにしてきつく抱きしめてくる。首元に髪があたって少しくすぐったい。くぐもった声が響いた。
「こうやってれば気まずくないだろ」
「顔が見えないから?」
天井に向かって声を上げる。
なるほど、たしかにそうかもしれない。
「そうだよ」
ニールは笑いを含ませて答えた。
シーツにくるまれたままの背中をさすり、肩に乗った頭に手をやる。寝乱れた髪をとかすように指を上下させていると熱い吐息がかかった。
「気持ちいい、寝ちゃいそう」
「寝ればいい。特に予定もないんだから」
「こんなに天気のいい日にきみと一緒にいられるのに寝て過ごすなんてもったいないだろう。お腹もすいたしどこかに出かけよう。このあたりにはうまい朝食を出す店はないのか」
「さあ、どうだろう、探したことがないから」
おれの言葉を聞くと、ニールは深いため息をついて顔を覗き込んできた。
「きみはそういうところがあるよ。食べられればいいってもんじゃないだろう、せっかくならおいしいものを食べてもらわないと」
「なんだそれは。好き嫌いがないんだ、褒めるところだろう」
いやいや、とニールは首を振る。
「きみには好き嫌いがある。……わかっているくせに」
ニールを見上げていると、たしかに好き嫌いはあると実感する。それは食の好みではないものの、欲として近い場所にあるものだ。
じっと見つめているとニールの青い瞳が揺れ動いた。
「なに?」
ニールが訊く。なにも言わずに見つめ続けると、ニールはなんだよ、と苦笑するように眉をひそめた。困惑する男をそのまま見つめ続ける。どういう反応をするのかを見てみたいというだけの独りよがりの行動だった。
「にらめっこか、きみには勝てないからもうやめてくれ」
昨日と違って落ち着かないようすのニールに、にやりと笑いかけて断言する。
「おまえが好きだ」
きょとんと目を開き、一拍の間を置いてからニールは息を呑んだ。え、とうろたえる声が聞こえるのでまっすぐに目を見て言う。
「キスがしたい」
「……そういうことをさあ、さらっと言えるのにきみは……。さっきまであんなに照れてたのはフリなのか」
「キスは嫌いか」
「どうかな、してみないとわからないな」
ニールは鼻で笑ってから軽く唇をあててくる。うん、とひとつうなずき、角度を変えてもう一度。まあまあかな、とつぶやきながら何度か繰り返した。
「好きになってきたか」
訊くと、ううん、とうなって「ぼくからするばっかりじゃな」とぼやく。
それならば、と自分の頭を持ち上げてキスを仕掛けると、ニールは身をよじって逃げた。それを噛みつくような仕草で追いかけると声を立てて笑う。
人間ふたりが暴れるには小さなベッドの上で起きたささやかな追いかけっこはすぐに決着がついた。ふたりとも身体にシーツをまとわりつかせたまま動き回ったのでいま背中を覆っているものが上のものか下に引いていたものかもわからない。どちらの脚が引っ掛けたのかベッドのそばに引かれていたカーテンは半分開き、明るい陽の光が差し込んでくる。
上からのしかかるようにして見下ろすと、笑いすぎて息の上がったニールが、「降参するよ」と目を涙を浮かべて両手を上げる素振りをする。
「きみのムキになる姿を見たいって奴は、ぼくじゃなくてもたくさんいるだろうな」
「おれが乗せられやすいと?」
「鷹揚だって言ってるんだ」
「おまえ以外には?」
「ぼく以外にはね」
ニールは満足そうに言うとおれの首に手を回し、自分に引き寄せて先程よりいくぶん熱のこもった口づけをした。
やわらかい唇によってやさしく食むように口を開かされる。ニールは、さあ、ついてくればいい、と言うように先導し、最良の心地よさを与えた。絶妙なタイミングで唇を離して目を開き視線をまじえる。熱情の程度を測るかのように表情を確認しては幸せそうに微笑んでおれの動きに合わせて首を引き寄せた。
ニールの動作には思いやりと余裕があり、こちらがどれだけ熱を上げても受け入れてくれると信じさせる度量があった。しかし、それと相反する重い炎が彼の身のうちに燃えているのも知った。昨夜、逃がすものかと覗き込んできた彼の瞳の底に沈んでいたものこそが、気が付かない振りでずっと目をそらしてきた昂りだった。それまでは、軽くいなせば吹き消せるほどの軽い火でしかなかったが、昨日のものは全く違った。どうすればいいか判断がつかずにただ、目の奥の炎をじっと見つめることしかできなかった。低温やけどのように知らないうちにじわじわと熱を与えられ熱傷を作るのも悪くないかもしれないと思った。思ったら、口に出していた。
「おまえに燃やされるのか」
ニールは機嫌を損ねたように顔をしかめた。
「そんなつもりはない。はっきり言って、きみを傷つけたくはない。ただ、ぼくの気持ちを伝えて退路を断ちたいだけだ」
「どうしてそうする必要がある?」
眉を下げて仕方がなさそうに笑い、ニールはつぶやいた。
「ぼくが言わないときみはきっと一生はぐらかすから」
でも、単純に、きみとしたいと思ってるだけ、と続ける彼を抱き寄せてしがみついた。ニールの読みは正しかった。彼が行動を起こさなければつかず離れずの関係のままだったろう。自分をさらけ出すのに臆病なおれは、いつだって彼のやさしさに甘えている。昨日も、いまも、導かれるままに身を委ねて悦楽を享受している。
「……っ、ァ、待って」
口の離れた瞬間にニールが息と一緒につぶやいた。記憶に沈みながらキスをし続けていた。しつこかったか、と顔を離すと遠くに行かないようにと首に回す腕に力が込められたのがわかった。ニールは紅潮させた頬を緩めて小さく囁く。
「どうしよう、またしたくなってきた」
鼻も頬も額も真っ赤になっているのが日光に照らし出されていた。おれはお互いの鼻と鼻ををこするようにして軽くうなずく。
気が抜けたように息を吐いて目を閉じるニールの熱い顔の上に際限なくキスをする。身体の凹凸を確かめるようにニールの手がおれの背中を降りていく。じわじわと熱を高め合う感覚に浸り、首筋に顔を埋めた。昨日のように唇と舌でニールが震える場所を探ろうとして身体が固まった。
なぜ気が付かなかったんだろう。夜の間ならまだわかる。光源がなくて見えなかったのだ。だが、今朝はずっと明るかったのに。
ニールの首筋には赤黒い印が残されていた。背中にあったどの赤い跡よりよほど大きく痛々しい。執拗に同じ場所を吸い続けたことが伺えた。すう、と血の気が引いて身体を起こした。
どうしたのかとこちらを見上げる視線がまっすぐで心苦しい。今度はカッと頭に血がのぼるような気分になり、なぜか睨むようにニールを見下ろしてもごもごと言い訳を口にした。
「いまはやめておこう。おれが買い物に行くからここで朝食を摂ろう。用意をしてくる」
「……わかった。急に態度が変わった理由は聞かないでおくよ」
ニールはかすかに笑っておれの頬に手を当てた。熱くなっているのがバレてしまいそうでいっそう身体を引く。
「嫌になったわけじゃない。その、なんだ、とりあえずシャワーを浴びてくる」
逃げるようにしてその場を立ち去り浴室に駆け込んだ。そうしてから、態度が悪かったかと自分の行いを振り返る。すると、芋づる式に昨夜の振る舞いまで思い出した。ニールの首筋にある赤い跡がまぶたの裏に浮かぶ。ええい、と冷たい水を浴びて気を落ち着かせた。力加減がわからないだなんて、そんなことがあっていいわけがない。一事が万事だ、他にもあったに違いない。冷たい水を浴びているのに、一向に羞恥からくる熱さが逃げずに身体に溜まっていく気がした。
じゅうぶんに頭を冷やしてから浴室を出るとベッドの上にニールはいなかった。半分物置と化している隣の部屋からなにやらごそごそと音がする。開いたドアから覗き込むと、昨日着ていた自分のシャツと下着だけを身に着けたニールが服をみつくろっていた。
「きみのコーディネートをしようと思ったんだ。どの服を着てもきみのすてきさは変わらないけどね」
はい、と上下の服と下着、靴下を渡される。なにも用意せずにシャワーを浴びたのでバスタオルを巻いただけだったおれを見てニールは心得たりといったようすで笑った。
「ぼくの着られる服もあるかと思って探してるんだけど、なかなか見つからないな」
「スラックスはだめだな、ジャージなら合うのもあるんじゃないか」
ニールはにこりと笑って答えた。
「探してるのは上の服なんだけどね。朝食を買いに行くんだろう? きみが好きなものを買ってきてくれ、なにを選ぶのか興味がある。シャワーが長すぎてお腹が減ったよ」
それはもっともだ、とうなずき下着を手に取った。一挙手一投足をニールに注視されながら服を着込み、靴下を穿いて用意を終えるとすっと足元に靴を差し出された。素直に履いて踵を返す。
「すぐに戻ってくる」
財布を手にして歩き出すとニールは見送りのために玄関までついてきた。付き合いたての恋人同士そのものといった行動に思えてようやく冷静になったと思えた頭に再び熱が満ちてきた。
まともに顔が見られなくて目を伏せる俺に向かって、思い出したとばかりにニールが口を開いた。
「最近寒くなってきたよな、ストールなんかが売ってたら買ってきてくれないか? マフラーを巻くには時期が早いからさ」
「わかった、他にはなにかあるか?」
「それだけだ。きみこそ、今日なにをしたいか考えておいてくれよ」
おれは曖昧にうなずいて玄関の扉を開いた。閉じていくドアの影でニールの口がにやりと笑ったような気がした。
部屋のある建物から出てあたりを見渡す。時間が早いから衣料店は開いていないので、グローサリーにストールは売ってるだろうかと当たりをつける。近所の店に向かおうとした途端に足が止まった。玄関先でニールが言った言葉の意図をようやく把握したのだ。
そう、おれの態度はおかしかった。その理由が気になるのも無理はない。それに、鏡を見ればすぐに合点がいくことだ。ニールはハイネックの服かなにか、首元を隠せる服を探していたのだろう。それがなかったからおれにおつかいを頼んだ。
出てきた部屋を振り返る。陽の光がガラスに反射していてそこにだれかが立っていても認識できなかった。
物わかりの悪い自分に対してひとつため息をつき、脳内の買い物リストの一番上にストールの項目を置く。今日一日、なにをするにしても彼の希望の妨げにならないように、せめてもの心配りをしたい。
店へと歩き出し、買い物リストの二番目である朝食をなににするかを考える。おれの好物がいいと言っていたが、どれがいいだろう。昼食を外で摂るなら朝は軽くすませるべきか。いずれにしろ、帰ったら一日のうちにしたいことの候補を挙げないといけない。
勝手に頬が緩んでいく。予定のない一日の過ごし方を計画するのがこんなに楽しいなんて忘れていた。浮かれている気持ちを引き締めようとして額と口に力を入れるが、そうしたそばからにやにや笑いが止まらない。
仕方がない、部屋に戻るまでにはこのふやけた顔をなんとかできるようにしよう。それまでは、思い出し笑いだろうが予定を考えてだろうが、せいぜい浮かれているんだな、と感情に押し流されるのを楽しむことに決める。
無理をするのを諦めて見上げた空は雲ひとつなく明るく澄んでいた。
さて、今日はふたりでなにをしようか。