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    『麺屋てねっとへの道――ちまたで話題沸騰。新進気鋭の店主が誇る、謎に包まれた製法に迫る!』
     何度も開きすぎて背が割れた雑誌の誌面を目で追いかける。仰々しい煽り文句にまったく引けを取らない本文を読むたびに、アイヴスの口元には自然と笑みが浮かんだ。
     見開き二ページを使った誌面には、胸の前で腕を組んだ店主の写真が掲載されている。眉間にしわを寄せ、顎にはひげをたくわえた迫力のある姿だ。当時はその厳しい顔つきから、相当厳格な店なのだと思いこんでいた。だが、いまなら、写真を撮られたときの彼は緊張していただけなのだと簡単に想像がつく。
     「相当」厳格な店ではなかったとしても、麺屋てねっとには規律があるし、衛生や食に対する態度はずば抜けている。しかし、より良いものを提供するのだという自負とそれを支える実績が、彼自身のみならず店全体からオーラのように漂っていると知ったのは、この雑誌を読んだ後、初めて現地に足を踏み入れたときだった。
     カウンターに六席とテーブル席が四卓ある活力に満ちた店内には、客の要望によく気づく店員と、麺とスープに一心に向き合う店主がいた。彼は手早く、かつ丁寧に具材を盛り付けると音を立てないようそっとカウンターの上に器を置く。湯気の立つ器越しに、店主の目がアイヴスを見た。
     周りの音がすっと遠ざかった。きりりと引き締まったまなじりに、アイヴスは自身の未来を垣間見た。
     ほとんど内容を記憶している記事を頭から終わりまで確認した。一週間前までなら、この記事を読み返すたびに自身の選択の確実さに心を弾ませたというのに、いまは、胸につかえる重りがアイヴスをつかんで離さない。
     ――これ以上、なにを求めるってんだ。
     思わず出てしまいそうになるため息を飲み込んでバイクの鍵を握る。開店準備の時間だった。

    「最近なにかあったのか?」
     たまごの皮を剥きながら背中を向けたニールが言った。つややかで美しいフォルムを保ったままの白身が次々に彼の手元から現れては水を張ったボウルに飛び込んでいく。
     午前十時十分現在、店主である男はこの場にいない。正午の開店までに普段なら三人で回す仕込みを、アイヴスとニールのふたりだけで行っていた。
     麺屋てねっとの目玉は、鯛を使用した黄金色に透き通ったスープだ。鼻に抜ける優美な鯛の風味を味わった者は、店を出て帰宅してから、今日食べた一杯をもう一度口にしたいと焦がれてしまう。
     もちろん盛り付けにもこだわっている。やわらかな煮卵や歯ざわりのよいメンマはなくてはならないし、注文を受けてから火を通す鯛の切り身は自己主張しすぎず儚げで、箸をつけるのをためらわせるほどだ。整然と並ぶ盛り付けの中心に載った品の良い三つ葉が器自体を引き締め、店主が打った自家製の丸麺を飾る。アイヴスは、初めてその麺を食べたときのコシのある食感とつるりとした喉越しを忘れられなかった。
     アイヴスはニールの発言を無視して香草や野菜、鯛のアラを入れた寸胴鍋に向き合った。これをしばらく煮詰めた後、店主が作ったスープに合わせるのだ。黄金色の透き通ったスープには、二日間に渡る仕込みから今朝の作業まで、すべての工程が必要不可欠だ。店主の鍋を確認する。灰汁は溜まっていない。スープが完全にできあがるまで気を抜くのはご法度で、無駄話などしている暇はなかった。
    「聞こえてるだろ」
     アイヴスに身体を向けたニールはすでに煮卵用のたまごを剥き終わり、そのタレを用意するための調味料を四つ、片手だけで握っていた。小指だけで支えられたゴマ油が落ちそうになっている。
    「横着するな。落とすぞ」
     アイヴスの小言に肩をすくめたニールは危なげなくボウルに調味料を注ぎ、「店主ボスのことだろ」と断言した。
     ドキリとした内心を抑えつつ、アイヴスは否定も肯定もせずに寸胴鍋を睨み続けた。鍋の中から、今後の振る舞い方の答えがにじみ出てくるのを期待したが、そんなものは現れない。
     ニールが大きくため息をつき、ま、いいけどさ、と前置きをした上で言った。
    「なんであれ、あのひとには早めに言ってやれよ。結構気にするたちだから」
     そんなことは分かってる、だからこそ悩んでいるのだなどと声に出せないまま、アイヴスは眉間にしわを寄せた。
     十一時四十分――開店の二十分前になってようやく、小麦粉や野菜、魚を山積みにした袋を抱えてボスが現れた。三人で手分けして食材を冷蔵庫にしまい、店の準備を急ぐ。
     ボスは、すまない、遅くなったと言いながらエプロンを腰に巻き付けると、ちょっといいかとふたりの注意を引き、こともなげに言った。
    「ロータス産業が休業する」
     アイヴスはカウンターを拭く手を止めてキッチンにいる店主を注視した。ぎょっとした顔でニールが訊き直す。
    「じゃあ、明日もぼくらが買い出しをしに行かなくちゃならないのか? すぐにロータス以外を探すべきじゃ……」
     ボスは毅然として首を振った。
    「いや、いまは考えていない。サーバーアクセスの障害で発注ができないらしいんだが、復旧作業を進めていると言っていた」
    「でも、近くのスーパーでは買えないものばかりだろ? 今日まではよくても、明日使う鯛のアラはどうする」
     スープの大元、味の決め手となるのが鯛だった。それだけではなく、煮干しやほかの魚介も使用して味わいを深めている。普段はロータス産業を利用してほとんどの食材をまかなっていたが、今日はわざわざボスが直接受け取りに行ったのだ。実際は、詫びを入れられていたのだろう。こちらに出向くのが筋だとアイヴスは思うものの、ボスの行動に否やはない。とはいえ、緊急事態である。
     ――よりによっていまか。
     アイヴスは口を引き結んで店主を見つめた。ボスは軽く肩をすくめて、なんとかなるだろと言い、気を取り直すように大きく手を叩いた。
    「開店の時間だ。話し合いは後にしよう」
     店の前にはすでに列ができている。ニールとアイヴスは目配せをして店主の言葉に従った。

     最後の客を見送ったニールが暖簾を仕舞うために外に出た。万事卒なく営業を終えられたものの、いつもと変わらず忙しかった。特に今日は、ロータス産業休業のためかボスへの連絡が多く、彼は頻繁に手を止めては電話に出ていた。そうでなくとも、この三人が揃って力を発揮しなければ営業を乗り切れないと毎日感じている。それなのに――
     明日の仕込みの準備をする店主の背中を眺めていると、その背中が声を発した。
    「黙ってないで言ってみたらどうだ」
     振り返ったボスがアイヴスに向かっていたずらっぽく微笑んだ。
     アイヴスはテーブルの上に視線を逸らし、新たな汚れが見つかったというように懸命に拭きはじめる。
     なにか言いかけたボスを遮るようにして、外から戻ってきたニールが「それで、どうするつもりなんだよ」と詰問した。
    「明日からの仕入れについて、うまい代案はあるのか? このへんではモノが手に入らないからロータスに頼んでたんだ。明日中探したって近場でいい素材が見つかるかどうか分からないだろ」
     不満げな顔を隠しもせず、ニールは暖簾を壁に立てかけた。ボスは、うむと言うように頷くとコンロの火を止め、調理場から出てふたりに向かい合った。
    「ニール、話がある」
     そう言いながら、彼の目はアイヴスを捉えた。
     まさか、あのことを言う気かと、アイヴスは顔を強張らせた。
    「ボス、まだおれは……」
     店主は静かに首を振り、「じゅうぶん時間はあったはずだ」と噛んで含めるように言う。
     ひとり蚊帳の外に置かれたニールは腕を組み、唇を尖らせてふたりのやりとりに嘴を挟んだ。
    「なんか雰囲気悪いと思ってたけど、その説明をしてくれる気になったって?」
     アイヴスが止める間もなく、ボスは軽い口調で話し出した。
    「悪い話じゃない。ダウンタウンの駅構内に、二店舗目の出店が持ちかけられた。客席はここの半分で、それに合わせてメニューも限定する予定だ。開店時間はここより短時間で、昼から夕方まで。おれは、アイヴスに任せたいと思ってる」
     ニールが目を開いてなにか言おうとしたのを遮り、アイヴスは声を荒げた。
    「待て、おれは承諾してない。あんたのところに来てまだ三年だ。おれひとりじゃうまくいきっこない。そもそも、ニールより後から入ったおれが任されるのはおかしいし、おれが抜けたらここはどうなる、ふたりで回せる客入りじゃない。それに、ロータスも休業するならひとりでも多い人員が必要だろうが」
     腕を組んだニールが、アイヴスが口を閉ざすのを待って「ちょっといいか」と訊いた。
    「ぼくに気を遣ったつもりで二号店を断るなら、アイヴス、きみを恨むぞ」
     まじめな顔をしたニールがアイヴスを見つめて続ける。
    「ぼくがこの店で働いているのはボスがいるからだ。ボスが望むならパスタ屋でもうどん屋でもどこでだって働いたさ。ただ、彼がいないなら、そこはぼくにとって特別な場所じゃない。
     だけどきみは違うだろ? アイヴスはラーメン自体が好きなんだ。そりゃあ、ボスと比べたらまだまだだろうけど、だからってこんなチャンスを蹴り飛ばすなんて大馬鹿だ。自分が馬鹿だってわかってるのか」
     重ねて馬鹿と言われてアイヴスはカチンときた。二号店の店長への打診を受けることがどれだけ恵まれているかなんて、他人に指摘されるまでもない。
     黙ったアイヴスに目をやり、ボスが静かに口を開く。
    「訊くが、アイヴス。それなら、あとどれくらいおれの元で働けば二号店の店主を担えると思うんだ」
     アイヴスの胸に重りが増した。一週間前に打診を受けてからずっと、積み重ねて考えていた議題だ。
    「そりゃあ、もっと修行して、あなたのように考えて、味わえるようになってからじゃないと……」
    「それは、どれくらい先なんだ?」
    「そんなの、自分では分かりっこないです。でも、もっと後だっていうのは分かります。いまのおれはまだまだだから」
     そうか、と息をついてからボスは首を傾げた。
    「おれが独り立ちしたのは、師匠に教えを請うてから一年半後だった。駆け出しのひよっこだったおれを支えてくれたのがニールだ。ふたりで必死になって自分たちの味を探した。魚介を好んだ師匠の味に惹かれて似せてみたら、こっ酷く叱られたものだ、自分の味を見つけろってな。だからアイヴスにも、近く自分の店を持つ気があるなら二号店の店主の話を断ってくれと伝えていた」
     聞いていたニールの眉がピクリと動く。それに構わず、ボスはアイヴスに語りかける。
    「きみにはセンスがある。勤勉だし努力家だ。なにより、ラーメンにかける情熱が身体の真ん中にある。周りの助けさえあれば、すぐにも独り立ちできる。それこそ、二号店であれ、自分の店を持つのであれ、夢なんかじゃないんだ」
     ボスはやわらかく目を細めて、拳を握るアイヴスに言った。
    「きみならできる」
     アイヴスはこの店に来て以来、彼の言葉を信じてきた。まっすぐで誠実、嘘のないいくつもの言葉を受け取って、この店の味と風紀を守っていた。その自負はアイヴスの心を育て慈しんだ。この店と店主と共にあれば、いつだってアイヴスは、それまで以上の自分自身を見つけられたのだ。
     だからこそ、一週間前に通告されたボスからの突然の申し出にアイヴスは動揺した。彼が自分をうとましく思って引き離すのかと疑ったほどだった。
     アイヴスはボスのそばで働き、ニールのように彼を支え、ときには頼りにされるのがなにより嬉しかった。ここにいれば、道に迷っていた自分を導いてくれた相手に恩返ししながら技術を身に着けられるのだ、それ以上のなにかを望むなんて、身に余るではないか。
     けれど、ボスはそうは思わなかったらしい。
     自分自身よりも自分を買ってくれているのに、どうして自分ではそう思えないのか。アイヴスは、声が震えないように気をつけて口を開いた。
    「おれは、まだ、あなたみたいになれない」
     ボスは笑みを深めた。
    「おれになる必要はない。きみのしたいこととできることを突き詰めてみるいい機会だと思うだけだ。最初に言ったように、無理強いはしない。失敗したっていい。おれがついてる」
     初めて店に足を踏み入れたときを思い出す。
     あのまなざし、あの香り、あの味わい。一杯のラーメンを食べ終わるまでに、アイヴスはここで働く自分を夢想した。そして、自分でも驚くような果敢さで店主に掛け合った。ここで働かせてもらえないか、と。
     店主は目を開き、アイヴスをしっかりと見つめてから、明日の開店前に来るようにと言った。
     あのときから新しい自分が始まった。同じ場所で、再びなにかを見つける機会が与えられている。自信はない、けれど、彼はやってみろと言う。
     今度は、どうしたって声が震えた。
    「どうしてそこまで言ってくれるんですか」
     ボスははっきりと言い切った。
    「きみのことはよく知ってるからな」
     よく言う、とアイヴスは笑い、そのせいで涙が落ちた。店主は初対面のときからアイヴスを信じようとしていた。働きたいと申し入れた翌日には開店前の厨房にアイヴスを招き入れ、その日から一緒に働き始めた。後日、こういうことはよくあるのかとニールに聞くと、彼は苦い顔をして、いつも断ってるから驚いたのだと言った。
     ボスは、彼にしか知覚できないなにかをもって、アイヴスの可能性を見つけた。そろそろ、自分でも見つける努力をすべきかもしれない。
     アイヴスは目を片手で覆い、何度か頷いた。
    「やります。やってみます」
     ボスは、そうか、と言って息をつき、ニールがアイヴスの背を叩いて言った。
    「よく決めた。ま、ボスの提案を断れるやつがいないなんて分かりきってるけどな」
     アイヴスは目の周りを拭った手でニールを小突いた。それに構わず、ニールはアイヴスの肩に腕を回して揺さぶった。
     ほっとした空気があふれるなか、アイヴスは胸にわだかまっていた疑問を再度投げかけた。
    「でも、おれが抜けたらここはどうなるんですか。おれが来るまではふたりで営業してたにしても、お客が増えた分作業量は増えたし、ロータスだって……」
    「それについては、考えがある」
     ボスが言うと、示し合わせたようにトントンと店の戸を叩く音がした。
     のれんは仕舞ったし、閉店の時刻は過ぎている。アイヴスは怪訝な顔をするニールと目を合わせ、ふたりそろってボスの顔を見た。
    「入ってくれ」
     ボスの声を受けて引き戸が開く。白っぽいスーツを着て金髪を上品に結い上げた背の高い女性が立っている。彼女は奥にいるボスを見つけて、はかなげな笑みを浮かべた。
    「こんばんは、遅くにごめんなさい」
    「キャット、こんなときに大丈夫なのか」
     ニールが驚いた様子で訊く。
    「ええ、迷惑をかけて申し訳なく思ってる。いま対応と復旧作業をしてるわ。できるだけ早く回復させたいけど、まだ時間がかかると思う」
     申し訳なさそうに佇む女性を、ボスがアイヴスに紹介した。
    「彼女はキャット。ロータス産業の経営者だ。個人的にこの店の出資をしてくれている」
     キャットは驚くアイヴスを見て、薄く笑んだ。
    「話は聞いてる。あなたも彼の味の虜になったクチでしょう。気持ちは分かるわ、わたしも同じだから」
     ボスは照れたようにエプロンの紐を締め直して厨房の内側に入ろうとした。そのとき、引き戸がまた開いた。
    「こんばんは。キャットいますか」
     入ってきたのは、大きめのパーカーとジーンズを身につけた小柄な女性だった。キャットが彼女ににこりと笑いかける。
    「皆さんお待ちかねよ」
     ニールとアイヴスはまたも目を合わせ、店主へと視線を送った。ボスは新たな客を迎え入れてキャットとともにカウンターに案内すると、ニールとアイヴスを厨房に呼んだ。最後の客は、キャットとなにやら話をしている。若く見えたが、年齢は自分と同じくらいかもしれない。キャットの連れらしいが、誰かを待っていた自覚はないとアイヴスは眉をひそめた。
     ボスはコンロに火をかけ、トッピングの用意をする。ふたりにラーメンを振る舞うと見て、いったん最後の客への疑問は横に置き、アイヴスたちも普段通りに動き出した。ボスがアイヴスに訊く。
    「このあと予定がなければ、一緒に食べていかないか」
    「そうします。……なにが起きてるんです?」
     ボスは眉を上げて話をはぐらかした。その後ろでニールが唇をとがらせている。とりなすようにしてボスはニールに近づいた。
    「悪いな、しばらく付き合ってくれ」
    「事後承諾はぼくの得意技だからね」
     いつものことだと言わんばかりに肩をすくめながら、ニールはどんぶりを五つ用意した。
     キャットと最後の客にできたての一杯を振る舞う。
     店主は客の挙動に気を止めつつ、手を休めずにアイヴスとニール、そして自分のために具材を盛り付けた。
     キャットがにこにこと頬を緩めてレンゲを取る。
    「最初のひとくちが最高なのよね」
     「では、いただきます」と最後の客がスープを飲んだ。ふむ、というようにひとつ頷いては何度か繰り返して麺に手を伸ばす。隣に座るキャットはそれを確認してボスに目配せをした。
     ボスはほっとしたように肩の力を抜いて器を卓に運んだ。彼女を紹介されると思っていたアイヴスとニールは首を傾げつつもそれに続き、五人は麺を啜る音を店内に響かせた。
     心がどれだけ乱れようともこの一杯は変わらない。鯛の香りがする湯気を感じながらアイヴスは思う。ここで食事をした者が皆、思わず頬を緩めてしまうのは、ラーメンの出来のよさだけが理由ではない。
     ボスの味には作為がない。目にもの見せてやろうという高慢さやそれ見たことかという皮肉はなく、食べる者を包み込むようなやさしさがスープに染み込んでいるのだ。これからは、自分がそれを目指さねばならない。できるかどうか分からない。だが、やるしかない。ボスは信じているのだから。
    「ごちそうさまでした」
     最後の客がレンゲを置いた。自然と皆の視線が集まる。キャットが身を寄せて、「どうだった」と訊く。
     ボスの座る卓に身体ごと振り向いて、最後の客は言った。
    「美味しかった。これならいいよ。協力してあげる」
     ボスが勢いよく立ち上がる。
    「急な申し出を受けてもらえてありがたい。遅くにすまなかった」
    「夜のほうが都合がよかったし、いま時間あるから。キャットの頼みは断りたくないしね」
     キャットがありがとう、ともうひとりにもたれかかるようにして言う。
    「しばらくお願いするわ。できるだけ早く復旧させるから。ほんとにありがとう」
     キャットの言葉を聞きながら、ニールがボスに小声で訊く。
    「おめでとう、なにかがうまくまとまったみたいだね?」
     ボスは満更でもない顔をしてニールとアイヴスを見た。ゴホンと喉の調子を整えて改まった様子で言う。
    「紹介が遅れてすまない。彼女はホイーラー。ロータスが休業している間、必要な食材を直接ここまで配送してくれる。キャットが紹介してくれたんだが……」
    「どんな店か確かめたいって言うから連れてきたの」
     あとを引き継ぐようにキャットが言った。話題の中心となったホイーラーは素知らぬ顔で続ける。
    「仕入れと配送だけじゃなくて、これから一緒に働くならなおさらね。ひとり抜けるんでしょう?」
     キャットが驚いた顔でホイーラーを見つめる。そのホイーラーの目はアイヴスを捉えた。
     心臓がドキリと鳴る。思わずボスを見ると、彼も驚いたというふうに目を開いていた。ボスは眉をひそめてホイーラーに訊く。
    「その予定だが、いま決まったばかりで正確な日にちまではまだ確定していない。……その、配送は頼んだ通りだが、それとは別で、きみはここで働くつもりがあるのか?」
     彼女は肩をすくめるようにしてどんぶりを指さした。
    「これ、美味しかった。だから協力してあげようって言ってる。いらないなら断ってくれていいけど」
     ボスはまずアイヴスを見てからニールと目で会話した。うろたえたような顔が、次第に引き締まっていく。
    「ニール、どう思う」
     訊かれたニールは半分笑顔、半分困惑したような表情で片手を上げた。
    「ぼくは大賛成、人出が足りなくなるのは確実だからね。そのほうがアイヴスも気が楽だろうし」
     ひとつ頷き、ボスはアイヴスに「きみは?」と訊く。
     屋内にいる者の視線が自分に集まるのをアイヴスは感じた。二号店をやってみると宣言した直後だというのに、早くも及び腰になってしまう。同時に二店舗で働くのは不可能だと分かっているものの、感情がついてこない。
     店が回らなくなるのを懸念したのは自分だ。けれど、早くも後任を雇い入れる話が出るなんて、もうこの店に必要ないと宣言されたように思えてしまう。アイヴスは言葉に詰まった。
    「おれは、ボスたちの決定に従います。ここがちゃんと回るかどうかが一番だから。おれのことは気にしないでください」
     足を組んだホイーラーが薄く笑う。
    「真面目だね、悪くない。でも硬すぎ。もっと力抜いたら?」
     むっとした顔を隠そうともせず、アイヴスは「これが性分なんでな」とこたえた。
     キャットが手を合わせて「あら、息ぴったり。これならうまくいきそうね」と言い、ボスはホイーラーに向かって「世話をかける」と礼を言う。
     アイヴスはホイーラーから目を離して口を引き結んだ。その背をニールがそっと叩く。
    「ま、なんとかなるさ。きみが新しい場所でどんな店を作り上げるのか楽しみだ。結構向いてると思うぞ、新米店主」
     そんなことはないと言いたくなるのをぐっとこらえて、アイヴスは口を開いた。
    「おれも、自分がどんなふうになるのか見てみたい」
    「いいじゃん、その意気。気楽にね」
     ホイーラーが声をかけてくるので、アイヴスは再び口を引き結んで腕組みをした。ニールは苦笑し、キャットはうなずく。
     ボスがにこやかに店内を眺めわたし、よし、とひと声かけた。
    「アイヴスが二号店の店主を引き受け、ホイーラーのおかげで食材の心配もなくなった。これからしばらく、おれは新店舗とこことを往復する。新店の営業が始まれば製麺に割く時間が増えるのは必至だし、店を空ける期間も長くなるだろう。特に、出店直後は迷惑をかけるはずだ。なにせ、おれとアイヴスのふたりが抜けるからな」
     ぎょっとした顔のニールが口を開く。
    「ちょっと待った、きみも行くのか。じゃあ、その間はぼくとホイーラーだけ……?」
     ボスは申し訳なさそうに眉を下げた。
    「営業時間の短縮は予定している。休みにする期間も出てくるだろうが、やはり、ふたりきりだと難しいだろうか」
    「余裕余裕、安心していってらっしゃい」
     ホイーラーが軽い調子で大風呂敷を広げてみせた。かきいれ時の賑わいを知らない者の大言壮語と踏んで、アイヴスは眉間のしわを深める。
     ニールは仕事ができる。だが、入ったばかりの新人とふたりだけで店が回せるかは、難しいと思えてならない。ニールを確認すると、彼はホイーラーとボスとアイヴスを見渡して唸ったあと、「やってやろうじゃないか」と絞り出すように言った。
    「アイヴス、ボス、見ててくれ。きみたちが離れる前に、ぼくはこの新人を一人前にしてみせる」
     あら、とキャットが首を傾げ、なにがおかしいのか優雅な笑みを浮かべた。
    「ホイーラーはひとり屋台で一旗あげた経歴の持ち主よ? ちなみにわたしがファン第一号だから、歴代の味の変化も、店舗の拡大も、店をマヒアに譲った経緯も、卸売業に参入したきっかけも、すべて知ってるの。彼女のセンスはピカイチよ。彼女が作る側に回るのを、わたしがどれだけ夢に見ていたか知らないでしょう。まさかこのタイミングで実現するとは思わなかったわ。まさに天の采配。これが祝福なのね」
     まばたきもせずに滔々と語るキャットを止めるようにしてホイーラーが肘で小突いた。
    「キャットは大げさ。昔そういうことしてた時期があったってだけ。会社も落ち着いてきたし、新しいことしたかったんだよね。困ってるなら手伝いたいって思っただけだから、気にせずしごいてちょうだい」
     にっと笑いかけるホイーラーに対して、ニールはしかめつらのまま器用に薄く笑みを浮かべ、アイヴスに向き直った。
    「だ、そうだ」
     おれに言われても、とアイヴスは眉間の強張りをほどけないまま腕を組み続けた。
     ニールはバツの悪さをごまかすためか、卓を回って皆のコップに水を注ぎだした。ホイーラーは厨房を覗こうとして首を伸ばし、キャットはホイーラーの現場復帰に喜ぶ。ボスはそんな四人をほっとしたような顔で眺め、アイヴスと目が合うと席を立って近づいた。
    「よく決めたな」
     どこか誇らしげな顔つきで隣に座る。アイヴスは組んでいた腕をほどき、なみなみと水の注がれたコップに手を伸ばして一気に煽った。
     ――ボスのようになりたい。
     ひたむきに食に向き合い、いつだって良いものを作り出そうと努力する。やさしくてあたたかだから、自然と周囲にひとが集まる。頼りがいがあって尊敬できて、ただそばにいるだけで自分も強くなった気持ちになる。そんな、彼のような人間に、どうにかして近づきたい。
     アイヴスは言った。
    「あなたみたいになるのが夢です」
     ボスは虚を突かれたような顔をした。何度かまばたきをして目をそらし、エヘンと咳払いをしてもどかしげに椅子を動かす。アイヴスは間違ったことを言ったかと不安になり、言葉を重ねた。
    「尊敬してます。ここで働けて本当によかった。あなたみたいなひとはほかにいない。おれが一人前になったと思ってくれるなら、それはボスのおかげなんです。これからは、おれも、おいしいって笑ってもらえるように頑張ります」
     ボスは大きく頷いて、アイヴスの背中を音が出るほど強く叩いた。
    「寂しくなる」
     かすれたボスの声にアイヴスの胸は痛んだ。
    「ボスを口説くのは禁止だ」
     ふたりの間にぬっと顔を出したニールが低い声で忠告する。ニールは器用につかんだビール瓶とグラスを卓の上に置き、五つのグラスにビールをなみなみと注いだ。キャット、ホイーラー、ボス、ニール自身にグラスを回し、最後にアイヴスに突きつけるようにして渡す。
    「では、新米店長からの挨拶です」
     よっ、と煽るように掛け声をかけたニールは、ボスの近くに椅子を引き寄せて聞く体勢を取った。アイヴスはニールを睨んだが、その隣に座るボスの期待するような眼差しを受けてしぶしぶ立ち上がった。
     ボスとニールだけがいるならまだしも、今日は初対面の相手がふたりもいる。キャットは、ラーメン屋の店内にいるとは思えないほど完璧な姿勢でにこりと微笑み、ホイーラーは試すような顔つきでアイヴスを見ている。アイヴスは、できるだけ彼女を見ないようにして口を開いた。
    「ここの味をもっと多くのひとに味わってもらうために、やれることは全部やります。それから、いまよりもっとできることを増やします。ボスがおれに期待してくれるみたいに、自分を信じてやりたいから。でも、怖くなって立ちすくんだら助けを求めると思うので、そのときはよろしくお願いします」
    「すぐに行く」
     間を置かずにボスが言った。「いつでも頼ってくれ」
     アイヴスは、はいと応えて肩の力を抜いた。
     ニールが拍手をしてキャットとホイーラーがあとに続く。予想に反してホイーラーはなにも言わずにニヤリと笑っただけだった。彼女の言うように、もっと気楽に構えよう、とアイヴスは思った。これから先もボスや皆と一緒に頑張るために、長い目で未来を見るのだ。
     手元のグラスをつかんで持ち上げる。こぼれたビールに構わず、天にかかげて「大好きです! 乾杯!」と音頭を取った。
     乾杯、と声を上げて笑い合うなかで、ニールはニヤつきながらアイヴスを蹴った。ホイーラーはビールを一気に飲み干してキャットに絡んでいる。
     伏せた目元に手をやるボスを見たのは、アイヴスだけだった。
    narui148 Link Message Mute
    2025/06/10 20:25:42

    主さんが店主の麺屋AU。
    アイヴスが主人公です。
    (11235文字)

    #テネ飯店

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