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    書きかけのお話   1

     落ちる、と思った。ただ、落ちてしまう。
     ブレーキを握り、ペダルを踏みしめようとした足はあっけなく滑る。身体が投げ出され、頭は空を仰いだ。十一月の夜は涼やかで星がちらちらと瞬いている。
     欄干を摑もうとして伸ばした指はにぶい音を立ててぶつかるにとどまり、ぼくの身体を支えることはなかった。ごうごうと風の音が聞こえる。あるいは、流れる川の濁流の音かもしれず、流れる血液の音かもしれなかった。
     こんなものか、という言葉が頭をよぎった。
     どんな主義思想を抱く人間であろうと、自転車の車輪が滑り、橋から投げ出されれば、ただ、落ちていくことしかできない。
     オフィスから出たときに、すでに雨はやんでいた。半ばまで帰りかけて、同僚のアイヴスが持ちかけてきた賭けに関する資料をデスクに忘れたことに気がついた。賭けのことなど忘れてしまって──「今度ニールが負けたら一週間ランチ代を出せよ」と言っていたのは本気だろう──そのまま帰ってもよかったが、雨で洗われた空気をもう少し長く感じていたくて戻ることにした。
     約束をしたからといって、わざわざ取りに行かなくてもよかったのに、と、いまさらどうしようもないことが浮かぶ。アイヴスの野郎め、お前のせいで死ぬみたいだ。あまりに情けないじゃないか、こんなのは間違っている。
     空一面に雲はない。細い月が出ていて星が光っている。こんなにすてきな夜なのだ、どうせなら、水のなかではなく、星のあるところに行きたい。空のなかの運河へ。
     このあとどうなるかは頭に思い描けなかった。恐ろしすぎて考えられない。でも、どこか冷静だった。わあわあと声をあげて落ちているのに魂の一部だけが橋の上に残ってこちらを見下ろしているようだった。橋の上の魂はぼくのことをかわいそうに思っていた。ぼくも魂を見てかわいそうだと感じた。ぼくらは互いを哀れんでいた。
     どん、と、なにかにぶつかった。これが最後の記憶だと冷静な魂が納得するのを、ぼくが止める。衝撃があっただけで痛みはなかった。ぐんぐんと空が近づいてくる。ぼくの身体は上昇していた。天国は本当に空の上にあるのだ、身を持って経験している、それにしてもすごい速さだ、と考えていると、今度は急降下して頭が上下に揺さぶられ、手足がバラバラになったように感じる。
     ぐらぐらと揺れる視界が夜空でいっぱいになりながら近づいたり遠ざかったりする。天国にのぼるためにも、下界で過ごすのと同じ不調を味わなければならないというのだろうか。
     身体の自由が効かず、なすすべもなく小さくなっていた。もう悲鳴も出せない。目は固く閉じていた。指の一本でも自由に動かせるなら、きっと、これから先何十年も、職場はおろかよその国にだって自転車に乗ってどこへでも行けるだろう。
     これから先、と考えていた。身体が重い、と感じていた。頭が揺れて気持ちが悪い。なぜこんなにも揺れるのだ、なぜこんなにも重力を感じるのだ。
     ひときわ強く揺さぶられたのを最後に、ようやく身体の動きが止まった。
     薄く目を開き、ぼくを移動させていたものをようやく視界に入れる。運ばれていたときは、とてもじゃないが見られなかった。見てしまったら、そこで手を離されて鳥が獲物をもて遊ぶように落としたり拾ったりを繰り返されるのではないかと思ったからだ。
     ぼくをしっかりと抱えていた手が、ゆっくりと地面の上に身体を降ろした。もちろん、目が回っているぼくは少しも動けない。自然公園の枯れた芝の上に手足を投げ出して呆然と見上げることしかできなかった。
     ここは、川に叩きつけられて死んだ先の天国ではなかった。だから「彼」も天使ではなかった。
    「彼」からは血の匂いがした。抱きかかえられていたときよりも、腕から離されたときのほうが強く匂った。それは「彼」がため息を吐いたのを間近で嗅いだからかもしれなかった。大きな黒い影がぼくのほうに降りてくる。
     世界が「彼」に隠された。ぼくには「彼」しか見えなくなった。

       2

     指の痛みで目が覚めた。目の前にある右手の人差し指と中指は腫れ上がって赤黒い色を帯びていた。曲げようとして動かすとにぶい痛みが走る。昨日はなにをしたんだったか、と記憶を呼び戻そうとするが、身体はぐったりとベッドに沈んでいて、なにも考えずに眠ればいいじゃないかと睡魔が呼びかける。
    「眠りなさい」
     と、声がした。やさしくてあたたかい声だった。だからあのときぼくは眠った。死にかけて叫びまわり、頭をくらくらさせながらも、健やかな眠りに落ちたのだった。
     ひやり、と心臓が冷えて覚醒した。身体を起こすと自分の部屋のベッドの上だった。周りを見渡しても昨日までとなんら変わったところはない。改めて指に目を落とす。見たところ傷はなかった。突き指か骨折をしているのかもしれない。橋から落ちて欄干に手を伸ばしたときに折ったのだろう。そう、ぼくは昨日の夜、橋の上から落ちたのだ。
     窓からは陽の光がさしていた。午前中だと思うが時間がわからない。この部屋には時計がなかった。いつもは携帯端末で時間を確認している。その端末はバッグのなかにあるはずだった。
     着ているものは昨日と同じで、靴も履いたままだった。酔った気持ち悪さはとうになくなっていてしっかりと立って歩けた。隣室をのぞくとソファの上にバッグがきちんと置かれていた。中身を確認すると、端末も財布も当たり前のようにそこにあった。時刻は午前七時をすぎたところだ。
     まさかと思ってドアにつながる廊下を確認すると、そこには自転車が置いてあった。毎日部屋に持って入るので、よく見る光景といえばそうなのだが、昨日は持ち込んだ記憶がない。それに置いてある場所が違う。ぼくはもっとドアの近くに置くのだ、これでは内側に入りすぎている。
     なにがあったのかと頭を抱えた。確かに橋から転げ落ちたのだと右手の指が主張している。部屋の様子もなんだかおかしい気がする。でも、なにがあったのかの記憶がない。居心地の良い場所でやさしく声をかけられたような気がするが、それも夢なのかもしれなかった。思い出そうとするたびに薄れていくのも夢の特徴のひとつだからだ。
     いや、夢ではない。赤黒い色が記憶を呼び覚ます。着ているシャツの腰元に血がついていた。位置からして指から出た血だろうか、傷跡はないように見えたが、出血していたのかもしれない。静かで涼やかな夜にあって、血の匂いがしたのを覚えていた。その匂いの持ち主のことも。思い出そうとするほどに記憶が薄らいでいく気がするのを、右手を握りしめることでせき止めた。痛みが強いほど記憶に残るのだと勝手に解釈してぐっと両手を握りしめる。
     あのひとは、ぼくの手に顔を近づけていた。逡巡したのは一瞬で、腕を持ち上げて指を咥えてからは熱心といってもいい真剣さで血をすすっていた。動物に舐められるのをくすぐったく思うのと似ていた。汚らわしいという気持ちや、なぜ血を飲むのかという疑問はわかなかった。その代わりに、なぜだか光栄だと感じていた。命を助けてもらったのだし、これくらい当たり前のお返しだとも思っていた。なにより、彼の口のなかはあたたかかったし少なくとも切ってできた傷の痛みは癒えていた。人差し指と中指を一本ずつ舐め終えたそのひとは、ようやくぼくがずっと見ていたことに気がついたようだった。星あかりだけでは暗くてしっかりと見定めることはできない。白目が真っ白く光っていてなかの黒目を引き立たせていた。「眠りなさい」と彼は言った。ぼくは抗わずに目を閉じた。
     携帯端末が音を立てていた。ことの元凶でもあるアイヴスからだった。
    「よお、調子はどうだ」
    「……変わりないけど、なに? 休みの日に連絡してくるなんて珍しいな」
     ぼくは言葉少なに言った。非現実的な経験をしたせいだろうか、昨日までと変わらないなにかにすがりつきたい気持ちがあった。自分がおかしくなったとはまだ思いたくはない。
    「賭けのことなんだが、あれはもう忘れてもらっていい。こっちが少し込み入ったことになって月曜も出社できないと思う」
     同僚の声は落ち着いていた。背後に物音もしないから屋内なのだろう。ぼくの部屋と同じように静かだった。
    「……わかった、忘れるよ」
     次のプロジェクトの題材を当てるという賭けだった。配布された資料のなかにヒントがあると踏んで、そこから探そうとしていたのだ。ぼくが橋から落ちた理由でもある。
    「すまないな、言い出したのはおれなのに」
     パトカーのサイレンが近づいてくるのが窓の外から聞こえた。一台ではなく何台か続いている。道路に目を落とそうとして、端末からも同じ音がトンネルのなかにいるときのように跳ね返ってくるのが聞こえた。
    「お前、いまどこにいるんだ?」
     同僚はなにも言わずに通話を切っていた。
     眉をひそめて窓とドアを交互に見る。もしかして、近くにいるのだろうか。でも、なぜ? 見下ろす窓の外に同僚の姿はない。計三台のパトカーが住んでいるフラットの前を通り過ぎるのが見えただけで、ほかに異常を告げるものはなにもなかった。ドアを開けてもそこにはだれもいないだろう、いないはずだ。そもそも、なんだってこんなに朝早くにわざわざ電話をよこしたのか。賭けのことは忘れろ? そんなこと、テキストで送っても構わないようなメッセージだ。
     念のため、とドアに近づく。いつもより手前に置いてある自転車のハンドルがやや歪んでいることに気づき、昨日、確かに事故があったのだと確信した。ドアを開けた先には暗い廊下が伸びていて、階上を歩くひとの足音が聞こえるだけだった。階段を降りる音はしない。アイヴスにもう一度連絡を取ろうかと考えたが、どう質問すれば望む答えを引き出せるのかとシミュレーションしようとして面倒になってやめた。腫れた指を口元に寄せる。熱を持っていてほかの場所より熱いのを唇で感じる。舌を出して軽く舐めてもなんの味もしなかった。

       3

     指は二本とも骨折していた。全治二ヶ月だという。もともと左利きだったのを両利きにしたので右手が動かせなくなるからといって生活に不都合が出るわけではなかった。
     指に巻かれた包帯をしみじみと見つめる。橋から落ちて指の骨折だけで済むなんておかしい。奇妙だとわかっていても座っているだけでは答えは差し出されない。
     歪んだハンドルをなおさないまま、病院の帰りに昨夜落ちた橋の上までやってきた。欄干は腰の高さしかなく、またごうと思えば簡単に向こう側に飛んでいける。改めて見てみると危険な橋だった。
     涼しくて気持ちのいい午後だった。もともと、この休日は、賭けの対象になったプロジェクトのヤマを張ったら、近くの高原へツーリングにでも行こうかと思っていたのだ。自分になにが起きたのかを理解するまでは、ツーリングにも気が向かないだろう。
     昨日の今日だ、さすがに少し気が引けたが、橋の上からすぐ下を流れる川を見下ろす。ぼくから見て上から下に向かって、普段どおりに機嫌よく水が流れていた。
     ぼくを拾い上げたあのひとは、きっとこの近くにいたはずなのだ、だれかが落ちるのをじっと待っていたわけではあるまい、なにかをしていたにちがいなかった。
     下に降りる道があるかと道の先を探しながら渡りきると、橋のたもとに学生らしい子どもたちが何人か集まっていた。欄干にもたれかかり、なにか見えるかと口々に言い合っている。
    「ここで、なにかあったのかな?」
     自転車から降りて声をかける。うろんな目で振り仰いだ女子学生は、ぼくの顔に目をとめると、くっと顎を引き心持ち胸を張った。横並びに四人、十五歳くらいだろうか。端の二人は肘でお互いを小突き合っている。
    「死体が出たんだって」
     最初に振り向いた黒髪の学生が喉を反らせて言った。彼女は自分の発言がぼくに与える力を過小評価していた。心臓がぞくりと跳ねる。
    「橋の下だし、そんな珍しいことでもないでしょって言ったんだけど、アリソンが見たいって言うから……」
    「わたしだけじゃなかったじゃん」
     隣のショートヘアの学生が恥ずかしそうに怒って言う。
    「へえ、知らなかった。事件か事故か、原因はわかる? 事件なら、君たちはここにいないかな」
     必要以上に関心を見せないようにして眉を下げて問いかけると一番端にいた学生が口を開いた。
    「学校では、ホームレスを狙った事件だって言ってた。今朝見つかったから詳しくはわからないはずだけど」
     しばらくはそこから動かないであろう四人に礼を言い別れを告げると、黒髪の学生に、下に一緒に行かないかと誘われた。丁重に断って、暗くならないうちに帰るようにとお決まりの言葉を残して家に戻った。あの場で下に降りて確認したかったが、学生たちの記憶におかしな印象を残したくなかった。自分のために? それとも、あのひとのために? ざわざわと騒ぐ胸に気づかないふりをして家まで帰った。
     ぼくの知らない間に部屋に入ったはずなのだから、どこかに痕跡が残っていやしないかと、帰るなり部屋を再度確認した。といっても、ベッドのシーツを引き剥がし広げてみて、ソファの位置をずらしてなにか落ちていないかと覗き、バッグをひっくり返してなくなったものや見覚えのないものがあるかどうかを確かめ、今朝、脱ぎ捨てたシャツとズボンを洗濯かごから引きずり出してバサバサとはたくくらいしかできることはなかった。起きてからすでに三度繰り返していた。ここにはなにもない。
     部屋にいると日常に引き戻された感じがした。どれだけ覚えていようとしても、起きていると昨日のできごとが夢だったように感じられる。どんどん薄らいでいく。
     治療を受けて指の痛みは引いていた。包帯を巻いているので赤黒い色も見えない。ぐっと上から押さえてじわりとした痛みを得る。とにかく、行動を起こさないといけない気がした。まずは、先ほどの女子学生たちの言っていた死体について調べてみよう。死体が出たからといって、その日にひとが死んだとは限らない。あのひととは無関係だろう、そうにちがいない、と自分に言い聞かせる。でも、と、心の奥で声がする。
     でも、あのひとからははっきりと血の匂いがした。ぼくを地面に置いたあと、一滴も残さないようにとぼくの指を吸っていた。やわらかくてあたたかくて、なぜだかぼくは気持ちがいいと感じていた。あのひとは「眠りなさい」と言っていた。まだ、ちゃんと覚えている。

       4

     夜になるのを待って、ぼくは学生たちのいた橋のたもとに向かった。これまで特に目を向けていなかったが、下に降りる階段はすぐそばにあった。自転車を置いて歩いて現場に向かう。昼でも人通りのない道は、夜ともなると歩行者は絶えてしまう。昨夜も車は通っておらず、だれも歩いていなかった。階段を降りきった先は真っ暗で思わず携帯端末のライトをつけた。川の水の匂いが強くなる。
     確かにこの場所で死者が出た、とネットニュースに小さい記事が掲載されていた。五十代とみられる男性が外傷を負って亡くなったらしい。原因が事件か事故かも書かれておらず、被害者がホームレスだとも書いていなかったが、コンクリートの上には夜風をしのぐための毛布が放置されていた。彼が使っていたのだろうか。
     自分が落ちた方向に向かって歩みを進める。橋のたもとの下からでも落ちた欄干のあたりは目に入った。こちら側からなら落ちていくのがよく見えたことだろう。あのひとはここにいたのだろうか。だとしたら、ここでなにをしていたのだろう。
     彼に会ったのは夜だった。だから同じ時刻に同じ場所に来れば、もしかしたら会えるかもしれないと思った。ただ、もし仮に会えたとしても、それからどうするかまでは考えていなかった。
     まずは、ぼくを助けてくれたことに礼を言わないといけない、それから、家まで届けてくれたことにも。自転車まで一緒に持ってきてくれるとは気が利いている。どうして放っておかなかったのかと訊いたら答えてくれるだろうか、ぼくを助けたことになにか理由があるのだろうか。
     冷えた風が身体にぶつかってくる。ひととおりあたりを見回したり落ちているものをつま先で蹴ってみたりして三十分ほど過ごしたあと、闇の底から這い出ていった。そのまま自然公園に向かって自転車を走らせる。ぼくが降ろされたのはいま通っている道路沿いではなかった気がする。どれだけペダルを漕いでもあのひとといた場所にはたどり着けないだろう。わかっていても暗闇のなかに彼がいないかと目を凝らした。
     広すぎて全体を周ることなどできず、なにも成果がないまますごすごと自然公園をあとにしてフラットのあるブロックにたどり着いた。深夜に近い時間で、住人は繁華街に遊びに行っているか、自宅でくつろいでいるのだろう、車とたまにすれ違うくらいで静かだった。最後の曲がり角を曲がる。ひとけのない道の端、街灯の下に男がひとり、こちらに背を向けて立っていた。彼はなにをするでもなく立ち尽くし、ぼくが住んでいる部屋の窓を見上げているようだった。明かりのついていない暗くて四角いガラス窓を。
     いたって普通の人間に見えた。ツノや羽が生えているわけでもない。街灯に照らされてぽつんと立っている姿は記憶より小さく見えた。ぼくより背は低いのかもしれない。昨日は、ぼくの世界のすべてになったように大きく感じたものだ。
     スピードを落としてゆっくりと後ろから近づいていく。横を通り過ぎるときに、不自然なほどその顔を覗き込んだ。清潔感のある短髪で、顔の半分を覆う髭はきれいに整えられている。少しまぶたを落とした目元は凛として涼やかだった。暗い色の肌は艶めいていて、服装も暗い色味だったのもあり、夜から滲み出てきた使者のように見えた。
     なにを求めて使わされたのだろうか、その視線の先にあるのはぼくの部屋で間違いなかったか。
     口が乾き、どくどくと血が巡るのを感じる。男もこちらに気づいて視線が交差した。しかし、彼はすぐに目を伏せてうつむき、そのまま立ち去ろうとする。
    「待って、待ってくれ」
     視線は彼に向けたまま、ぼくは自転車を道路に乗り捨てて追いすがった。少しでも目を離したら、もう二度とその姿を見られないのではないかという不安があり、一心に見つめていた。背中を向けかけた彼の身体が止まる。
    「だれにも言ってない」
     言うに事欠いて、そんなことしか出てこないのか、と自分に失望した。はやく、次の言葉を探さなくてはならない。正しいセリフを思いつかなければ、ここですべてが終わるという予感がした。ごくりとつばを飲み込む。
    「名前を教えてくれないか」
     話しかけながら、一歩、足を踏み出すと、それに合わせて男は一歩分後ろに引き下がった。街灯の明かりから遠ざかり、半身が闇に飲み込まれ表情が見えなくなる。自分の名前を先に名乗らねば、と口を開きかけたが、彼の声がそれを止めた。
    「ジェイと呼ばれている」
     中途半端に開きかけた口をジェイと動かす。昨日耳にした声より緊張しているように聞こえた。なぜ彼が緊張するというのだろう、ぼくの気のせいだろうか。
    「ジェイというのか、教えてくれてありがとう。ぼくはニール。そこに住んでるんだ」
     昨日連れ帰ってくれたのだから知ってるだろうに、改めてそう言った。白々しいけれど、馬鹿なふりをしてでもどうにかしてジェイを自分につなぎ止めたかった。この機会を摑むしかないのだ。
    「よかったら、なかに入って話さないか。ここは寒いだろう」
     昨日のことなどなにも覚えていないような顔で言った。本当は、昨夜のことについて訊きたかった。なぜぼくを助けたのか、どうやってそれができたのか、なぜ血の匂いがしたのか、ぼくの指を舐めた理由は? 同じ場所でひとが死んだと聞いた、そのことにつながりはあるのか? 
     ぼくはできるだけ必死に見えないようにしたつもりだった。でも、踏み出しかけて変な位置でとどまった片脚や、せわしなく動く手や、吹き出す汗がぼくの状態を簡単に彼に知らせる。
    「無理強いはしない。もし、もしよかったら、お礼をさせてもらいたくて。なにもないけど、コーヒーでも飲んでいかないか?」
     乾いた唇を噛んで答えを待った。こんなことならもっと身を入れて彼に会ったときになにを言うかを考えておけばよかった、と後悔の波に襲われる。自分だったらどうだ、こんな誘いに乗るわけがない。片足でも踏み出せば、彼は後ろにもう一歩下がって街灯の光が差さないところに隠れてしまうだろう。そうしたら、そのままどこかに消えてしまうのだ、そして二度と会えなくなる。
     それはいやだった。
    「……君は、警戒するべきではないのか」
     暗闇に半分隠れながらジェイが言葉を落とす。声音からは先ほど感じたはりつめた調子はなくなっていて、静かで誠実にさえ聞こえた。
    「どうして?」
     ジェイの表情がふっと緩んだのがわかった。苦笑するように眉が下がり、口元がやわく動く。はっとして顔に手を当てる。馬鹿なふりをしたつもりだったが、目と口をぽかんと開いたぼくの顔は愚か者そのものだった。
     顔に熱が集まるのを感じていると、暗闇からジェイがゆっくりとこちらに向かって歩み寄ってきた。
    「では、行こうか」
     と言ってぼくの隣に並ぶ。足音が全くしないので身体がとても軽いのだろうか、ぼくにも抱えて走れるだろうか、などといらぬ想像が頭に浮かんだ。並ぶと、やはりぼくのほうが背が高くて彼の頭の上を覗き込むこともできそうだった。彼にはこうやって自分自身を見ることはできないのだな、という感慨が沸く。
     ジェイはこちらに向き直り、軽く首を傾げた。
    「行かないのか?」
     誘っておいて一向に動かないとはなんなんだ、とまったく意のままにならない自分に腹がたってきた。息をひとつ飲み込み、大股でフラットに向かうと、おい、と呼び止められる。
    「自転車はこのままでいいのか」
     道路の真ん中に投げ出された自転車を無言で取りに行き、急いで彼の前を歩く。ちらちらと後ろを振り返ってはちゃんとついてきてくれているかと確認してしまう。
    「心配しなくても、逃げたりしない」
     なだめるような声をかけられた。本当かというように振り向くと、
    「なんなら、手でもつなごうか」
     と言われてしまった。
     せかせかと鍵を取り出して扉を開き、なんとかエレベーターを呼び出した。狭い個室のなかでは近すぎてきっとぼくの耳まで赤くなっていることには気づかれないだろう、大丈夫だ、といまや願っても仕方がないようなことを胸のうちで唱えた。
    「コーヒーでいいよね」
     喉がカラカラに乾いていて、ぼくはコーヒーなど飲みたくなかったのだけど、来客があるときに出せるような飲み物はインスタントコーヒーくらいしかなかった。気の利いたものがあればよかったのに、と何度目かになる後悔をしながら用意をする。
     横目でうかがうと、自分から言ったように、ジェイは素直にソファの上に座って待っているようだった。
     昔なじみの友人を自宅に招待したような錯覚に陥る。ぼくがホストをするからと言って、彼にはなにも差し入れをさせなかったのだ。ぼくは彼の好物をたくさん作って待っていて、遠慮をしながらも彼はぼくの作るものを美味しそうに全部たいらげてくれる。ふたりは一日中楽しく過ごして、これからコーヒーを飲みながら静かに話をするのだ。なんの話を?
     ふっと我に返る。ぼくはこんなに想像力がたくましかっただろうかと不思議に思った。さっきから頭のなかが散らかっていて集中できていない気がする。
     ぼくの心境を知ってか知らずか、彼は落ち着いたようすでじっとしていた。お湯が沸く音がする。
    「砂糖かミルクはいる?」
     キッチンから問いかけると、なぜだか驚いた表情でジェイはこちらを見返した。なにか気に障ったのかと心配になる。コーヒーは嫌いだったのだろうか、これ以外の選択肢は水しかないのだが。
    「いや、構わない」
     すぐに目が伏せられてしまったので、黒目がちの澄んだ瞳をしっかり見られなかったのを残念に思いながらカップを運ぶ。ごたごたと積み重なった本と雑誌の隙間にかろうじてカップをまず置き、邪魔な本を床の上に移動させてテーブルの上をあけた。なにからなにまでスマートにこなせない。
     ソファは二人がけなので詰めれば隣に座れるけれど、ぼくと彼は会って二日目だし、無理に連れてきたようなものだし、そもそもぼくらはどういう関係なのか判然としないので、ぼくは壁に寄りかかって立っていることにした。喉が渇いて仕方がない。ぐびりと音を立てて飲み込み、あまりに熱くて咳き込んでしまった。
     そうしてようやく、格好をつけるのを諦めることにした。
    「昨日、ぼくのことを助けてくれたよね、感謝してる」
     ジェイはコーヒーを見つめて静かに座っていた。手を付けてないのは、やはり苦手だったからだろうか。それとも猫舌だったりして。想像に気を良くして言葉を続ける。
    「雨が降ったあとで、水溜りで滑ったんだ。よそ見をしていたから反応が遅れてしまった」
     あのときは、雲が切れて晴れ間が広がっていた。遠くの空に、星が流れるのがちらりと見えた。そういえば、おうし座流星群の時期だ、と思ったときには身体が浮いていた。
    「君がいなければ、ぼくは死んでた。助けてくれてありがとう」
     ほう、とため息をついて今度は慎重にコーヒーに口をつける。お礼は言えたぞ、とうなずいてちらりと相手のようすをうかがう。じっとうつむいたままで反応がない。
     それでもいいと思おうとした。自己満足でしかないものだ。ぼくはそもそもなにを期待していたのだろう。楽しくおしゃべりをすること? でも、どんな話題で? 根掘り葉掘り相手のことを聞きまわるのはいやだった。それならぼくのことを話すか? 設計の仕事をしていて月曜から金曜の朝九時から夜八時まで働いているが貯金はそうない。趣味はツーリングで休みの日には自転車を乗り回しているけれどいままで大きな怪我をしたことはなかったのが自慢だ、自慢だった。昨日までは。
     どうしたって昨夜の話題に立ち戻ってしまう。訊きたいことはあるけれど、ぼくがそのことに言及したらこの時間はだめになってしまうという確信があった。だからなにも言えなくなった。
    「……ジェイは、コーヒーは嫌いなのかな」
    「いや、嫌いじゃない」
    「変なものは入ってないよ。飲もうか?」
     警戒されているのかもしれないとは思っていた。でも、相手になにを期待して言ったのかよくわからなかった。場をつなぎたいあまりに普段ならしないようなことをしてしまう。膝をついて取手をつかもうとすると、手をやんわりと押さえられて、いいんだ、と小さく告げられた。
     間近に見る彼の表情は微かに陰っている。視線の先には白い包帯が巻かれた指があった。橋の欄干にぶつけた拍子に傷ができたはずの指だった。表面の傷を治してくれたのは目の前にいるひとだ。口内のあたたかな感触をはっきりと覚えている。
    「もしかして、後悔をしてる? ぼくを助けたこと」
     自分でも思ってもなかった言葉が出てしまった。期待はそう簡単に心から出ていかない。
    「絡まれて、うっとおしいかな。お礼を言いたかっただけなんだ。迷惑なら、もう二度と会おうとしないと約束する」
     心にもないことを口にしていた。なにかしらの反応を引き出したくて必死で、でもこんな言い方は卑怯だった。
     案の定、彼は眉をひそめて驚いたようにする。
    「……悪い。君のせいではないんだ。おれに問題がある。わかっているだろう」
     ジェイは真剣な顔でぼくを覗き込んだ。まともに目が合うのは初めてで、ぼくはテーブルを挟んだだけの距離で濃いまつげに縁取られた彼の茶色い瞳に釘付けになった。
     問いかけには答えられなかった。真正面からぼくだけを見ている視線に囚われてしまって昨日の夜と同じ気持ちになったから。そこには圧力があった。でも、強制力はまったく感じない。暑い日に海岸で素足に水を感じたいと思うような、あるいは、天気のいい日に木々の木漏れ日を浴びに行きたいと思うような、そんな魅力を感じていた。ずっと見つめていてほしいと思った。
    「君がいま感じているものは、おれに植え付けられた感情だ」
     言葉の意味がよくわからず首をかしげて先を促す。
    「その感情は本物ではなく、作られたものだ。おれに見られると、みんなそうなってしまうんだ。自分を開いて明け渡してしまう」
     少し目を伏せて、またすぐにぼくに目をやる。嘘を言っているようには見えなかった。荒唐無稽だが、彼が言うのだから事実なのだろう。
    「そうなんだ、でも、ぼくがそれを受け入れてたら問題ないよね?」
     ジェイは膝の上に拳を作ってなにかをこらえるようにした。まばたきが増えたのは、ぼくから目を離さないように努力しているからだろうか。ごくりと彼の喉仏が動き、低い声がする。
    「君の心をあやつっていると言っている」
    「それは、君がしたくてしてることなのか?」
     そうは見えなかった。目の前の人物が見せる態度は、ぼくを意のままにしたいと思っているひとのものではない。この部屋に来るまで、ジェイはできるだけぼくの目を見ようとしていなかった。ぼくは何度も盗み見たが、視線は合わなかったのだ。
    「君が気にするなら、ぼくはずっと下を見て話すよ、それならいいだろう。目を見なくても話はできるし、コーヒーは飲める」
     ふ、と自然と笑みが浮かんだ。なぜだか少し緊張がとけて、持っていたコーヒーを飲み干す。言ってしまった手前、彼の顔を見られないのが残念だ。返事が返ってこないので目の前にある彼の握りこぶしを見て続ける。
    「きっと、順番がちがったんだ。ぼくは最初にこう言うべきだった。友だちになってくれるかなって」
     はあ、と彼が深いため息をつくのが聞こえて、しばらくふたりとも動かなかった。ぼくはジェイの手を見ていた。拳が広げられてきれいな指は膝をさすり、最後には諦めたようにカップに伸びた。
    「なにも訊かないんだな。おれがそこで立っていた理由すら」
    「言いたいなら聞いてやってもいいよ」
     鼻で笑われるような音がする。昔からの友だちみたいに話ができてひどく嬉しかった。話すだけで胸の内側からあたたかいものが溢れて全身にしみわたる。頬が勝手に緩んでいた。
    「ニール、みんな同じなんだ。全部忘れてしまう。なかったことにして、それでおしまいなんだ」
     名前を呼ばれて笑みを残したままの顔を反射的に上げた。ジェイは苦しそうにして無理に笑っていた。
     唐突に、抱きしめてやりたいと思った。これも強制された気持ちだというのだろうか。
     すぐに顔を下げて、ぼくは忘れないと思うけど、と胸のうちで反論していると、ジェイは立ち上がり、こちらに身をかがめてきた。両手で頬を挟まれて顔を仰向かされる。やさしく触られるものだから、自分が彼の宝物になったような幻想を抱いて一気に顔に熱が集まった。気持ちよく力が抜けていき、尻がぺたりと床についた。ジェイはぼくを一心に見る。
    「ニール、君は昨日の夜に起きたことと、今日の夜のことをこれから寝て起きたら全部忘れてしまう。なにかを思い出しても、すべてが夢だったと思うんだ。おれのことは知らない、会ってもいない、だが、それでいい」
     耳に心地よい声でささやかれる。雲の上に浮かんでみることができたなら、きっといまのような気持ちになるだろう。ふわふわと気持ちのいい風にのって好きな場所に移動する、そんな気分になった。だが、声を聞くうちに、乗っている雲は雨雲なのではないかという疑念とともにふつふつと反感のようなものも浮かんできた。ぼうっと彼の顔を観察する。彼はなにを言っているのだろうか。ささやき声が続ける。
    「少しのあいだでも友だち同士のように振る舞えて楽しかった。久しぶりだったよ、飲み物の好みを訊かれるなんて」
     今度はほんとうの笑みを浮かべながらジェイが言う。頬に触れる指はあたたかかった。
     ぼくは言葉を発しようとした。どうにかして口を開けろと命令を出したはずだったが、向かい合うひとの目を見て声を聞くだけで精一杯の身体は自由にならない。
    「眠りなさい」
     ジェイが言った。この声に従って眠りに落ちるのは気持ちがいいのだ、知っている。ただ、胸に浮かんだ雨雲が雷雲となり、はっきりとした反感に育った。ぼくは友だちになりたいと思っただけで、忘れたりなかったことにしたくはないのだ。そう言いたいのに口も目も閉じてしまう。
    「ありがとう」
     意識を失う前に泣きそうな震え声が耳に届いた。ばか野郎、と言ってやりたかった。

       5

    「お前、なんて顔してんだ」
     職場につくなり隣の席のアイヴスが挨拶もそこそこに顔を歪めて言う。それはそうだろう、昨日の昼頃に起きてからいままで一睡もしなかった。起きてからずっと気が立っていたので気分も最悪だった。
    「お前こそ、月曜は来ないと言ってなかったか。あの電話はなんだったんだよ、あんな朝早くにわざわざ」
     しかも、勝手に切るし、とぶつくさと愚痴をこぼす。アイヴスに当たっても仕方がなかったが、内にこもった感情は外に吐き出されたがっていた。ぼくの顔を見ながら心配げにアイヴスは言う。
    「あれは忘れてくれ。怪我もしてるな、なにかあったのか?」
    「お前に言うようなことじゃない」
    「言うねえ、色男。お前が落ち込むなんて珍しい。聞かせろよ」
     言葉自体は軽薄だが、視線や表情には面白がるだけではない気遣いがあった。ぼくが吐き出しやすい場を提供しようというのだ。促され、どう言ったものかと考えて、膨らんだ胸のうちをもうぼくは心に留めておけなくなっていた。
    「振られたんだ。ぼくの気持ちも聞かずにもう会わないと言われた。ぼくではだめだったみたいで……。忘れろって言うんだ。捨てるならなんで拾うんだって思わないか?」
     アイヴスは腕を組み、眉をぎゅっとひそめて難しい顔をした。
    「……お前は、拾われたのか?」
    「うん。落ちてたのを拾われたんだ」
    「なんだそれ、酔ってたのか」
     いや、と言いかけて曖昧にうなずく。ここは、酔って転んで怪我をしたということにしておこう。
     アイヴスに自分に起きたことを全部言ってしまったらどうなるのだろうかと少し考える。きっと、一緒になって彼のことを怒ってくれるはずだ、そう思うと少しだけ気が楽になった。
    「あのひとは身勝手だ。だからぼくは怒ってる」
     ふうん、と視線を外し、なぜだか口元に笑みのようなものを浮かべてアイヴスはぽつりとつぶやく。
    「なにか理由があるんだろうさ、今度会ったときに訊いてみればいい」
    「もう会わないと言われた。昨日もずっと探したのにどこにもいないんだ。向こうが会いにこない限り無理だ」
     ぼくはきっと哀れに見えているだろう。振り向いてくれない相手を追いかける阿呆に見えるはずだ。アイヴスは心得たというふうに笑ってぼくに憐憫の目を向けたが、そこにはぼく以外のだれかも映っているように見えた。同情や共感のようなものが漂っている。アイヴスもだれかを追いかけでもしているのだろうか。

     次のプロジェクトへの興味が抜け落ちていて意欲は湧かなかったものの、なんとか仕事を片付けて家路につこうとしていると、電話をしながらアイヴスが注意を引いてきた。こっちへ来いと身振りで呼ばれる。通話を終えるとにやりと笑った。
    「酒でも飲みに行くか。傷心のお前を慰めてやる」
    「いらないよ、酒でどうこうできる話じゃない。月曜から飲むのも面倒だし昨日は寝てないから眠いんだ」
     朝はそれしかないと思って話したが、しばらく時間が経つと妙に気恥ずかしくなっていた。だれにも言えないと思っていたことを、よくもああ素直に話せたものだ。アイヴスは馬鹿にしないとわかってはいたが、慰められるのはしゃくだった。
    「そう言うな、来てみたら意外と楽しいかもしれないぞ」
     肩を組まれてわざとらしく揺すられる。このまま帰ってもジェイが去ったときのことを思い出して悔しい気持ちをひとりで抱えないといけないと思うと、気を紛らわせるのもいいかもしれないと思い直した。
    「当然、お前のおごりなんだろうな」
     アイヴスは片方の眉を上げて、仕方がないというそぶりをした。

     寝不足だからだろうか、行きつけのバーでウォッカを三杯飲んだだけで酔いが回っていた。
    「もう帰るよ、自分で運転できるうちに」
    「なに言ってる、まだいいだろう。自転車のことは忘れろ、配車を頼めばいい」
     アイヴスは携帯端末に顔を落としながら面倒くさそうに言う。ぼくを引き止めたいにしては粗雑な感じだ。
    「酒を飲んでも気を紛らわせられないし、楽しくないんだけど」
    「ひとりでいたって悶々とするだけだろう、全部吐き出してしまえばいい」
    「朝のことは忘れてくれ」
    「忘れたくないって言ってたろうが」
    「ぼくはそうは言ってないね。あのひとがぼくに忘れろって言っただけだから」
     吐き捨てるように言葉を投げる。
     正確に言うと、ぼくが全部忘れてしまうと彼は言っていた。でも全部覚えていた。起きてすぐに思い出して、彼に言われるがままに眠ってしまった自分に腹がたった。もちろん、あのときぼくに発言させなかったジェイにも。
     アイヴスは空になったグラスを新しいものに変え、ぼくに握らせて宥める。
    「また会えるさ、そう悲観するな」
     そのあとも何杯か飲み、何度目かの要望を聞き入れられてようやく店をあとにした。冷えた外気で目が冴える。隣を歩くアイヴスは店にいる間中携帯端末に気を取られていた。なにか用事があるならぼくにかかずらっていなくともよかったのに、と思う。
    「だれかに連絡を取ろうとしてたのか?」
     僕の問いかけを受けて、端末にまた意識を向けたアイヴスがつぶやく。
    「こんなに度胸がないやつだとは思わなかったよ」
     なんのことだと目を細めると、アイヴスは「気にするな」と首を振った。
     肩をすくめて前を向く。一陣の鋭い風が細い路地から抜けて通りを横切った。路地のそばを歩いていた女性が飛び出してきた物体に驚いて悲鳴を上げて転ぶ。黒い物体が自転車のライトに照らし出された。通りをほんの二歩ほどで跳ぶように走り抜け、向かいの路地に吸い込まれる。音はほとんどしなかった。黒っぽいコートのような服が空気をはらんで立てるバサリという音だけがした。それも風の音と一緒になって消えていく。
     ほんの一瞬のことで、まばたきをする暇もなかった。隣のアイヴスが黒い影の後を追って駆け出す。つられて思わず路地の入口まで走り、ぼくも追いかけなければ、と自転車に跨がろうとして地面に落ちた黒い液体に気がついた。細い路地からこちらまで、ぼたぼたとこぼれ落ちている。足元に落ちているものを触ってライトで照らすと指先は赤い色に染まっていた。血液にちがいない。
     嫌な予感がしてアイヴスを追いかける。
     こちらの路地も通りよりは狭く、街灯もなく暗かった。自転車のライトであたりを照らしながらアイヴスを探す。
     あの影は、もしかして彼なのだろうか。だとしたら、同僚より先に見つけて隠さなければならない、と奥歯を噛みしめる。地面に点々と落ちた血の量は減っていた。影から出た血ではなさそうで少し安心する。それにしてもアイヴスはどこに行ったのか、黒い影の彼はともかく、アイヴスにも追いつけないとはどういうことだろう。
     路地を抜けた先はぼくたちが歩いていた道よりも広く、人通りがあった。息を切らせて飛び出してきたぼくを通行人が驚いて避け、足早に歩き去った。見慣れないものを見て驚いたり携帯端末を向けて証拠を撮ろうとしたり、それこそ追いかけたりしているひとはいない。店の外で集まって笑い合うひとがいる、家路を急ぐ車が走り抜けている、日常そのものの光景があった。
     右に行くべきか左に行くべきかとうろたえていると、アイヴスがこちらに向かって駆けてきた。
    「悪い」
    「お前、走るの早すぎないか?」
     アイヴスは首に手を当てながら肩を回し「いやあ、鍛えてるもんでね」などとうそぶく。
    「あの黒い影、ひとだったよな?」
     訊いてみると、アイヴスはなにも言わずに来た道を戻り始める。
    「なんで追いかけたりしたんだ?」ぼくが訊くと、
    「悪いものだと思ったから」
     アイヴスははっきりとした声で答えた。足が止まる。それはそうだろう、人間とは思えない動きで血を滴らせながら駆け抜けたのだ、良いものとは思えないはずだ。
     立ち止まっている間にアイヴスは走って元の場所まで戻っていった。戻るに連れて落ちた血の量が増えていく。通りに出ると、そこはしんとしていて、路地から出てきた「なにか」に驚いていた女性もいなくなっていた。
    「アイヴス、どこに行った?」
     見渡しても同僚の姿が見えず呼びかけると、黒い影の出てきた細い路地の先から短く声がする。
    「警察に連絡しろ」
     慌てて駆け寄ると、突き当りになった路地の奥、アパートの裏階段に男が倒れていた。がっくりと頭を胸に垂らして階段にもたれるように座っている。はじめは黒い服を着ているのだと思った。だが、ライトで照らすとシャツは赤黒くてらてらと光を反射した。前面を自分の血で濡らした元は別の色のシャツなのだとわかった。そう認識すると、この場に漂っているむっとしたにおいの正体に気づき、突然おぞけがふるってきた。この人物は間違いなく絶命している。
     震える指で通報し、周りを検分するアイヴスを見る。彼は被害者に近づいてなにか探しているようだった。
    「なにしてるんだよ。触らないほうがいいんじゃないのか」
     ぼくのたしなめる声を少しも気にとめずに男の着ているジャケットのポケットを探り、ぼくに背を向けて落ちているバッグに手を突っ込む。
    「なにを……、お前、どうしたんだ?」
     さっきからひとことも声を出さずに作業をしているアイヴスは、突然別の人間になったかのようだった。ごそごそとなにかを取り出してぼくに近づく。思わずひるんで後ろに引き下がった。
     ふ、と口角を上げてアイヴスは携帯端末を手渡す。被害者のものらしいが、どうしろというのだろうか。
    「家族に連絡してやったらどうだ」
    「ぼくが? なんでそんなことを……、警察がもう来るだろう、そういうことは警察がするんじゃないのか?」
     そうか、と納得したのか、アイヴスは端末をバッグに戻す。なにをしたいんだ、とうろたえているとサイレンが聞こえてきた。パトカーが二台止まり、バタバタと扉を開閉する音がする。振り向いて警官にこっちだと手を上げて注意を引く。駆け寄る警官に場所を明け渡すために自転車を引いて路地から後ろ歩きで出ていくと、別の警官が話しかけてきた。
    「君たちが発見者か?」
     はい、と答えたのはアイヴスが先で、そこからはずっと彼が受け答えをした。
    「なにか見たか?」
     この質問が来たときに、ぼくはなんと言うべきか、言わないでいるべきかを考えていた。でも、アイヴスにまでぼくの考えを強要することはできない。だから先にぼくの考えを口にしなければいけないと思っていた。ぼくの考えに乗ってくれることを祈って。だが、答えたのはアイヴスが先だった。
    「いえ、なにも。おれたちが来たときには通りに血が落ちてました」
     通りに目を走らせた警官の視線を追ってぼくもそのまままっすぐ暗い路地を見る。顔を戻すと、遺体が青と赤の光に照らし出されていた。ここから見ると、よくできた人形のように見える。ここにいたのが彼であってほしくない。たまらない気持ちになった。

       6

     白い光が部屋のなかに満ちている。人肌であたためられたシーツから出たくなくて薄く開いた意識を内側に呼び戻そうとする。
     目を閉じていると、やわらかな手のひらが髪をなで、そのまま裸の肩口におりていき、優しくさすってくれる。
    「起きないのか?」
     耳元でささやかれてくすぐったくなる。眠ったふりをしたまま笑い、ベッドのなかに入るように促すと彼はシーツの上からぼくを抱きすくめる。ようやく目を開けるとぼくは彼の胸にすっぽりと収まっている。
    「顔を見せて」
     首を仰向かせても、なぜだかそこだけ影になって判然としない。背中に回る腕の力が強まり、ぼくは身動きができなくなる。痛いほどに抱きしめられているのに、沸き起こるある予感で身体は徐々に冷えていく。
     のけぞらせた首筋に彼の頭が降りてきて荒い息がかかる。はあはあと苦しそうに息を継いだあと、諦めたようにぼくの首にそっと牙を立てる。
     目の前が真っ赤に染まった。首を切り裂かれて溢れ出た血液がぼくと彼の身体、ベッドに敷かれたシーツ、テーブルや壁紙に散らばっていく。
     彼は悲しそうにしながらも満足気にぼくのことを見下ろす。とめどなく溢れる血がぼくの世界を赤く染めて彼の顔がよく見えない。ぼくは自分の血で溺れながら、どこか陶然としてシーツに沈みこむ。

     目を覚ますとじっとりとした汗で全身が濡れていた。心臓の音がドクドクとはっきり耳に響く。思わず首に手をあてて確かめるが、もちろん傷などありはしない。強く握っていたのか、包帯を巻いた指が熱を持ってじわりと痛む。大きくひとつ深呼吸をして気持ちを落ち着かせた。
    「悪い夢だ。現実じゃない」
     自分に言い聞かせるようにして声に出す。ただの夢ではあったが、いままでに見たことのない種類のものだった。そもそも出会って間もないひととベッドを共にする夢を見たこともなければ、そのひとに殺される夢を見たこともなかった。
     これは、相当昨日のことがあとを引いている……。
     遺体を見つけてから事情聴取を受け、家に帰るまで四時間ほどかかった。ぼくとアイヴスはそのあいだあまり話をしなかった。こそこそと話してボロが出るのもいやだったし、そもそもなぜ嘘をついたのか問い詰めるには周りに警官が多すぎた。
     規制線の外側から細い路地を最後に目にしたとき、遺体が死体袋に入れられていた。喉が切り裂かれているのが遠目にもわかった。
     捕食という言葉が頭に浮かんだ。捕らえられ、食べ尽くされる。ジェイには似合わない言葉だった。ぼくをそうする機会は何度もあったのに、あのひとはほくに危害を加えなかったではないか、と自分に言い聞かせる。そうしていても胸のざわつきはまったく収まらず、嫌な汗が全身を伝う。
     いっそのこと、あのときなにもかもを忘れてしまえればよかったのではないかと思いもした。けれど、そう思ったそばから、ジェイの苦しそうに笑う姿や頬を挟む手付きを勝手に再現して泣きたくなるほど切なくなった。どうしてあのとき抱きしめてやれなかったのだろうかと、この期に及んでまだ後悔をしている。
     連絡先を伝えて警察署を出てからも、ぼくたちは言葉をかわさなかった。せいぜい、疲れたな、だとか、長かったな、だとかいうぼやきを垂れただけだった。非日常の緊張から開放されてすかさず睡魔が忍び寄ってきたからでもある。ぼくたちは疲れていた。そうして家路につき、この悪夢を見ることとなる。
     シャワーを浴びて夢の残滓を注ぎ落とした。朝日がのぼるのを待つ、午前七時前だった。今日は出社を取りやめよう。ジェイ自身と、彼のいたところに現れたふたりの人間について調べなければいけない。
     まずは、昨日の事件現場に向かおう。日の下で見ればなにか手がかりがあるかもしれない。そう考えて、昨夜のアイヴスの行動に不審なところがあったのを思い出した。
     今度はこちらからモーニングコールをしてやろう。三度目のコール音がやむ前に電話は取られてはっきりとした声が応えた。
    「よう、眠れたか?」
     ぼくを思いやる言葉に思わず声が詰まる。質問をしようとしているだけなのに、どこか後ろめたい気持ちになった。
    「今日は仕事を休むよ。気になってることがあるから、それを片付けたい」
    「そうか、伝えておく。要件はそれだけか?」
     アイヴスの声はいつもと変わらず落ち着いている。自分を励まして続ける。
    「いや、昨日のことだ。なにも見てないって警官に言ってたよな、ぼくたちは飛び出してきた人影を見ていた。なんでああ言ったんだ?」
    「酔っ払いだと思われるだけだろう、あるいは薬物を疑われるか、どちらにせよ昨日ほど早く開放はされなかっただろうからな」
     ため息混じりの声がする。真っ当な判断に思えた。
    「アイヴスは、あれがなんだったと思ってる? 昨日は『悪いもの』だって言ってたよな。ひとを殺すものだとわかっていたのか?」
     少し考えるような間をおいてから答えが返ってくる。
    「血を垂らしながら走ってたんだ、嫌な感じがしたから追いかけた。捕まえられればよかったんだが」
    「お前、なんであのひとの持ち物を探し回ってたんだ?」
     畳み掛ける質問に、今度は間を開けずに返答する。
    「自分の無力さを感じたんだ。あの場をなんとかしたくて、きっと、自分にコントロールできることがあると思いたかったんだろう。おかしなことを言ったよな、すまなかった」
     アイヴスの言うことは筋が通っている気がする。ただ、滔々とうとうと答えるところに、どこか、用意した台本を読んでいる雰囲気がする。
    「ぼくになにか隠してるのか?」
    「おれたちのあいだに隠し事はないはずなのに、って?」
     軽く笑う息遣いが聞こえた。カチャカチャと食器かなにかを移動させる音にかぶせて声がする。
    「お前にだってひとつやふたつ、隠し事はあるんだろう。言ってしまえば楽になると思うか?」
    「ぼくのことはいいだろう」
     さっきの夢がまぶたの裏にちらついて心臓が音をたてる。話の向きを変えたくて別の質問をする。
    「なあ、あの黒い影には、どうやったら会えると思う?」
     ぼくの言葉を受けて息を詰めるような間があいた。しばらくして低い声が聞こえる。
    「あれには関わらないほうがいいだろう、ひとを殺しているんだ。それに、探しても見つからないんじゃないか」
     君の言うとおりだな、と答えて通話を終えた。やはりひとりで探し出すしかないようだ。

     事件があった路地へと徒歩で向かった。昨夜はパトカーに乗せられて警察署まで連れて行かれ、その場所から返されたので自転車は路地のそばに置いたままになっていた。昨夜と変わらずに壁に立てかけられている。自転車の盗難さえないような地域で、ひとが死ぬ事件が立て続けに起こっている。
     規制線はすでになく、だれでも路地に入れるようになっていた。時刻は八時半、通学や通勤の時間帯だ。
    「あんたたち! ひとん家の裏で騒ぐんじゃないよ!」
     女性の声が聞こえてくる。キャアキャアと、若い声がはしゃいだようすで口々になにか言うのも聞こえる。
    「ねえ! 昨日人殺しがあったって本当? どのへんで死んでたのか知らない?」
    「不謹慎だろうが、ここにはひとが住んでるんだ。あんたたちさっさと学校に行きな!」
     もう警察を呼んでんだよ、との声がきっかけで小学生くらいの年齢の子どもたちは唇を尖らせて路地から出てきた。このあたりはバスの待合場でもなかったはずなので、わざわざここまで歩いてきたのだろう。いまから向かって間に合うのだろうかと少し心配になる。
     子どもたちとすれ違い、今度はぼくが路地に向かう。このタイミングでは確実に野次馬だと思われるだろうと思いながら顔をのぞかせると、突き当たりにあるアパートの裏階段の一番上に四十代くらいの女性が仁王立ちしていた。遺体があった階段の下には血痕やゴミはなくさっぱりとしている。
    「あんたも野次馬に来たのか?」
     むかっ腹が収まらない様子で腕を組む女性にどういったものかと考えながら路地を進んだ。
    「いえ、野次馬というか……、昨日、ここで通報したのがぼくでして、気になって来てしまいました」
     彼女は眉をひそめてぼくを頭から足先まで検分する。
    「あんただったかね? 確か、女のひとと一緒だったよね?」
    「いえ、職場の同僚の男性と一緒でした」
     ふむ、と納得したようにひとつうなずいて階段に腰掛けると、目線の高さがぼくと同じになった。
    「朝から物見遊山のやつがぞろぞろここに来るんだよ。適当なことを言うからカマかけてるわけ。よく見たらたしかにあんただった気がする」
    「昨日、ぼくたちを見てたんですか?」
     ちらりと背後に目をやり、半分がた通路で塞がれた窓を指差す。
    「その部屋がうちだからさ、なんかあったらわかんだよね」
     ドキリ、と緊張が走った。つばを飲み込んで訊く。
    「もしかして、昨日、ここにいたひとを見ていましたか?」
     うろんな目を向けられて失敗したことに気づく。これでは野次馬が詮索しているのと変わりないではないか。それに、なにやら責めているようにも聞こえる物言いだった。もし、この女性がなにか見ているのなら、こちらから隠し事をしてはいけないと直感した。あわてて言葉を継ぎ足す。
    「すみません。ぼくたち、警察には言ってなかったんですが、この路地からだれかが出てくるのを見ていたんです。酔ってぼうっとしてたんですが、血が落ちていて……」
     女性は厳しい顔つきでじろりと睨み、大きくため息をついて足を揺すった。
    「あんたは昨日見てんだからわかるだろうけど、階段の下からまっすぐ向かいまで、ずーっと跡があったろう」
     伸ばした指につられて通りと向かいの路地までを見る。この場所に血の跡がないことには気づいていたが、通りもきれいになっていたことにようやく気づいた。
     はい、とうなずいて先を促す。
    「あれ片付けたのわたしなんだよね」
     眉間のしわが深くなり、足の揺さぶりが大きくなる。黙って見つめていると、腕を組んでじれったそうに口を開く。
    「男がふたりいた。ずっと静かだったよ。ここ、変なやつらがたまに使ってて、うるさくしない限りこっちもなんも言わないんだけど。しばらくしたら大きな音がしたから覗いてみたらひとが倒れてた」
    「それ、警察には?」
     呆れたようにぼくの顔を見返す。
    「あんたと一緒。面倒事はごめんだし。でもさあ」
     足の揺れがひどくなる。ほとんど地団駄を踏んでいるようだった。
    「あれ、見た? あんなの普通じゃない」
     自分を抱きしめるようにする。彼女は恐れていた。
    「ここから立ち去ったひとの顔を見ましたか」
     低いささやき声になった。どうしても、聞いておかなければならない。
    「はじめて見る顔だった。普通のひとに見えたよ。あんたとは似てない」
     彼女は、はあ、とため息をついてうつむく。
    「暗かったけど肌の色くらいはわかった。わたしと一緒」
     彼女の肌は日陰のなかにあってさえ、朝の日差しをほのかに受けて焦げ茶色に光っていた。彼と同じ色だ。ぼくは口を結んで彼らが立っていたというこの場所へと視線を落とす。
     警察の調べとアパートの住民である彼女が掃除をしたあとだと、ここに彼の痕跡があると思うのは楽観的すぎるだろう、でも、貴重な証言を聞けた。できれば、もう少し記憶を辿ってもらいたい。
     女性は身体を小さくして階段の上に座っている。
    「あなたが無事で良かったです」
     静かに語りかけると、腕を摑む力が少しだけ抜けたように見えた。
    「あなたが見たものについて少し伺いたいんですが、いいですか?」
     この女性も、ぼくと同じように自分のなかだけに記憶をとどめておくのがつらかったと見える。軽くうなずいて聞く姿勢を取ってくれた。身体を正対させて一番気になっていた質問をする。
    「そのひとが被害者を殺すところを見ていましたか?」
     女性はぼくの顔をけげんな目で見た。少し目をさまよわせてから思い出そうとする。
    「わたしが見たのは男が倒れてからだったから、その瞬間は見てない。でも、そのあとにあいつは壁を這うみたいにしてあっちに跳んでいった」
     日が当たって白く光る通りの方を指差して言う。
    「あれ、なんだったんだろう? やっぱり警察に言ったほうがいいんだろうか?」
     どうなんでしょう、とみっともなく言葉を濁してしまう。どんな情報であれ、彼につながるものはできるだけ伏せておきたいけれど、それを彼女に強要することはできない。
    「あなたが伝えるのは結構ですが、ぼくたちのことは言わないでください。警察にはいい思い出がないので」
     適当なことを言って口止めをする。自分の言葉に反吐が出そうだった。怯える女性になんということを言うのか。
    「きっと、しばらくは警官がこのあたりを巡回するでしょう。同じ場所で何度もひとを殺したりはしないはずです。でも、念のため、夜は気をつけて」
     何度かうなずいて彼女はアパートに戻っていった。背中を見送り、先ほどまで女性が座っていた裏階段に上る。がらんとした路地を見下ろして頬杖をついた。白く光る通りと、日光が上の階にしか差さない路地の境界のコントラストがまぶしい。ふと、ひとりきりでこの場所を掃除した彼女をいたわる言葉をかけなかったことに気づいた。どのような種類の手出しをすることもできないような怖い思いをして、おそらくはひとりで警官と対応し、朝になって路地を確認すると血で汚れたままだった。自宅にひとが押しかけるのが嫌だったのもあるだろうが、それよりも彼女の胸に湧いたのは被害者への後悔や憐憫だったのではないだろうか。
     彼女がしていたように片方の腕で別の腕を握る。自分を殴ってやりたくなった。

     路地から出て自転車に乗ろうとしていると、通りから声がかかった。大上段な物言いに、ぼくはいらついた素振りを隠そうともせずに振り返った。
    「あんた、昨日ここにいたでしょう」
     背の低い制服警官だった。昨日は気が動転していたのもあり、この警官がいたかどうかは覚えていない。ここに来たときに、女性が小学生たちに警察を呼んだと言っていたのは本当だったのだろうか。思わず姿勢を正して彼女に向き合う。
    「……ええ、事件のことが気になったもので。でも、もうなにもありませんでした」
     警官は路地にちらりと目を向けて顎でうなずくと、こちらに向きなおり青い両目でじっとぼくを見る。ハンドルを握る手に汗が浮かんだ。
    「連絡するのが省けた。あんた、昨日は酔ってたようだったし詳しく聞かなかったんだけど、被害者のものを触った?」
     ぼく自身は彼の持ち物をなにも触ってはいない。しかしアイヴスは携帯端末を探してカバンのなかを探っていた。答えに詰まってしまい、表情を読まれたのがわかった。
    「すみません、携帯端末を触りました。気が動転していて、倒れていたひとのことをだれかに教えてあげないといけないと思って」
     制服警官は疑わしげにぼくを眺める。
    「携帯になにをした?」
    「なにって、触っただけです。警察が来てそのまま戻しましたから」
    「それを信じると思ってるの?」
     にわかに雲行きが怪しくなってきた。なぜか、ぼくは疑われていた。今日はなにを言っても、あるいは言わなくても後悔する日のようだ。警官は、目を見ればすべてを読み取れるのだというようにぼくを注視して口を開く。
    「通話履歴が全部削除されてた。あんたが消したの? 理由は?」
     思わず眉をひそめる。なぜ履歴の削除をしたのだろう。本人がしたのか、ここにいたあのひとがしたのか。
    「ぼくじゃありません。自分で消したんじゃないのかな。ぼくらは関係ないでしょう。それより、犯人の目星はついているんですか? 私怨なのか通り魔なのか、住民も怯えてます」
    「あんたたちが知ってることを言えばさっさと解決するんじゃないの?」
     こちらをまっすぐに見つめる目がちらりと揺れたように見えた。ぼくの動揺が写っただけかもしれなかったが、この警官も確信があっての言葉ではないらしい。彼についてなにか知っているのだろうか。だが、下手を打つと彼が危険になるかもしれず、それだけは避けなくてはいけなかった。今後、ぼくが黙る選択をしたせいでだれかが命を奪われたとしても、いまの思考を支持できるだろうか。いや、まず、彼に直接聞いてみなければならない、今朝見た夢と同じで、勝手に悪い想像をしているだけかもしれないではないか。
     ぼくが黙り込むと彼女はなにかを言おうと息を吸う。
    「ホイーラー!」
     男性の声に目の前の人物が振り向く。彼女と同じく、制服を着た警官が紙カップふたつを両手に持ち、両肘の間に紙袋を乗せた状態で彼女を呼んでいた。朝食だろうか、すぐ後ろのコーヒーショップから出てきたようだ。
    「なにしてる? 手伝ってくれ」
     男性は両手を塞いだまま、なんとかパトカーに乗ろうとして顎で紙袋を挟み、コップを取り落としかけている。ホイーラーと呼ばれた警官はひと睨みを残して車に近づいた。紙袋を渡して、男性は興味なさげにこちらに視線を投げる。
    「もう非番なのになにしてたんだ?」
    「昨日の事件の通報者だよ」
     こちらに鋭い視線を投げてよこしたホイーラーは、しぶしぶ車に乗り込んだ。パトカーが走り去るのを見送り、どうしたものかとぼくは立ち尽くした。
     被害者についての情報を聞けたらよかったのだが、疑われているのでは答えてくれなかっただろう。だが、大きな手がかりを得た。被害者の携帯からは通話記録が消されていたという。ぼくたちに関係ないとすると、殺された当人かあのひとが消したのだろう。その理由を推測するに、彼らは連絡を取っていた、つまり、顔見知りだったのだ。
     彼ともう一度会える可能性に小さく胸がうずく。前に会ったときのように頬を両手でやさしく挟んで魂まで覗き込むように見つめてくれるかもしれない。路地に放置された男のことを頭から追いやるためにあの夜のことを思い出す。ジェイに人殺しなどできるはずがない。なにかの間違いだ。
     しばらく考えてからひとつうなずき、先ほど警官が出てきたコーヒーショップに向かう。記者の真似事など、自分にできるだろうか。建物のデザインや設計についてのヒアリングとはちがうよな、と頭のなかで予行演習する。当たって砕けろ、か。

     いらっしゃいませ、という元気な声がぼくを迎えた。にこやかに微笑む若い女性店員がひとり、カウンターの後ろに立っている。店内には三人ほどの客がめいめいに注文した品を味わっていた。店員の手は空いていそうだ、聞き込みをしても迷惑にはなるまい。
    「おはよう。注文いいかな」
     朝食をとっていなかったので、コーヒーと一番値段の高いベーグルサンドを頼む。てきぱきと用意する店員へカウンターごしに声をかけた。
    「昨日、このあたりで事件があったの、知ってる?」
     店員はコップにコーヒーを注ぐ手を止め、はっとして振り返り、笑顔を歪ませた。
    「さっき警察が来てました。亡くなったの、ここのお客さんだったんです。びっくりですよね」
     ぼくは思わず、彼女の肩を揺さぶって知っていることを全部言わせたくなった。奥歯を噛んで気持ちを落ち着かせ、じわりと痛む指を握ろうとした手のひらを開いてカウンターに乗せた。つとめて何気ない、世間話のように軽い声を出す。
    「それは驚くね。そのひと、ここにはよく来てたの?」
    「ええ、自営業だからって好きな時間に来てました。窓のところの席が定位置で。……殺されたんだって聞きました」
     こちらに用意した品物を渡して悲しそうにした。
     ぼくはうつむいて彼女に同調していることを示す。そうなんだ、とつぶやき、悲しげに見えるように眉を下げてから、ほんの少しだけやわらかな微笑みを唇に乗せた。
    「そのひとはこのお店が好きだったんだね。自営業って、なにをしてたんだろう?」
     店員はてらいのない含み笑いをしてなぜか得意気にした。
    「小説家なんです。『冷たい悪夢』の作者。いま書いてる作品にわたしを出すって言ってくれて。どんな話なんですかって聞いたら、ホラーは好きかと聞かれて。楽しかったな……」
     言ってから、そうか、だった、て言わないといけないのか、とひとりごとを言う。小説のタイトルを頭に入れてから、ぼくは彼女が思い出に沈む前に現実に引き戻す。
    「警察は、犯人について言ってたかな?」
     ゆるく首を振って、あ、と彼女はなにか思い出したように顔を上げる。
    「たぶん顔見知りの犯行だろうから、わたしたちには危険はないだろうと言ってました。でも、そんなのわからないですよね」
     目を少し泳がせて、彼女は伺うようにこちらを見る。ぼくは首を傾けて微笑みを浮かべ、なんでも言っていいんだよ、と言葉を促す。君の話に興味があるんだ、もっと聞きたいな。
     少しの沈黙のあとに声が続く。
    「なんか、黒いコートの男が人を殺して回ってるっていう噂が流れてて、昨日それを見たってひとが結構いて」
     あ、ネットに、なんだけど、と言葉をつないで続ける。
    「今月に入ってから、変なやつがいるって話題が出てて。時期も時期だから、よくある都市伝説の模倣かなと思ってたんだけど、この街を中心にかなり具体的な場所の名前も上がってて、いやだなと思ってたらこんなことが起きて」
     自分の口から出る言葉に対して、まさかね、という思いと、もしかしたら、という疑惑が渦巻いているのがわかった。自嘲的な笑みも浮かべている。ぼくは、作為がほんの少し混じった思いやる表情を作って訊いてみる。
    「君は、なにか見てないの?」
     ここに至って彼女はようやく、ぼくが注文した品に少しも手を付けずに自分に質問ばかりしていると気がついたようだった。批判的にならないように気をつけながら、少しだけ眉を寄せてこちらを見る。
     ぼくはぼくで不審に思われないように、にこりと笑ってコーヒーを口に運び、名前を名乗る。
    「ぼくはニール。昨日の事件について調べているんだ。昨日の目撃者って多かったのかな? ぼくに調べてほしいって頼んできたやつも見たらしくって」
     店員は目を見張り、じゃあ、やっぱり本当にいるの? とつぶやく。
    「いや、そいつもちゃんと見たわけじゃないんだ。なにか見たような気がするからって、ぼくが暇そうなのをあてにして聞き込みをさせてるんだ。その噂って、どこかのサイトに載ってるのかな? 全然知らなかったから、よかったら教えてもらえたら嬉しいな」
     適当なことがよくもこうスラスラと出てくるものだ、と内心で呆れてしまう。嘘をつくのに抵抗があったのはいつ頃までだったろうかと思い出そうとしてやめた。集中しなければならない。
     店員は、少しもぞもぞと足を動かしてちらりとこちらを見て諦めたようにした。
    「チャットグループみたいな感じのところで、もともとはオカルトな話をしてるところだったのが、いまはその話題ばっかりになってる。そういうの読んだりする?」
     ぼくは正直に否定の意図を持って首を振る。
    「興味はあるよ。それより、君は、この街でなにかが起きているって思う?」
     彼女はどうだろう、というように首をひねり、
    「警官とあなたがここに来た、それだけで充分なにか起きてるんじゃないかって思っちゃう」
     と、言葉を濁した。

       7

     持ち帰りにしてもらったベーグルサンドを自室で食べながら、パソコンで『冷たい悪夢』を検索する。作品名の検索からでは、作家が昨夜の事件の被害者だという情報にはいまのところつながっていないようだ。書籍の情報だけが検索の上位に現れる。ネット書店のリンクから作品紹介を読む。怪奇小説のようだった。美貌の女性に出会った主人公が彼女の出てくる悪夢に悩まされ、現実と夢を混合するうちに夢に見た怪物が現実に生じる、といった話だ。
     今朝見た夢を思い出して苦く笑い、昨夜の事件について検索する。地名を入れただけですぐに表示された。路地に残る血の形跡が暗いトーンの写真に納められている。記事にはこうあった。
    「ロードアイランド州プロビデンスで、十一月四日深夜、パトリシオ・アルヴァ(五十四歳)が遺体で発見された。場所は、市の中心である市役所近くの路地である。遺体は鋭い刃物で切りつけられており、警察は他殺として調べを進めている」
     こざっぱりとした記事で被害者の本名がわかった。検索すると、案の定SNSのアカウントが大量に引っかかる。各サイトごとに一九六五年生まれのプロビデンス在住者で絞り込んでみたが結果は振るわなかった。ペンネームと合わせて検索してもうまく見つからない。ぼくと同じようにインターネットに自分のことを載せないタイプなのかもしれない。
     被害者の現住所や身の回りのことについてはいったん横に置き、今度はコーヒーショップの店員から聞いた噂の出どころを検索する。オカルト掲示板と言っていたが、灰色がかった背景にシンプルな文字が並ぶごくありふれたサイトに見えた。
     新しい投稿から遡るようにスクロールする。怖い、と怯えているものと、ほかの投稿を小馬鹿にしたようなものが目立つ。昨夜の十時すぎまでさかのぼろうとして、「作家」という文字が目の端に写った。

     foreigner11: 殺されたのは作家。深入りしすぎた

     日付が変わったあとの投稿だった。きっと、身元の確認が終わった直後だろう。ぼくたちが警察署にいた頃だ。そんな時間帯に書けるということは、警察関係者か記者によるものだろうか。その前後には被害者の仕事や殺された理由を勝手に予想するコメントが連なっており、ひとつの賑やかしとしてしか反応されていなかったように見える。
     深入りしすぎた、とはどういう意味なのだろう。ざっと日にちをさかのぼり、ぼくが彼に会った三日前を起点にしてヒントがあるかと読み進める。おなじ人物からの発言はなかったが、黒いコートの男を見たという目撃談は頻出していた。店員が言っていたように、昨夜ぼくたちが見かけた時間よりも前にそう投稿している者がいる。ただ、季節は十一月、黒いコートの男など、どこにでもいるだろう。ぼくだって一着は持っている。それを着て街に出れば、ぼくも噂の火種となるだろうという想像はたやすかった。
     しかし、昨夜遅くのやり取りは、それまでと少し毛色が違って見えた。

     liighiit88: さっきいた へんなやつ 中肉中背 見たとこ普通 動き変 
     wNtkkbBa: なにしてたん
     liighiit88: たぶん追いかけてた 走ってないけど はやすぎ
     463monday: 黒いコートの男です?
     liighiit88: そう ホンモノと思う ダウンタウン危ないかも 
     wNtkkbBa: ラリっとる
     liighiit88: 動きキモすぎ 見たらわかる オレ以外にも見たやついるはず

     この投稿のあとから自分も見たという発言が多くなる。場所をはっきりと書いていなかったのもあり、事実かどうか怪しいものも多かった。そのなかにひとつ、興味を惹かれる投稿があった。

     milknight: 誰かいたけど怖すぎて近づけなかった。すごい勢いで黒いものが出てきて転ばされた。追いかけてた人達がいた。自分の家にいるけどもう夜は外に出られない。まだ手が震えてる。

     ぼくたちのことが書いてある。路地から黒い影が出てきたときに聞こえた悲鳴の持ち主の投稿だろう。ぼくが思っているより、このサイトは注目度の高いものなのかもしれない。
     ひと通り、いろいろなひとが書いた事件への感想や疑問、犯人の推測を読み終えて立ち上がって伸びをする。だれも、連続殺人事件だとは書いていなかった。金曜日の夜に見つかった死体と今回の事件を結びつけるひともいない。
     やはり、ジェイとの接点がありそうな、作家のパトリシオ・アルヴァ氏を探るのが一番だ。彼の契約している出版エージェントとなら住所や近しいひとについて知っているだろう。連絡を取ることができればいいのだが。出版社に問い合わせれば教えてもらえるだろうか。
     思い立って、最新作の出版社に電話をするも、このような問合せは多いのだろう、切口上で「あいにく、こちらからはご返答できかねます」と、取り付く島もなかった。
     被害者のIDくらい見ておくんだった、と後悔し、もしかしたらアイヴスは身元を調べていたのかもしれないと思い至った。なぜそうしたのかはともかく、知っているなら教えてもらいたい。電話をするとすぐに応答した。
    「どうした」
     外にいるようで、電話の後ろがざわついている。
    「いま、大丈夫か?」
    「ああ、出先だが、問題はない」
    「お前、昨日、被害者のIDを見たりしなかったか? 住所が知りたいんだ」
     大きなため息が耳元でした。小さく舌打ちも聞こえる。ぼくに対してだろうか。
    「探偵の真似事か? やめておけよ」
     面倒くさそうに言う。朝とは印象がちがった。今朝はもっとなだめるようだったのに、いまはただ、面倒くさそうだ。
    「でも、お前は見たんだろう? 教えてくれよ。昨日お前が私物をあさってたこと、警察には言ってない」
     しばらくの沈黙により、外のざわめきだけが耳に入る。ひとつ息をついたアイヴスが言う。
    「警察に行って身元を調べようとしたのか? 教えてもらえないだろう」
    「だからお前に訊いてる。なにか知ってるなら教えてほしい」
     どいつもこいつも、とぶつぶつとつぶやくような声がする。これもぼくに対してか?
    「これから行くから待ってろ。家にいろよ。動くな」
     命令を残して通話は切れた。少ししつこかっただろうか、でも、警察に直談判するかネットの海をさまようか、アイヴスに直接聞くかしかないのだから仕方がない。
     アイヴスにはどこにも行くなと言われたが、ジェイを探そうにも探す場所のあてはない。闇雲にうろついてみてもいいのかもしれないが、日の高いうちに彼に会えるとはなぜだか思わなかった。
     しばらくすると、ガンガンと玄関扉を叩く音がした。扉の向こうにはむすっとした顔のアイヴスが紙袋を手にして立っている。
    「……なんてツラしてんだ」
     持っていた紙袋を顔の前に差し出してアイヴスが続ける。
    「どうせ昼飯も食ってないと思って買ってきた」
    「さっきベーグルを食べた」
    「いらねえならおれが食うからおいとけ」
     食べないとは言ってない、と口の中でつぶやきながら袋を開くと、デリの中華の惣菜が入っていた。思い出したように腹が鳴る。携帯端末を確認すると、時刻は昼を大きく回っていた。
    narui148 Link Message Mute
    2025/10/16 21:37:50

    書きかけのお話

    主さんが吸血鬼でニールくんは一般人の話(AU)

    4年前に書きかけてそのままになってる29000文字…

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