呼んだくせに 振り向くと、彼の視線がすっと離れた。挨拶するでもなければ微笑みかけるでもなく、彼は背を向けて歩み去る。
なんらかの合図がないかと、肩や指先、脚に目をやっても、彼はいたって平然として、普段通りに扉を開けた。そのまま振り返らずに外に出ると、隊員たちの影に隠れて見えなくなった。
ミーティングは終わった。皆、次々と部屋から出ていく。彼らと同じように任務に戻ったとか、用足しに行ったと考えていいはずなのに、なぜだか無性に気にかかった。
追いかけなければ、と思う前に身体は動き出す。彼は執務室に向かったに違いない。もしいなければ別の場所を探すまでだ。廊下にいる隊員たちをかき分けて階段を上る足音はひとり分しか響いていない。心なしか早足になった。
ノックもせずにノブを回すと簡単に扉は開いた。
「どうした」
目を開いた彼が真っ直ぐにこちらを見た。
椅子に斜めに腰掛けて、思い悩むみたいに額に指を当てている。窓の方を見ていないのだから、悪いことが起きたわけではなさそうだ。だとすると、これは単なる気のせいかもしれない。
ほっとして曖昧に口角を上げて笑顔のようなものを作ると、彼は眉間にしわを寄せて目をそらした。さっきと同じ感じがする。避けているような、それでいて手招きするような、どっちつかずの浮いた態度。その手をつかんだとしたら彼はどんな反応を見せるのかと好奇心を抱かせる、誘うような視線の揺れだ。
「用事がないと来ちゃいけなかった?」
勘づいていない素振りで彼に近づく。彼は姿勢を正して椅子に腰掛け直したので、ぼくから離れようとするみたいだった。彼が不審に思うのは理解できる。かといって、目を見てくれなかったから気になって追いかけたとは言えない。一挙手一投足に過剰反応して毎回その理由を問い詰める男だとは――たとえそれが真実でも――思ってほしくはない。
「実は、ちょっと相談したいことがあったんだ。この間の任務で気になったんだけど……」
「ニール」
静かな声で牽制される。煙に巻きたいというこちらの意図などお見通しであるかのように、ひたと見つめられて口を閉じた。部屋から出て欲しがっているのが伝わってくる。
タイミングを改めてまた別の機会に相談にのってくれ、などと言って立ち去るのがいつものぼくらしい選択だった。ここでゴネても結局は出ていくことになるのだから、自分からそう言うのが一番スマートで彼の負担にならない。分かっているのに、そうしたくない。だって彼はぼくを呼んでいた。だからぼくは彼を見たのに、彼はこちらを無視したのだ。意識的に。
「嫌だ」
しっかりと彼の目を見て繰り返す。
「嫌だね」
彼の瞳がはっきりと揺れた。こんなに分かりやすい反応を示すスパイなんていたらダメだろうと思うと、少し余裕が生まれた。一歩椅子に近づくと、彼は動くまいとして身体を硬くした。なにも気づかないふりで机に腰掛けて言った。
「ぼくを避けてるの?」
「いや、そんなことはない」
妙に返答が早く感じる。じっと顔を見てみても、澄ましたきれいな視線しかこちらに向かない。先程とは大違いだ。早くも自分を取り戻したのだろうか、だとしたらこちらの手に余る。
彼の腹の中は探れない。
そのとき目にした違和感を、その場で指摘して反応を見るしか手がないのだ。だからいまも追いかけてきた。なにか理由があっていつもと違う振る舞いをするのかどうかを知りたくて部屋に入った。
不意打ちは効く。けれど、持ち直すのも早い。
これまでの経験から、彼のペースに持ち込まれると有耶無耶になると知っているので、時間稼ぎに重ねて質問をした。
「ぼくを呼んだよね」
的を射た発言だったらしい。彼は、ぎゅっと眉間にしわを刻んで首を振る。口元に拳をやって、なにも言うまいとしてるようだ。
その手をそっと膝の上に戻す。
ぼくがなにをするか分かっているのに、彼は手を出せない。彼が手を出せないと知っているからぼくが動く。
顔を寄せると視線がこちらを捉えた。拒絶も怯えも感じないからそのまま近づける。
初めてのキスは、どこか業務的だった。
心臓は高鳴っているし、相手も嫌がる素振りは見せていないはずなのに、一方的な感情の押し付けをしているような気がした。夢見た体験だとは言い難い。
身体を離して表情を確かめようとしたとき、耳元で名前を呼ばれた。遠いところにいる相手を懸命にたぐり寄せるような声で、彼はニールとささやいた。
椅子に膝をかけて強く彼を抱きしめた。
思ったより強い力で、彼は抱きしめ返してくれた。苦しいほど温かくて力が抜ける。
やっぱりぼくは呼ばれてたんだと、この期に及んで自信を取り戻した。さっきのキスは驚いただけに違いない。あるいは、ハグのほうがキスより好きなだけなのかも。きちんと確かめるためにも、もう一度キスするべきだ。
ぴったりと張り付いている身体をなんとか引き剥がして顔を向けると、どこか苦しげな顔がぼくを見た。眉を触ると照れたように頬が緩む。再び顔を近づけると、今度は彼もこちらに顔を寄せた。
二度目のキスは長く続いた。
互いに、自分たちはキスが嫌いではないと理解するには充分なほど時間をかけた。
どう考えてもこれはカジュアルなものではなく、セックスの導入のような代物だという認識はあったものの、どうにも止まらなかったのでぼくたちはキスをし続けた。さすがに性器に手を伸ばし合いはしなかったものの、互いの服の上から身体に触れては自分に引き寄せて、擦り付けては感じ入っていた。
ノックの音がしなければもっと長く続いたはずだ。外からアイヴスの声がした。
「入っていいですか」
椅子に座ったままのボスにまたがってしがみついて顔中にキスしているところだ、いいわけがない。
固まってしまった彼に代わって口を開いた。
「なんの用だ」
椅子から立ち上がって自分の服装に目を落とす。シャツのボタンは真ん中辺りまで開いて裾はズボンの外に出ている。ベルトは緩んでいないものの、その下は分かりやすく起き上がっているし、自分の傾向を思い出すに、顔は真っ赤になっているだろう。
扉の外から怪訝な声がした。
「ニールか? ボスは居るか」
「……いるよ。いまちょっと出られないけど」
勢いよく、気を取り直した彼が駆けてきた。シャツのボタンを留め直してジャケットをしっかり着込んだその表情は落ち着いている。いつもの格好良い姿になっていてあまり面白くない。
ドアを開けても訪問者からは見えない位置に背中を預けた。アイヴスが入ってきてぼくを見たらなにをしてたかよく分かるはずだと考えると少し気は晴れる。ボタンを留め直さず、シャツの裾も出したままで髪に手をやる。彼に好きに触られたのでくしゃくしゃになっていて嬉しかった。薄く開いたドアを挟んでアイヴスと話す彼の声が聞こえる。以前に頼んだ情報を受け取ったようだ。
「助かった、ありがとう。また頼む」
「それは構いませんが……なにかありましたか」
一拍ほど間を空けてから、彼は言った。
「ちょっとした意見の相違があっただけだ。もう解決した」
アイヴスの眉間が縮まるのが見えるようだ。後でたしなめられるに違いない。そうでなくても自分のしたことを思えば、ここは職場だし、求められたからといって与えたのはぼく自身なのだからたしなめられても仕方ないかもしれないけれど。
そうですか、と一応の納得をしたのかアイヴスは立ち去った。静かにドアを閉めたあと、彼の手が鍵を回した。思わず口元が緩む。
はあ、と息をついた彼は、にやけたぼくを睨みつけた。
「開けようとしたのか」
「まさか。適当に返して帰ってもらおうとしただけだ。さすがにこんな姿は見せたくないからね」
両手を広げて見せると、彼は呻くようにしてすまないと謝った。
「謝るなよ、ぼくも鍵をかけてなかったし……」
一瞬でぼくらの間を詰めて、彼は声を塞ぐように口づけた。壁に押さえつけられるとすぐにさっきの続きに戻される。彼のジャケットに手をかけて再び脱がせて二人分のシャツのボタンを全部外す。胸と胸を押し合わせて温度と鼓動を感じ合う。
椅子の上のときより強く腰が押し付けられた。あまりに性急なので笑うと、むっとしたように軽く首を噛まれた。
彼が言う。
「ここではしない」
「忍耐力を試してるんだ?」
「したくてもできない」
ひどく自分本位な言い方なのに、妙にぐっと来た。
「……せっかく準備してきたのに」
そう言うと、え? と小さな声とともに肩をつかまれて壁に押しつけられた。疑念と期待の入り交じった真剣な顔がこちらを見つめる。
「じょ、冗談、冗談です」
本気にされると思わず素直にうろたえた。
彼は彼で安堵と失望のこもったまなざしを投げてくるので目を閉じてやり過ごす。残念そうな顔をしないでほしい。後先考えずになにもかも受け入れてしまいかねないではないか。
――それもいいか。
彼の身体が自分から離れてしまうと自然とそう思えた。どうしようもない戯言で、この時間は終わるのだ。クソ、馬鹿め。
彼はシャツをきれいに着直して落ちたジャケットを拾うと、胸ポケットから何かを取り出してぼくに見せた。
「ここで待っていろ」
近くのホテルのルームキーだ。
「ここって……」
「言っても意味がないとは思いたくないが、私物には触るなよ」
用意周到に場所を確保していたのではなく、彼の私室だ。奥歯をかみしめながら、すでに記憶した情報を反芻する。
セントラルホテル、1405号室。
ルームキーを手にして黙り込んだぼくを眺めて、彼は歯切れ悪く言った。
「そういうことだから……では、また」
顔を上げると、彼はすでに部屋から出ていた。静かに扉が閉まる音がする。
ふふ、と笑い声がした。抑えきれない笑みが自分の口からこぼれる。
――やっぱり、ぼくを呼んでいた。
ルームキーを蛍光灯にかざして見つめる。そうするうちに、すぐさまそこに行く必要があると気づいた。
待っていろと言うからには後から来るのだろうけれど、あまりぼやぼやしてはいられない。このあとの仕事はなにかあっただろうか、急ぎの用事がないのなら、なにかを言いつけられる前にここを出なくては。
だが、その前に、身だしなみを整えて、なに食わぬ顔で部屋を出なければならない。くしゃくしゃになったシャツを肩にかけてボタンを留める。その下にはまだ勢いを失わないものがある。この部屋で対処するべきなのか、どうにかして落ち着かせるかを考えなくてはならなかった。