平和な戴ランド 秋と冬 泰麒は走っていた。
汗の滲む頬を冷たい風が撫でる。正頼が、公務と勉強ばかりでは退屈だろうと言って休憩時間を設けてくれたのだ。
「そんなことしていていいのかな」
泰麒は首を傾げた。だって、戴は大変なのに。たくさんの人が困っているのに。
「いいんですよ」
正頼は優しく笑う。
「台輔が健やかでいらっしゃることが、何より戴のためになるのですから」
そうして今、泰麒は正頼とかくれんぼをしている。蓬莱での遊びを正頼が聞いてくれたので、泰麒が教えたのだ。
燕朝の中は広い。更には治朝というところがあって、それを含めて白圭宮となるのだという。泰麒は最初に雲海の上から白圭宮を見たときを思い出す。いつか、宮殿すべてを見ることができるだろうか。
秋の実をつけた生垣の小径を曲がると、ちょうど人が来るところだった。危ないと思ったが止まりきることができず、泰麒はその人にぶつかる。
寸前で受け止められた。泰麒の細い両肩を支えるのは武人の大きな手だった。
「台輔、どうされましたか?」
泰麒を覗きこむようにして、優しい声が降ってくる。阿選だった。
前の王の時代には驍宗と並び称されたほどの軍人で、今も禁軍の右将軍を務めている。双璧と呼ばれただけあって、容貌もどことなく驍宗と似ていた。ちょうど小さい泰麒が見上げたときに、受ける印象が似ているのだ。
──遠くから見たらどちらか分からないこともあるんじゃないかしら。
泰麒が以前そうぼやくと、正頼は笑いを噛み殺した。
「昔、前の王様のころですね、ちょうど寒い時期の派兵が続いたことがあったのですが、右軍と左軍が交互に出されまして。戻ってきた右軍と、これから出て行く左軍が鴻基の通りで出会い、運の悪いことに主上も阿選殿も似た色の旗袍をお召しでした。帽子を被ってしまえば分からなくなるのでしょうね。それで阿選殿に向けての書状を、使者が間違って驍宗様に持ってきたことがあるのですよ」
泰麒は目を丸くする。
「……それって、なんだかとても失礼なことに思えるのだけれど」
正頼は笑みを深くする。
「ええ。間違いに気付いた使者は平謝りでした。驍宗様は苦笑いして許して差し上げてましたが。よくあることだと仰っていました」
驍宗と阿選は、似ている。泰麒は自分が受けた印象が保証されたようで嬉しかった。だが、時に驍宗は怖い。身が竦むような覇気を発することがあるのだが、阿選にはそれがなかった。
今も、阿選は微笑んで泰麒を見つめている。
「……えっと、ごめんなさい」
泰麒がまず謝ると、阿選は首を振った。
「大丈夫ですよ。御身にお怪我がないのならそれが第一です。それよりもなぜ走っておいでなのです? 正頼は?」
泰麒は少し言葉に迷った。
「勉強の後、少し休憩にしましょうと正頼が言ってくれたんです」
自然と語尾が小さくなる。こうして口に出すとずる休みをしているようで、やはり気が咎めた。
なるほど、と阿選は笑う。
「それで今は休憩のお時間なのですね」
「そう、なのだけど」
俯いた泰麒に向かって阿選はしゃがみこむ。
「そんな顔をなさらないで下さい。台輔の健やかさは必要なことなのですよ。我々はもちろん、主上にも」
泰麒は目を瞬かせた。
「驍宗様にも?」
泰麒は宰輔としての役目を何一つ果たせていない。朝議で驍宗の横にこそいるが、後で驍宗や正頼に聞かないと何について話しているのかさえはっきりしない。だから役に立っていないのだと思う。むしろ手間を取らせてしまうぶんだけ、邪魔をしていると言える。
「この朝は軍人が多いですから」
阿選は苦笑する。
「軍人は白黒はっきりつけたがるし、思い詰めて極端なことを考えるものです。台輔は場を明るくなさいます。一瞬気が逸れて、みんな我に返るのですよ」
泰麒は首を傾げる。阿選の言う意味はよく分からなかったが、役に立っていると伝えてくれているのは分かる。
「台輔は今のまま、健やかに成長なされば良いのだと思いますよ。正頼も同じようなことを言うでしょう」
泰麒は迷いながら頷いた。驍宗も正頼も李斎も、泰麒は泰麒らしく大きくなればいいのだと言う。実際のところ、泰麒にはそれしか出来ないのだ。それが泰麒にはもどかしい。
「正頼」
泰麒は思い出して頭を上げた。そういえば、かくれんぼの最中だった。
阿選がどうしたのかという顔をする。
「蓬莱での遊びで、かくれんぼというのがあるのだけど……」
「丈将軍」
正頼の声がした。泰麒はどきどきしながらそれを聞いた。たぶん大丈夫だ。見つからない。分かっているのに、正頼が近づいてくる足音で心臓が跳ねる。
「正頼。どうした」
阿選が応じる。
「台輔と蓬莱の遊びに興じておりまして。その格好では、今戻ったのですね」
正頼は目敏い。阿選の旗袍の中に隠れた泰麒はぎゅっと瞼を閉じる。
阿選にかくれんぼの趣旨を説明しているうちに、正頼が泰麒を呼ばうのが聞こえた。どうしようか思案したとき、阿選が旗袍を指して「隠れますか」と笑うので、それに乗ったかたちだ。
阿選はおそらく、武人としてはそれほど体格に恵まれているほうではない。驍宗も似たようなものだが、それでも今の泰麒からすると見上げるほど大きい。
「ああ。これから帰還の挨拶に伺うところだった」
ごく近くから阿選の落ち着いた声が聞こえる。泰麒を足元に隠して、阿選の言葉は何ら乱れるところがなく平静そのものだった。
「成程。ところで台輔を見かけていませんか? ちょうどこちらに駆けていらしたような気がしたのですが」
泰麒は驚いて阿選の服を掴んでしまう。阿選が旗袍の上からそれとなく泰麒の肩を叩いてくれた。
「いや、お会いしていないが」
「そうですか……」
正頼が溜息をつく。阿選は苦笑した。
「使令もおありだし、燕朝の中であれば滅多なことはないだろう」
「まあ、そうでしょうねえ」
正頼がしみじみとした調子で言う。
「しかし見事に隠れてらっしゃる。これはじいやの負けですね、確実に」
「そのようだ」
阿選は声を上げて笑った。
正頼が阿選と別れて別のところに行ってしまうのを見届けて、阿選が旗袍を持ち上げてくれた。
「台輔。もう大丈夫ですよ」
泰麒は重たい布をくぐって出てくる。阿選は泰麒を覗き込んだ。
「かくれんぼ、成功しそうですか?」
「うん。ありがとう」
泰麒は阿選を見上げて笑った。阿選もまた泰麒の視線を受けて微笑む。
二人の前を、赤く染まった葉が風に攫われて行き過ぎる。戴の短い秋のことだった。
泰麒としては、ちょっとした出来心だった。
正頼は用事があっていなくて、奄奚はいるけれど彼らは決して自分から泰麒には話しかけない。泰麒が話しかければ応答はあるが、それさえもひたすら畏まってしまうので、話しかけた泰麒が申し訳ない気がしてしまう。つまり退屈だったのだ。
そっと外に出て、雪を拾い集める。掌で盛れる程度の雪を固めてふたつ雪玉を作った。それを上下に重ねる。
雪だるま、と郷里では言われているものだった。部屋に戻るとそっと玻璃の窓に飾る。窓際でも溶けてしまうかしら。
泰麒としては誰もいないからやっていたつもりだったのだけど。
「おや」
後ろから話しかけられて泰麒は飛び上がった。振り返ると阿選だった。
「申し訳ありません。驚かせてしまいましたね」
阿選は苦笑する。泰麒は首を振った。
「どうかなさったのですか」
問われて泰麒ははっとする。阿選の視線は雪だるまにあった。
一瞬、遊んでは駄目だと怒られるかな、と思った。でも、阿選ならそんなことはない気がしていた。
「あのね、蓬莱のほうだと冬になるとこういうものを作るの」
泰麒は阿選を見上げる。阿選は首を傾げた。
「呪い……ですか?」
「ううん。雪のお人形……子供だけでもっと大きいものを作ったりもするの」
「なるほど。そうなると、目鼻も必要ですね?」
泰麒はぱっと笑う。分かってもらえた、と思った。
「そう、目や鼻や口もあればいいんだけど」
「分かりました」
阿選は笑うと、さっと暖炉に屈む。小さい炭を砕くと立ち上がった。
「これではどうでしょうか」
そう言って、泰麒の作った小さな雪だるまの目と鼻のあたりに炭の欠片を乗せる。
「可愛い」
泰麒が言うと、阿選は笑った。
「ええ。そうですね」