謀反人として討たれたはずがループしているのだが、どんな地獄だ? 阿選は夜陰の中で息を殺していた。枯れた草の匂いがあたりに立ち込めている。葉をすっかり落とした林は晩秋の気配、下生えも枯れて微かに乾いた音を立てた。
冷たい夜気の中、阿選は上套を掻き合わせた。戴の厳しい冬が近い。数日前にはどこかで雪が降ったと成行が言っていただろうか。呼気が白くなって見つかるのを恐れ、囲巾で口許を覆った。
鴻基を追われ、逃げ出したときには既に一旅しか伴っていなかったが、追撃を受けながら落ち延びて半分以下に数を減らした。むしろ良く保ったほうだ、と阿選は冷静に評価していた。実際、成行は精鋭を選んでいたのだろう。白圭宮に戻った驍宗は御璽を以て王の権威の許に余州の兵を使い、阿選を追わせている。ざっと計算して、五十倍以上の兵力の差があると見て差し支えないだろう。
もはや阿選が討たれるのは時間の問題だと、阿選自身も理解していた。おそらく現在の阿選を傷つけるなら冬器を用いなくても、通常の戈剣で事足りる。この状況で、驍宗が阿選を仙籍に置いたままにしているとは思えない。もし逆の立場なら、阿選もまた同じことをするだろう。
宵闇の中で襲撃を受け、阿選軍の残党は応戦しながら近くの木立に飛び込んだ。葉を落とした林は身を隠すには心許ないが、そうするしかなかった。乱戦のさなか、阿選は成行とも士卒らともはぐれ、一人潜んでいる。風はなく静かな夜だった。立ち枯れた林の中は身動ぎひとつで大きく音が鳴る。敵の大軍は動きに不自由するはずだ。
落ち延びる意味はあるかと問われたならば、ない、と答えるだろう。しかし阿選は、死が近付いてくると却って生に執着した。死にたくないと思う。惨めな敗残者として討たれることを理屈では分かっていても、精神が拒む。惨めなまま生き長らえたくはない、だが惨めなまま死ぬのはもっと嫌だ。死は単純な恐怖だった。自分の存在が断ち切られ、すべてが闇に飲まれる恐怖。
阿選はそれまで数多くの犠牲者たちにそれを強いてきた。その中には大量の無辜の民も含まれたが、彼らを平然と棚上げして阿選は死を恐怖した。
阿選は夜気に耳をそばだてる。大軍が息を詰めて音を殺し、阿選を囲んでいる気がする。闇に目を凝らしたが何も見えない。訓練された士卒なら気配をさせるような下手なことはすまい、と思う。阿選は左右に目を配り、剣柄を握り直した。
少し前から同じことを繰り返していた。闇に誰かが潜んでいるような気がして、剣柄に手を掛けあたりを窺う。それは概して冬眠前の小動物や虫が下生えの中で動く微かな音であったりした。神経がささくれ立って、わずかな物音にも緊張するのだと分かっていた。そもそもこの暗さでは敵味方の判別がつきにくい。人の気配がするなら味方かもしれなかった。成行は姿が見えなくなった阿選を探していることだろう。必ず阿選を探して合流しようとする。
阿選の右後ろで枯葉が砕ける音がした。咄嗟に視線を巡らすと、闇に慣れた目に鼠が土の中に潜る様子が見える。阿選は微苦笑を浮かべ、剣柄から手を離した。
そのとき、周囲の木立が揺れて闇が深くなる。木々が分裂して阿選を囲んだ。──いや、隠れていた木立から一斉に士卒が立ち上がったのだ。阿選は息を呑んだ。敵か、味方か。闇の中に見慣れた禁軍の装備が目に入る。味方であるはずがない。王師であるなら、逆賊である阿選の敵だ。
正面の士卒が飛び上がり、阿選が剣を抜いたときには遅かった。背後、ついで右側から立て続けに斬られ、逃れるようにたたらを踏むと腹に剣が突き立てられた。どれも知らない兵卒だった。腰に力が入らない。立て直せないでいるうちに四方から次々と剣が振り下ろされる。気付いたときには膝が落ちていた。狭まった視界を上げると、ようやく見知った顔が現れる。これは、友尚の麾下の──。名前を思い出せないでいるうちに、その士卒の持った剣が一閃し、阿選の頭蓋を砕いた。
目が、覚めた。
阿選はまばたきを繰り返して、目線を動かした。見慣れた場所、見慣れた臥室。天井も壁も臥牀も、最低限に設えた調度も漏窓の陽射しも、何もかも馴染み深い。
見慣れていて当然、馴染み深くて当然だ。右軍将軍に与えられた館第だった。阿選は起き上がり、自分の喉を押さえる。腕を確認し、衾をめくって自分の足を確認した。四肢に異常はない。感覚の上でもおかしな点は見つけられない。それがいっそう阿選を混乱させた。
論理的に考えるならば、阿選は夢を見ていたのだ。自分が謀反を起こし、討たれる夢だ。だが、夢にしてはあまりにも真に迫っていた。詳細な陰影も明瞭で、その謀反の前哨となる幼い泰麒の角を斬った感触さえもまだこの手にある。あの瞬間、阿選自身はたしかに年端もいかない子どもに殺意を抱いていた。
阿選は臥牀の上でこめかみを押さえる。夢のはずがない。阿選の犯した罪が、あの殺意が、夢であったはずがない。
控えめに扉が叩かれる音がして、阿選は我に返った。
「……誰だ」
久しぶりに声を出した気がする。扉の向こうから遠慮がちな声がした。
「いつもと違って中々いらっしゃらないものですから、お加減でも悪いのかと」
これも聞き覚えがある。館第の下女だ。仮朝のころからだから、随分長く仕えてもらった。謀反を起こすと決めてから暇を出したはずだ。
阿選は動揺を滲ませないように返した。
「大丈夫だ、ありがとう。……少ししたら行く」
「はい」
安堵したような返事がして、下女が扉から離れていく気配を聞いた。阿選はいつのまにか詰めていた息を吐く。
なにかがおかしい。変事が起きているのは分かった。あれが夢であるはずがない。にもかかわらず、阿選は生きている。王宮で右軍将軍として仕えているのだろう。
驍宗が阿選を許し、阿選が右軍将軍に戻されたのか。ありえない。台輔を害し、正当な王を幽閉し、王を騙った。どれをとっても許されるはずがない。驍宗がその判断を過つとは思えない。
阿選は考え込みながら支度を整え、臥室を出る。ほっとした顔の下女に迎えられた。
外殿の中、慣れた歩廊を辿り、朝堂に向かう。謀反の前、驕王の時代から通いなれた場所だった。酷い頭痛がしていたが、出会う官吏に微笑んで挨拶を返す。
王宮に来ると否が応でも明白になる。堂室ごとに楽師がいて違う音色が奏でられている。これは驍宗が王になって早々に廃止されていたし、楽師は暇を出されたはずだ。だから驕王の時代なのだ、と思う。
どこを見ても違和感が募った。夢であったはずがないという確信と、夢に違いないという目の前の現実的な感触。困惑を表に出さないように朝堂を見回した。驍宗はまだ来ていない。
阿選は驍宗と顔を合わせたくなかった。第一、どんな顔をすればいいのか分からない。あれほど憎み、殺そうを思った相手と、他の官吏と同様に笑顔で相対する自信がなかった。
結局、朝堂に驍宗は現れなかった。朝議が始まっても違和感は拭えない。玉座にいるのはやはり驍宗ではなく、驕王だった。
なぜ驍宗がいないのか。安堵する一方で焦りにも似たものが胃の腑を締め付ける。こんなことをしている場合ではない、という感覚。朝議は滞りなく進んでいく。その平然とした時間の流れがおかしい、という気がした。
朝議が終わろうとしたとき、不意に夏官長が発言した。
「空席となった左軍将軍ですが」
阿選は目を見開く。空席。──そう、驍宗の前の左軍将軍は辞職し、空席ができたのだ。そこに、瑞州師将軍だった驍宗が据えられた。
「乍将軍でよろしいですね」
思い出してきた。驍宗はこのとき、乱の平定に向かっていたはずだ。瑞州師中軍将軍となってからも功を立て続け、見る間に禁軍左軍将軍にまで登った。
阿選は夏官長の言葉に笑う。
「主上がそう仰られるのでしたら、私に否やはありません」
「ならば良い」
玉座からの声に、阿選は跪礼する。床の一点を見つめながら、阿選は眩暈を感じた。冷や汗がこめかみを伝い落ちる。
繰り返している。そうだとしか考えられなかった。
戴を出る。阿選は結論づけた。
驍宗登極後もそうしようとしてできなかった。戴を出た時点で阿選が驍宗に負けたことが確定してしまうように思えた。負けたのだと言われることも嫌だった。そのうちに琅燦に囁かれて謀反を企て、泰麒の角を斬り、驍宗を幽閉した。仮王に収まり、仮朝はうまく滑りだしたかに見えた。しかし次第にあらゆることがかつかつと引っかかり始めて滞るようになり、阿選の謀反が明らかになった。
嫉妬したんだろう、と琅燦は言った。阿選は驍宗を妬んで驍宗を討った。官吏のほとんどがそのように考えていただろう。
しかし、断じて嫉妬ではない。阿選は王になった驍宗を妬み、王になりたくて起ったのではないと思う。そればかりは、あの忌々しい麒麟の言う通りだと思った。
阿選は右軍府で裁定を処理しながら苦く笑う。どれもこれも見覚えがある。忘れている事案もあったが、詳細を辿ればあれだと記憶を探り当てることができた。
阿選は繰り返している。それも驕王の時代からだ。これは幸いなのか、その逆なのかは分からなかった。
今朝の朝議の後、驍宗に向かって青鳥が放たれたはずだ。驍宗は討伐の帰りにそれを聞いて、左軍将軍の内示を受ける。驍宗は急いで鴻基に戻り、正式に左軍将軍を拝命する。しかし阿選はそのとき驍宗と顔を合わせた記憶がない。たしか宣旨を受けてどこかに派遣されていたように思う。
どこだったか、と記憶を探るうちに下官が来て、御前に呼ばれた。阿選は今朝向かったのと同じように外殿に向かう。これだ、と思っているとやはり討伐を命ぜられた。阿選は内心で苦笑してそれを受ける。
どこかで戴を出なければならない。分かっていたが、記憶を探ってみてもその時間を見つけられない。
元より禁軍は多忙で、波乱の多い戴では尚更だ。王師六将軍のうちでも、阿選と同格の武勇、能力を持つ者は驍宗しかいなかったし、その麾下もまた有能だった。当時、左軍に驍宗軍が来てくれることは正直なところありがたかった。
左右と並べられてはいても、位の上では左軍将軍が高い。阿選が驍宗の就任に同意したことを訝しみ、良くは思ってはいないはずだという声もどこからか聞こえていた。麾下も納得はしてない。しかし記憶の中の阿選は驍宗の拝命を喜んだし、並ぶことを嬉しく感じていた。
何もかも記憶の通りに進む中で、最も記憶と違っているのは阿選の心境だった。
阿選は驍宗に会いたくない。
「阿選様は、どうかなさいましたか」
幕僚長の叔容に訊かれ、阿選は彼を見返す。叔容は言葉を探すような間の後、観念したように息を吐いた。
「近頃少し、……様子が変わっているようでございますから」
阿選は苦笑する。
「そうかな」
乱を平らげ、鴻基に帰還する途中だった。幕営の中には阿選と叔容しかいない。
「ええ。恵棟や友尚に何かあったようであれば、私のほうから伝えますが」
そのことか。阿選は更に苦笑した。
阿選はこの討伐の間に、恵棟と友尚を遠ざけた。それとなく任務から外し、それとなく同席を許さない。いわれなく遠ざけられた二人は気に病むだろうということは分かっていた。
記憶の中で、友尚は窮寇に寝返り、恵棟は泰麒に与した。理が二人にあることも、そうさせたのは自分であることも分かっていたが、だからこそ却って屈託があった。驍宗に取られた、という気がしている。
「二人に問題があるわけではない。……私の問題だ」
阿選が言うと、叔容は眉を顰めた。まったく阿選らしくない物言いだ。
阿選が自分の中に問題があるのだというなら、それを話してほしいと思う。何も言われず遠ざけられた二人からしてみれば、理不尽であっても黙っていられるよりはましだろう。しかし、食い下がることを許さない雰囲気が、そのときの阿選にはあった。麾下さえも撥ね付け、立ち入ることを許さない口調だった。
阿選は、変わった。閉じているような感じ、何を言っても受け付けては貰えないような感じがする。
以前はこんなことはなかった。気安く話しかけられ、気安く話しかけることができる主公だった。どうしてしまったのだろうと思うし、話してほしいとも思うが、端緒さえも見つけられない。
叔容は目を伏せた。どうしたらいいのだろうか。
阿選が鴻基に戻り、驕王に帰還の挨拶を済ませると、右軍府には驍宗が待っていた。阿選は深く息を吸い、微笑んでそれを迎える。
「久しいな。禁軍左軍将軍」
阿選の言葉に驍宗は笑う。
「阿選にも挨拶をしたかったが、入れ違いになった。ここで会えてよかった」
「分かっているだろうが、禁軍は瑞州師よりも更に忙しいぞ」
「既に実感しているところだ」
驍宗は快活に笑い、麾下に呼ばれて慌ただしく出ていった。
阿選はその姿を見送り、ふと痛みを感じて自分の両手を見る。掌に爪が食い込んだ跡があった。
記憶通りの驍宗との再会だった。ここまですべてが記憶の通りに進んでいたし、阿選も敢えてその記憶に逆らおうとはしなかった。しかし、もしこのまま進めばどうなるのか。阿選は背中が粟立つのを感じた。
罪が、阿選を待ち受けている。
戴を出なければ、と思ったまま日々が過ぎていく。職務に忙殺されるうちに刻一刻と時間が進んでいった。
阿選には、たしかに忙しかったという記憶があった。驕王の時代、仮朝のころ、常に仕事に追われていた。
それがこれほどだったか、と思う。王宮の奥深くに籠もって六年間、間諜を忍ばせ白圭宮内部のことは把握していたものの、実務からは離れていた。慣れてくるのに少し時間がかかったが、今では殆ど右軍将軍であった以前と同様に処理できていると思う。
驍宗とは出来る限り記憶の通りに接している。顔を合わすたびに忸怩たる感覚に囚われるが、感情を表に出さないのには慣れていた。
このところ、阿選には気にかかることがあった。頻頻に現実と記憶が齟齬をきたすのだ。記憶にあったことがなかったり、あっても微妙に異なる。大きな違いはないにしても出来事の順番が違ったり、顔ぶれが変わっていたりする。大筋では記憶通りなだけに、些細な違いが引っかかりのように阿選の中に残る。
違いは他にもある。
「このようにしていきますが、よろしいですか」
友尚は与えられた任務についての一通りの説明を終えると、阿選を見る。阿選は頷いた。
「いいだろう。そうしてくれ」
「はい」
友尚は礼をして阿選の前から辞した。
記憶の中では、基本的にはすべてのことを阿選が決めて指示をしていた。麾下の意見を聞くことはあったが、阿選が勘案し、判断し、そのあと麾下に役目を振っていき更に指示をする。軍隊とはそういうものだし、軍人とはそういうものだと思ってきた。
これが最近、なにかが違う。麾下がそれぞれに考えて、最終的な判断を阿選に仰ぐようになっていた。任務の内容が大きく変化するようなことはなかったが、不可解ではあった。だが、いずれ阿選は戴を出る。それが確定である以上、麾下が自分で考える能力を養うのも悪くない。
このごろ、王朝には騒乱が多く、右軍も度々派遣される。阿選はここでも常勝だった。
阿選がある討伐を終えて帰ってきたときだった。次に派遣されるのは驍宗だ、と思っていた。やはり功を立てて帰ってくるのだろう。
しかしその地名を聞いて、阿選は慄然とした。
──垂州。
奢侈に傾く驕王は地方に無情とも言える税を課し、地方官がそれを拒んだ。異議を申し立てた地方官を討伐する。いつかの記憶が蘇る。まただ。出来事の順番が変わっている。これは、もっと後にある出来事のはずだった。
この出撃は驍宗に命じられるだろう。阿選は固唾を飲んで事態を見守っていた。果たしてそうなった。驍宗は玉座の前で跪礼する。
──そして驍宗は、この命令を拒む……。
宣旨が下り、伏せた驍宗の口許が何かを噛みしめるように歪んだ。驍宗が顔を上げたとき、一瞬、阿選と視線が合う。阿選の口の中に苦いものが広がった。
驍宗はやはり出撃を辞退した。しかし驕王は聞き入れず、再三の宣旨が下る。見覚えのあるやりとりが阿選の目の前で繰り返される。二度目でも耐え難いほどの羞恥と屈辱を感じた。
驍宗はそのまま軍を辞し、仙籍を返上した。左軍将軍が宣旨を拒んで職を辞するなど前代未聞のことだ。王宮は騒然としていた。その中で、阿選はひっそりとその場を離れる。
驍宗は阿選を歯牙にも掛けていない。二度目だから理解はしていたが、繰り返される情景に胃の腑が灼けるような屈辱を覚えた。勝手に驍宗と競っていたつもりになっていた自分への嫌悪と怒りがよみがえり、吐き気がする。
王朝から驍宗は一時的に消えるが、阿選はこれから幾度も「驍宗がいれば」と聞かされることになるのだろう。阿選がどれほどの功を立てようと、無敗であり続けようと、最後には必ず「驍宗の紛い物」と呼ばれることになる。阿選の焦燥にも、苦痛にも恐怖にも関わりなく、きっとそうなる。記憶の中で常にそうであったように。
──悪夢だ。
思うに任せず日々は過ぎる。戴を出なければと思っているのに具体的には何ひとつ行動に繋げることもできず、無為に時間を空費しているような気がする。阿選の焦燥をよそに、今日も仕事が山積していく。
驍宗が抜けた穴は大きかった。その麾下が穴を埋めようと躍起になっているのも理解している。しかし驕王の命令は容赦なく阿選に下されるし、決裁を必要とすることも自然と阿選の許に集まった。
もうどうなってもいい、と放り出してしまえることができれば気は楽になるのかもしれなかった。何もかも放り出して、戴を出ていけたら。驍宗がそうしている以上、阿選がそうして悪いとは思えない。
しかし取り掛かっている仕事を投げ出してしまうのは、どうしても阿選の気性に合わなかった。麾下の期待もある。多忙な阿選を気遣い、阿選を支えようとしてくれている麾下に悪いという気もした。
かつて簒奪をした後に政を擲ち麾下を捨て置いた自分が、こういう気持ちになるのが不思議だった。思えばたしかに、阿選はこの右軍将軍の生活が向いていたのかもしれなかった。
阿選は驍宗の穴を埋めるべく必死で働いた。淡い期待もあった。阿選は次に何が起こるかを知っている。記憶と現実の多少の齟齬はあるにしても、明確な見通しが立てられるというのは気が楽だった。次に起こることに備えて用意をしておき、変事があればすぐさま対応する。そうしていれば、いつか、阿選のほうが驍宗より上だと見られるようになるのではないかと思い描いた。
しかし、現実は無情だった。余人はやはり阿選の上位に驍宗を見る。「驍宗がいれば」という声があちこちで聞こえていた。今度も阿選は驍宗を忘れさせてはもらえず、阿選は驍宗に劣ると言われる。
胸を灼かれるような恐怖があった。この場で戴を出ることは逃げることを意味するようで、尚更できなかった。──出たほうがいい、というのは分かっている。だが。
懊悩のうちに驍宗が戻ってきた。記憶の通り、余人は帰還を褒めそやし、驕王は歓待する。いつか見た光景に、また阿選は打ちのめされた。
未来に何が起こるかを阿選が知っていて、十全の構えでいたとしても、阿選は驍宗に及ばないとされる。それは一度目よりも深く阿選を打ちのめした。
未来は変わらない。阿選がどう足掻こうと、必ず阿選は驍宗の紛い物と呼ばれる。選ぶなら驍宗が一番、その手が塞がっているなら阿選でも良い。不足はあっても、代わりにはなる。必ずそう言われるようになる。
いずれ驕王が倒れ、黄旗が揚がる。すぐに驍宗は昇山するだろう。今度は阿選も昇山したとしても、麒麟は間違いなく驍宗を選ぶ。これは予感ですらない、確信に近かった。
そしてまた、琅燦は阿選を唆すのだろう。目に浮かぶようで、阿選は首を振って夢想を振り払った。
これで確定した。些細な食い違いがあるにせよ、大筋では記憶の通りに進んでいく。この流れに阿選が変化を加えられるとすれば、自分の身の処し方だけなのだ。
戴を出なければ、と思った阿選の心に不意にある考えが浮かんだ。
──謀反の結果を変えることはできる?
今の阿選ならば、貍力の断末魔の声が想定以上に強いことも、函養山が見掛け以上に脆いことも知っている。計画を練り直すことが可能だ。烏衡には麾下のような働きは期待できないが、それも計略のうちに組み込んで驍宗を封じ込め、管理された虜囚にすることはできる。
しかし、麒麟はどうする。阿選に襲われた泰麒は鳴蝕を起こし、蓬萊へ逃げ込んだ。角をなくした泰麒は自力で戻ってくる方法がない。ゆえに封じたのと同じだ、と琅燦は断じたが、麒麟は戻ってきた。どういうわけかは知らないが、阿選を倒すのに雁を始めとした他国の軍勢の助けがあったことと無関係ではないのかもしれない。
天命が下らないことを前提に、謀反を起こすことを計画するのか、とどこかで声が聞こえる気がした。これこそ負け犬の悪あがきだろう。しかし、阿選にはそれ以外に驍宗を乗り越える方法がない。驍宗に代わって、自分が天命を得ることはないと分かっていた。
なぜなら阿選の魂は、既に天命を踏み躙った後だからだ。阿選の肉体は無謬であっても、精神は道を外した者の魂だ。だから、今度も阿選に天命が下ることは決してない。
「なるほど……」
深夜、疲れた体を臥牀に投げ出し、阿選は自嘲した。この繰り返しは罰なのだ、といま正確に理解した。天に対する復讐を企てた阿選に下された罰。
阿選はこれから先も、自分の価値が驍宗よりも劣ることを、自分が驍宗の紛い物でしかないことを再度確認し続けるのだ。阿選は驍宗の影にすぎない。これは天が決めた絶対の配材で、何度繰り返しても変わらない。
阿選は深く絶望した。驍宗の紛い物として再び破滅していくのか、負け犬として戴から逃げ出すのか。阿選に与えられた選択肢は、最初からその二つしかなかったのだ。
鬱鬱として仕事をするうちに、驕王が道を失い始めた。辺境の州から妖魔の報告が上がり出した。阿選は目の前が暗くなるのを感じた。
驕王はこのまま身罷る。そして新王として驍宗が立つ。これは確定した未来であって、絶対に変えられない。阿選はどうする。再び驍宗を討つのか、逃げ出すのか。
急速に朝が傾くのと並行し、玉泉が枯れ始め、石も潰えるようになった。鉱山の閉鎖が相次ぎ、旱魃や蝗害で作物が育たない。戴には鉱物以外には大きな産業がない。冬は長く厳しく、食い扶持を得るのがやっとの農作物が育たないのでは民は即座に飢えることになる。義倉を開けてもとても足りない。阿選も驍宗と共に沈んでいく国を前に奔走せざるを得なかった。
やがて瑞州にも妖魔が出現するようになり、王師が派遣された。それを討伐に向かった将軍が戦死し、その師帥であった品堅が阿選軍に編成されることになった。
大した感慨もなく、儀礼的に挨拶を受け取る。品堅は王師の師帥の中でも地味なほうで、目覚ましい活躍もない。しかし堅実で実直であり、決して出すぎることはない。穏和で手堅い仕事をする男だ。記憶でも、現実でもこれは変わらない。
ついに、驕王が倒れた。阿選は驍宗と共に大葬の采配をし、仮朝を整えた。王朝末期から感じていた新王への期待はいよいよ高まり、次は阿選か、驍宗かと囁かれるようになる。阿選は苦々しい気持ちでそれを聞いた。
驕王の失道と共に泰麒も死に、戴は困難の時代を迎えた。蓬山の捨身木には一年以内に卵果が実り、それから王の選定までの時間、仮朝で耐え忍ばなくてはならない。そして泰麒は卵果のまま、蓬萊に流される。
──驍宗が王になるまでは、十年……。
このごろ、阿選には、諦念が萌していた。何もかもが疎ましく虚しいが、投げ出してしまえるほどの衝動もない。記憶の中の阿選は、同じ時期、驍宗と比べられることで追われるような恐怖と焦燥に駆り立てられていた。しかし今の阿選の身内を覆う虚無感は、記憶の中のような切迫さを欠いていた。
驍宗の紛い物として再び破滅していくのか、負け犬として戴を逃げ出すのか。阿選にはどちらの選択肢も取る気になれなかった。どちらを取っても、阿選に残るのは驍宗に負けた、という事実だけだ。だから現状を維持していくしかない。結論を先送りにしているのだという自覚はあった。驍宗と比べられながら十年を待つことを思うと、耐え難い苦痛を感じた。しかし麒麟の選定があるまでの十年は、事態を凍結してしまえる。
どことなく、十年後、阿選は再び驍宗に叛くのだろう、という気がしていた。記憶の通りに謀反を起こし、驍宗に破れる。阿選は討たれて、そうして世界は完全に整っていくのだ。──阿選の悪辣をのみ、史書に留めて。
戴はじりじりと沈み続けていた。天命を受けた王がいない国はひたすら沈む。天の恩恵が得られないからだ。資源は枯渇し、苦労して育てた作物は収穫を待たずに立ち枯れる。地の底から沸いた妖魔が国土を席巻し、飢えて凍える民を食い散らす。
驕王は奢侈に傾き民を搾取したが、それでもいないよりは遥かにましだったのだ、と仮朝の官僚たちは実感していた。一方、阿選はこうなることを知っていた。
正当な王が王位にない国は悲惨だ。仮朝のころ、とれほど力を尽くそうが少しずつ国は沈み、民は困窮に喘ぎながら妖魔に食らわれていった。戴は天に見捨てられたのだという感触があった。これは絶対の天の摂理であって、事態は阿選の手にも驍宗の手にもない。
天の摂理は人の営為を越える。阿選は仮朝の中心にあってこれを知っていたから、かつてはその摂理を利用し、驍宗を王位から引き離すことで国ごと沈めようと決めたのだった。
阿選は仮朝で奔走しながら、そうする自分を嗤った。いずれ阿選自身が沈める国だというのに、自分は何をしているのだろう、という単純な疑問。
惰性だという気がしていた。仕事はいくらでも降ってきたし、どのように振る舞えばいいのかも分かっていた。周囲の期待もあった。それらのものを投げ出し職務を放棄することに罪悪感があったし、期待を裏切ることへの、その結果として見捨てられることへの恐怖があった。
期待を裏切った阿選を、周囲は訝しむだろう。戸惑いながら何があったのかと問いかける。あるはずがない間違いがある、という顔で、その間違いこそがそもそも阿選の意志であった可能性を否定するのだ。その上で好きに阿選の心情を忖度し、斟酌し、勝手に自分が納得できる形に整えてから、自分の中に畳み込む。──かつて大逆を犯した阿選に対して、誰もがそうしたように。
ここに至るも阿選は、期待を裏切ることができなかった。やがて最悪の、謀反という形で、何もかもを裏切るにもかかわらず。
ある日、帰泉が上司の品堅に伴われて阿選のもとにやってきた。帰泉が大きな失敗をして、それを説明するためだった。
品堅の隣で、帰泉は悄然と萎れていた。この時、帰泉は卒長だった。卒長は一軍に一二五人、本来であれば将軍と直接言葉を交わす機会など、皆無に等しい。
品堅の説明が一通り終わったあと、帰泉は済みません、と肩を落として俯いた。
「帰泉は不器用だな」
阿選があえて軽く言うと、帰泉は虚を突かれたように顔を上げる。
「お前は要領が悪いのだ。要領よく立ち廻ることは、帰泉にとってよほど難しいことらしいな」
阿選が笑って言うと、それを叱責と捉えたのか、帰泉は再び俯いた。済みません、と項垂れる帰泉の背中を阿選は叩いた。
「だが、だからこそ信頼される。卑下することはない」
帰泉は驚いたように阿選を見る。阿選は微笑んだ。
「お前の失敗ではない。お前に命じたのは私であって、私の失敗だ。だから、お前は悔やむ必要も卑下する必要もない」
帰泉のせいではない、と阿選は言った。記憶の通りの言葉だが、実際に帰泉のせいではないのだ。
このごろ、阿選はどの程度まで自分が現象に対する結果に関与することができるのかを確かめていた。記憶と異なることを阿選がしたとき、どのくらい結果が変わってくるのか。例えば記憶では五十としたものを倍にしたら、あるいは半分にして指示したら。
今回もそうして、記憶より多少調整して指示を出していた。しかし、やはり結果は大きくは変わらない。時折発生する記憶と現実の齟齬は偶発的なものらしく、阿選が意図的に齟齬を発生させることは難しいようだ。
帰泉の失敗を避けるなら、帰泉に命じなければ良かっただけの話だ。だから実際に帰泉の失敗ではない。阿選の、予測された失敗と言うべきものだった。
しかし帰泉は、阿選の励ましにいたく感じ入った様子だった。このような言葉をかけられたたのは初めてなのだろう。
帰泉は不器用で要領が悪く、愚直に務めるしかできない。そういう自分を知っていて、引け目に感じているようなところがあった。
品堅は滅多に麾下を叱ることのない上司だが、帰泉が今まで出会ってきた上司のすべてがそうだとは限らない。要領が悪いと言われて項垂れるのは、それだけ同じ言葉で叱責されてきたからなのだろう。
卒長は兵卒百人の長だが、帰泉は軍学を出ている。軍学出は出世において優遇された。軍学を出れば入ったばかりの新兵でも伍長になり、一定期間を過ぎれば両長になると決まっていた。よほどの失敗がない限り、軍学さえ出ていればそのまま卒長として士官になり、昇仙もする。そして、帰泉は卒長で出世が止まっていた。卒長から旅帥に引き上げられるだけの功績がないのだ。
功績において劣り、能力において劣る軍学出の上司は、往々にして叩き上げの兵卒に侮られ、馬鹿にされる。軍学を出ているからといって上司になるのが気に入らないのだろう。そういった序列の秩序が軽んじられるのを阿選は嫌ったが、軍隊というものの性質上は致し方ない面もあった。
帰泉の態度から、今まで帰泉がどのように扱われてきたか、普段どのように兵卒に扱われているかが見えるようで、阿選は憐れみを感じた。
その後、阿選は帰泉を気にかけるようになった。ことあるごとに声をかけ、品堅のところにも顔を出すようになった。
そうする阿選を、生え抜きの麾下はもの問いたげに見たが、帰泉の上司である品堅は喜んでいるようだった。
「帰泉は心根の良い者ですから」
品堅は笑って言う。帰泉に心を配ってもらえることがよほど嬉しいのだろう。
阿選は苦く笑った。我ながら白々しい、と思う。阿選は帰泉を憐れんでいるのだ。しかし、阿選に帰泉を憐れむ資格などない。
阿選はいずれ帰泉の魂魄を奪い、意志を奪い、命を奪うだろう。何もかも奪い尽くして捨てると分かっているものを憐れんで情をかけるのは、ただ使い捨てるだけよりも遥かに惨いことだという気がする。
それでも帰泉が気にかかるのは、どこかで罪滅ぼしに似ているのだろう。もちろん阿選の自己満足にすぎず、偽善にすぎないことを、自分がいちばんよく分かっていた。
ある日、幕僚と品堅や帰泉らとともに事務処理をしていたときのことだ。黄旗が中々揚がらない、という話になった。
阿選は喉元に冷たい刃物を突きつけられたような気分になった。
「王は阿選様に決まっています」
帰泉はにこにこと笑いながら言う。阿選は内心を押し隠しながら苦笑した。
「……そうではないかもしれない」
「阿選様です。阿選様以外にありえません」
むきになる帰泉に更に苦笑しながら、阿選は「それは」と指差した。
「間違いやすい。貸してみろ」
帰泉は慌てて書類を差し出す。話すことに夢中になっていた自分を恥じるようだった。
「こうだな」
阿選は書類を直して帰泉の手に戻した。帰泉は書類に目を落とす。
「これ、私が前にも間違えたところですよね。……申し訳ありません」
背中を丸めて俯く帰泉の肩を、阿選は叩いた。
「自分で気付いているならいい。見落としやすく、苦手なところなのだろう。苦手なことが分かるなら、次から気を付けていけばいい」
阿選がそう笑ってやると、帰泉は、はい、と嬉しそうに頷いた。阿選の口の中がひどく苦かった。
時間は経過していく。阿選が驍宗の「影」でしかないことが衆目に明らかになるまで、あと少しの時間しかない。
黄旗が揚がった。その夜、驍宗はやはり阿選を訪ねてきて、昇るか、と訊いた。
阿選は、あまりにも記憶通りで悪心さえした。それを驍宗に悟られないように笑顔に塗り込め、二人揃って昇山せずとも、どちらかが昇ってしまえば派閥争いが過熱するのは止められる、と阿選は言った。
「どうやら本当に項垂れて帰ることになりそうだな」
そう最後に笑った驍宗に、阿選は、どうだろうな、と返した。
その日は白々しいほどの青空だった。白雉の声が二声宮に響く。
──驍宗、登極。
驍宗だった、という報を恵棟はたまたま阿選のそばで聞いた。そのとき、恵棟は使者のほうを向いていたから阿選がどんな表情をしていたかは分からないが、振り返ると阿選は微苦笑を浮かべていた。
「やはりそうなったか」
阿選は淡々と言う。どこか諦念が滲んでいたような気がして、恵棟は自分の主を見る。
「阿選様……」
恵棟は何を言えばいいのか分からなかった。阿選は苦笑する。
「悔しくないのか、と思うか」
「はい」
恵棟は即答した後で、ふと気付く。
「……というよりも、私が悔しいのだと思います。私が悔しいから、阿選様にも悔しくあってほしい、と」
阿選はほう、と興味深そうに恵棟を見る。恵棟は言葉を探しながら、主公を見返す。なぜだか、これは大事なことだという気がしていた。
「私は阿選様が王であるべきだと思うし、王であってほしいとも思います。だから、驍宗殿の登極は不当だと思う。……私にとって阿選様がこの上ない主公だからこそ、天に認められて万民の王になってほしい、と思っています」
「それは光栄だな」
阿選は笑った。恵棟はその笑顔に励まされて続ける。
「でも、阿選様が私にとってこの上ない主公であることと、阿選様が王であることとは、本質的に何の関係もありません。同様に、阿選様が王でないからといって、阿選様が素晴らしい主公ではないということにはなりません」
そこまで言って、恵棟は苦笑した。
「阿選様が王であれば、阿選様を主として選んだ自分の判断に天意の裏書きがされるようで誇らしい。その期待が裏切られたから、私は悔しいし、阿選様にも悔しいと感じていてほしいのだと思います。我ながら身勝手なものだ、と思いました」
苦笑する恵棟に、阿選は戸惑ったように訊いた。
「……お前は、私を良い主公だと思うか?」
その言葉に恵棟は胸を張った。
「もちろんです」
「納得できません」
帰泉はそう言って阿選を見る。
「阿選様が王です。驕王よりも、驍宗よりも、誰よりも阿選様が優れています」
阿選は苦笑し、茶碗に口をつけた。阿選の館第だった。仕事を終えて、夜遅くに館第に戻ると帰泉が待ち構えていた。そして、天意が分からない、と嘆いたのだった。
「納得するもしないもなかろう。天意は決した。驍宗が王だ」
「でも」
「帰泉」
阿選が窘めるように言うと、帰泉は口を噤む。
とうとう、という気がしていた。驍宗が登極した。阿選は選ばなくてはならない。驍宗の紛い物として再び破滅していくのか、負け犬として戴から逃げ出すのか。
阿選に叱られた帰泉は、肩を落として俯いた。
天意は遥か昔に決している。阿選の身体は無謬でも、すでに道を外した者の魂だ。だから阿選に、天意が下るはずがない。しかし麾下はそれを知らない。
「……恵棟も、私が王であってほしい、と言ったな」
阿選は恵棟の言ったことをかいつまんで帰泉に話した。恵棟の言葉は、阿選からすれば意外だった。記憶と随分違う。
記憶では、同じ場面で恵棟はむきになった。阿選こそが王だ、驍宗は不敗ではない、と言い募った。──言わせたのは自分なのだ、という自覚はある。
麒麟もまた驍宗を選ぶだろうという予感、その瞬間にどちらが「本体」でどちらが「影」かが決してしまうという恐怖。それに射竦められて阿選は昇山ができず、予感は的中して驍宗が王になった。阿選のほうが「影」だ。それにせめて抵抗したくて、麾下の口から自分の価値を確認する言葉を引き出した。
しかし、今度は恵棟は同じようには発言しなかった。阿選に王であってほしい、というのは同じだが、その内容が違う。
恵棟の言葉を伝えると、帰泉は黙り込んだ。
「この通り、ではないのか?」
阿選は言って、帰泉を見つめる。帰泉は視線をさまよわせる。
「……違います」
帰泉は俯いたまま、どこか頑なな気配を漂わせていた。
「恵棟殿はそうなのかもしれません。だけど、私は違うと思います」
「と、言うと?」
阿選が訊くと、帰泉は顔を上げる。
「恵棟殿は有能で、優秀です。驍宗殿の麾下も、驍宗殿が目をかける方もなべて有能です。驍宗殿の王朝には恵棟殿の居場所はあっても、私のような、取り立てて才気もなく、無能な者の居場所はないでしょう」
阿選は息を呑んだ。帰泉は弱々しく笑う。
「もちろん、それが驍宗殿の朝の正しい姿なのだと思います。魯鈍で無様な、役に立たない者はいてはならないのです。有能で立派で、驍宗殿の意志によって完全に統一され、役に立つ者だけで政を為す、驍宗殿の王朝はそういうものになるでしょう」
阿選は黙った。それは事実であると知るだけに、何も言ってやることができない。
「でも、阿選様は違います。阿選様は私に、愚直で不器用なままでもいいと言って下さいました。阿選様は、私のような取るに足りない者にも居場所をくださる」
帰泉は阿選を見て微笑んだ。阿選は吐胸を突かれる。
「それは、違う」
「……阿選様?」
不安げにする帰泉に、阿選は表情を取り繕うことができなかった。阿選は額を押さえて項垂れる。
──私は、お前を使い潰す。
寝静まった館第の中を、阿選は手燭だけで歩く。客庁の扉の前でしばらく耳をそばだてる。物音はしない。
阿選は手燭を吹き消し、扉を静かに開け、暗闇に身を滑り込ませて、そのまま十秒ほど待った。闇に目が慣れてくると、框窓から中に踏み込んだ。
自分の館第の隅々までを知悉しているわけではないが、ここは平均的な造りの客庁だから、臥牀の位置はすぐに分かった。
帰泉は寝息を立てていた。阿選は微苦笑を浮かべる。士卒であれば、侵入者の存在に即座に気付かなければだめだ。すぐに覚醒し、侵入者の近付くのを待って攻撃に移れるくらいでなければ、自分も、自分の部下も危険に晒すことになる。
阿選は帰泉の寝顔を見つめる。もう遅いから泊っていけ、と促して、阿選は帰泉を自分の館第に留めたのだ。常にないことだから帰泉は不思議そうにしたが、阿選に逆らうことはしなかった。
阿選は帰泉に居場所を作ってやったわけではない。結果としてそうなったというだけで、阿選は帰泉を憐れんだのだ。しかし、阿選には帰泉を憐れむ資格はない。
記憶の中で、阿選は帰泉の魂魄を奪い、使い捨てた。この現実ではまだ起きていない出来事だが、阿選は覚えている。阿選は、一度はその行為を是としたのだ。例え現実ではまだ起きていない未来だとしても、阿選に記憶がある以上、阿選の罪がなくなったことにはならないだろう。
闇に慣れた目で、安らかに眠る帰泉を見下ろしながら、阿選は記憶を手繰った。
函養山から解き放たれた驍宗は、文州南西部にある南牆を経て馬州のほうへ向かった。目的地は馬州か、あるいは江州かは分からないが、どちらにせよそれ以後は足取りを追うのが難しくなると予想された。南牆を通った以上、時間の猶予はいくばくもなかった。烏衡はもう使えない。始末することに決めていた。
阿選はぎりぎりまで、驍宗の存在を伏せておきたかった。驍宗が完全に阿選の手の内に落ちるまでは伏せておかないと、阿選のほうが逆賊になる。驍宗を追っているのだと士卒に気付かれると、率いる将によってはそのまま驍宗に下り、阿選はその師旅をまるごと失うことになりかねない。
だが、驍宗の追手は必要だ。目立つ容貌を隠しているであろう驍宗を、それと認識できる程度に近い距離で見たことのある者。そうなると禁軍の士官に限られる。麾下ならば、頭ごなしに命ずれば否やはない。烏衡のような命令違反もしないだろう。しかし、恵棟のような例がある。
恵棟は阿選の麾下でありながら、泰麒に下った。これまでも、反論した麾下には阿選は誅伐を加えてきた。麾下が野に下れば追わない。阿選に疑問を抱いたとしても、阿選の前から消えればそれでよかった。だが恵棟はそうではなかった。よりにもよって阿選の目の前で、敵に下ったのだ。
阿選は、麾下をこれまで通り信用していいのか迷った。阿選に対する忠誠心はあっても、泰麒が王朝にあり力を持ち始めているときに、虜囚とされていた驍宗が現れて動揺しないとも限らない。
帰泉ならば驍宗には下るまい、と思った。剣では圧倒的に驍宗に劣るのは分かりきっているから、賓満をつけてやることにした。しかしまだ、いまだ阿選を信じてくれている麾下を罪に踏み込ませることに躊躇いがあった。帰泉は、阿選が命ずれば喜んで驍宗を追うだろう。罪を罪と認識できない。そういう帰泉が不憫だった。
──だから、魂魄を奪った。
傀儡になってしまえば、何も感じない。何も考えない。阿選は、自分が非道の主人に成り果てたのだと理解した。
阿選は、暗闇の中で自嘲する。
他の麾下には許されないことでも、帰泉ならば許してくれる気がしていたのだ。驍宗が登極する前からずっと、阿選が玉座を簒奪した後さえも変わらずに、誰よりも阿選が一番だと言ってくれる帰泉なら、許される気がした。
同時に、帰泉に対する侮りもあった。能力に劣り、それを自分でもよく認識している帰泉ならば、傀儡にして使っても許してもらえるように感じた。
どちらにせよ、阿選は帰泉に甘えていたのだ。
阿選には本当に、帰泉を憐れむ資格などない。帰泉を侮り、軽んじてきた周囲の人間と阿選には、大した違いがない。居場所を与えたように見せかけて使い捨てたぶんだけ、阿選のほうがよほど酷い。
闇の中、阿選は静かに眠る帰泉を見下ろした。
「……かわいそうに……」
思わず口をついて出た。阿選は苦い笑みを浮かべる。
自分の運命を知らずに阿選を慕う帰泉が、やはりとても、不憫に思えた。
訪れたときと同じく静かに主人が去っていくのを、彼は目を閉じて聞いていた。
彼は暗闇の中で覚醒した。最初、どうして自分が眠りから覚めたのかが分からなかった。しかし神経を研ぎ澄ますと、闇の中に自分以外の気配があるのを感じた。
主は彼の枕許に立ち、彼を見下ろしていた。彼は起き上がって彼の主人に訪問の理由を訊きたかったが、なんとなくそれをしてはいけないような気がして、じっと横たわっていた。
彼の主人は、佇立したように動かなかった。やがて彼を見つめたまま、ぽつりと呟いた。
「かわいそうに」
彼には、その言葉を発した主人の意図が分からない。ただ、ひどく主人が悲しんでいるような気がした。
主人がときどき、彼の前で済まなそうな顔をすることに、彼は気付いていた。彼は主にそんな顔をさせたくなかったが、彼には主公がどうしてそんな顔をするのかが分からないので、どうすることもできなかった。
主は彼のすべてだった。主が為すことは、彼にとって絶対に正しかった。だから、主を悲しませることは、決してしてはいけないことだった。
彼は、主が悲しんでいるのは自分のせいなのだと思った。主を悲しませ、済まなそうな顔をさせる自分が、とても罪深いものに思えた。
自分のどこが悪いのか、彼は主に訊きたかった。けれどそれもできないまま、彼の主は客庁を出ていってしまった。
阿選が遠ざかる気配を確かめて、帰泉は臥牀に起き上がった。
「……阿選様」
扉に向かって小さく呼んだ声を、聞く者はいない。
朝、帰泉が起き出していくと、すでに阿選は身支度を整えていた。
「おはようございます」
帰泉が慌てて言う。阿選は微笑した。
「おはよう。朝餉を用意させてしまったが、食べていくか?」
「……はい」
帰泉はその言葉に甘えることにした。朝餉を食べながら、昨晩のことを訊けそうだと思ったからだ。
食卓につき、目の前で用意されていく朝餉に帰泉は目を回した。さすがに将軍ともなると、食べるものまで違う。
朝餉を食べながら、帰泉は阿選を窺う。昨晩のことは夢だったのではないか、という気がしてならなかった。
「……帰泉」
不意に、阿選が帰泉を見て笑った。
「はい」
見ていたことを気付かれただろうか、と帰泉は背中に冷や汗をかく。阿選は静かに言った。
「私と一緒に、戴を出るか」
帰泉は目を瞠った。
阿選は禁軍の右翼一万二五〇〇の兵卒を束ねる役割を担う。かなりの数の士卒が阿選の麾下であり、彼らは阿選の人望によって統率されている。その阿選が戴を出るということがどういうことか、帰泉にも分かる。
「もちろん、無理にとは言わないが」
阿選は苦笑した。帰泉は咄嗟に首を振る。阿選の顔に、どこか済まなそうな表情が浮かぶ。
阿選を悲しませ、阿選に済まなそうな顔をさせるのは、帰泉にとって罪深いことだ。一緒に行くべきか。だが、帰泉はおそらく、また阿選を悲しませてしまう。帰泉が分からない、意識しない間に、帰泉は阿選を悲しませることを言ったり、したりしているのだと思う。
しかし、阿選がいなくなった王朝に、帰泉の居場所はない。
「……行きます」
帰泉は言った。
「私も、阿選様と一緒に戴を出ます」
──たとえ、二人の間に横たわるものが、罪でしかなかったとしても。
帰泉は嬉しかった。阿選が自分を選んでくれたからだ。
阿選が戴を出るという衝撃が去ると、帰泉には喜びが残った。他でもない主公の唯一の供に、帰泉は選ばれたのだ。
最初、それを聞いた品堅は複雑そうな顔をしたが、帰泉が喜んでいると、やがて「よかったな」と微笑んでくれた。
「お前の心ばえと誠心が阿選様に認められたのだろう。……本当によかった」
「はい」
帰泉は笑って頷いた。品堅はいつでも、帰泉の心に寄り添ってくれる。
決まってしまうと、あとは慌ただしかった。帰泉は卒長だから、帰泉の抜けた後任について品堅と相談したり、残していく仕事を同輩に引き継いだりする必要があった。
ある日、夏官府に用があって向かうと、対応する下官が不必要に帰泉をまじまじと眺めた。同輩たちは帰泉に意味ありげな視線を投げて会話をしながら、帰泉が近寄ると咳払いをして世間話に切り替える。かと思えば、それまで話したこともないような士卒がわざとらしい笑みを浮かべて帰泉に近付いてくる。阿っているのだ、と気が付いたときに、帰泉は単純な驚きを覚えた。
帰泉はこれまでの人生で、特別だったことなど一度もなかった。生家はそれなりに裕福な商家だったが、兄弟が沢山いて、帰泉は兄たちに比べて取り立てて才気もなく要領も悪く、いてもいなくてもどちらでもいい、いるなら食わせてやらねばならぬから役人にでも軍人にでもなれ、と家を出された。軍の中でも、不器用で愚直に仕えることしかできない帰泉は、上司にとっても部下にとっても不要な存在だった。
同輩たちにそれとなく開けられた冷ややかな距離が侘しい。立ち聞きをしたかったわけではないが、なぜあいつが、と明らかに帰泉を指して貶される場に居合わせたこともある。そのときようやく、阿選が帰泉を選んだからだ、と帰泉にも理解できた。
帰泉は生まれて初めて、選ばれるとはどういうことかを身をもって実感していた。
「どうして帰泉なんだろう」
友尚は恵棟に向かって言う。恵棟は苦笑した。
「分かるわけがない。阿選様本人に訊くしかないだろうな」
「そんなことは分かっている」
友尚は言いながら、脱いだ衣服をその場に投げ捨てる。恵棟は溜息をついてそれを拾い、畳んで置いてやった。
「昨日の今日だ。阿選様が戴を出ると言ったことと驍宗が王になったことの関係がないとは思えないんだが、お前はどう思う」
友尚は椅子に座って言った。卓子の向かいに恵棟を勧める。
「……まあ、そうなんだろうな」
恵棟は勧められるままに腰を下ろした。
「すっきりしない言い方をするな」
友尚は恵棟を見た。恵棟は少し考えるように視線を落とす。
驍宗が王だ。その一報を阿選の近くで聞いたときの感触を思い出す。主公には、どこか諦念があったような気がした。
「……阿選様は、ずっと前から戴を出ることを考えていたのかも……」
友尚は眉を顰める。
「阿選様は驍宗が選ばれることを知っていたような気がするんだ」
「そんなわけがあるか」
友尚の言葉に恵棟は苦笑した。その通りだ。天意の在りかなど、麒麟が選定するまで分かるはずがない。
驍宗だった、と聞いた翌日、阿選は府第に現れるなり戴を出ると宣言した。恵棟はもちろん、恵棟の上司の叔容を始め、阿選麾下の師帥もこぞって阿選の真意を確かめようとし、やがて本当に阿選は辞めるつもりだと悟ると皆で翻意を促したが、だめだった。
そのうち阿選は苦笑して、正式な登極があるまでは朝に残る、と言ったのだった。
「登極後に王朝が大きく再編されるだろう。そのときに抜けるのがいちばん影響が少ないだろうな」
「そんな……」
茫然と呟いたのは叔容だった。幕僚は基本的に、阿選のそばで阿選の意志を聞くことが多いが、その叔容も恵棟もこの件に関してはまったく知らされていなかった。
もちろん、将軍が下野することもないわけではない。実際、ある程度の年数を務めると仙籍を返上して只人に戻り、朝を去る者も多い。しかし、そういうとき大概は前兆とも言うべきものがあるのだ。阿選のそれはあまりにも唐突だった。
共に双璧と呼ばれてきた驍宗が王になり、阿選に思うところがないわけではないだろう。それで野に下る、というのも心情として理解できないことはない。
しかし阿選は、その供に帰泉を選んだ。帰泉は右軍の師帥である品堅の麾下だが、品堅自身が阿選の麾下になったのは驕王が倒れてからだ。だから帰泉は生え抜きの麾下ではない。さらにいえば、帰泉は取り立てて実績があるのでもない。前に大きな失敗をして、その時以来、阿選が何かと気にかけている印象はあったが、それも阿選の優しさから来るものだと思ってきた。
「何も、帰泉が選ばれたことが不満なんじゃないんだがな。それが阿選様の判断である以上、俺がどうこう言うつもりはない」
友尚は言って、堂室に散らばる荷物の間から茶碗を掘り出した。埃まみれの茶碗に酒を注ぐ。
「飲むか?」
「……片付けろ」
友尚の勧めに、恵棟は再び溜息をついた。
友尚も、本音を言えば阿選に選ばれたかった。国を出るが一緒に来てくれないか、と言われたかった。だから悔しくないかといえば嘘になるが、致し方ないことだとも分かっている。
一方で、帰泉だというのが腑に落ちない。たとえ自分でなくとも、同じ師帥の成行は麾下としても長く、信頼が置け、阿選も重用しているように見えた。成行ならば自分も納得できただろうと友尚は思う。
「……阿選様に直接、訊くしかないんだろうな」
「ああ」
主と直接話そう、と思い立ったはいいものの、その機会が掴めない。元より禁軍は多忙で、驍宗が抜けている今はいっそう忙しい。その上、辞職にまつわる細々した業務があればなおさらだった。
大したことではないのかもしれない、と思う。阿選からしてみれば、なんとなくの人選だったのかも。だが、友尚の喉の奥で、微かにつかえて飲み下せない。
友尚は右軍府で阿選に報告をして、躊躇いがちに訊いた。
「阿選様。近いうちにお時間を作っていただけますか」
阿選は少し目を瞠る。
「分かった。いつがいい。とは言っても、主上が戻られるまでになるが」
主上、という言葉が友尚の胸にかつんと留まる。本当に阿選は驍宗が戴に戻ったら出ていく気なのだ、と改めて思った。
「いつでも。阿選様のお時間が取れるときで」
阿選は友尚の言葉に微笑み、少し考える様子を見せる。
「それでは、二日後の夜はどうだ。私の館第で」
「構いません」
友尚は頷く。主公の意向が聞けるのであればいつでもよかった。
二日後、友尚は阿選の館第を訪ねた。奄に案内されていくと、阿選が出迎えてくれる。
「お時間を空けていただいてありがとうございます」
「大丈夫だ。それで、話というのは?」
阿選は友尚を座らせ、手ずから茶を淹れた。
阿選はときどきこうして、近しい麾下には自ら茶を振る舞ってくれた。阿選が茶を淹れるのを待つ間、麾下にはどこか落ち着かない空気が流れる。阿選はそういう麾下を見て、僅かに楽しんでいるようなところがあった。
茶碗から立ち昇る湯気、その向こうの微笑を含ませた主の顔。これが、あともう少しで見られなくなるのだ。
阿選は友尚に茶碗を差し出した。友尚はありがたくそれを受け取る。
「その。阿選様は、戴を出ると」
「ああ」
阿選は苦笑する。その話か、とでも言いたげだった。
「……なぜ、帰泉なのです?」
友尚は訊いた。阿選は自分のぶんの茶碗を手元に置く。
「不満か」
「まさか」
友尚は言下に否定したが、本当にそうなのだろうか、という気がする。自分は、帰泉が選ばれたことを不当に感じてはいないか。
阿選は微苦笑のようなものを浮かべる。
「帰泉は、自分のようなものは新しい王朝での居場所がない、と言ったのだ」
友尚は首を傾げる。阿選は、今度は明確に苦笑をこぼした。
「……自分のような取るに足りない者は、次の王朝で不要だろうと」
「それは……」
そうかもしれない、と友尚も思った。驍宗も、驍宗麾下もなべて有能だ。そればかりは認めないわけにはいかない。
だが、帰泉はそうではない。実績もなく、取り立てて目立つような存在ではない。人柄に問題があるわけではなく、驍宗の王朝で冷遇されるような失態はないが、引き上げられるようなこともないだろう。主の品堅が出世すれば帰泉も階級を上げていくだろうが、品堅もまた派手な活躍をする男ではなかった。
「だから、連れていこうと思ったのだ」
阿選はそう言って、茶碗に口をつける。友尚は複雑な気持ちになった。帰泉は新しい王朝に不要だから連れていくという。では、友尚はどうしてそこに加わることができないのか。
「私ではいけませんか。私も、阿選様のいない王朝に残る気になれません」
友尚は阿選に強く言った。阿選は再び苦笑する。
「友尚。お前は残れ」
「なぜですか」
「朝はその始まりが難しい。お前ならば必ず役に立つだろう」
友尚は阿選を見返した。
「……そう仰るのであれば、阿選様こそ残られるべきです」
驍宗が正式に泰王として国に戻れば、必ず朝は再編される。賤吏や悪吏を一掃しようとするだろう。彼らが諾々と官職を取り上げられるとは思えず、確実に抵抗はあると予想された。そのとき、不敗の将軍として阿選が王朝にあれば、彼らにとって相当な重石になるだろう。有用という意味であれば、阿選ほど有用な者はいないと友尚には思われた。
「私は残らない」
なぜです、と友尚はもう一度阿選に訊いた。
「……正しい王が位に着く。もうすぐ、戴には良い時代が来よう」
友尚は口を噤む。阿選は、荒涼として、どこか寂しげな笑みを浮かべていた。
良い時代、と阿選は言う。だが、そこに阿選自身はいないように聞こえる。少なくとも、阿選は当然のようにそこから自分の存在を省いて語っている。
阿選はまるで自分を葬ろうとしているかのようだ、と友尚は思った。自分を不要のものと見做し、新しい時代の外に置いている、そんな気がしてならなかった。
「お前はきっと、頼みにされ、重用される。良い臣下になるだろうな」
阿選は静かに言った。友尚は胸が塞がれる感じがして、ただ「ありがとうございます」と俯くしかできなかった。
彼には、幼いころから記憶があった。父母との暮らしの中で不意に訪れる、かつての記憶。自分はこの景色を知っている、覚えているはずだ、という抗いがたい直感。そして出来事はおおよそにおいて、彼の記憶の通りに進んでいく。
先の出来事が見えている、というよりも、頭の隅を探るとその出来事が浮かぶ、覚えている、という感触のほうが近いように思われた。
なぜなのか、ということを彼は考えなかった。そういうことかと彼なりに納得していた。
彼は先の出来事に対して特に備えることはしなかった。記憶を利用し、現実を変えようとも思わなかった。成功も失敗も、記憶の通りに起こっていくので、それらに対して感情が動かされることはなかったが、あえて記憶と違う行動をするつもりはなかった。
彼には目的があった。その目的のためには、ぎりぎりまで記憶の通りに進んでもらわねば困るのだ。
今よりもずっと先で、彼は無二の主を目の前で失う。
晩秋の宵闇、葉をすっかり落とした木立の中、主公の頭蓋に剣が振り下ろされるのを彼は見た。立ち枯れた木々を切り払い、必死で駆けたが間に合わなかった。
闇の中の一閃を見た絶望。主の頭蓋は形がひしゃげるほど砕かれて、当然、命があるはずもない。それは一目で分かったが、引き返す気にとてもなれず、彼は叫びながら敵兵の群れに突っ込んだ。
そこでひとつづきの記憶は途切れて、視界が緑色に染まる。次の記憶は若い父母の顔になる。
彼は記憶の中で一度死んで、再び生まれ直したのだと思う。同じ生を繰り返しているのだ。やり直すことができる。
次は必ず間に合わせて、主を殺させはしない。主公は大逆を犯した。だから主公も彼も救われることは決してないのだが、少なくとも次は、あんな寒空の下で惨めな死を迎えさせはしない。
自分の行く先を悲しく思ったことはない。命の使い道が示されていることが、むしろ幸福でさえあった。彼には、主がすべてだった。昔も今も変わらず、主公の命令に従うことは喜びであり、主公に尽くすことは彼にとって生きることと同義だった。
彼は淡々と成長し、期日に至って軍人になった。主公に出会い、記憶の通りに功を積み上げ、禁軍右軍の師帥になる。
「成行」
彼を呼ぶ主の声も、頷く仕草も、記憶と寸分違わない。彼は嬉しかった。
なぜなのだろう、と成行は思った。
いつからか、主公の行動は成行の記憶から逸脱し始めた。最初は僅かな齟齬から始まり、気に留めるまでもないと見過ごしていたのが今となっては悔やまれる。
おそらく驍宗が左将軍になって、少し経ったころ、阿選の麾下に対する態度が変わった。硬化したというべきか。麾下を撥ね付けるような、閉じているような雰囲気を漂わせることがあった。
他の麾下は阿選の変化を訝しんでいたが、成行からすれば、記憶の中の、六寝に籠もっていたころの阿選に奇妙に重なった。しかしその後も現実の阿選は麾下を捨て置くことはなく、着実に右将軍としての実績を重ねていく。驍宗に対する態度も穏やかで、記憶の中で玉座にいたころの阿選とは似ても似つかない。
気のせいだろうか。阿選はその後も、少しずつ記憶と異なる言動や作戦を取ることがあった。だが、おおよそにおいては変わらない。出来事の順番が変わったり、些細な齟齬はよく生じていたが、取り合う必要があるとも思えなかった。その判断が誤っていたのだと今ならば思える。
現実と記憶の亀裂は、もはや埋めることができないほどの深い断裂になっている。
阿選は、戴を出る、と言った。
そんなことはあるはずがなかった。成行の記憶の中で、阿選は驍宗の践祚の後、間もなくして謀反を決意する。驍宗は在位半年で、位を追われたはず。
ここに至るまで、記憶と現実に大きな齟齬が生じたことはなかった。阿選がこの時点で戴を出るということは、記憶と現実で歴史が変わってしまうということだ。こんな断裂が生まれるはずがない。
なぜなのだろう、と成行は考え、自らを振り返ってみれば答えは導き出せた。
記憶を持つ者が現実において変えることができるのは、自分の身の振り方だけだ。これは成行の経験上あきらかだった。
「阿選様も、繰り返している……?」
阿選の麾下への態度の変化や、振る舞いの変化、生じた数々の齟齬から考えても、かなり前から阿選は「そう」だったのだ。気付いてしまえば、こんなに簡単なことはなかった。
成行は阿選と二人きりで話す必要を感じた。
「最近は、二人で話したいと言われることが多いな」
阿選は微笑って、成行に席を勧めた。
軍府だった。人払いをした房庁には、多くの書簡が積まれている。阿選が職を離れるにあたり、引き継ぐべき業務に関しての連絡だろう。
阿選の貴重な時間を割いていることを申し訳なく思いつつ、成行は口を開いた。
「戴を出られる、という決意に変わりありませんか」
「ああ」
阿選はすぐに応えて、成行の前に手ずから淹れた茶を置く。
「……なぜです?」
阿選は微苦笑を浮かべる。
「直接訊いてきたのはお前が初めてだな。……驍宗が王になったから、だな」
その答えに、成行は違和感がある。記憶がなければ気付かないほどの微かな引っかかりがあった。──主公は、あの頃の自分、を演じている。
「嘘です」
成行は言った。
「……あなたは、覚えておいでのはず」
阿選は一瞬、目を瞠った。
「何をだ?」
阿選は微笑んで訊く。元より、麾下に容易に感情を読ませる主ではない。
「……七年です」
成行は言った。この意味が分からない主ではあるまい。
阿選が玉座を簒奪し、驍宗を函養山に封じ込めて六年、そしてまた位を追われるまで一年。記憶の中の阿選と成行の寿命はあと七年だ。
阿選は成行を探るように見つめ、やがて小さく息を吐いた。
「……いつから?」
成行は阿選を見返し、視線で笑う。
「最初から、ですね。小童の頃からずっと」
「そんなにか」
阿選は苦笑した。
「なぜ軍に入った? 碌な死に方ができないことは覚えていただろうに」
「軍人にならなければ、阿選様に会えません」
成行は笑い、阿選を見つめる。
「どうして今、国を出られることにしたのですか」
阿選は戸惑うような表情を浮かべた。
「お前は私が謀反を起こすと思っていたのか?」
「……そうしないよう、説得されたいとは見えませんでしたが」
ふっと、阿選は皮肉とも自嘲ともとれる笑みを漏らした。
「そうだな。私は麾下に、説得されたくなかった」
阿選は、謀反を起こす決断も、実行もすべて一人で行った。大逆は大罪だ。もし主公が踏み込むと言ったならば麾下はやめるよう説得するだろう。そうされたくないから、阿選は麾下の誰にも言わず、麾下を使わなかったのだと成行は思う。
「だが、私がいずれ謀反を起こすと分かっていて麾下になったのか? なぜ?」
今度は成行が苦笑した。
「謀反を起こすか起こさないかは重要ではありません。阿選様が私の主であることが重要なのです」
成行の主は阿選だ。成行にとって、それ以上に優先されるものはない。どんなことであれ主公が決めたならば従う、それが麾下というものなのだと思っている。
阿選は成行を見つめ、その言葉に頷いた。
「……ずっと、戴を出ることは考えていたのだ」
阿選は低く言った。
「驍宗の登極はいい契機だった。これがなければ出ようとは決断できなかっただろうな」
成行は愕然とする。
「ずっと、国を出たいと?」
「決めたのははるか昔だな。ここまで遅くなってしまうとは思っていなかったが」
阿選はそう言って軽く笑う。
成行は内心で茫然とした。このまま記憶に従って謀反を起こしたとしても、大勢は変わらない。記憶があるぶん、一度目よりはうまく運べる可能性が高いが、現実の修正力のほうが人為よりも強い。驍宗は必ず蘇り、阿選は討たれることに変わりないだろう。だとすれば、阿選が謀反そのものを避けることも理解できた。
どうして、という成行の疑問には意味がない。そもそも主公は、はなから戴に残るつもりなどなかったのだから。成行の二度目の人生が無為になった瞬間だった。
「なぜ……」
成行が気付いたときには、口をついて声が出ていた。
「帰泉なのですか。私でも、友尚ですらなく。同情ですか、それとも一度目の生からくる罪悪感ですか?」
声が自分の耳に返ってきて、主に対しての言動ではない、と悟った。謝罪しようと阿選を見ると、阿選は少し驚いたようにしてから苦笑した。
「同情と、罪悪感か……。どちらもあるのだろうな。だが」
阿選は静かに笑う。
「……今の私は、あれが可愛いのだと思う」
成行は俯いた。主公に過ぎた口をきいた自分が疎ましく、対する主の答えも受け入れがたいほどつらかった。訊いた自分さえも疎ましいが、主の出した答えならば、麾下は受け入れないわけにはいかない。
成行は無理にでも笑った。
「阿選様が戴を出られた後、私も野に下ります。阿選様のいない王朝に用はありませんから」
それを聞いて、阿選は「そうか」と、複雑そうな顔で微笑んだ。
驍宗が幼い泰麒を伴い、玄武に乗り、王となって白圭宮に戻ってきた。朝をあげて即位の儀式の準備、法の整備などを進める中、阿選は驍宗に辞意を告げた。
「……分かった」
阿選は平伏して驍宗の声を聞いた。
「もしかしたら、と思っていたんだが。……後任の推挙があるようなら、聞いておく」
「では、師帥の友尚を」
阿選は伏せた顔の下で静かに言った。成行は戴を出ると言っていたから、推挙しても受けまいと思う。
阿選は驍宗の前を辞し、外に出ると息を吐いた。これだけのことだったのだ、と思う。
戴を出るという決断をした瞬間に、阿選は驍宗の紛い物でしかない自分を認めることになってしまう。阿選はそれに耐えられずに、ずっと踏み切れないできたのだが、実際に行動にしてみれば、ただ一言で済んでしまった。
かつて、たったこれだけのものが越えられず、阿選は謀反を起こしたのだ。
仰いだ晩夏の空は高く澄んで、嫌になるほど青かった。
右軍府に戻り、仕事を片付けていく。いなくなった後のことについて軍吏に指示を出しながら、抱えていた仕事の量に我ながら呆れた。
「叔容、恵棟」
下がっていこうとした二人を呼び止める。何事だろう、と待つ二人に、阿選は微笑した。
「今日、主上に辞意を申し上げた。そのまま受け入れてもらえるようだ」
二人の顔に、微かに落胆の影が走る。驍宗が阿選を引き止めてくれることを期待していたのだろう、と感じた。
「後任には友尚を推挙している。どうなるかは分からないが、おそらくこの通りになるだろう。できたら、二人にはこのまま軍吏として残って、友尚を支えてほしいと思う」
「分かりました」
阿選が言うと、叔容も恵棟も頷く。
王師六将軍が阿選の記憶の通りに任じられるのなら、阿選が抜けた右軍将軍に友尚が入るのだとしても、驍宗の麾下でないのは友尚と李斎のみになる。友尚ならばさして心配はいらないとは思うが、王朝の始まりと連動し、それなりに苦労することになるだろう。
助けになればいいが、と思って、かつて麾下を捨て置いた自分がこんなことを考えているのが不思議だった。
阿選が戴を出ると決めたことが関係しているのか、阿選の周囲のごく限られた範囲ではあるが、記憶の通りの出来事は減ってきている。おそらく、戴を出れば皆無になるのだろうと思う。
これは喜ぶべきことなのか、そうではないのか、今の阿選には判断がつきかねていた。
深夜、館第に帰ると帰泉が待っていた。阿選は疲れていたが、内心を隠して微笑んだ。
帰泉は阿選の姿を見るなり立ち上がる。
「阿選様」
帰泉の前に置かれた茶碗は空になって乾いていた。長く待っていたのだろう。
「どうかしたのか」
阿選が訊くと、帰泉は狼狽して視線を泳がせた後、諦めたように俯いた。
「……どうして、私なのですか」
「……帰泉?」
「阿選様は、なぜ私を選んでくださったのですか。それがどうしても、分からない」
阿選は項垂れる帰泉を促し、再び座らせた。阿選はその向かいに座り、優しく呼びかける。
「お前は私と一緒に戴を出ると言った。だが、気が変わったのならば残ってもいいのだ。国を捨てることだから、無理にとは言わない」
穏やかな阿選の言葉に、帰泉は下を向いたまま、かぶりを振った。
「違うのです。その、私では、……ふさわしくないと思うのです」
「どうして、そう思う」
阿選は帰泉を覗き込もうとしたが、帰泉は首を縮めていっそう小さくなった。
「例えば師帥の方なら、……友尚様や成行様なら、阿選様の生え抜きの麾下ですし、実績もあり、有能で、立派です。阿選様も頼みにされてきました。だから、あの方たちが選ばれるのならば納得もできます。……でも、私は違うから」
帰泉は卓子の上で拳を握りしめる。
「私のような、取り立てて才気もなく、無様で魯鈍な者をどうして阿選様が気にかけ、選んでくださったのかが分からないのです。私だけではなく、誰も納得しないでしょう」
「誰も……?」
阿選はその言い方が引っかかった。
「誰かに何かを言われたのか」
帰泉は肩を落として、迷うようにしながら口を開いた。
「選ばれてしかるべき方を差し置いて、私なのだから、当然だと思うのです」
肯定だった。阿選には、帰泉が何を言われてきたかが手に取るように分かった。
人間は、他者が自分より不当に優遇されていると感じると不満に思う。他者が優遇されると同時に、自分が貶められたかのように感じるものなのだ。その人間の主観において不当だと感じられることが重要であって、現実に不当であるかどうかは関係がない。
自分の価値を保つために、他者の欠点をあげつらい、その優遇が不当なことを自他に証明しようとする者も多い。
阿選に直接、なぜ帰泉なのかと訊いてくる者はいい。彼らは自分が選ばれたかった者たちだからだ。だが、選んだ阿選ではなく、選ばれた帰泉に対して、帰泉自身がそれと分かるように貶すのは嫉妬でしかない。
「帰泉……」
阿選は励ます言葉をかけようとして、口を噤む。
阿選は帰泉を憐れんでいる。成行が言ったように、一度目の生からくる罪悪感は大いに関係しているだろう。
阿選は帰泉の魂魄を抜き、傀儡にして利用した。大逆を犯してもなお阿選を尊崇しており、能力に劣り、それをよく自覚している帰泉ならば、許してくれると思っていたのだ。
阿選は帰泉を侮り、使い棄てることを一度は是とした。その自分が、帰泉に対して何かを言ってやる資格のあるはずがない。
帰泉は悄然と俯いたまま、小さく言った。
「私は阿選様と一緒にいたいです。阿選様が私を選んでくださったことは感謝しています。けれど、選んでいただけた理由が分からない。考えれば考えるほど、私はふさわしくない。私にその資格があるとは思えない……」
「帰泉」
阿選は思わず帰泉の拳を握った。帰泉は瞠目して顔を上げる。阿選は自分の行動に戸惑いながらも、帰泉を見つめる。
「そんなことを思わなくていいのだ。お前はたしかに愚直で不器用で、要領よく立ち廻って功績を上げていくことができない。だが、そのために自分を卑下する必要はない」
見開かれた帰泉の瞳が揺れる。
「阿選様。でも」
「いいんだ。誰かと自分を引き比べることに意味はないんだ。誰かと自分を引き比べて自分を卑下する必要はないし、誰かの言葉に耳を貸す必要もない。誰も、実体など見えてはいないのだから」
帰泉は頑是ないこどものように首を振った。阿選を振りほどいて、卓子の上から手を引こうとする。阿選は帰泉の手を押さえながら、なぜだか胸が詰まる。──この瞬間を、ずっと待っていたかのような感触があった。
阿選の胸の奥でじわりと熱いものが生まれる。阿選は帰泉に向かって、噛んで含めるように言った。
「帰泉、聞くんだ。ふさわしい、ふさわしくない、などと考えることはないんだ。お前は私と行く。……その事実があるだけだ」
「……阿選様」
帰泉は茫然と阿選を見つめる。やがて下を向き、静かに肩を震わせる。阿選は帰泉の傍らに座って、嗚咽する帰泉の背中を撫でた。
阿選は一度、帰泉を使い潰して捨てている。帰泉だけではない。多くの無辜の民が、阿選の命令によって無惨に殺されていった。
阿選は国中に死と恐怖を撒き散らし、国土には民の怨詛の声が満ちた。阿選はそれを知った上で、さらに苛酷な誅伐を加えた。阿選の両手は、とっくに拭うことも適わぬほどの血にまみれているのだ。
阿選の魂は穢れている。阿選に記憶がある限り、阿選の罪は決して消えない。だから阿選には、帰泉を励まし、そばにいてやる資格がない。
だが、今、こうして帰泉を支えることができるのも阿選だけだ。阿選は帰泉のことを、憐れだと思う。助けてやりたい、とも思った。
阿選の掌の下で震える帰泉の背中は、頼りなくも温かい。阿選は腕を回して、帰泉の肩を抱き寄せた。
不意に、阿選は思う。自分が、まるで優しい、浄いものであるかのようなふりをして、それによって帰泉が救われるのであれば、構わないのではないか──。
もちろんこれは偽善にすぎないと、阿選自身もよく理解している。だが、阿選は帰泉のために何かをしてやりたかった。自分の持っている何かで帰泉を助けることができるというのなら、惜しみなくそれらを与えてやりたかった。
阿選の中に、かそけく小さな光が灯っていた。
「阿選は、本当に戴を出てしまうのですか?」
幼い麒麟は阿選を見上げて言った。阿選は微笑む。
「ええ」
泰麒は悲しげに眉を寄せる。泰麒は、二度目の生でも阿選を慕った。
「みんな、阿選がいなくなると大変だって言うんです。阿選は有能だから、残ってくれると助かるのに、って。僕もそう思います」
「……ありがたいことです」
「驍宗様もきっと、阿選がいてくれたらずっといいと思うんです」
阿選は苦く笑う。この麒麟は、阿選が戴に残る選択をした場合、否応なしに謀反を起こすのだということを知らない。
「ありがとうございます。台輔にここまで引き止められて、私は果報者ですね」
笑う阿選を泰麒はじっと見つめ、やがて俯いた。自分の言葉では阿選を動かすことはできないのだと、泰麒は悟らざるを得なかった。
そもそも、泰麒にはなぜ、阿選が国を出ることにしたのか分からない。戴に新王が立った。選んだのは泰麒だ。大人たちはめでたいことだと言うし、実際にそうなのだろうと思う。官吏から耳にする限り、戴の民は貧しい。民に施しをする者、それも彼らの暮らしぶりをまるごと変えることができる王が必要なのだと思う。
戴にはこれから良い時代が来る、と誰もが言う。その中で、どうして阿選は国を去ろうとするのだろう。考えても分かるはずがない。泰麒はやっと十一になろうとする子供にすぎないのだから。
ここでも泰麒は、何も分からず、何一つできることがないのだった。
阿選を引き止めようとする者は多かったが、どれも阿選には響かなかった。何かを選ぶとは、何かを選ばないということと同義なのだとあらためて思う。
あれから、帰泉は何度か阿選の館第を訪ねてきていた。引き継ぎの進捗や、他愛もない話をして帰っていく。阿選は快くそれを迎えた。
かつての阿選ならば、麾下の中から誰かを選ぶ、ということはしなかったと思う。もちろん、下す命令に合わせて麾下の特性や向き不向きを考え、誰かを指名する、ということは阿選もやってきたが、そのような合理的な評価もなしに扱いに差をつけるということを、阿選は極力避けていた。
阿選が帰泉を選んだのは、帰泉がほかより優れているからでもなければ、劣っているからでもない。実のところ、選んだという自覚さえも阿選には薄かった。
驍宗の紛い物として再び破滅していくのか、負け犬として戴を逃げ出すのか。後者の選択肢に、意味を与えたのは帰泉だった。帰泉は阿選にとって、自分が為した罪の、最も身近で分かりやすい象徴だった。
帰泉を正しく憐れむのであれば、謀反を起こさないに越したことはなく、結果として戴を出るしかない。帰泉の存在が、阿選の背中を押した。
出立する前日、阿選は帰泉に「後悔しないか」と訊いた。
「あらゆるものを捨てて出ていくんだ。お前は本当に、悔やまないか?」
帰泉は驚いたように目を丸くしてから、笑う。
「いいえ。阿選様のいる場所が、私のいる場所です。阿選様に出会えたことを、私は本当に幸福だと思っています」
たとえ私に殺されてもか、と阿選は危うく口に出しそうになって、気付く。これは既に、現実では起こりえない。
阿選は戴を出る。謀反は起きない。だから、帰泉が阿選によって魂魄を抜かれることも、使い捨てられることもない。
「……そうか……」
阿選は安堵して、帰泉に向かって微笑んだ。現実に阿選を待ち受けていた罪は消え、今は阿選の中に穢れとなって沁みついているにすぎない。
翌日は朝から挨拶廻りで忙しかった。関係する官吏を巡って、最後の挨拶を済ませる。途中、冬官府にも行った。
冬官長大司空であった琅燦は、大して興味もなさそうに阿選の挨拶を聞いた。
「今日だったか」
琅燦は持っていた書物から目を離さずに言う。辞していこうとする阿選の背中に、琅燦は軽く声をかけた。
「そういえば、訊き忘れていた。……あんたは、何回目?」
阿選は瞠目して振り返る。琅燦は書卓に頬杖をついて、侮蔑するように阿選を見ていた。かつては何度も、琅燦はこうして阿選を見ていた。阿選は喉の奥で笑う。
「……二回目」
「そう。つまらないな」
「残念だったな」
心からの言葉だった。琅燦は顔を顰めて、阿選を追い払うように手を振った。
午を過ぎ、出立の刻限となった。帰泉を伴い、麾下に見送られて、阿選は王宮を去っていった。
品堅は、麾下の報告を聞いて驚いた。帰泉の書卓に、旌券が残されていたという。
旌券は民としてのその者の戸籍の証明となる。一時的に戴を出るとはいえど、生涯ではあるまい。戻ってきたときに旌券がなければ浮民となり、国からのあらゆる保護が得られない。
部下にすぐに帰泉の後を追って届けるように指示をしようとして、思いとどまる。いくら少し前に出立したとはいえ、騎獣を伴っている。闇雲に追って追いつくものでもあるまい。目的地が分かれば、と品堅は思い、自分はそれを聞いていないことに気が付いた。
友尚か、あるいは成行なら、阿選から目的地を聞いているだろうか。
品堅は友尚の許に向かった。着いたときには、ちょうど成行もそこにいた。二人とも難しい顔をしている。
「友尚、成行。済まないが、阿選様と帰泉がどこに行くか、聞いていないか。帰泉が旌券を忘れていったようで……」
友尚は弾かれたように品堅を見る。成行が唸った。
「違う。忘れていったわけじゃない。……置いていったのだ」
品堅は意味を掴みかねていると、成行は握りしめた拳を開く。成行の手の中には、小刀か何かで綺麗に二つに割られた旌券があった。
「阿選様の館第に、これだけが残されていた。阿選様は、戸籍を捨てたんだ。……おそらくは帰泉もそうなんだろう」
品堅は狼狽える。
「二人の目的地は分からないのか?」
友尚が声を落とした。
「聞いていない。たぶん、意図的に言わなかったんだ」
「それは……」
品堅は、友尚と共に愕然とした。衝撃から立ち直れない二人を前に、成行だけが、漏窓の外の晴れた空を見る。
「……阿選様は、二度と帰らない……」
それが二度目の生で阿選が選んだ道なのだと、成行はひとり諒解していた。
エピローグ 小休憩のため地上に降りたときだった。彼は、騎獣の背を撫でるその人に向かって呼びかけた。
「これからも阿選様とお呼びしてもいいですか?」
その人は、軽く瞠目して振り返り、苦笑した。
「好きに呼んでいい。お前が呼びたい名があれば、それで」
彼は目をまたたかせる。
「そうか。戸籍がないのだから好きな名前をつけられるんですね。阿選様には呼ばれたい名はないのですか?」
その人は驚いたように彼を見る。
彼には、最近その人の感情が少しだけ読み取れるようになっていた。前のように、彼に対して済まなそうな顔をしたり、悲しそうにすることが減ったというだけだが、彼にとってこれほど喜ばしいことはなかった。
「……そうだな。考えたことがなかった。お前はどう呼ばれたい?」
その人は苦笑して、彼に訊く。彼は首を傾げた。
「私も、考えたことがなかったです」
その人は彼に微笑む。
「二人で考えるか」
「はい」
彼は笑った。戸籍を捨て、国を捨て、これから先のことは未知のことばかりだが、彼には何も怖いことなどなかった。その人といる限り、彼は幸せであると断言することができた。
だから彼もその人には悲しい顔をしてほしくないし、いつでも笑っていてほしい。そのために自分には何ができるのかを、彼は考える。
──どうかあなたも、幸せでありますように。
それが今の、彼の望みだった。